第九話 記憶の糸
飛ぶのが面倒になったのか、四羽の鳩たちは千秋の肩や腕に乗って、残ったパンの耳を平らげてしまった。
「クルッポゥ、クルッポゥ!」
歩いていると、そこへ一羽の鳩がやって来る。同時に、「鳴子!」と呼ぶ女性の声が耳に届いた。
「ママ!」
繋いでいた千秋の手を振りほどいて、鳴子が駆け出す。目元に疲労を滲ませた女性が、少女の小さな身体を抱き止めた。
「ママぁ……っ」
女性の首に顔を埋めて、糸が切れたように泣きじゃくる。先ほどのように魔法が暴走していないのは、母親がいる安心感からだろうか。
「ありがとうございました。あの、これは……あなたが……?」
彼女が見せたのは、千秋が書いた紙の切れ端。
『鳴子ちゃんといます。ついて来て下さい。 千秋』
鳩が持って来たそれを見て、彼女は藁にも縋る思いでついて来たそうだ。
ひとしきり母親との再会を満喫した鳴子が、千秋の元へ戻って来た。膝を曲げて目線を合わせると、鳴子は藍色の瞳を輝かせる。
「お母さんに会えてよかったな」
「うん! ありがとう、お兄ちゃん」
一番の笑顔を浮かべた鳴子は、千秋の首に腕を回し、その頬にお礼のキスをした。
「ちょっと……っ!」
悲鳴のように声を上げたのは真紅だが、表情は華理も同じだ。
キスのこそばゆさに微笑ましさを覚え、千秋はお返しに鳴子の額へ唇を寄せた。
「もう、はぐれないようにな」
もう一度頭を撫で、大きく手を振って去って行く少女に、彼も手を振り返す。
鳩はすでに去っており、残されたのは千秋と真紅、華理の三人と、後は通行人だけだった。その後ろで、二人の少女が彼を睨む。
「な、何だよ……」
「むぅ……」
「…………」
上目づかいに睨む真紅。
華理は、つい、と不機嫌そうに顔を背けた。そこで、彼女は空色の目を大きく見開く。
「千秋、あのお店……」
「ああ、あそこは……」
華理の指差した店は、この辺りでは千秋が一番お世話になっている雑貨屋だ。石を加工してアクセサリーや宝石箱、コンパクトなどを作り、失敗したもの納得できないものは、半額以下の安値で売ってくれる。おこづかいが少なかった幼い頃は、そこで母や友達…真紅へのプレゼントを買っていた。
そこで、ふと、彼は首を捻る。
もう一人、誰かに贈った気がした。
誰だったか?
よく知る雑貨屋と、華理、そして彼女の胸元を飾る桜のペンダント。
それらが、彼の中で繋っていく。
風が、強く吹いた。
靡く華理の銀色の髪に、忘れていた記憶が呼び起こされる。
――――君が生まれてきてくれたことに、祝福を。
そう言ったのは、父か母か、それとも……。
「素晴らしい!」
突如、低い男性の声が、彼の思考を妨げた。
華理と同じ銀色の短い髪、褐色の肌と黄玉の瞳は月映国特有のものだ。
「君、言葉使いだろう? さっきの魔法、見ていたよ。この国にいることは知っていたが……今日は何て幸運な日だろう!」
「あ、いや……」
千秋の肩に手を置いて、大きく揺さぶりながら、彼は熱く語る。
「今日はたまたま友人の家に資料を受け取りに来ていてね。少し学校の方も覗いて見ようと思ったんだが……取材は無理だと門前払いされてしまったんだ。それが……」
早口にまくし立てる男に、千秋はついていけない。
真紅なんて、彼の気迫に押されて呆然としている。
そこへ、困惑する千秋を庇うように、華理が彼との間に割って入った。
吊り上げられた空色の瞳には、明らかな怒気が宿っている。彼女は、侮蔑を込めた声音で男を怒鳴りつけた。
「いい加減にしてよ、父様っ!」
黄玉の目を丸くして、父と呼ばれた彼は、ようやく娘の存在を認識する。
「華理? こんなところで何をしているんだ?」
その言葉に、華理は一瞬絶句した。
「まさか、華理。お前、言葉使いと交際しているのか?」
「……っ」
その言葉で、目の前の男が真紅を認識できていないことが分かる。
華理は父の言葉に怯えを見せた。
「お前がここまで父のためにしてくれているとは……っ」
感激に声を震わせる父に、彼女は一歩後ずさって、叫んだ。
「違うわっ!」
背後を振り返る華理の目は、明らかに動揺している。
これは、怯え……?
