第一回 明彦の話・自転車 後編
「ありえないわ。時間は不可逆性よ」
加奈子が強く否定する。いまにも明彦に飛びかかりそうな感じだ。
「いいや、ホントなんだ。まあ、タイムスリップなんていう大げさなものじゃなくて、一瞬だけ前にもどっただけなんだよね」
「そのおかげでブレーキが間に合ったと」
俺がそう確かめると明彦は大きく頷いた。
「うん。トラック側もブレーキを踏んでたしね。それとハンドルをきって間隔をあけることもできたっていうのも、助かった要因かな。」
加奈子は腕を組んでうなる。そして疑いのまなざしを向けた。
「目の錯覚なんじゃない?」
「そんなことはないとおもうけど」
「ホントは死んでたとか」
俺がそう茶化すと、明日香はくすっと笑い、加奈子が「それよ」と決定するように叫んだ。
三人の連帯畳みかけにいつもの笑顔を凍りつかせた明彦は、「もっと真面目に考えてよ。じゃあ、今の僕はなんなのさ」と問う。
「幽霊でしょ」と加奈子が切り捨てると、「現実主義者のかなたんが言わないでよ」と明彦は笑った。
俺は明彦とはまた、別の笑みを浮かべて、「もしかすると」と新たな世界をつくりだすような気持ちで、話し出す。
「明彦は今、夢を見ているのかもな。俺たちも、カフェテリアも、雨も全部夢なんだ。実は明彦は事故にあって意識不明のままで、この夢を見てるんじゃないか」
明彦は渋い顔になった。今日は珍しいことに、よく笑顔を崩される明彦だった。
「怖いこと言わないでよ。しかもそれを言ったらおしまいじゃないか」
その通りだった。これを言ってしまったら、本末転倒だ。
ところが、明日香はまぶしい瞳で俺を見て、「へえ、意外と面白いこと思いつくんだね」とやや感動したように言った。現実主義な加奈子とちがって、
明日香は非現実的な、突飛な話が好きだったりする。この前、一緒に見に行った映画も、ファンタジー系だった。
「確かに、面白いといえば面白いわね。でも、まずは現実に起こりうる範囲で考えましょ。それで解無しだと思ったら、白井の案を採用するってことで」
「そうだね。解無しじゃつまらないし」
さきほど嫌そうな顔だった明彦が、加奈子の提案に乗っかった。俺は違和感を感じて冗談まじりで問う。
「それでいいのか、明彦。死んでいることになるんだぞ。いや、明彦はともかく俺たちもいないことになるんだぞ」
「それは嫌だね。でもね、そーたん、僕たちは机上の議論をしているんだ。べつに本当にそうじゃなくてもいいんだよ」
「なるほど。あくまで答えの美しさを求めればいいんだな。となると、これは想像力がためされるわけだ」
俺はちらりと明日香を見た。この手の方法は、明日香が得意とするものだ。案の定、彼女は楽しそうに唇に拳を当てて考えている。
反対に、俺は想像することが苦手だ。事実が表すことを足がかりにして、理論や常識で答えを導き出すしかない。
でも、うまくいくだろうか。
「うーん、やっぱり錯覚なんじゃないか?」
「何が?」
「時間がもどったというのが」
「だとしたら、どんな錯覚よ」
俺の意見に加奈子が痛いところを突いてくる。さすが加奈子、つっこみ役としての切れ味がいい。
「トラックがぶつかりそうになったとき、怖くて目をつぶったとしよう。そしてぶつかる直前の様子を映像という形で頭の中で予想したんじゃないか?」
「なるほどねぇ」
明彦が腕を組んで頷く。加奈子は真偽を確かめるように天井を見つめた。明日香は相変わらず一人で考えている。
「現実味はあるわね。あり得ないことじゃないわ」
そう賛同するように言う加奈子は納得していないようだ。実は俺も納得していない。だが、反例が見つからない。
何がおかしいのだろう。いや、証拠がないから納得できないだけか。
一方明彦は何も言わずにぼんやりと宙を見ている。さっきまでのやる気はどうしたのかと俺は疑問に思い、明彦に声をかけようとしたが、それは遮られた。
「それは無いと思うよ」
生ける考える像になっていた明日香が、ついに口を開いた。それに加奈子は勢い込んで聞く。
「えっ、何を思いついたの?」
「あのね、もし、目を閉じちゃったら、そのままぶつかっちゃうんじゃないかな。だって怖くて目を閉じたのに、また目を開けることなんてないと思うの。」
なるほど、そうかもしれないと俺は納得させられてしまう。反論はない。
「そうよ、それよ。私のもやもやはそれだったのよ」
嬉しそうに明日香を褒める加奈子と、照れ笑いをする明日香。
「さすが、明日香。素敵の中の素敵。頭も良くてかわいいなんて無敵じゃない」
