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 何故、理解し合えないのか。

 恐れ、拒み、殺す。

 ひたすら繰り返して、まだ。

 私は、私達は。ただ平穏に暮らせるならそれで良い。手を取り合えるのなら、尚良い。望むのは平穏であり、平和だ。それだけだ。他には何も求めない。

 何故。

 何故、お前達は殺すのだ。

 千年を費やしても未だ答えは得られない。


「――なあ、勇者よ」


 幾度となく自問し他問したその問いに、超抜者は卑しく口端を持ち上げた。



 ――― ピースフルマインド/暴虐の終 ―――



 魔王。

 私がそう呼ばれるに至る正確な経緯を、私は知らない。ただ、気付けば私はヒトからそのように呼ばれるモノだった。

 魔界の王。故に魔王。そんな明快にして短慮な発案であると聞く。そう、短慮だ。

 魔界という蔑称も、王などという位も。何もかも盲目なヒトビトの想像の産物だ。

 ただ、この地は肥沃にして絶界の地であったというだけのこと。

 ただ、この地に外には無い多様な種の命があったというだけのこと。

 優しき者、賢き者、力強き者、か弱き者、翼持つ者、角持つ者。

 皆ヒトと、ヒトの世の獣とカタチを異にする者達。それだけの者達。

 己と異なるというだけの理由で、我が友人達は蹂躙されるのだ。

 私にも友人達にも、他者を徒に傷付けるような意志はない。だがヒトビトは無条件に我々の存在に怯えた。

 在りもしない脅威に対して、やがて彼らは形を与えた。天災はおろか、人災にさえその原因を我々に求めたのだ。

 正体の知れぬ悪人は魔物であり、国同士の争いの陰には魔界が、魔王があると。

 村々を押し流す水害、家々を崩し地を割る天災。全ての厄災は、魔王の呪いであると。

 実態の無い恐怖だ。

 だが、彼らはただ怯え暮らすことに甘んじはしなかった。

 恐怖が、抑圧が。希望を、全体への奉仕者を生み出したのだ。

 ある種の才能に突出した者。ヒトビトの幸福を願うが故に我々を討つことを是とした尊き者。

 勇者と呼ばれる、ヒトの超抜者。


「何故? くだらねえことを訊くなよバケモノ」


 幾度となく重ねた問いに、数十年ぶりに訪れた勇者が口を開いた。

 違和感。

「くだらぬ、か。それほどに易い解というなら、答えよ」

 城と呼ぶことは出来ない。より相応しいのは神殿だ。それも石造りで質素な。

 ただ柱が立ち並ぶだけの広い室内の只中、身を隠す物など何も無いそこで、勇者は怖じることなく泰然としていた。

「――っく」

 勇者は軽薄に笑い口端をいやらしく釣り上げた。これまでに見たことのない形。

 違和感だ。

「お前が魔王で、俺が勇者様だからだよ」

「……それのどこが答えだ。質問を変える。何の為に貴様は此処へ来た。何故私達を、私を討つ」

 ヒトビトの為。皆の幸せの為。それが勇者達の答えだ。そして何故手を取り合えぬのかという問いはいつも、我々が悪であるという解によって両断されてきた。

「ああ? 馬鹿かてめえは。決まってるだろうが。てめえをブチ殺して首を持ち帰りゃ俺は英雄様だ。金も女も思うままだろう。これ以上の理由がどこにある」

「――何?」

 それは予想を越えた解だった。

 千余年。幾度、幾百の勇者をこの目にしてきた。

 手にした武器も、仲間も、歳も、性別も様々だったが、彼らは例外無く高潔にして尊い精神の持ち主だった。

 故郷のヒトビトの為、世界に平和をもたらす為。世界を脅かすとされる私を打倒せんと立ち上がり、苦難に身を投じた殉教者達。

 彼らは確かに超抜者だった。――しかしそれはあくまで、ヒトとしてで。

 決して私に届くことはなかった。一度として、私は傷付かなかった。

 私に彼等を傷付ける意志は無かったが、幾度退けようと、倒れ伏そうと、その尊い精神性故に立ち上がり続け、命を落としていった。

