第十四話 彼の言葉
校舎のなかの空き教室。机と椅子は並んでいるが、使われていないせいでだいぶホコリが溜まっている。その一番後ろの窓際の席に腰を掛けて、真紅は机に突っ伏していた。
昼時でお腹が空いている気はするが、今は何かを食べたいとは思えなかった。
今頃、千秋と華理は、仲良く並んでお昼を食べている頃だろう。
それを想像して、目頭が熱くなった。
「やだな、あたし……」
好きな人を祝福してあげられないなんて。
その時、唐突にドアが開いた。
「真紅! いるのっ?」
「か、華理ちゃんっ? 何でここが? 千秋とお昼ご飯のはずじゃ……?」
思わず立ち上がって、距離を取ろうと足を引いたが、すでに真紅のいる場所は壁際だった。
「遠視魔法使いに探してもらったのよ。それから、あなたと二人で話したくて、千秋には遠慮してもらったわ」
ずかずかと教室に踏み込んでくる華理の様子が、まるで自分の心の中に踏み込んで来られているようで、真紅の身体は震える。
「悪いけど、ここで全部白状してもらうわよ」
「えっと……午後の授業が……」
何とか逃げる口実を思いついて、彼女の脇を通り抜けようとした。しかし、その腕を掴まれて阻止されてしまう。
「お昼休みが終わるまで、まだ時間はあるじゃない」
「でも、ご飯食べないと……」
「なら、ここで一緒に食べましょ?」
何が何でも逃がさない。
華理の強い意志が、その瞳に垣間見えた。
「…………」
逃げられない、と思い、捕まれた腕から力が抜ける。
それを悟ったのか、彼女も掴んだ腕を離した。
「それで? 一体、あなたに何があったの?」
「…………何が?」
華理の態度が白々しくて、心の中に溜っていたものが溢れ出してくるのを感じる。我慢しようと思っていたものが、止まらなかった。
「何かあったのは……何かあったのは華理ちゃんの方でしょ‼」
パンッ、と近くにあった机が倒れて、華理は慌てて真紅が手首につけている魔晶石の数珠を外した。
魔法の暴走を未然に防ぐために。媒介が身体に接触していなければ、魔法を発動することはできない。
しかし、そんな彼女の行動すら、余裕の裏返しのように思えて苛立ちを感じる。
「何かって、私には別に何も……」
「そんなのウソ! あたし見たんだから……っ!」
なぜ隠そうとするのか、真紅には分からなかった。
なぜ何もない風を装っているのか、真紅には分からなかった。
自分は見たのだ。昨日、二人が夕暮れの公園でキスをしていたのを。
「は…‥?」
それを指摘されて、華理は呆然とした。
真紅にはそれが、事実を指摘されて驚いたように見えて、知らないうちに堪った涙が頬へ流れる。
一度口に出してみたら、自分の口がまるで別の生き物のように次々と言葉を紡いだ。
「だから気を遣ってあげたんだよ! 一緒に学校に来るのも、お昼ご飯も! 気を利かせてあげたんだよ! 千秋が華理ちゃんを選んだから……っ!」
一息にまくし立てて息が続かなくなり、真紅の肩が激しく上下する。
そうだ。もう、自分は彼の傍にはいられないのだ。
なぜなら自分は、選ばれなかったのだから。
華理がため息を吐いたのが分かった。
「……あのねぇ。どうして千秋が私を選ぶのよ」
「それは……っ!」
理由なんてたくさんあるだろう。
「……美人で、スタイルも良くて、頭も良くて、魔法も上手くて……」
言いながら、自分の中の熱が一気に下がっていく。
語尾が段々と小さくなるのは、自分で言っていて虚しくなってきたからだった。
彼女の持っているものは、全部自分が持っていないもの。
目の前の少女は、輝く銀色の髪を伸ばし、透き通る白い肌に、空色の宝石を飾って。怒る表情は、息を呑むほど綺麗だった。
対する自分は、取り立てて特徴のない容姿、平凡な身体、自身のなさが表れた瞳。
これでは選ばれなくて当然だ。
「言っておくけど、私は千秋とキスなんてしてないわ」
「えっ?」
思わず間抜けな声が出てしまった。
目を丸くする真紅に、彼女はもう一度ため息を吐く。
「私が勝手に抱きついていただけ。千秋は結局、抱きしめ返してもくれなかったけど」
「でも、だって……」
確かに自分は見たはずだ、と続けようとしたが、華理は白く細い指を突きつけて、それを遮る。
「どうせ、私と千秋が重なって見えて、キスしてるって勘違いしたんでしょ」
「うっ……」
言われてみれば、そうとも言えるかもしれない。
キスをしている、決定的な瞬間を見たわけではないのだ。
聞けば聞くほど、彼女の言うことが正しく思えてきた。
「まったく、早とちりで勘違いして、いい迷惑だわ。だいたい、美人でスタイルが良くて頭も良くて魔法が上手くて――――なんて、それで千秋が振り向いてくれるなら、私だってこんなに悩まないわよ」
「ご、ごめん……」
穴があったら入りたい、とはこういう気分だろうか。
華理は、落ち込む真紅の細い手首に先ほど外した媒介の数珠を嵌めてやる。
ひやり、と冷たい手の感触が心地いい。
「……いいな、華理ちゃんは。あたしも、華理ちゃんみたいになりたい……」
