夢みる電子回路(旧)
六月二十三日
今日から例の新入りが来る、と「おとうさま」に呼び出された。この店で一番古株である私に紹介したいらしい。仕事前に、事前に伝えられていた部屋へ向かうと、扉の前に立っていた「おとうさま」に入るよう促される。まだ番号がふられていない、新しいその部屋は、他の部屋と比べて一回りほど広く、床や壁、その他備品も小綺麗であった。その中で、少し大きめのベッドに横たわる少女は一糸も纏わず、ピクリとも動かない。
「彼女が、例の〝商品〟ですか」
私がそう問うと、「おとうさま」はゆっくりと頷いた。
少女の白い肌は陶器と見まごう程に滑らかで、頬はうっすらと薔薇色に染まっていた。シーツの上に広がっている長い黒髪は絹糸の様に艶やかだ。黒曜石の瞳は熱く潤んでいる。左胸に触れると、生々しい心臓の響きが感じられた。
〝これ〟は本当にロボットなのか?
私の疑問に答えるかの様に「おとうさま」が口を開く。
「綺麗だろ?特注品だ。その証拠に、ほら」
「おとうさま」が〝彼女〟の身体をひっくり返した。腰の辺りに店の名前が刻まれていた。
「これからお前には彼女の世話役をしてもらう」
「ロボットなのに、要るんですか?」
「ああ、彼女は立つことはできても歩けないんでな。慣れるまでいろいろ手伝ってやってくれ。……ああ、もちろん、仕事がない時でいい」
「わかりました」
逃げ出さないためだな、と私は直感的に思う。「おとうさま」が反抗的な娘の脚の腱を切っていたのを私は知っているのだ。そういう所が、特注品だろう。
「あと、こいつにいろいろ教えてやってくれ」
「教える、ですか」
「ああ。この機械は最新型でな。〝心〟とやらも標準装備らしい。その方が、お前もお客様も、やりやすいだろう?」
「そうですか。では、他の新人と同じようにすればいいですね」
「そうだ。お前は理解が速くて助かる」
「ありがとう、ございます」
「こいつは明日から店に出すからお前は部屋に戻りなさい。……頼りにしているよ」
「おとうさま」が出ていき、扉が閉められる。彼女の瞳を手で閉ざすと、眠りについた様に呼吸が深くなった。これがスリープモードというやつだろうか。灯りを消し、部屋を出る。この部屋から私の部屋までは遠い。そう、思った。
六月二十四日
「こんにちは、はじめまして。私の名前はNP-001です。あなたのことは何とお呼びすればよろしいでしょうか」
第一声が、これだった。玉を転がすような声は機械のものだとは思えないほど流暢で美しい。
「はじめまして。今日はあなたにこの店の規則について説明します」
「規則。了解しました」
真っ白なワンピースに身を包んだ彼女は、表情ひとつ変えずに頷いてみせた。
「この店に買われたからには、あなたは商品です。お客様のご要望には可能な限り従うこと。しかし、自分の身体に危害が与えられるようなことは別です。そのようなことがあったら速やかにそこのブザーを鳴らしてください。そして、あなたには今の名前を捨ててもらいます。仕事中はお客様がお望みになった名前で呼ばれるように。あなた以外の〝商品〟は部屋番号で呼んでください」
「了解しました。あなたの部屋番号を教えてください」
「私は一号室です。あなたは――」
そこまで言って、私は彼女がいる部屋に番号がふられていなかったことを今更ながら思い出す。こればっかりは「おとうさま」に確認しなければ何もわからない。
「……あなたは、保留です。後で『おとうさま』に確認をします」
「お父様、とは?」
「この店のオーナーです。『おとうさま』と呼ぶように。規則です」
「オーナーですね。登録しました」
「今のところは、以上です。残りは追い追い説明します」
「了解しました」
その声を聞いたあと、私は部屋を出た。今やこの遊郭でも特別珍しいわけではないアンドロイドだが、これほど人間に近いものを見たのは初めてであった。これから、どんな活躍を見せるのか、少し楽しみだった。