 皆私達に対して厳しく不理解だったが、ヒトビトを想い、己を捨て去ることが出来てしまった、紛れもなく貴いヒト達だったのだ。

 それが、この者は一体何だ。

 癖の無い黄金の頭髪。瞳は碧く、肌は白い。これまでに見てきた勇者達と、その点に於いて違いは無い。少なくとも大陸の民族として大勢を占める種なのだろう。

 だがこれは、違う。

 明らかに他の者達と一線を画している。その、精神面に於いて。

 あれが口にしたのはすべて私利私欲に由来するものだ。その言動から、卑俗な心根が透けて見える。このような者が勇者とは。

 しかし、この者を取り巻く違和感はそれのみには止まらなかった。

「勇者よ。それは一体何だ。貴様の共の者か」

 傲岸な勇者から幾ばくかの距離を置いてひとつ、小さなヒトが侍する様に控えていた。少女だ。未だ十年を生きたかも分からぬ様な、幼きヒトの仔だ。何故そのような者を連れているというのだろう。いや、それよりも何故、その仔には――

「共、だ? っく。笑わせるな、魔王」

「あうっ」

 じゃらり、という金属の擦れ合う音と同時。小さな、すぐにも消え入る様な小さき悲鳴が漏れて、仔がよろめいた。腕を振るう勇者の所作に合わせる様に。

 勇者の手には石剣が握られていた。武器として機能し得るのかも疑わしい代物だが、奇妙な点は別にある。鎖だ。柄の先から金属らしき鎖が伸びている。そしてその先は――

「こいつらの様な家畜が! 勇者様の共なワケが、ねえだろうが!」

「あっ――!」

 ふらふらと目前へと連れ出された仔の足元へ、勇者の足が叩きつけられた。碌な抵抗も出来ぬまま、倒れ伏す。

 ――家畜、だと?

 倒れ伏し、小さく震える腕を支えに立ち上がろうとする仔のその首は、金属の輪によって硬く縛られていた。

 完全に、理解の外だ。

 仔は戒められている。首輪を掛けられ、鎖に繋がれ、剣に括られている。これは何だ。勇者は何と言った。家畜だ。解らぬ。

「勇者よ、貴様、何故仔をそのように扱う。その者は貴様と同じヒトであろう。ましてや、守られるべき幼き者ではないのか」

「同じ! 同じだと? はっ。はっははははは! お前の目は節穴か魔王! よく見てみろよ。この薄汚いナリを。こいつはサフィナの砂の民だぞ。奴隷だよ! そんなモノと俺とを同列に並べるなよ間抜けぇ!」

 薄汚い? 仔のどこが薄汚いというのか。お前との違いがどれ程ある。銀の髪、褐色の肌。それが、そうだとでも言うのか。

 家畜、奴隷。

 ただ肌の色、髪の色が違うというだけの理由で、同族を、同じヒトを貶め隷属するというのか、お前達は。

「――ぅ、う」

 小さき呻きが聞こえた。見れば仔が震える手を支えに身を起していた。痛ましい。何故、ヒトは小さな違いによって他者を虐げるのか。

「――お前は望んでそこに居るのではないのだな」

 私の声に、小さき体が震えた。二つの銀の瞳がゆるりと私を捉える。……悲しい瞳だ。疲弊し、諦観した瞳だ。

 仔の小さき唇が僅かに震えて、

「ぁ」

「誰が口を利けと言った? クズムシが!」

「あぐうっ!」

 鎖の唸りと共に、床へと叩きつけられた。

 ああ、答えなど不要だ。

 不当な扱いだ。理不尽な拒絶と簒奪だ。同じだ。仔も、私達も。

「勇者よ。仔を放せ。貴様の行いは、余りにも――」

「ははは! 随分とお優しいことを言うんだな魔王様。いや拍子抜けだな。天下の魔王が、家畜にお目零しとはな。オマケに何だそりゃあ。あ? 見た目は角生やしただけのヒトと大差ねえときた。まったく、肩すかしもいいところだぜ!」

「御託はよい。仔を放せ」

「出来るかよマヌケ。こいつはお前を殺す為にわざわざ用意した道具なんだから――なぁ!」

 理解出来ない。まったく、理解出来ない。大きく身を捩り、引き絞られる右腕、石剣。鎖に引き摺られ床を滑る仔。

 私を殺す? ああ、そうだろう。勇者だ。その為に此処へ来たのだ。だが、弓でも魔導でもない、剣だ。あの者の持つのは剣なのだ。彼我は剣はおろか槍のものですらない程に隔たっているというのに。

