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「存外覚えているものだな」
石釜から焼き上がったパンを取り出しながら思わず呟いた。掌の上には楕円の白いパン。五百年程も前に覚えたきりの知識だったが、問題無く再現出来たのが意外だった。
釜から顔を上げ、空を見れば星々が瞬いている。勇者を退けてより半日。そろそろ仔が目を覚ましているかもしれない。
「む、目が覚めたか」
焼き上がったばかりのパンが硬く冷めぬ内にと踵を返すと、石柱の陰からこちらを窺う仔の姿があった。目に見える場所に傷や痣はあるが、幸い大事は無さそうだ。
「っ――!」
声を掛け、そちらへ歩み出すと仔がその小さき体を竦ませた。
ああ、私は魔王と呼ばれるものであったのだな。些かもの寂しいことだが、仔を責めることも出来ない。
「あぅ、ごめん、なさぃ……」
私の心象が表情にでも出たのか、仔がおずおずと詫びた。震えは止まらぬ様だが、石柱から全身を出して見せるいじらしさには胸を打たれるものがある。
「構わぬ。それよりも腹は空かぬか? 丁度パンを焼いたところだ。食事にしよう」
私の提案に俯いたきり黙り込む。やれやれ受け入れられるにはまだ程遠いかと気を落とす私の耳に、くぅ、と小さく虫の音が聞こえたのだった。
「ふむ……」
繰り返し聞こえる虫の音に、遂に首を傾げるに至った。適当に見繕った卓の向かいには小さくなって視線を落とす仔の姿がある。その前には先程焼き上げたパンと、野菜に火を通したものが盛られている。先程から腹が鳴いているというのに、仔は一向にそれらに手を付ける様子がない。何か不足があるだろうか。
「どうした、遠慮は無用だ。好きなだけ食べるといい。……やはり私が目の前に居ては恐ろしいか」
一番に考えられそうな可能性を口にして席を立とうとしたが、仔は慌てた様に首を横に振った。ただ、やはり体は小さく震えている。
「あ、あの、魔王……さまは、食べないの?」
やはり席を立つのがよかろうと思案する頭に、そんな言葉が投げかけられた。おずおずと囁きの様にか弱い声だ。
「ああ、私は」
食事は不要なのだ。と告げようとして、私にパンの焼き方を教えた娘の言葉を思い出した。
「いや、そうだな。私も、一緒に食事にさせて貰おう」
言って、盛られたパンに手を伸ばすと、いくらか表情を柔らかくした仔が勢いよく残りのパンに齧りついたのだった。
――魔王。ひとり食事を摂るのは、寂しいものよ。あなたも――
時折喉を詰まらせながらも皿の上を平らげていく仔を眺めながら、遠い日の記憶を掬い上げた。手触りの良いものばかりではないが、それは確かに、思い出深いものだった。
■
過去に没入する私を引き戻したのはやはり、仔の仕草だった。
「何か」
「あの、あなたは王様なのに、自分でお料理するの?」
あっという間に皿の上を更地にした仔が訊ねた。口の周りは随分と散らかっている。余程腹を空かせていたのだろうが、少々酷い。
「私は王様などではないよ」
そう答えながら口元に手を伸ばす。一瞬身を固めたが、拒みはしなかった。
「あの、でも魔王さま、って……」
「ヒトはそう呼ぶが、私はお前の思うような王ではないのだ」
「お給仕の人は?」
「居ない」
「召使いの人は?」
「居ないよ」
「……奴隷の、人は……?」
最後の問いを、怯えを含んだ瞳を以って投げかけた。
「居ない」
間を置かず答えを返した。真っ直ぐと、出来得る限り穏やかに。ほぅ、と小さく息を吐く音を聞く。
「ここに住まう者は皆、私の友人達だ。友を下にして使うことは出来ない。何か頼み事をすることはあってもな」
私の様にヒトと同じく言葉を繰る者は稀だが、この地に住まう皆とは意志の疎通は図れる。ヒトと近い形をする者も稀で、一種一個体などということさえ少なくはないが、形の違いなど、何の問題になろう。皆心優しく、命は循環している。
「ん、丁度いい。その友人のひとりが訪ねて来てくれたようだ」
「?」
首を傾げる仔の向こう、木立からひょっこりと白い四足が顔を覗かせた。すっと伸びた首筋にたてがみが美しい、今では最も古い友人だった。
「わぁ……。お馬……じゃ、ない……?」
さくさくと草地を踏みしめながら近づく四足の姿に仔が声を零した。馬といえばヒトが移動手段にもする動物だが、確かによく似ている。ただ、仔の言う通り私の友人はそれとは少し違う。
月明かりの下に露わになった白い体躯。艶やかな美しい毛並みに、引き締まった四肢。流れるたてがみ。そして何よりも目を引くのが、その額より天を突く一本の雄々しい角だ。
「ぁう……」
すぐ傍まで歩み寄った友人を前に、仔が僅かに身を引いた。やはり恐ろしいらしい。その様子に友人は小さくいなないた。
「きゃぁっ!?」
途端に跳ね上がった仔は私の後ろへと隠れてしまった。小さく震えながら私を壁に友人の様子を窺っている。私のことも恐れていたことなど忘れてしまったのかもしれない。
「心配せずとも取って食ったりはせぬ。すまんな一角よ、これは客分だ。慣れぬ土地ゆえ少々戸惑っていると見える」
「……ほんとう?」
「ああ。それに、見よ。食後に丁度良いものを土産に持って来てくれたぞ」
「?」
言って顎で一角の口元を示してやる。
「わぁ……」
そこには二つ、赤い果実の生った枝が咥えられていた。そのままそっと仔に歩み寄った一角が頭を静かに近づけた。
「お前にだそうだ。受け取るといい」
僅かに身を固くする仔に小さく声を掛けてやる。一瞬躊躇した様子だったが、おずおずと手を伸ばした。
「あ……、あり、がとう」
ぽとりと仔の手に果実が落ちて、一角はまた小さくいなないた。ぴくりと震える仔だったが、今度は自ら一角へ手を伸ばした。小さく細い手が一角の頭に触れた。
「わたしとも、おともだちになってくれるの?」
仔の問いに、一角が小さくいななく。
「勿論だそうだ」
そう返してやると、何か大切なものを見付けた様な頬笑みを浮かべて私を見返すのだった。
それはとても美しく、初めて目にする形だった。
幼さ故の柔軟さを取り戻したか、月光の下仔と一角は踊る様に触れ合っている。貌には輝く様な笑みが浮かび、翳のない笑い声がささやかに響く。
「ああ――」
それは、私が心から願う理想の形だ。魔物などと呼ばれる私達と、ヒトビトの。
世界はいつか、この様な形を成すだろうか。
「――いや」
千年を以って漸く見た理想の断片。そのあまりに眩しく尊いものを、このまま大切に大切に仕舞い置こうなどと愚考して、すぐに改めた。
世界は未だあまりに厳しく不条理だ。仔をこのまま留め置くことは出来ない。してはならない。
明日、仔を帰す方法を考えなければと思案して、ひと時だけ完成した理想へと視線を戻した。
それはこの上無く眩しく美しく、それ故にあまりに切なく胸を締め付けた。
発生してよりただの一度も涙を流したことのない私だが、ヒトが涙する瞬間とは、きっとこの様な時なのだろうと、想像を巡らせた。