六月二十六日
彼女がこの店に来てしばらく経ったが、なかなか好評なようだ。顔も一切公開せず、この店の一番奥の窓もない部屋で隠されるように入れられた最新型アンドロイドの噂は、すぐにこの街に来る男どもへ広がっていったのだ。実際に買った人の口コミもあり、決して安い額ではないにも関わらず(むしろこの周辺地帯で一番高い)、予約が来月まで埋まるくらいの人気ぶりだ。
しかし「おとうさま」は、最初は物珍しくてやってくる客が大半だ。ここからどうリピーターをつけるかだ、と冷静であった。
七月三日
今日は早い時間に仕事が入っていなかったので、彼女の部屋へ行ってみることにした。彼女の客は、主に遅い時間であったからだ。
部屋に入ると、彼女は見慣れない服を着ていた。光沢があり、艶やかな布は決して安いものではないことは私でも分かった。赤地に華の模様が複雑にデザインされていて、とても美しい。
「この服ですか?これはこの間のお客様に頂いたものなんですよ!極東地区に昔から伝わる民族衣装だそうです」
彼女は、その顔立ちや髪色で極東地区のお客様に人気があった。この店から一番近い出入り口から、そう遠くない位置にある極東居住区に住んでいる富裕層の客を取り込みたかった「おとうさま」の策略だろう。
しかし、極東の民族衣装とはキモノではなかっただろうか。キモノは角の極東系専門店の〝商品〟が着ているのを見たことがあるが、今彼女が着ているものとは若干の違いがあった。
「その着物の元となった、大昔の物らしいです。装備方法も教えていただきました。本当はもっと枚数が多いらしいのですが、脱ぎ着がしやすいように改良までしていただきました」
「そう、よかったですね。よく似合っています」
「ありがとうございます!」
照れ笑いを浮かべながら彼女はそう言ったのであった。
七月五日
〝商品〟として店に並ぶようになってから、彼女の感情が豊かになったように感じられる。会話により学習機能が働き、より人間に近づいていくのであろうか。実に興味深い現象だ。コミュニケーションに重点をおく富裕層のお客様に気に入られるのも時間の問題だろう。いや、もうすでに気に入られているか?
七月八日
今日のお客…正 一
内、心付けを下さったのは三人だけであった。ハードスケジュールの割に合わない。今日は珍しく、新規のお客様が多かったからかもしれない。もっと一日に付けるお客の量を減らしてもらうように頼むことにする。
七月十日
仕事に余裕が出てきた。要望が通ったらしい。仕事前に、いつものように彼女の部屋へ行った。
「そういえば、複数のお客様に特定の名前で呼ばれることが多々あります」
「特定の名前、ですか」
「はい。主に極東出身の方が」
「何と呼ばれているのですか?」
「皆一様に私を『かぐや』と呼びます。神話か何かの登場人物でしょうか」
呼び名などどうでもよかったり、ネーミングセンスに難があったりするようなお客様は度々、物語や自身の信仰する神の名前を借用するのだ。神とは対極の位置にいる私たちにはもったいない話だといつも思う。
「一度、お客様本人に聞いてみるものいいかもしれませんね」
「そうですね!会話は大事ですから」
七月十三日
彼女によると、かぐやとは極東最古の寓話に出てくる月から来た姫らしい。彼女の容貌がその姫と酷似していることと、この店の名前が月に関係するところから名づけられたようだ。極東出身者はこういう言葉遊びをよく好む。彼女は、着々とその呼び名で定着しているようだ。
七月二十日
今日は不思議なお客様が来た。部屋に入るとすぐにベッドへ向かい、
「私は何もしない、ここに宿泊に来ただけだ。時間になったら起こしてくれ。その間君は外に出ていても構わない」
