第Ⅱ章 別離
地面に長く伸びる影。
ドミーナは、夕焼けを背負いながら目抜き通りをトボトボと歩いていた。
やがて少女は、一軒の家の前に辿り着いた。
そこは強風が吹いただけでも吹き飛んでしまいそうな粗末な造りの平屋だ
った。
家というよりも、掘っ立て小屋と表現したほうがふさわしいかもしれない。
以前暮らしていた家とは、比べるべくもない。
ギシギシ唸る立て付けの悪い戸を開けると、家の奥でショールを羽織った
老婦人が、安楽椅子に座り編み物をしているのが目に飛び込んできた。
ドミーナの祖母のアガシャだ。
アガシャは、すぐにドミーナに気付き、ヨロヨロと安楽椅子から立ち上が
った。
「どこ行ってたの! 心配したのよ」
甲高い怒鳴り声。
普段滅多に怒らないアガシャが、珍しく怒っている。
一緒に暮らしているドミーナも、こんな恐い顔のアガシャを見たのは、四
年前のあの日以来だった。
「また戦争が起きそうだっていうのに、あなたって子はもう……」
「お祖母ちゃんも、軍隊がやって来たこと聞いたんだ……」
ナカタニャーゴ村は狭い村だ。
噂が広まるのも早い。
「でも、本当に無事で良かった」
アガシャは、怒った表情から一転。
安堵の表情を浮かべる。
それからヨタヨタと頼りない足取りでドミーナの許まで近付いて来て、孫
娘の背丈に合わせて膝を折り、小さな頭をギュッと抱きしめた。
そして頭を抱いたまま、耳元でそっと囁いた。
「いいこと? ドミーナ。よく聞いて頂戴。広場に村を脱出する人たちが集
まっているの。夜のうちに裏の街道から出て行くそうよ。だからあなたも一
緒にお行きなさい」
言っている意味が理解らず、ドミーナは祖母の腕から無理矢理頭を引っ剥
がした。
アガシャの瞳には、困惑した表情を浮かべる少女自身の顔が映っていた。
でもアガシャは、戸惑うドミーナに構わず、言葉を続ける。
「お隣のエミル叔母さんは知っているでしょ? ほら、あなたのボーイフレ
ンドのアデルのお母さん。あなたのことは彼女にちゃんと頼んでおいたから」
アデルとは、隣家に住んでいる幼馴染のこと。
髪は赤毛。
年齢はドミーナと同い年。
背丈はそんなに高くない。
それでも同年代の子供の中で一番低いドミーナと比べたら頭ひとつぶんは
大きかった。
どちらかというと外で運動するよりも、家で本を読むことが好きな内省的
な少年。
とても博識で、分からないことがあったら彼に聞けば大抵のことは教えて
くれた。
ただの幼馴染に過ぎないアデルを、ボーイフレンド呼ばわりされたのは、
ちょっと引っ掛かったが、いまドミーナが聞き流してはいけない重要な文脈
はそこではなかった。
「えっ、ちょっと待ってよ。お祖母ちゃんはどうするの? 一緒に行かない
の?」
「四年前は、まだ矍鑠としていたけれど、寄る年波には勝てないわね。いま
では満足に織機も踏めないくらいだもの」
そう言ってアガシャは、部屋の片隅で埃除けの布を被った足踏み式の織機
を見やった。
ドミーナはお祖母ちゃん子。
そのうえ両親を失くした少女にとっては、いまや二人きりの家族。
置いて逃げろなんて言われても、容易に聞き入れられるものではない。
でも孫に反発されることは、アガシャも分かっていたのだろう。
少女の問いには直接答えようとせず、ワンクッション空けるように、遠ま
わしな表現を使ってきた。
「この不自由な足で、戦火の及ばない土地まで逃げるのは無理なのよ。わか
って頂戴ドミーナ」
四年前、幼かったドミーナを強い力で引っ張って逃げたアガシャ。
しかし今は、そのときの無理が祟って、足腰を悪くしていた。
きっと息子夫婦を亡くしたショックも、大きかったに違いない。