「千秋、違うの……違うのよ……私は本当に……」
「華理、落ち着いて……」
どうにか落ち着かせようとするが、華理には全然聞こえていないようだった。
「私は……私は……っ」
空色の目にはどんどん溜まっていく。
そして、彼女は父を押しのけ、走り去っていった。
「華理!」
「華理ちゃん!」
二人の声に振り返ることもせず、彼女の背中は急速に小さくなる。
追い掛けようとする千秋の肩を、華理の父親が引き止めた。
「君、千秋くんだったか? せっかくだ、話を聞かせて欲しい」
「は?」
何を言っているのか、分からなかった。
話よりも、今は娘の方が重要だろう。
泣いていた。
彼女は泣いていたのだ。
「すみませんが、お断りさせていただきます」
「どうしてだ? 頼む! 少しでいいんだ! この通り!」
手を合わせたり、頭を下げたりと忙しい男に、千秋は憐れみの目を向けた。彼の肩に手を乗せると、男の頭が上がる。
「あなたにとって、泣いてる娘より目の前の『言葉使い』が大切なように、オレは華理の方が大切なんだ」
駆け出す千秋に、「待って」と真紅がついて来る。
「どこにいるか、分かるの?」
「もしかしたら……」
昔、華理と会ったときのことを、彼は全て思い出した。
たった一度、会った記憶を。
そこから、記憶を辿って行く。
彼女はおそらく――――初めて会った、あの公園に……。
「……きゃっ!」
そこで、後ろを走っていた真紅が転んだ。
「真紅、大丈夫か?」
「う、うん……」
膝を擦りむいたのか。傷口から薄く血が滲んできている。
手当をしなくてはいけない、だが、今は華理の方が心配だった。
「歩けるか?」
「え?」
きょとんとする彼女に、千秋は素早く指示を出す。
「どっかで血を洗い流したら、さっきのカフェで待っててくれ。華理を見つけたらすぐに迎えに行くから」
それだけ言い残すと、千秋は立ち上がって再び走り出した。後ろで自分の名を呼ぶ真紅の声が聞こえたが、振り向く余裕がない。
今はただ、先ほどの華理の表情が頭から離れなかった。
児童公園が視界に入り、そこに銀色の髪の少女を見つけ、少し安堵する。
そこは、幼い日のまま変わらない風景が広がっていた。
緑の木々、小さくなってしまった様に感じる遊具は、おそらく自分の方が成長したせいだろう。
その公園の一角で、華理は何をするわけでもなく佇んでいた。
ふいに空色の瞳が、千秋を捕らえて、緊張する。
「千秋……」
「華理……大丈夫か?」
気遣うように声を掛けると、彼女は怯えたように体を震わせた。
「千秋、私……」
彼女が何を言いたいのかを察し、千秋は微笑んで見せた。
「ちゃんと分かってるから。君がオレを想ってくれていることは」
華理の前まで歩を進め、彼は流れる銀色の髪を伸ばす彼女の頭を撫でた。
「初めて会った日、父の研究テーマの話をしたの、覚えてる? あの時、私、しまったって思った。千秋との接点があったのは嬉しかったけど、もしそのために近づいたんだって思われたらって。だから、父の話は絶対にしないようにしようと思ってたのに……っ」
泣き止まない彼女の頭を撫でていると、華理は途端に千秋の胸に縋りついてきた。
「千秋、お願い」
言いながら、彼女は千秋の背中に手を回す。
「今だけでいいの。私を抱きしめて。あなたに想われている実感が欲しいの。嘘でもいいから……」
私を好きだと言って。
甘い声が、誘惑してくる。
身体越しに、彼女の鼓動を感じた。
トクトク、と脈打つ心臓の鼓動が、自分のものと重なっている。
涙で潤んだ空色の瞳が、自分の顔を映し出していた。
徐々に近づいてくる瞳に、身体が動かない。
華理の優しさを知った。
華理の想いの深さを知った。
彼女を大切だと想う気持ちがある。
ならばこのまま、彼女を選んでもいいのではないだろうか。
千秋くんのメモを怪しまずについてきてくれた母親……。まぁ……ここは魔法が現実にある世界なので、と納得していただけると助かります。