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湖での一件から三日程の間、警戒からか屋外へ出ようとすらしなかった仔だったが、七日経った今では一角と共にあちこちを散策して回っていた。釜場から森に目を向ければ、丁度戻ってくる姿が見えた。一角の背にしがみ付く様にする姿は、まだ乗っているというよりは乗せられているといった風だ。
「今日は少し遅かったな。どこまで行っていたのだ?」
いつもなら昼時に一度は戻って食事を摂るのだが、既に陽は傾き始めている。一角の足を考えれば、それなりに遠出したと見える。
「ごめんなさい。あの湖からずっと北へ行ったところでもっと大きな湖を見付けて。それから傍に建物も、あ、ありがとう」
一角から降りる仔に手を貸してやりながら話を聞く。放っておくとぶら下がる格好になる。鞍や鐙を用意した方がよいかもしれない。無論、一角が了承すればだが。
「北の大湖畔か。そういえば久しく立ち寄らぬな」
「あの建物は? 扉が硬くて開かなかった」
「建物……、ああ、そういえばあったかもしれぬな。暫く滞在したことがある。あそこも倉庫のようなものでな。確か書をまとめて放り込んであった筈だ」
人が寄り付かぬ地とは言っても、実際には命知らずの冒険者や商人といった者が足を踏み入れることはある。そういった者達がもたらす外の物の殆どは、そうしてあちこちに仕舞い込んである。書物に関しては当時読み耽った覚えがある。
「ご本があるのっ?」
「あ、ああ……? 記憶が確かならだが」
書の話を聞いた途端に仔が声を弾ませた。煌めく二つの大きな銀の瞳が、期待に満ちる様に輝いて私を見上げている。
「書に興味があるのか」
「うん!」
「ふむ、そうか。では明日、一緒に行ってみるか。鍵は掛かっておらぬ筈だから、扉が錆び付いているだけだろう。私が開けよう」
そう言ってやると仔は飛び跳ねて喜んでいた。書物ひとつに随分な、とも思ったが、出自を考えれば書物に触れる機会さえ希少、或いは皆無だったのかもしれない。
「ねえねえ、魔王さま! 今から行こう!」
喜色に顔を綻ばせる仔の眩しいまでの姿に、私は複雑な思いだった。
「今日はもう遅い。明日準備を整えてからにせよ」
「……はぁい」
湖の一件で沈んでいた仔が明るさを取り戻したことは喜ばしい。ここに居てもよいとは言った。しかし、いつまでもこのままという訳にはいかぬ。
「……明日に備えて今日はゆっくりと休むことだ」
いつか仔を帰さねばならない。
その時のことを、仔のことを想うと、複雑に斑を描く胸の内を感じずには居れなかった。
■
一通り準備を終えて外に出ると、先に出て待っていた仔がぽかんと口を開けたまま私を見上げた。鳩が豆鉄砲――などと言うが、こういったものをそう呼ぶのかもしれない。
「どうした」
私と仔との身長差はかなりのものだが、今更それを理由にこのような反応を返すこともないだろう。
「魔王さま、そんなに大きな荷物……何が入ってるの?」
そう言う仔の視線は私を通り越して、私が背に負う包みに向けられていた。
「ああ、これか。パンにイモに果実――食糧だ」
答えながら包みを芝の上に空けて見せる。ゴロリとした硬めに焼いたパンが数十と、いくらかの野菜やイモに果実が姿を現す。流石にこれだけのパンを一度に用意するのは中々に骨だったが、まぁ、必要なものだ。私はともかく、仔には。
「ええーっ!? 荷物ぜんぶ食べ物だったのっ? こんなにたくさんどうするの?」
「む? ふむ……。そうだな、行けば分かるだろう」
「?」
大量の食糧を前に繰り返し首を傾ける仔にそうとだけ返して、出立することとした。
今は首を傾げる仔だが、あちらへ着いてしまえばこの溢れんばかりの荷物にも不足を感じるかもしれないのだ。
「随分と仲良くなったものだな、仔よ」
すぐ横、私よりも高い位置で体を揺らす仔へ声を掛ける。どちらかといえば仔へではなく、森へ入ってすぐに顔を見せ、あっさりとその背に仔を乗せた一角に対しての非難のつもりだった。どうもこやつの行動には贔屓が見える気がする。
「フィー」
「……ん?」
遠回しの非難に知らぬ振りを通す一角の上、仔が呟いた。言葉の意味に思い当たるところが無く、訊き返す。
「名前。フィー」
「……お前の名か」
「うん」
意味を知らぬ訳だ。
「フィーか。うむ、良い名だ。すまなかったな、これまで名を訊くことを忘れていた。ここではあまり名が必要無いのでな。気にも留めなかった」
「ううん。ねえ、魔王さまは? 名前」
「私か? 私に名は無い」
「……名前がないの?」
「ああ」
そう返す私に、仔はきょとん、と大きな瞳を丸くし首を傾げた。
この地に発生して千余年。私を指す言葉など『魔王』以外にはひとつとしてなかったのだから。或いは『魔王』こそが、私の名といえるのかもしれない。
「えっと……」
「今まで通り魔王でよい。何も気にするな」
頭の上で申し訳なさそうに口ごもるフィーにそう返してやる。私を慮るその気持ちだけで十分に過ぎる。
「それで? フィー、とはどう書くのだ?」
「…………」
私の名から話を逸らそうと言葉を投げたのだが、返って来たのは沈黙と難しく眉間に皺を寄せる顔だった。
「……書けぬのか」
きゅっと唇を結んだまま頷いた。
「む、それでは書も読めぬのではないか……?」
「……おー……」
「考えておらんかったのか」
「……ごめんなさい。……帰る?」
当初の目的が達せられぬと知り、恐る恐るといった様子で訊ねるフィーだったが、それはそれでよいと結論する。
「いや。良い機会だ。読み書きは私が教えよう」
「本当っ?」
「ああ。なに、お前ならすぐに身に付くだろうさ」
私の申し出に顔を綻ばせるフィーにそう返す。教養を持つことは事実、この先必ず彼女の助けとなるだろう。
「わぁっ! ありがとう魔王さま!」
一角の背の上、満面の笑みを以って返すフィーに手振りだけで応えてやる。
仔らしくはしゃぐフィーを微笑ましく見ている私だが、自身も劣らずこの先の日々に想いを馳せていることに気が付いた。
「ご本、たくさんなんだよね? 魔王さま。楽しみだなぁ」
「……そうだな」
――いずれ幕を引かなくてはならぬ夢の一時。それでも、今だけは。今だけは。