四年前、矍鑠としていたのが嘘のように、一気に老け込んでしまった。
いまでは歩幅がとても小さくなり、杖を突いてさえ遠くまで出掛けるのは
難しい。
「お祖母ちゃんを置いて逃げろっていうの? そんなの出来っこないよ。私
も一緒に残る!」
しかしアガシャは、首を横に振る。
「あたしは、もう十分生きたわ。でもあなたは、これからの人でしょ。それ
に、これが永遠の別れって決まったワケじゃないし」
アガシャは、ポキリと簡単に折れてしまいそうな骨ばった手で、ドミーナ
の頬を愛おしそうに撫でる。
「ゴウラも、ザンドリアも、村外れの平原の遺跡近くに陣取ったそうよ。幸
い村を挟んで両軍が対峙するのだけは避けられたから、もしかしたら被害は
村まで及ばないかもしれないわ。ねえ、私の可愛いドミーナ、そんな顔をし
ないで」
ドミーナの眼から零れた熱い雫が、アガシャの手を濡らす。
「たとえ兵隊たちが村にやって来たとしても、ほら」
アガシャは、床についている取っ手を引っ張る。
すると床下に空間がポッカリ開いた。
そこは食糧用の備蓄スペースだった。
「ここに身を隠していれば大丈夫よ」
しかしそんな言葉、ドミーナには何の気休めにもならない。
少女は、いたたまれなくなって俯いてしまった。
「だから戦争が落ち着いたら帰って来て頂戴。あなたの大好きなポテトパイ
を焼いて待っているから」
アガシャは、なんとか説得しようと、俯いたままのドミーナに根気よく言
葉を投げかけ続ける。
「万一のことを考えて、あなたを避難させるだけなんだから平気よ。ね?」
彼女は、孫娘の肩を掴み、元気づけるように何度も揺すぶる。
「分かった……私、行くよ……」
ドミーナは、喉から搾り出すように、ようやくそれだけ言った
でも、まだそのときのアガシャは気付いていなかったのだ。
少女の濡れた双眸の奥に、強い決意の炎を宿っていたことを。
◇
ナカタニャーゴ村の中心を東西に貫く目抜き通り。
ドミーナとアガシャの住む家は、その東端に位置している。
家から村の中心部へ向かって西に歩いていくと中央広場。
さらに進んでいくと村の西端。
夕刻に村人たちが立ち話をしていた物見櫓や、老夫婦の芋畑に行き当たる。
物見櫓の先は、防風林の役目を果たしている雑木林が鬱蒼と生い茂り、そ
の雑木林も越えてしまうと、あとは広大な平原が広がるばかり。
くだんの遺跡は、平原のほぼ中央に建っている。
ひとり家を出てきたドミーナは、ひと気の無い夜道を、広場のほうに向っ
て強い歩調でズンズン歩いていた。
濡れた目は、まっすぐ前だけを向いている。
やがて前方の視界が明るくなってきた。
村の中央に位置する中央広場にさしかかったのだ。
中央広場は、脱出者の集合場所。
篝火が何本も焚かれ、広場全体が炎で照らし出されているため、かなり明
るい。
広場内には、既に逃げ支度を済ませた多くの人々が集まっていた。
首に大きな風呂敷包みをくくりつけた女性。
両の手にいくつもの鞄をかかえた男性。
なかには、四年前のドミーナと同じような、年老いた女性に手をつがれた
幼女の姿もあった。
ドミーナは、つい四年前の自分と、幼女の姿を重ねてしまっていた。
もっとも幼女は、四年前のドミーナのように泣いてはおらず、つないでい
ないほうの手に持ったアダンの葉で作った風車に、所在なげに息を吹きかけ
ていた。
脱出者の中には、見覚えのある恰幅のいい中年女性と、それに付き添う赤
毛の少年の姿も見受けられたが、ドミーナは声を掛けることなく、まっすぐ
に広場を突っ切った。
遠くで彼女の名を呼ぶ声が聞こえたような気もしたが、彼女は一切振り返
らなかった。