湯鷺の洗い松
ある時明治の客人で、ものを書いて生き得る者がおった。
世は維新の新しき時を迎えど、瓦斯灯などはまだまだ珍しき代物。 東京と名を改めた帝都ですら、近代化の波風は未だに吹き始めといったところか。
客人、道を往き往き下町の古き平長屋に宿を求めた。
家屋の齢に引け取らぬ、これまた枯木の如き婆の計らいで、年初の格別の寒さから身を寄せることができたのである。
おや、と外を見やれば猛吹雪、やはり古き長屋の寂しきところか、風は吹くのに場所を選ばず。
婆の配慮か布団に包まり、寒風を凌ぎながら降り治まらぬ雪をぼうと見ていた。
この寒さ、筆を執る気も萎え果ててただただ布団に包まり身を悶えるのみ。
ふと長屋の奥、暖かき湯気の気配を察すれば、やはり生粋の江戸の人。粋なことをと風呂を探す。
しかして客人、風呂に入らんと部屋一つ、部屋二つと通ずる襖を開け放す。不思議なことに使わずに置かれた家財道具一式が転がるばかり、主の消えた蜘蛛の巣を埃が塗しているその眺めは、長き歳月を無人で過ごしたのだろうか。
しかして黴と埃の奥からは先の湯の気が満ちている。
はて、と最早興味の湧いた客人は恐る恐る奥の部屋を覗きこむ。
奥は中庭であった。
中庭である。しかし屋根があり所々に提灯がかかる。 煌々と灯る提灯に照らされ、中庭の中央、湯気の元たる温泉があった。
先客がおる。 温泉の縁まで行き客人はようやく気づいた。
歳はこの長屋の婆と同じ頃だろうか。
薄暗き光と湯気に揺らされて湯に浸かる姿は翁のようだが、人ではない。
お主、名はなんじゃ。
いや、私は一介の物書きでございます。今宵宿を求め、この長屋の嫗の計らいで風雪を凌ぐ私には、名乗る名などありますまい。
ほうお主、物書きか。
ええ。この維新の世に筆を以て広く名を挙げんとも、未だ大望果たせず。売れず、書けず、糊口を凌ぐ毎日ではありますが。
なれば、どれ、お主の話の種にでも、一つ話を聞かせてやろう。
ある時、どこかの土地にて一匹の賢き鷺がおったそうだ。
鷺はとある人家の娘に恋をし、娘の家を大いに栄えさせた。
しかし、娘には想い人がおった。鷺は妬み、知られぬように想い人を殺した。
その頃、娘の家には洗い松という大層美しい松の木があったそうじゃ。
一家の長は人真似をして喜ぶ鷺にと松の木元に湯治場、長屋を建て、いよいよ鷺をもてなす。
だがな、それは娘の罠じゃった。
はあ、と客人、外の寒さも、座る凍土の冷たさもついぞ忘れ、あぐらを組んで翁の言にただただ聞き入る。
鷺の力で栄えてゆけば、いつか娘を獣にやらねばならぬ日が来る。しかし鷺がいなければ商売はできぬ。
ある時鷺が湯に浸かると、一家の世話人がすぐさま湯治場の戸に鍵を掛けた。
鷺ははたと気づくも時既に遅し。
泣けど叫べど誰が助けになどこようか。
愛しき者の想い人を殺め、あまつさえ愛しき者に罠にかけられた愚かな鷺を。
じゃが、鷺と共に娘も愚かであった。
愚かなほどに一途な、健気な娘だ。
鷺は娘に、戸の中から願いを乞うた。 出してくれと頼むのではない。ただ、傍でずっと生きてくれと叫んだ。
それだけではない、私が九十九の神へとなる前にお主を想い人に引き合わせると、そう言った。
そして愚かな娘は、長屋で暮らすことにしたのだ。
人の雰囲気ではない翁、嫗、そこで客人ははたと気づく。 この話はまるでこの長屋の歴史の話ではないか。
いや、むしろそうである方が面白いと、客人は話の続きを促す。
翁は笑って結末を語る。
物書きのお主なら既に分かっておるのだろう?
九十余年の歳月は永かった。 儂にとっても、娘にとっても。
儂は約束を守ったぞ。あの時殺してやったから、縁は再び主をここへ呼んだのじゃ。 まさに、あの時の若者と瓜二つ。
言うが早いか、翁は湯気と掻き消えて、置かれた敷石はそこに温泉があったことを物語るのみ。
今のは現か、客人は急ぎ足にて嫗の元へととって返す。
果たして嫗は台所にて事切れていた。しかしその顔は安らかなものである。
ふと外を見やれば先ほどの風雪は嘘のように収まっていた。
客人は嫗は床へと寝かせると、再び外の寒さへと身を晒す。
嫗はどうなったのだろうか。翁の言葉を思い出す。
客人は空を見渡し、呟く。やはり、神など目に見えるところにいないか。