 いや、そもそも、この千年余り、私を傷付けることの出来た者など、一人としていないというのに。

「止めよ。ヒトの身で私を傷付けることは適わぬ。私にはお前達を傷付ける意志などないのだっ……! 栄誉が欲しいというのならこのまま故郷へ帰り私を殺したと言えばよい。元よりヒトの世はその様に廻ってきた筈だ」

「命乞いか? くだらねえな魔王」

 ……通じぬか。

「貰うぜ、その首ぃいっ!」

 腕が横薙ぎに振り抜かれた。緑光の閃き。刹那に圧縮された時の中で、石剣に薄緑の幾何なる文様の顕現を見た。

 魔導。開闢にすら届くと錯覚する程の、荒ぶる魔力の奔流。

「こ、れは――!」

 馬鹿な。

 魔導の気配など何処にも感じられなかった。いや、そも、ヒトにこれ程の魔導の素養など――!

 混乱に乱れる思考だったが、千余年を生まれ付いた魔導と共に生きた私の慣性は、その刹那にも変わることなく守りの魔導を編み上げた。

 幾百、幾千もの不可視にして頑強無比の守りの魔導が即座に展開される。だが、

「ぬ、う――うぅっ!?」

 薄氷が砕ける様な易さで、千年を越えて絶対を誇り続けたそれは、引き裂かれた。

 即座に上体を落とし込み、身を捩る。緑色の極光が、反らした肩口を焼き切りながら駆け抜けた。

「ぐ、う、おおぉっ」

 僅かに触れた程度だというのに、右の胸から肩にかけての肉が抉れて消えた。焼け付く痛み。鮮烈な脅威。発生してより初めての、『有効』な敵対者。

「おいおい。避けてくれるなよ。ああ、いや。今のは避けなけりゃ首が消し飛んでたか? そりゃ困るな」

 その場に跪く私に対し、先程の場から一歩も動かぬままの勇者が卑しく笑った。

「……それは、何だ、勇者よ」

 石剣から発せられた光の刃。ヒトの身に余る魔導の力。勇者からはその様なものは感じられない。ならば、何だという。

「か、はははは。良いね。冥土の土産ってやつか? 良いね! 一度やってみたかったんだ。教えてやるよ。く、はは。言ったろ? 『こいつは、お前を殺す為に用意した道具』だって――なぁ!」

「あうっ!」

「貴様」

 勇者の傍らに転がる仔の顔目がけて、足が落とされた。骨と肉の軋む音に、我が身が痛む様で、堪らない。

「こいつは家畜で奴隷のクズだが、特別品でな」

「特別?」

「どこから話すか……。そうだな、こいつを見付けたのはフロエラだ。知ってるか? サフィナのクズ共が巣にしてる砂漠、その近くにある貿易都市だ。最近じゃ貴族連中が相当数入植しててな、奴隷の需要もかなりのもんだ。近場でクズ共をパパっと捕まえてくりゃいいんだから奴隷商共は左団扇ってわけだ。こいつも例に漏れずお貴族様に飼われててな」

 同族を物の様に……。ヒトとはどこまで――

「……貴族の下に居た仔が何故今貴様に連れられている」

「か。そう焦るなよ。死期を早めたいのか? ――俺は小銭稼ぎにフロエラに立ち寄っててな。たまたまだ。貴族のガキと使いに出されてたこいつを見付けた」

「仔の主か。その者も貴様の様に仔を蔑にしていたのか」

「さあな。そんなことはどうでもいい。重要なのはその時そいつらが、いや、こいつが何やってたかってことの方だ」

「何を」

「医者の真似ごとだよ。魔導を使ってな」

 治癒導師か。しかしそれが何だという。魔導の才覚は希少だが、いや。仔に魔導の気配など無いではないか。

「ただの治癒ならな。だが貴族のガキがやってみせたのは相手の腕一本丸々だ。分かるか? 無いもんを生やしたんだぜ?」

「な――」

 有り得ぬ。ヒトにとって魔導それ自体が天賦の才だ。それも極々ささやかなものに過ぎない。治癒魔導とて短時間で癒し得るところなど、擦り傷切り傷が限界だろう。それを失われた四肢の蘇生など。

「ついでにな、その貴族のガキに魔導の才はほとんど無かった。分かるか? それがこいつのチカラだ。無能者に常識外れの魔導を与えたんだ。俺はその日の内にこいつを拝借したよ。かかかっ! あの時のお坊ちゃまの顔は良かったなぁ」

