( 3 )
「あればかりはどうにもならんか」
木陰に腰を据えて、沐浴――というよりは水遊びに興じる仔を眺めながら声を漏らした。
湖の淵、すぐ傍には石剣が突き立てられている。無論、柄には鎖があり、鎖は仔の首の輪へと続いている。仔を外に帰す前にせめて鎖だけでも断ってやりたかったのだが、私の魔導を以ってしても傷一つ付けることすら適わなかった。流石に抱えさせたまま入水させるわけにもいかず、ああして楔にしてある。
「メイデアの宝剣、か」
鎖に繋がれた石剣。それが冠するその名の響きに、遠い日に出会った少女との日々が思い出された。
■
少女は名をメイデア・ダルクといった。
「聖女?」
「皆はそう呼びますが、私はそんなに大層なものではありません。剣を振るったことはありませんし、学もありません。ただの村娘です」
柱立ち並ぶ我が居城の只中で、穏やかにそれは答えた。十七になるというその少女は、言葉通りただの村娘に見える。人が忌み嫌い、惧れを以って魔界と蔑称するこの地に在って、鎧ひとつ身に付けず、剣も盾も持たない。それまでの数百年の間に訪れたヒトビトのことを考えれば、一種異常ですらある。
「そのただの村娘が一体どういった理由でここにある。この地がどの様に呼ばれるかは知っていよう?」
「ええ。魔界と。そして貴方が魔王」
「お前は、お前達は。私を殺しに来たのか」
「いいえ、魔王。私は貴方を知りに来たのです。貴方にひとつの願いを伝える為に来たのです。言葉を、交わしに来たのです。それだけです。私には、貴方を討つ力も、意志も、願望も、無いのですから」
「では外の者達は何か。あれ程の軍勢を連れた者が言葉を交わしに来ただけなどと、どうして信じられよう」
小さき翼の友人が届けた外の状況は、ここに住まう者達に少なからぬ不安を喚起するに足るものだった。百や二百では利かぬ騎士達が、魔界とされるこの地を睨んでいる。突出した少数の勇者達とは別種の脅威と言えた。
「彼らは決して手出しすることはありません。そうお願いしてきました。私が戻るまで皆外で待っていてくれる。それだけです。彼らはただ、ここへ私を送り届ける為だけに長い道のりを同行してくれました」
「馬鹿な。村娘ひとりを送り届ける為にこの世界の果てまで騎士を遣わすとは思えぬ。道中どれだけの犠牲を払った。犠牲はそれに見合った成果を欲するものだろう」
「誰一人として欠けてはいません」
「何……?」
真っ直ぐに向けられた碧い瞳に淀みは無く、穏やかなその佇まいからは一片の嘘も感じられない。
ヒトの身で旅とは数え切れぬ命の危機と隣り合わせのものだ。それを、あれだけの所帯を無欠。この娘が、導いたということか。
「――聖女、か」
ヒトビトが娘を聖女と呼ぶ理由を見た気がした。これまで、或いはこれから彼女は大きな流れの中で、ヒトビトを導くのかもしれない。数多の奇跡を従えて。
「……いいだろう。外の騎士のこと、信じよう。元より、私も友人達も争いを望みはしないのだ。お前達は信じないだろうが」
「いえ、信じます。ここへ来るまでの間、森の動物達からは害意を感じませんでした。勿論、貴方からも」
「……そうか。それで、言葉を交わす、私を知るといって、一体何をどうするつもりなのだ」
その問いに、彼女は――
■
――簡単なことです。互いを知りたいのだから、一緒に過ごせばいい。それだけです。これから暫くの間、よろしくお願いしますね、魔王――
「――ま――さま、魔王さまーっ?」
記憶の中の呼び声と現実の呼び声とが重なって、深い追憶から引き戻された。
「ああ、すまない――」
目を、奪われた。
「……魔王さま?」
それを薄汚い、と勇者は言った。私には理解出来なかった。ああ。理解出来ないとも。
汚れが洗い流された頭髪は、緩やかな曲線を描き、醒める様に静かな銀の輝きを取り戻した。水滴に輝く滑らかな肌は、翳るところ無く褐色に燃えている。
銀に輝く頭髪は夜に冴え冴えと輝く月を、褐色に照る肌は真昼の陽を想わせた。――月と太陽の子。そんな言葉が、脳裏を過ぎった。
「魔王さま!」
「ああ、いや、すまなかった。それで、何か」
「体洗ったよ? どう? きれいになった?」
言って、水の中くるりと回って見せる。
光と水滴と共に踊る仔の姿を、心から美しい、と思った。
「ああ、十分だろう」
「はぁい」
素直にそう答え湖から上がった仔を認めて、腰を上げた。