と言ったきり、本当に眠ってしまったのだ。こんなことは初めてだったので、外出することもできず結局時間になるまで床に座り込んでいた。何もしないでお金だけもらえるのは非常にありがたいことなのだが、どうも落ち着かなかったのだ。
終了時間になり、その不思議なお客様を起こすと、彼は寝起きでボーっとすることもなく(本当は起きていてのではないかと疑ってしまうほどに)スムーズに起き上がった。身支度をし終えたあと、私をじっと見つめて口を開く。
「君は、ロボットに興味はあるかね」
突然の質問に戸惑いながらも、彼女とあの人の顔が脳裏に浮かんだ。
「……はい。あります」
「そうか」
不思議なお客様はそう言って帰ってしまったのであった。
七月二十七日
部屋から全く出ない(出られない)彼女は、よく私に外の世界の話をせがむ。とはいっても、私も生まれてから一度もこの 〝街〟から出ることを許されたことがなかったので、必然的にこの店内の話になってしまうのだった。
「七号室の娘が近々買い取られるようです」
「買い取られる?」
「ああ、この店では決められた金額を払えば娘を店から買い取ることができるのですよ。もちろん娘によって金額は違いますし、あなたは非売品です」
「あなたは?」
「え?」
「一号室さんは、おいくらですか」
「私は、」
私は、いくらなのだろうか。考えたこともなかった。ここで生まれ、富裕層向けに、と人並みの教養を与えられながら働き、最年少にも関わらず一番の古株となり、それなりの高値をつけられた私はいつか売られていくのだろうか。いくらで売られるのだろうか。
「……どうなのでしょう」
「値段は、知らされないものなのですね」
「そう、ですかね」
これから真剣に考えていくべきなのだろうか。
八月四日
七号室の娘が脱走。男と駆け落ちしたらしい。塀の手前の川で死体となって発見された。入水自殺であった。なんとまあ、古典的な心中であろうか。相手は購入者とは別の、普通階級の男である。
七号室の買い手が決まった日の夜、彼女が泣いていたのを覚えている。やっとここから出ることができるというのに何を泣くのであろうかと思ったものだが、七号室は高望みしてしまっていたようだ。贅沢なんて覚えるものではない。私たちにそれは毒だ。それでも彼女は望んでしまったのだ。
そしてまた、「おとうさま」が新しい娘を連れてくる。なんてことのない、いつものことなのだ。……
八月十日
今日もあの人から返事が来ない。早く返事が読みたいが、催促の手紙を書くのも馬鹿らしいので、止めた。彼の手紙は外のことがたくさん書いてありとても面白い。次の手紙では写真も一緒に届くはずである。はやく届けばいいな
八月十四日
あの不思議なお客様は度々この店に来ては泊まっていった。泊まる、といってもやっぱり何をするわけではなく、私に小難しい質問を二三して眠るだけであった。何もせずにお金だけ出してくださるお客様(通常料金だけでなく心付けも、だ)は私としてはありがたいのだけど、理由もなしにこんなことをするのだろうか。私は、決して安くはなかったはずだ。
「どうしてあなたは、わざわざこんなところに泊まるのでしょう」
意を決して、尋ねてみた。お客様はしばらく黙り込んだあと、口を開く。
「……私は、NP-001を造った者だ」
「えっ、そうだったのですか」
「いつもは人工知能を主に研究しているのだがな。あれは特別に、造った」
「それであなたは定期的にここへ……」
アンドロイドなどという繊細なものに整備士をつけないはずがない。しかも彼女は特別繊細なのだ。開発者が直接来ていてもおかしくはないだろう。
「君、ロボットは好きかね?」
「はあ、はい」
「ロボットをもっと理解したいと思ったことは?」
「あります」
「そうか。……私はここのオーナーに依頼され、定期的にあれの点検に来ているのだ。その度にここへ泊まっているのだが、ただ眠るだけでは芸がない。君が〝彼女〟に興味があるというのなら、もっとロボットについて君に教えようと思うのだが……どうだろうか」