「他者への魔導の委譲? 何故その様な婉曲なことを」

 それ程に優れた才があるというなら何故自ら行使しない。勇者の言葉は不可解に過ぎる。

「手前ぇで使えねえんだよ。物なり人なりを仲介して初めて馬鹿みたいなチカラを発揮出来るんだ」

 私の疑問にあっさりと解は与えられた。

 魔導の流れが己の内で完全に閉じている、ということか。外に発露を持たず、連環し続ける魔力が延々と凝縮され続けた末、常道を逸した結果を導いているのかもしれない。

「王都じゃ勇者光臨の託宣が降りて魔王討伐の機運に盛り上がってたところだ。何かに使えるだろうとガキを王宮に持ちこんだら連中、俺を勇者に祀り上げやがった。分かるか? こいつが俺に連れられてるのはお国公認ってわけだ」

「…………」

 何ということだ。国はそこに住まう者を守るモノではないのか。大勢から外れている者はその限りではないとでも。あまりにも酷薄だ。

「……仔が貴様に連れられる理由は分かった。だが、まだ分からぬ。如何に膨大な魔力の貯蔵を持つとはいえそれを御し、十分に発露することなど。その石剣は」

「『女神メイデアの宝剣』と『神の鎖』だとよ。ガキを持ちこんで直ぐ、王が俺に使える様にしろと導師共命じた。どっちも宝物庫に安置されてた神秘らしいが、詳しいことは知らねえ。導師の話じゃ鎖でガキの力を縛って転化して剣に――だとか言ってたが、お前、分かるか?」

 メイデア……! 聖女と呼ばれた彼女が。死して神と呼ばれるまでに至ったのか。加えて神の鎖。ヒトの伝える神話を信じるならば、天の獣を戒めたとされる神宝だ。成程、結果を見れば眉唾とも言えぬものだ。

「まあ、そういうわけだ。ガキもお前の首も俺が有効に使ってやるから安心して死ねよ」

「くっ」

 やむを得ない。両の手を起点に破壊の魔導を編み上げる。

「――チッ! やらせるかよマヌケぇ!」

 間髪入れず目の前を勇者の足が踊った。

「うっ、ぐぅうおおあぁぁっ! があっああぁ」

 意識を炎に焼かれる。傷口を、肉を、無遠慮に抉られる。掌に凝縮した魔導は瞬く間に霧散した。

「ふざけやがってクソが。まったく、油断も隙も無え、なぁっ!!」

 地に伏す私の腹に、振り上げられた勇者の足が加えられた。ただの蹴り。石剣に依らぬこの勇者の体技などで傷付く体ではないが、宙を踊るには十分だった。

 無様に舞い、落着し、床を転がる。

「ぐっ、う」

 焼き切られ、抉られた傷の痛みに視界が明滅する。意識を刈り取るものではないが、慣れぬこの炎の様な代物は厄介だった。即座に立ち上がることすら儘ならない。

「――! ちっ!」

 この状況、圧倒的優位に居るはずの勇者の舌打ちを聞いた。

 消え入りそうな息遣いが、小さく固唾を呑んだ。僅かに鎖の音。ああ、成程。浅薄なことだ。

 横臥した視界を僅かに上にずらせば、同じく無造作に地に転がる仔があった。手を伸ばせば容易く触れられる。あの卑俗な勇者にとっては仔こそがただ一つの手札であろう。焦りは尤もだ。仔を失えば、勇者が私に抗する手立ては失われるのだから。

