第五話 少年の傷
「ただいま」
千秋が玄関の扉を開けて靴を脱ぐと、「おかえりなさい」と声が聞こえた。
そのまま声のした奥のキッチンへ行くと、母は笑顔で迎えてくれる。
「おかえりなさい」
「ただいま、母さん」
もう一度、今度は顔を合わせて、彼は言った。
「母さん。今度から真紅の弁当は作らなくていいよ」
鞄を椅子に置いた千秋は、手提げから二人分の弁当箱を取り出して、流し台に放り込む。
「あら、何かあったの?」
蛇口をひねって水を出し、弁当箱を一つずつ洗っていく。これは、母の負担を減らすためにつけた習慣だった。
「今日、転入生の女の子が来たんだ。昔、オレと会ったことがあるらしくて、仲良くなったんだけど。母さんの弁当を見たその子が、自分も作るって言ったのに、真紅が張り合ってさ」
「分かったわ。また必要になったら、いつでも言ってね」
コンロの鍋をかき回しながら、母は笑う。
「それにしても、『会ったことがあるらしい』なんて、おかしな言葉を使うのね」
洗い上げた弁当箱を拭きながら、身体が強ばったのが分かった。
母が小首を傾げると、長い茶色の髪が揺れる。
「……憶えて、ないんだ……」
コンロの火を止めた母が、黙ってその先を促す。
「たぶん、会ったことがあるんだと思う。でも、思い出せないんだ」
最初、目を合わせた瞬間。
抱きついてきた時の、花の香り。
そして、憶えていないと告げた時の、悲しげな表情。
「いつ会ったのか、聞いてみたらいいじゃない?」
その提案に、千秋は首を横に振った。
「それはできない。これは、自力で思い出さなきゃいけないことなんだ」
『たった一度会っただけだけど、あなたを忘れた日なんか、一日だってなかった』
たった一度の思い出を、忘れることなく大切に持っていてくれたのだ。
答えを聞いてしまうことは、彼女の想いを蔑ろにしてしまうことのような気がする。
「なぁ、母さん」
時々、思うことがあった。
「オレって、間違ってるのかな?」
好意を寄せてくれる人がいる。
真紅や華理。今日告白してくれた少女や、おそらく瑠璃も。他にも、今まで告白してくれた少女たち。
彼女たちの想いに、自分は一つも答えてあげられない。
少しでも、彼女たちが傷つかなければいいと思う。
だが、一番彼女たちを傷つけているのは、自分だ。
彼女たちを傷つけないようにととった行動が、余計に彼女たちを傷つけているかもしれない。
そう思うと、自分が今までしてきたことが、とても酷いことのように思える。
俯く彼の頬に、母は自分の手を添えた。
昔は膝を折って目線を合わせてもらっていたが、今では少し低い位置に、母の青い瞳がある。
「あなたは優しい子ね」
それは、母の口癖だ。
「オレは、優しくなんかない。誰の気持ちにも応えられない、薄情な人間だ」
「そんなことないわ。あなたはただ、彼女たちの気持ちに誠実なだけ」
本当にそうだろうか。
無闇に彼女たちを傷つけているのではないだろうか。
「優しさってね、時に人を傷つけることもあるし、自分が傷つくこともあるわ。今のあなたみたいに」
でもね、と母は続ける。深い青色の瞳に慈愛を湛えて。
「あなたはそのままで、優しいあなたのままでいいの。それは、誰でも持ち得ない、尊いものだから。彼女たちも、ちゃんとそのことを分かってる」
不意に、玄関の鍵を開ける音がした。続いてドアが開かれる。
「ただいま!」
「おかえりなさい。千秋も、着替えておいで」
そう言って、母はパタパタ、と夫の出迎えに行ってしまう。
千秋も言われた通り、階段を上って自分の部屋へ戻り、制服をベッドに脱ぎ散らかして、普段着に着替えた。
そこへ、携帯電話の着信音が鳴り響く。
ポケットを探ってみるが、見つからない。
「あ……」
ベッドに放り出した制服のポケットから、ようやく目当てのものを取り出し、通話ボタンを押す。
『もしもし、千秋?』
応じたのは真紅だった。
疑問に思って、携帯の通話画面を見るが、そこにあるのは華理の名前だ。
「あれ? これ、華理の携帯だろ?」
その時、後ろで華理の声が聞こえた。
『ちょっと、本当に掛けちゃったの?』
どうやら二人一緒にいるらしい。
なんだかんだ言って、仲が良い。
『だって、早く約束しないと、おじさんやおばさんと予定立てちゃうかもしれないし……』
『だからって、食事中だったらどうするのよ』
「まだ、晩飯は食べてねぇよ」
話の先を促そうと言ってみる。
『ほら、大丈夫だった!』
『それは結果論でしょ』
口喧嘩はいいから、早く続きを話してくれ。
そこで、携帯から雑音が聴こえた。
『ああ!』
『もしもし、千秋?』
どうやら華理は、真紅から自分の携帯を取り返したようだ。
「ああ、それで、どうした?」
『今度の日曜、買い物に行こうと思うの。でも、まだこの国に来たばかりで、町のこともよく分からないし。それで、千秋の予定が空いてたら、その案内を頼もうと思ったんだけど……どうかしら?』
「別に構わないぞ。特に予定もないし……」
『あたしも行く!』
真紅の声が、割って入って来る。
『もう! 私と千秋のデートの邪魔しないでよ』
『ずるいよ、華理ちゃん。あたしだって千秋とデートしたいのに!』
「分かったから、週末、三人で行けばいいだろ?」
仲が良いのだとは思うが、もう少し仲良くしてくれないだろうか。
「千秋。夕飯の準備ができたわよ」
「すぐ行くよ」
階下からの呼び声に応えると、状況を察した華理が話をまとめてくれた。
『仕方ないわね。じゃあ、待ち合わせは明日決めましょ?』
それに頷いて、通話を終了させる。
ふぅ、と息を吐いたのは、疲れたからではなかった。
二人の他愛ない口喧嘩も、困惑はするもののそれほど嫌ではないのだ。
いずれはどちらかを選ばなければならない。
もしかしたら、どちらも選ばないのかもしれない。
だが今はまだ、この状態が続けばいいと思う。
ひとまずは明日のことを考えながら、彼は階下へ降りた。