「そ、そんなことは」
「謙遜しないで。本当のことよ」
「う、うん」
加奈子が微笑んで明日香の瞳を見つめると明日香は照れて目をそらす。
その後も、加奈子は言葉を尽くして明日香を褒め続けた。おそらく照れる明日香をおもしろがっているのだろう。俺もおもしろがって「加奈子の言うとおり、才色兼備だな」
と頷くと、明日香は顔を赤くした。
やがて恥ずかしくなったのだろう、明日香は耳まで真っ赤に染めて「もういいから」と彼女をを押しのけた。
それから、まともに考えても、よい答えは出なかった。あれだけ考え込んでいた明日香からもいい答えはでなかった。俺や加奈子、そして明彦も自説を披露したが、四人が全員が納得することはなかった。
「それもあるかもね」
否定することも、肯定することもできない仮説に、明日香はそう言って微笑んだ。それがどこか満足げにみえたのは気のせいだろうか。考えてみても、それは分からなかった。
まあ、いくら親しいからといって、確実に相手の心が分かるほどではない。
他人を分かった気になるのは単なる思い上がりだ。気をつけよう。俺は自分に言い聞かせた。
「なあ、明彦、嘘ついたりしてないよな」
俺は冗談半分で聞く。彼は笑って手を振った。「ありえないよ。僕がみんなに解いてほしいのに、解けなくなるでしょ」
「まあ、そうだけど」
理屈は合っているのにいまいち腑に落ちない。今日全体を通してなんだか違和感があるのだ。もっと別な問題がなにかありそうだ。
「ところでさ、喉渇いたりしない?」
明彦がみんなにむかって問うと、それぞれが、それぞれの調子で答える。
「あ、そういえばそうね」
「うん。おしゃべりたくさんしたもんね」
「何か買ってきてくれるのか?」
明彦は頷いて、「そうだよ。自販機でかえる飲み物ならなんでも」とにっこり笑って答えた。
「じゃあ、あたしミルクティーで」
「わたしも」
「俺は炭酸系で」
「わかった。買ってくるよ」
「いってら」
「気をつけて」
「帰ってこなくてもいいんだぞ」
三人がばらばらに手を振る。明彦は気の抜けたように笑って手を振り替えした。
「今日の明彦、変じゃないか」
本人の姿が見えなくなってから、俺は疑問を口にした。
「あたしもそう思ってた。あいつが自分の立てた企画にあまりのってこないのは変だわ。最初はたしかに上機嫌で進めてたけど、本題に入ったとたん静かになったわね」
加奈子の指摘に、はっとした。ずっと感じていた違和感はそれなのだ。俺は今日、ここに集まる前に明彦がうるさくなるだろうと踏んでいた。だから、それを煩わしく思って少し憂鬱だったのだ。だがその予想は外れた。加奈子のいうとおり、初めは調子が良かった明彦はなんども加奈子のつっこみをくらっていたものの、みんなの推理が進むにつれ口数が減っていった。普段の明彦ならきっとその逆だっただろう。
「なにか、明彦にまずいことをいったか」
「うーん、言ってないと思うけど。それにいったとしても、あいつはあまり気にしないと思うわ」
「それもそうだな」
やっぱり、この謎解きに何か深い意味があったのか。
「明彦くんは、悩んでるんじゃないかな」
俺と加奈子は虚をつかれたように明日香を見た。それに応えて明日香がゆっくりと糸を紡ぐように語り出した。
「自分が抱えてるものとか、背負わなくてはいけない罪とかを、誰かに聞いてもらいたいけど、それが誰かの重荷になるのを気にして、話すかどうか悩んでるのかも」
「あいつが? 軽く生きてるように見えるんだけど。それにいままで一切そんな様子を見せたことがなかったわ」
「でもまあ、明彦は本音を隠すのが上手いからな。あからさまに落ち込んだりしないだろ?」
「そんなのわかってるわ。だとしてもどうして悩みがあるなんて結論になるわけ? いくら何でも飛躍しすぎじゃない」
少しヒステリック気味に加奈子は反論した。明日香を責めているつもりはないだろうが、勢いが強いのは確かだ。そのせいで明日香は戸惑っているようだった。
俺もそうだった。どこか淡々としたところがある加奈子が、こんなにもこだわるとは思っていなかった。
「まあ、落ち着けよ。あくまで可能性の話だろ」
俺が落ち着いた声でなだめると、
唇をとがらせて頬をふくらませた加奈子は、「うう、そうね、悪かったわ」と謝罪した。
明日香は手をふって「気にしませんよ。だって、ね?」と加奈子に目配せをする。
加奈子は気まずいようすで目をそらした。心なしか顔が紅いような気がする。
一体なんだというのだろうか?