 ――失えば。仔が死ぬのなら。仔を、殺すのなら。

 じゃらり。鎖が鳴いた。指の先程も滑らぬ内に、伸ばした私の手はそれを戒めていた。

「てめえっ!」

 勇者の焦燥が聞こえる。視線の先には小さく息を呑む仔の姿。虚ろな瞳に、僅かな畏れを湛えて。しかしそれさえほんの瞬き程の時に失われる。

 あまりにも悲しい瞳だ。全てを諦め全てを受け入れようという。愚かな聖者に似て。

 何故殺せよう。こんなにも哀れな仔を。何故捨て置けよう、このような不条理を。

「仔よ。聞こえているか」

 応えはない。

「お前がここに在るのは本意ではなかろう」

 応えはない。

「お前があの者に力を貸すこともまた本意ではなかろう」

 応えはない。

「よいのだ。もう、お前がその意に反して加担する必要は無い」

「おい、てめえ何囀ってやがるっ! この、その手を離しやがれぇ!」

 鎖が引かれる。僅かにも譲らぬ。

「――――」

 仔の瞳が微かに動いた。

「その身は、心は、魂は。みな、皆、お前だけのものだ。生きることを手放すな。忘れるな。思い起こせ。お前はヒトなのだ。その身は誰に縛られることもなく、自由なのだ」

「ぁ――」

 力無い瞳が揺れて、小さく唇が震えた。

「おい、分かってんだろうな虫ケラぁ!」

「聞くな! 私を見よ」

 刷り込まれた恐怖に身を固める仔を繋ぎ止める。

「あの者が恐ろしいか。ならば私が止めよう。お前がそれを願うなら。お前が自らの意思であれを拒絶するというのなら、私が力を貸そう。だから恐れるな。ただ、心のままに、答えよ」

「――ぁ、ぁあ、あ、あああぁ」

「くそったれがぁ……、上等だ、いいぜ、このままガキもろともぶった斬ってやる! ハッ! どの道てめえを殺せば用済みなんだからなぁ!」

 踊る石剣。緑色の煌めき。

「己の意思で、言葉で、ただその望みを口にせよ! 何も恐れるな。私が! お前を救ってやる!」

 仔の頬を、一筋光が伝った。小さく震えた唇が、その小さな、あまりにも小さな願いを囁いた。


 ―――たすけて。


「死、ぃいいいねええええぇええぇっ!!」

 振り抜かれる腕。風を切る石剣。緑光は閃かない――!

「んなっ――!?」

「ここまでだ、勇者よ。その卑しき心で他者の魂の芯までを打ち崩すことなど適わぬと知れ」

 仔は縛られている。肉体を鎖に。心を恐怖に。だが、ズタズタのその魂で、己の意志で助けを求めた。恐怖の原泉たる勇者を拒絶してみせたのだ。どれほどの恐れを越えてその言葉を吐き出したのか。きっとそれは私の想像など及ばぬ処だろう。だから。私はそれに応えねば。

「おい、おいっ、おい! このくそったれの畜生が! 何やってやがるっ! とっとと――」

「ここまでと言った。仔は貴様に抗う道を選んだのだ。最早貴様の持つそれに光は宿らぬ」

 醜く猛る勇者を前にゆるゆると、無様に立ち上がる。受けた傷は未だに塞がらず今尚焼ける様だが、仔が乗り越えた苦難を想えばどれ程の事も無い。

「くそっ、クソクソクソがっ! ふざけろよ、死に損ない! ああ、ああ! こんなもん無くても今のお前なら」

 改めて見れば、なんということはない。粗雑な足運び、洗練されぬ構え、覚悟無き瞳。駆け迫るその姿のなんとか弱きことか。何も無い、この者には。事ここに至っては、哀れですらある。

「悲しいな、ヒトよ。私達はまた、理解し合えない」

 私の意志に応えて右手に魔力が収斂する。完成は思考と等速。魔導の解放は呼吸と同位。特別な所作など不要。ただ、その行いがあまりに虚しくて、瞼を落とした。

 勇者が地を蹴る音を聞く。編み上げた魔導が勇者を捉えた。

「うっ、ふっ――」

 指向性を伴った大気の壁が腹へ喰らい付き、風に吹かれた枯れ葉の様にその身を舞わせる。無明にあってもその様子は容易く脳裏に映し出された。

 瞼を開く。無造作に地に落ちる勇者の姿を見た。

「っあ、ぐ。ごほっ、く、あ」

 ただの一度撫でただけで弱々しく震え、辛うじて立ち上がる勇者を前に一つ歩を進める。怖れを滲ませた瞳がそれに応えた。

「っ――。くそ、来るな、バケモノめ」

「去れ」

「な、に?」

「去れと言った。元より殺すつもりなど無い。ここより立ち去り、二度と現れるな」

「…………く、そ。クソ、クソ、クソ……」

 その言葉に、ぎしりと歯を噛み締め、背を向けた。よろよろと弱い足取りで遠ざかっていく姿に、先程までの泰然としたものは残されていなかった。


「――――」

 勇者の姿が消えるのを確かめて天を仰いだ。ところどころ割れた天井から覗く空は蒼く高く、その美しさに目を細めた。

 この蒼穹はあらゆる者の頭上、平等に存在する。世界はこんなにも美しいのに、何故そこに住まう私達の間には、こんなにも不条理と不平等、争いが満ちているのだろう。

 煩悶に溺れたところで答えは得られず、ただ、背中に聞こえる小さな息遣いに胸を痛めた。

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