それは思いがけない提案であった。あんなに素晴らしい物を造った人に直接ご教示していただけるなんて、願ってもみなかった話である。
「お願いします!やらせてください!」
私がそう言うと、彼は満足げに頷いたのであった。
八月二十日
あの日からあの不思議なお客様(敬意を込めて『博士』と呼ぶことにした)は一週間に一~二回ほど、私にロボット工学を教えてくださるようになった。勉学は非常に楽しい。私がここで生まれていなかったら、あの人と同じ大学に行って、同じ研究をしていたのかもしれない。そんな妄想をした。
八月二十五日
七号室に新しい娘が入った。歳は定かではないが、私より歳上のようだ。七号室さんは、こんなところに連れてこられたにも関わらず、笑顔が絶えない素敵な人であった。ここがどういうところか理解していないのか、知っていてそう振舞っているのか。本当に素敵な人なので、無理をして身体を壊さないといいな、と思った。
九月三日
あの人から手紙が届いた。大学という施設は私の想像以上に大きくて綺麗なところのようだった。何に使うのかもわからない機械がたくさん置いてある。大学は海の近くにあるらしい。海も、想像以上に大きくて、綺麗だ。
――三号室の娘の具合が悪いらしい。頭痛と微熱がなかなか収まらず、頭髪が抜けているらしい。心配だ、と思っていたが、ちょうど今七号室に三号室は妊娠しているのだと教えられる。三号室とはもう何ヶ月も会っていなかったので知らなかった。もうすぐ臨月というから尚更驚きだ。そういえばこの頃仕事を休んでいた気がするが、それはそういうことだったのか。三号室は産みたいらしい。世間一般にはおめでたいことなのだろうけれど……。
九月十日
「あなたの髪は、美しいですね」
彼女の部屋に行ったらそう言われた。
「そうですか?そんなこと言ったのはあなたが初めてです」
「美しいです」
彼女はもう一度そう言い、私の髪を手で梳く。私としては、彼女の艶やかな絹の髪の方が数倍美しいと思ったのだが、言及しなかった。嬉しかったのだ。
「まるで、金の稲穂のようですね」
彼女は柔らかく微笑みながら言った。私の好きな顔であった。
九月十一日
稲穂。金の稲穂。稲穂とは何であろうか。字引で調べてみると、稲の穂と書いてあった。稲とはパンなどの原料になるものだ。知ってはいたが見たことはない。博士に貸していただいたどの本を見ても、稲穂の写真はなかった。今度、あの人に頼んでみようか。
九月十九日
三号室が出産した。水子であった。駆けつけた医者が三号室の身体に発疹を見つける。梅毒だ。このままだと三号室本人も危険な状態らしい。もう、ここで働くことも不可能になってしまった。三号室は「おとうさま」から退職金をもらい、病院へ行ったらしいが、その後の行方を教えられることはなかった。
九月二十七日
「三号室が出産したんです」
「出産」
「水子ですけど」
「なぜ?」
「……大方、病気でも貰ってきたのでしょう。彼女は、この店で一番安かったですから」
「そうなのですか」
「安ければいいというものではないようですね。これには『おとうさま』も対策をするでしょう」
「子供、ですか……」
「あなたには、出産の概念はありますか」
「それが……よく、わからないのです」
「そうですか。私にもよくわかりません」
そんな会話を彼女と少し前にした。今日来た新しい三号室は、あまり笑わない人だった。前の七号室に似ていた。
十月三日
私とロボット、どこに違いがあるというのだろうか。名前も与えられず、毎日毎日身体を売る。私は、世間が言うロボットと何が違うというのだ。
十月十五日
