普通になりたかった
“普通”って、なんだろう。
小さい頃から、みんながそう言うから、それが正しいと思ってた。
お父さんとお母さんがいて、兄がいて。
男の人を好きになって、結婚して、子どもができる。
うちには父はいなくて、
母はいつも仕事で帰りが遅かった。
夕飯をひとりで食べる日も多かった。
だから私は、ずっと思っていた。
いつか自分は、“普通の家庭”を作るんだって。
それが普通。
それが、幸せなんだって。
頭ではわかっているのに。
私の“好き”は、普通と少し違ってた。
小学生のとき、沙耶ちゃんって子がいた。
髪の毛がいつもリボンで結ばれてて、笑うとえくぼが出る。
一緒に絵を描いたり、帰り道で手をつないだりしてるだけで、
なんだか胸がふわってした。
ある日、その子が別の女の子と並んで帰っているのを見て、
どうしようもなく胸がムカムカした。
その理由を、当時の私はうまく言葉にできなかった。
家で母に「私ね、沙耶ちゃんのこと大好き」って言ったら、
「いいお友だちがいるのね」って笑われた。
その瞬間、なんとなく分かった。
これは“お友だち”の好きとは違うんだって。
それから私は、普通になろうと思った。
男子を好きなふりをして、
女の子たちと笑い合うために、恋を演じた。
そんなふうに過ごしてきて、気づけば高校生になっていた。
新しい制服は少し窮屈で、
クラスのざわめきもまだ落ち着かない。
私はいつものように席に座り、
ノートの端に落書きをしていた。
そのとき、前の席の子が振り向いた。
明るい茶色の髪が、春の光を跳ね返す。
「ねえ、この絵、あなたが描いたの?」
机の端に置いたスケッチブックを覗きながら、
彼女――藤村結衣が、まっすぐに笑った。
たぶんあの瞬間からだ。
私の中で、何かがゆっくり動き出したのは。
⸻
数日後。
放課後の美術室は、絵の具と木の匂いが混ざっていた。
古い窓から入る光が、机の上の筆洗に反射して、
天井にゆらゆらと水の影をつくっている。
私はひとり、風景画の下描きをしていた。
鉛筆の線を追いながら集中しようとするけれど、
どこか心がそわそわして落ち着かない。
「やっぱりいた」
声を聞いた瞬間、胸が少し跳ねた。
振り向くと、ドアのところに彼女が立っている。
スケッチブックを抱えて、笑っていた。
「この前の絵、ずっと覚えてたんだ。
なんか、空気の感じが好きで」
そう言いながら、隣の机にスケッチブックを広げる。
描いているのは、花壇のチューリップ。
少し形はいびつだけど、色の塗り方がやさしい。
「……うまいね」
思わず本音が出た。
「ほんと? やった。
私ね、色を塗るとき、“その瞬間の空気”を塗るようにしてるんだ」
「空気?」
「うん。たとえば、風が吹いてるときとか、
夕方の光がオレンジに見えるときとか。
その“感じ”を残したくて」
筆先を見つめながら話す横顔は、
光の中で少しだけ透けて見えた。
――その瞬間、何かが胸の奥で静かに動いた。
恋とは思わない。
ただ、見ていたくなる。
話をしていたい。
そんな気持ちが、ゆっくりと形になり始めていた。




