第十八話 父の笑顔
真っ白な病室。清潔な白のベッドに寝かされた母を見ながら、千秋は丸いパイプ椅子の上で、ずっと彼女が目を覚ますのを待っていた。
父にはすでに連絡を取ってあり、仕事を放ってこっちに向かっているそうだ。
しばらく待っていると、焦ったように乱暴にドアが開け放たれた。
「母さん!」
現れた父に、千秋は無意識に立ち上がる。
「……父さん」
「千秋、母さんは?」
「眠っているよ。とりあえず、大丈夫だって。じきに目を覚ます」
「そうか」
心から安堵した様子で父はほっと息を吐いた。
不意に、父は優しそうに目を細めて息子を見た。
「どうした? そんな顔をして」
「い、いや……別に……」
言葉を濁しながら、千秋は病室の奥から椅子を持ち、父に座るよう促した。
「お前、まだ母さんのことを気にしているんだろう?」
ピクッと千秋は眉を動かす。
気にしない方が難しいだろう。あのことがなければ、母がこうして倒れることはないのだ。苦しむことはないのだ。母の生命を縮めた原因は、自分にある。
「……千秋」
一度椅子に座った父は、立ち上がり、息子の傍に移動する。
そして、昔話を始めた。
「千秋。実はお前は難産でな、父さんは医者に、妻か子どもか選択を迫られた」
「……へぇ」
初めて聞く話だ。父がどういうつもりで話しているのか分からないが、千秋は黙って聞くことにした。
「父さんは妻である母さんを選んだ」
責められることではない。どちらを選んでも、失うものはあまりに大きい。
父の言葉を聞いても、あまりショックは感じなかった。
「でも、母さんはお前を選んだ。俺がどれだけ説得しても聞かなくてな。まぁ、結局母さんもお前も失うことはなかったわけだが」
だから自分は生きてここにいて、母もここにいる。
「そのとき、担当した医者が教えてくれたんだ。女はいつ、母親になるのか。千秋、お前には分かるか?」
「子どもが生まれたときだろ?」
子どもが生まれて、女は母親になるのだ。
その答えに、父は首を横に振った。
「俺もそう思ったが、違うそうだ。女はな、子どもを心から愛することができたとき、母親になるそうだ」
「愛、す……?」
「あぁ。あのとき、すでに母さんは俺の妻じゃなかった。お前の、母親だったんだ」
妻ではなく、母親だった。そう言った父の顔は、それでも悲しさに彩られることはなく、嬉しそうに笑っていた。
「だから、俺も父親になることにしたのさ。いや、違うな。俺はあの日から父親になったんだ」
父の、言いたいことが分かった。
それを理解した途端、目頭が熱くなり、涙が頬を伝った。
「親はな、子どものためなら命だって惜しくないもんさ。俺が母さんの立場でも、同じことをした。俺は父親だからな」
「……っ」
千秋は漏れそうになる嗚咽を堪え、口元に手を当てた。指の隙間から涙が零れ落ちていく。
「だから、お前が自分を責める必要はない。たとえ母さんが命を落とす日が来ても、俺はそれを誇ることができる。母さんは命がけで我が子を愛した、立派な母親だった、てな。もちろん、俺が同じように死ぬときも、誇ってくれて構わん」
茶化すように言う父に、千秋は泣きながら笑った。
「……親バカ」
「親にとっては、最高の誉め言葉だな」
きっと、あの日のことを悔やむ気持ちはなくならないだろう。
後ろめたさも罪悪感も消えない。
けれど、両親の子どもとして生まれてきたことを後悔する日は死んでも来ないだろう。
これほどまでに愛されているのだから。
両親の深い愛情に、千秋はただ、喜びの涙を流した。
こういう考え方をする自分は、テレビドラマの観すぎだと思います。