第十六話 生命の灯
何だかんだと抗議をしてみたものの、千秋の出場に関しては、「校長の決めたことだから」の一点張りで聞いてもらえなかった。真紅と華理の出場は、クラス全員で説得したが頑として譲らず、何だか申し訳ない気にもなった。
こういうときの女の子の意志の固さは、彼も身をもって知っている。説得は諦めた方がいいだろうと、そんなことを考えながら、千秋は家の前まで帰ってきた。自宅の門を開けた彼は、ドアの前で鞄を探り、自宅の鍵を取り出した。玄関の鍵を開け、ドアノブを捻り、千秋は「ただいま」と言いながら靴を脱ぐ。
だが、いつも返ってくるはずの返事がない。
嫌な予感がした。
千秋は脱ぎかけの靴を乱暴に散らかし、その場に鞄を放り投げて、家に上がった。
この時間なら、夕飯の準備をしているはずだ、と当たりをつけて、一番に台所に向かう。
リビングのドアを開き、奥の台所へ。
「……母さん!」
そこには、予感を確かなものにする、母の身体が横たわっていた。エプロンを着けたままの母は、金色味を帯びた茶色の髪を打ち広げ、フローリングでうつ伏せに倒れている。海を切り取ったような彼女の目は固く閉じられ、苦しみの表情をしていた。
台所には、切っている途中だったのだろう、野菜がいくつか転がり、包丁が床に落ちている。
「母さんっ!」
一瞬、目の前の状況に追いついていなかったが、すぐに我に返った千秋は母の身体を起こした。肩を揺するが、一向に目を覚ます気配はない。試しに、口元に耳を寄せてみたが、母は息をしていなかった。
「……っ」
大丈夫だ。落ち着け。
これは初めてのことではないのだ。
ここで取り乱したら、状況は悪くなるばかりだ。
千秋は軽く頭を振って、制服のポケットから携帯を取り出し、すぐに救急車の手配をした。この世界には魔法使いもいるし、まじないもある。救急隊の準備ができれば、一分もしないうちに救急車はここへ到着する。
「《母さん、死ぬな。生きてくれ》!」
救急隊が到着するまでに、彼がすることは、母に呼びかけること。
母の命を繋ぎとめることだった。
そうだ。自分にできることは多くない。
こんなときくらい、役に立ってもらわなければ困る。
「《母さん、返事をしてくれ》っ!」
何度も、何度も、千秋は懸命に呼びかけた。
死に向かう人間を呼び止める魔法は、そう簡単なものではない。ただ呼び掛けているだけなのに、恐ろしく疲れてくる。自分の中から失われる魔力の量が、半端ではなかった。
それもそうだろう。下手をすれば、相手の運命を捻じ曲げることにだってなるのだ。それが本当に相手の天命だったなら、運命を書き換えることにだってなりかねない。
しかし、そんなことは知ったことではなかった。
母は息子である自分に、命を懸けてくれたのだ。
ならば自分も、母に命を尽くす。
「《目を覚ましてくれ、母さん》‼」
何度目の呼びかけだっただろうか。
母が微かに身じろぎをした。
それに数拍遅れて、白い制服に身を包んだ救急隊が数名、家に入って来る。瞬く間に母を担架に乗せた彼らは、そのまま母を病院へ搬送した。