なんだか訳がありそうだが、俺はあえてつっこまないでおくことにした。空気をよむってやつだ。
「それで、明彦くんが悩みを抱えていると判断した理由なんだけどね、普段の明彦くんが軽いってのが理由なの」
「へ、へー、それは面白い」
俺が適当に相づちを打つと明日香はクスッと笑った。
「やっぱり、詳しい説明が必要かな。
まず、私は明彦くんが普段より落ち込んでいるように見えたの。人の話を聞いているときは、普段の明彦くんなんだけど、私達三人だけで盛り上がっているとき、つまりはね、誰も明彦くんに注意を向けていないとき、落ち込んだようにぼうっとしてたの。それで、私は、いつも何を言われても笑って受け流す明彦くんが何でそこまで落ち込むのか考えることにしたんだ」
俺はさきほどのぼんやりとした明彦を思い出した。あれが明日香の目には落ち込んでいるように見えたのか。そして、俺はすっかり明日香が、謎解きをしてると思っていたが、実は明彦のことを考えていたのだと気づかされた。
「普段は軽い彼が、そこまで落ち込むもの。その見当はまったくつかなかったけれど、私は、明彦くんがそういうものを抱えている様子や話を今までしたことや、匂わせたことすら無かったことにきづいてしまったの。
もともとそういう話をしたがらない人なんだと思う。だから、もしかしたら、彼の心の内では、私達に自分の暗い話を打ち明けようと葛藤しているんじゃないかと」
話が終わるとテーブルの上を沈黙が支配した。俺が黙ってしまったのは、明日香の説明に納得がいかなかったわけじゃない。むしろ、納得し、その意味を考えてしまったからだ。
誰かに皮肉を言われたりバカにされても、笑顔な明彦。俺からしたらきついと思うことでも、瞬時に笑いに変えてしまう。なかなかできない芸当だ。
だが、逆に言えばそれは、他人に、自分の嫌なことや悩みなど、ちょっと暗い話題をいいだしづらくなることを意味していた。なぜなら、常に明るい奴だと周りから認識され、それを求められてしまうからだ。
必ずしもそういう環境になるとはいえないのだが、楽しいことを求める大学生たちの輪の中では自然とそうなりやすい。
「なるほど、一理ある」
俺が頷くと、明日香も神妙そうに頷いた。
「あたしも、そう思う。あいつらしいといえばあいつらしいわ。」
加奈子も納得したらしい。
「専門家のお墨付きをいただきました」
明日香が微笑んで加奈子に頭を下げた。「べっ、別に専門家じゃないし。普通のことよ、普通」と、焦った表情で加奈子がぶつぶついっている。明日香がちらりと俺に目配せをする。たいして俺は全くわけがわからない。
さっきはスルーしたが、あからさまにされては興味が湧いてしまう。
「なんのことだ」
「へっ、気づかないの?」
小声で明日香の耳元に尋ねた俺に、明日香は小声で返し、驚いた顔で俺を見つめた。
「まあ、いいけどね」
明日香は呆れ半分、からかい半分といったようすで意味深な笑みを浮かべた。こんな表情を見るのはひさしぶりで、この話に俺はますます興味が湧いてしまった。
いや、正確にはそういう表情のときの、明日香の心中が知りたくなった。もっと明日香のことが知りたいと思う。
そんな思考は、突然割り込んできた声によって中断された。
「買ってきたよ」
明彦がペットボトルを持った手をぶんぶんふって歩いてきた。そこで俺は彼に炭酸飲料を頼んだことを思い出した。
「お、おい、ちょっと待て。明彦、俺の炭酸が」
「あっ、忘れてた。」
へらへらと笑う明彦を見て、俺はわざとやったんだなと気づいたが、あえて言わない。言うと喜ぶからだ。
「ねえ、あんた、悪いけど答えが出そうにないわ。あんたの不思議な話の真相は保留にしましょ」
「まっ、いいけど、みんなはそれでいいの?」
俺たちは深く頷いた。それをみた明彦は、とくに何事もないように軽く「じゃあ、いいよ。そういうことにしよう」とだけいった。
俺はなんだか拍子抜けしてしまう。いつもどおりの明彦だ。その笑顔が揺らぐ様子が見られるかとおもっていたのだが。
「でも、いつかは必ず答えをだすわ」
加奈子が明彦みつめて強く言った。一方、明彦はたじろいで、「そ、そう? そこまでこだわらなくてもいいんだよ」と引きつった笑みを見せた。
「絶対に逃がさないかな」
俺が低い声で言う。明日香は無言のまま明彦に目で訴える。
「うーん」と、うなってしばらく宙に目線を泳がせた明彦は、やがて俺たちをしっかり見据えた。
「う、うん。わかった。僕も、何かまた思い出したことがあったらいうよ」
そう言って落ちついた笑みを取り戻した明彦は、安心しているように見えた。
やっぱり、明日香の仮説は当たっているかもしれない。だが、今は保留でいい。いつかわかる。そんな予感がしていた。
明彦は席に着くと、にやりと笑った。
「さあ、次の話に移ろうか。誰が話してくれるのかな」
雨はまだ止みそうにない。