「美人で、スタイルも良くて、頭も良くて、魔法も上手いから?」
ぽつりと呟いた真紅に、彼女はさっき言った言葉を繰り返す。自分で言うことではないが、彼女が言っても、それを嫌味に感じない。
「だって、あたしはフツーだし、成績も良くないし、魔法も下手だし……何にも、自慢できるものもないし……」
自傷行為のように、真紅は敢えて姉の言葉を口にした。
刃物を突きつけて、手首を滑らせるように。
華理はそんな真紅の頭を軽く叩いた。痛みを伴わないそれに、真紅は俯きかけていた顔を上げる。
「それでも、そんなあなたでも、千秋は特別だって、そう言っていたわ。あなたと私は『特別』だって」
「千秋が?」
自虐の言葉を華理は否定しなかった。
それは、まだ出会って間もなく、それを否定するだけのものを持っていなかったからかもしれない。もしくは、その通りだと納得しているからかもしれない。
だからこそ、『それでも千秋は――』と教えてくれたのだろう。
「『過ごした時間の長さなんて関係ない。人に優劣なんてつけたくないけど、他の子よりも、特別だって感じてる』。それが嘘偽りない、千秋の本音」
いつの間に言われたのか分からないが、まるで目の前に台本があるかのように、すらすらと彼女は千秋の言葉を口にした。
「私にだって、自慢できるものは多くないわ。容姿も勉強も魔法も、好きな人に振り向いてもらえる要素じゃないもの。そんなの自慢にならない。千秋以外の人に褒められたって、何の価値もないんだもの。だから、私が唯一自慢できるのは千秋への『想い』だけ。千秋と離れている間、ずっと彼を想ってきた、これだけが、千秋が私を『特別』だと言ってくれたものだから」
豊かな胸に手を当てて、華理は誇るようにそう主張する。
他人が聞けば嫌味とも取れるその言葉には、しかし、一切の嫌味がなかった。
「分かってる、真紅? あなたは私を羨ましいと言っているけど、私はあなたの方が羨ましいわ。ずっと千秋と一緒にいて、苦しいことも、辛いことも分け合ってきたんでしょう? 言葉だけで、千秋と通じるものを持ってるじゃない」
華理が、何を言いたいのかが分かった。
あの日のことだ。
昨日、デパートを見て、身体を強ばらせた自分と千秋に、彼女は何も聞かなかったけれど。本当は、知りたくて仕方がないのを堪えているのかもしれない。
好きな人のことは、何でも知りたいものだ。
それは、自分にもよく分かる。
「華理ちゃん……」
「でもね、それも些細なことよ。千秋は、たとえ過ごした時間が短くても関係ないって言ったもの。それでも私は、幼馴染みのあなたと同じ特別なの」
そこまで言われて、ようやく彼女の意図を理解できた。
自慢できるものなどないと言ったから。
何一つ優れたものを持っていないと言ったから。
自分たちは対等なのだと。
新しい涙が零れた。
それは、先ほどまでのものとは違う、悔しくて苦しい涙ではない。
嬉しい。嬉しい。
胸の中の濁ったものが、溶かされていく。
「千秋……っ」
彼に会いたい。
会って、ありがとうって伝えたい。
いつだって、千秋は自分に欲しいものをくれる。
あぁ、持っていたんだ。
容姿でも、勉強でも、魔法でもない。
容姿は磨けばいい、頭だって勉強すれば良くなるし、魔法も練習すれば上手くなる。
けれど、人の想いだけは、そうはいかない。
好きな人の特別は、努力でもどうにもならないことがあるから。
だから、これは間違いなく自慢だ。誇っていいものだ。
千秋と過ごした時間、それと共に育んできたこの『想い』こそ、きっと、彼が自分を特別だと言ってくれるもの。
泣き出した真紅を、華理は優しく抱きしめた。
ふわり、と花の香りが鼻孔を擽る。
同時に、おかしいな、と心の片隅で笑った。
自分たちは、恋敵なはずなのに。
彼女はここまできて、叱って、励まして、抱きしめてくれるなんて。
そんな彼女の腕の中で、安心感を感じているなんて。
「……私たち、どうして別々に生まれたのかしら?」
「……うん」
それは、今現在、真紅の中に生まれたものと同じ疑問で、だからこそ頷くことができた。
自分たちが一人の人間であったなら、誰も傷つかないで良かったかもしれないのに。
少なくとも、千秋が二人の想いに悩むことも、選ばれなかった方が泣くことも、選ばれた方が負い目を感じることもない。
「……私たちはこんなに、千秋のことが好きなのに……」
「うん」
華理の身体に手を回すと、上からポタ、と滴が降ってきた。
「でもね、いつか、千秋があなたを選んでも、私、きっと祝福できると思うの。あなたなら……私の分も千秋を幸せにしてくれるって……。……なんて……絶対に嫌だけど」
クス、と笑いながら、まるで独り言のように、囁くように、華理は口にした。
「…………うん」
彼女の胸に頭を預けて、真紅は彼女に聞こえないように頷く。
そうだね。
――――今なら。
千秋の想いを知った今なら。
自分にも、それができる気がした。
真紅と華理は恋敵。しかし同時に、親友であり、姉妹のようでもあります。二人の一言で表せない関係を察して頂けると嬉しいです。