ロボットと人間に違いなどほとんどないのではないだろうか。そんなことばかりこの頃考えている。〝彼女〟を見ていると、特にそう思えるのだ。くるくると表情を変えながら心底楽しそうに話をする彼女は、ここにいる人間よりも人間らしい。そのことを博士にお話すると、人工知能について詳しく教えてくださった。非常に難解である。とても一回の講義では理解できそうにない。将来、私も〝彼女〟を造れるだろうか。
十月二十三日
今日のお客様は全部で三人。博士は今日来ない。
七号室の娘が死んだ。薬をやっていたらしい。衰弱死だと五号室が教えてくれた。どうやら、角の店の者から薬を買っていたようだ。心の拠り所が薬しかなかったのだろうか。一言、相談してくれれば、少しは楽になったのかもしれないのに。とても、かなしいことだった。
十月三十日
「今造っているロボットがもうすぐ完成する。それを売ったお金で、君を買い取ろうと思っているんだ」
博士がそんなことを言いだしたのは、講義の最中であった。
「ど、どうしてですか」
「私は、見てわかるように、学会などに加入しているような正規の研究者ではない。研究内容も、政府の意図に反するものだ。だから仕方なく、隠れるように一人で研究を続けてきた。しかし、私の命はそんなに長くはないのだ。持って十年かそこらだろう。でも、どうしてもこの研究はやり遂げたいのだ。君は筋がいいし、私の弟子に……後継者になってほしい。そう思ってね」
博士は、弱々しく笑いながら、そう続けた。願ってもみなかった話に、思わず目眩がした。ここから出て、しかも本格的なロボットの研究ができるのだ。断る理由は見つからなかった。が、少しだけ、彼女の顔がちらついた。
十一月二日
あの人から手紙の返事が届く。約束の稲穂の写真が同封してあった。彼の住んでいるアパートのすぐ近くにライ麦の畑が広がっているらしい。彼は、何もない田舎で嫌になると手紙でボヤいていたが、とても綺麗で素晴らしい場所だと私は思う。その写真を折れないように鞄の中へしまった。
彼の手紙はこれで最後だろうな、と思いながら鞄を閉める。ここを出る日が、刻一刻と迫っていた。
十一月四日
ついに、私が博士に買われる前日となってしまった。この日記をこの部屋で書くのは最後になるだろう。
今日は「おとうさま」と〝彼女〟に最後の挨拶をしてきた。
最初に、明日の早朝、ここから出て行く旨を「おとうさま」に伝えると、彼はもう知っていたはずなのに、覚悟を決めたように頷いてみせ、
「そうか」
と一言呟き黙り込んでしまった。
「今までお世話になりました」
お辞儀をして立ち去ろうとしたとき「おとうさま」が口を開いた。
「長いこと、辛い思いをさせて、すまなかった。ここで働かせたこととか、お前の母親のこととか、お前に父親らしいことは全くできなかったが、お前は確かに、たったひとりの俺の娘だった。お前は俺を恨むだろう。いや、恨むべきだ。……今まで、本当にすまんかったなあ。いい人に買われてよかったじゃないか。達者に暮らせよ、ここのことなんか忘れるくらいに――」
「お、お父様……」
彼がそんなことを言うだなんて、私に謝罪をするだなんて、思いもしなかった。今日、この時だけ、初めて私たちは本当の親子になれたような、そんな気がした。
その後、その足で、私は彼女の部屋へ向かった。扉を開けると、大きなベッドに座っていた彼女がこちらに振り返る。反動で流れていく髪が美しいと思った。
「今日は、ここに来るのが随分と早いのですね」
何も知らないふりをして彼女は言うが、私が明日ここを去ることを本当は知っているのだろう。ぎこちない笑顔がそれを物語っていた。
「今日は、あなたに挨拶をしに来ました」
「……そうですか」
「私は明日ここを出ます。あなたを造った人に買われたのです。その人の助手と後継者になるために」
「そうなのですか…?それは、それはとてもいいことですね」
「それで、私とあなたはもう会うこともないでしょうから、最後にあなたへなにか贈り物を――」
「い、いらないです!」