「待て」
「?」
獣の様に体を揺すって水切りし、たちまち元のぼろきれの如き衣服を身に付けようとする仔を寸でのところで止める。
「まずはしっかりと水気を拭きとれ。これを使うといい」
住処を出るときに持ち出し、麻袋に詰めていた浴布を手渡してやる。一瞬不思議そうに眺めていたが、すぐに用途を理解したらしく、大人しく頭から拭き始めた。浴布を見るのも初めてというのは些か驚いたものだが、それ以上に察しが良い。
「それから、これを」
「わぁっ……、きれいな服だねー」
同じく取り出したそれを見て、感嘆の声を上げた。仔の言うとおり私の手にあるそれは衣服だ。仔の背丈に合うものを探すのは難儀だったが、なんとか一式揃えられた。
「お前にだ」
「えっ……、でも、こんな」
「よい。どうせ使わぬものだし、お前が着なければいつまでも捨て置かれるものだ。土塊に変わる前に使う者があるのは幸いだろう」
「……うん、ありがとう、魔王さま!」
「……よい」
陽に向かう花の様に咲いた笑みに、思わず目を細めた。
「ん――っしょ。着れたっ。魔王さまっ」
最後にひとつ、跳ねる様にしてズボンを履き終えた仔が身を翻した。
「ああ。だが、靴も履かなくてはな」
言って、仔の傍らで転がるそれに指をやる。忘れていたと慌てて手を伸ばしながら、靴は履き慣れないという仔を手伝ってやる。紐を結ぶのは不得手と見えた。
「これで良かろう。窮屈やゆとりのあり過ぎるところは無いか?」
「うんっ、大丈夫だよ」
「そうか。うむ」
立ち上がって仔の姿を確かめる。
白い綿素材の長袖シャツに、麻と布から成る青灰色のズボン。それから膝下まである長めの腰巻。これには裾の部分に何かの毛皮が縁取られており、いくらか上等な品に見える。靴はなめし皮を薄く重ねた無難な造りの品で、長旅に耐えられるかは分からないが、無いよりはずっと良いだろう。
「良く似合っている」
褐色の肌に、白いシャツは良く映えている。
「えへへ。でも魔王さま、どうして服なんて用意してくれたの?」
「……旅装だ。あの様な姿では行く先で何かと不都合があろう。路銀も多くは無いがあった筈だ。いくつか考えなければならない問題はあるが、何とかなるだろう」
「え……。あの、魔王さま? わたしたち、どこかお出かけするの……? あ、ああ、海? 海だ!」
聡い仔にしては的の外れたことを言う、と僅かに訝しんだが、肩が、足が、小刻みに震えるのを認めて改めた。
「……故郷へ帰るのだ。ヒトはヒトの中で生きるのが道理だ」
そう、今はまだ。この掌の小さき理想は、世界に結実するには早すぎるのだろうから。
「え……? や……わた、わたし……魔王さま……」
しかし、その言葉を耳にした仔の狼狽は、目を覆わんばかりのものとなった。先から拒絶に近い意志は感じられたが、何故これ程までに故郷へ帰ることを拒むのだろう。自由になり、奴隷という束縛を逃れたというのに、何故。
「帰れるのだぞ、生まれ育った場所へ。それだけではない、望む場所、どこへでもお前は自由に歩いて行けるのだ」
「うぅ、ぅ……やだ、わた、わたし……」
――こわい。
と、絞る様にして漏れた囁きが、耳朶を撫でた。
「何を恐れる。お前を戒め隷従した者はもう居ないのだ。何も恐ろしいことなど――」
見下ろす仔の表情は、打ち捨てられるのを待つ幼獣の様に悲痛なもので、思わず口を噤んだ。両目から零れる玉石の様な涙を見るに至って漸く、そのあまりにも痛切な心情へと思い至った。
ああ――、そうか。何と痛ましいことだろう。お前は、
「ヒトが、怖ろしいのだな……」
小さき体は悲しい程に震え、涙滴を芝に落としていく。今の仔に安寧の地は無く、此処がひと時の止まり木足り得るというのなら。
「すまなかったな。もう帰れなどとは言わぬ。お前が望むなら、ここに居れば良い。だから、もう泣くな」
そう、今はまだ。その胸の傷が塞がるまでは。
煌めく銀糸の髪にそっと触れて、そのまま仔の小さな体を抱き寄せた。震える体は驚く程か細く華奢で、切なく胸を締め付けた。
ああ、今はまだ、今はまだ――
静かに凪いだ湖の畔、仔の嗚咽だけが長く響き続ける。私は胸で震える小さき温もりを抱いたまま、静かに瞼を落とした。
――何故か。
聖女と呼ばれた少女の姿を、瞼の裏に見た気がした。酷く淋しげに、悲しげに微笑んで見せた、最後の、別れの際の。