いきなり大きな声を出されて、思わず固まってしまう。
「私は、それよりも欲しいものがあって……」
「何ですか」
「お、思い出を……」
彼女は大きな瞳に涙を溜めながら、私の服の裾をきゅっと掴んだ。
「思い出を、ください」
頬を真っ赤にさせ、今にも泣き出しそうな彼女の顔を見て、その言葉が何を意味しているのか理解する。紅潮した滑らかな頬に手を添えると、彼女の大きな瞳は閉じられ、真珠のように美しい大粒の涙が零れ落ちた。涙だ。彼女は涙を流したのだ。彼女は涙を流せるのだ。これのどこが機械であろうか。人間より、よっぽど感情的ではないか。手を顎にすべらせ、顔を近づける。暖かい肌に震える唇。人間と違うところなんてどこにもない。この娘が人間でないのなら、私だって人間ではない。
そんなことを考えながら、私は彼女の唇に、自分の唇を重ねた。ほんの数秒の接吻であった。いつも仕事でしているものとは違う、触れるだけの親愛の証。唇を離すと、彼女は両目からポロポロと涙を落とし、ほとんど泣きじゃくっているようだった。
「わたしっ……本当はあなたに行ってほしくなくて……ほっ、ほんとは、あなたはこんなところにいるべき人じゃないってわかっているのに、わたしは、行ってほしくないんです……!」
幼い子供のように泣きじゃくる彼女をそっと抱きしめると、すがりつくように私の背中へ手を回された。泣き声がいっそう大きくなる。
「……ありがとうございます、ありがとうございますっ…!一生の宝にしますから!」
しばらくして、彼女が落ち着いた頃に身体を離す。部屋を出ようとしたときに、呼び止められた。
「私ばっかりもらって、申し訳ないから」
そう言って彼女は私に着物を渡した。赤地に大きな華の模様が入った美しい着物だった。
「邪魔になるかもしれないけど、もらってください」
寂しそうに笑う彼女へ、せめてものお返し、と今羽織っていたショールを渡した。受け取った彼女は、また泣いているようだった。
「さよなら、ありがとう」
ドアを開けて外へ出る。しんと静まった薄暗い廊下に、彼女のものだった着物の赤が映えて美しい。それを見て、少し泣いた。
十一月五日
拝啓
お手紙ありがとうございました。
お願いした稲穂の写真、とても素敵でした。あなたはあまり気に入っていないようだけれど、私はとても気に入っています。いつか例の彼女を連れて、あなたのお家に遊びにいってみたいですね。叶わぬ夢ですが。
そういえば、前に手紙でお話した、私の先生である博士のこと、覚えていらっしゃいますか。この間、その博士があなたと同じ大学を出ていたと仰っていて、とても驚きました。とても有名な博士なので、名前を聞けばあなたも知っているはずです。言わなくてもわかってしまうかもしれませんね。
私はこの度、その博士に買い取られることになりました。だから、もうこの住所は使えないのです。新しい住所も教えることができません。博士は政府に追われる身なので、どうしてもお教えすることができないのですよ。……頭の良いあなたのことですから、もう誰だかわかっていることでしょう。
彼に買われ、助手として働いていく、なんて言ったら、あなたはきっといい顔をしないのでしょうね。犯罪に加担するだなんて!と叫ぶ正義感の強いあなたの顔が目に浮かびます。でも、私は、これ以上博士に辛い思いをさせたくないのです。
例の彼女に最後のお別れをした時、彼女は何と言ったと思いますか?彼女は私に言ったのです。「行かないでくれ」って。「連れて行って」とは言わなかったのです。彼女はあそこから出るという選択肢すらない。そんな、そんな〝道具〟をこれ以上博士に造らせたくないんです、私は……。
私の意見に賛成しろ、と言いたい訳ではありません。でも、少しだけ、私の思いをわかってくれたのなら、とても嬉しいです。
来世では、あなたともっと一緒にいれたらいいなと思います。
敬具
一号室から、愛をこめて