第六話 空亡
1
―夜明け前の丹沢山中。
山の稜線が淡く金色に縁取られ、霧がゆっくりとほどけていく。
美維が長い髪を後ろで結び直しながら言う。
「お疲れ様。アタシらはここまで。撤収するね」
黒崎が深く息をつく。
「おう。助かった」
めぐが軽く会釈する。
「美維さん、真太郎さん。お疲れ様でした」
真太郎が照れくさそうに笑う。
「真太郎でいいですよ、めぐさん」
めぐは少し困ったように微笑む。
「先輩を呼び捨てはちょっと……。お疲れ様でした、真太郎君」
美維がふっと意味ありげに笑い、背を向ける。
「近いうちに、また会う予感がする」
黒崎が眉をひそめる。
「フラグ立てはやめてくれ。縁起でもねぇ」
美維と真太郎はGT-Rに乗り込み、山を下っていく。
三河がスーツケースを抱えて言う。
「僕はスーツを一旦本部に持って帰るっす! お疲れ様でした!」
黒崎が片手を上げて言う。
「お疲れ。――さて、オレらも帰るか」
「はい!」
二人はランドクルーザーに乗り込み、霧の残る山道を走り去った。
⸻
2
―翌日。
事務所の蛍光灯が静かに唸っている。
めぐはパソコンの画面を見つめながら、指でページをスクロールする。
―『立川市毒ガス漏洩事故』(200X年9月9日)』
この事故により、立川市曙町二丁目の全域が被害を受けた。
死者・行方不明者は12463人。
政府は「保管していた約2トンの医療用化学物質が原因」と発表。
発生した有毒ガスのため、発生源より半径二キロメートルが
七十二時間にわたり封鎖された。
汚染の為、被害者の遺体の大半が遺族へ返還されなかった。――
めぐが呟く。
「これが……空亡事件?」
背後から声。
「……それは、表向きの記事やな」
「わっ! また出た!」
めぐは驚きのあまり椅子を回し、慌てて頭を下げた。
「おはようございます、室長!」
佐伯はコーヒーの香りを嗅ぎながら、ゆるく笑う。
「おはよ。空亡事件か。めぐちゃんも“奴”に接触してもうたからには、説明せなあかんなぁ」
彼の視線がディスプレイへ戻る。
「十八年前、黒崎ちゃんの両親と慶蔵は、ここで働いとった」
めぐの瞳が揺れる。
「先輩の……ご両親?」
佐伯はディスプレイに映る記事をじっと見つめる。
「黒崎隼一、コードネーム
――ハヤブサ。
黒崎さやか、コードネーム
――アゲハ。
そして服部慶蔵、コードネーム
――ベンケイ。
この三人が、かつて“空亡”を追い詰めた。
ハヤブサの金剛銃で仕留めたはずやった。
けどな、アレは……また現れたんや」
―沈黙。
佐伯はゆっくりとめぐに背を向けた。
「――ここから先は、黒崎ちゃんに直接聞いた方がええ。今、屋上におるはずや」
めぐは唾を飲み込み、小さく頷いた。
「……はい」
⸻
3
恐る恐る屋上の扉を押し開けためぐの前で、
黒崎は手すりにもたれ、曇天の下でタバコをくゆらせていた。
煙が風に溶けていく。
「お、おはようございます、先輩」
黒崎は軽くアゴを上げただけで応じる。
「おお、おっす」
めぐは胸のあたりを押さえ、意を決したように近づいた
「あのぉ……十八年前の件、聞いてもいいですか?」
黒崎の視線が空から外れ、ゆるくめぐを捉える。
「ああ。お前もアレを見ちまったからな。さて、どこから話そうか……」
――
あの日は珍しく、「大きな仕事が片付いた」って、親父の方から食事に誘ってきたんだ。
オレはまだガキで、まさか両親と慶ちゃんが“バケモノ”を相手にしてるなんて、想像もしちゃいなかった。
立川にある拝蔵じいさんの馴染みの店で、
親父と母さん、爺さん、慶ちゃん、オレの五人で食事をした。
焼き魚とアルコールの匂い、湯気。
母さんが昔話をして笑った。
親父、慶ちゃん、爺さんもつられて笑った。
――あんなに笑ってる親父と母さん、あの時初めてみた。
食事が終わって、駅まで歩いてる途中だった。
北の空に、黒い雲が見えた。
形も、動きも、普通じゃなかった。
――――
風が止んだ。
街のざわめきも、車の音も、一瞬で消える。
ただ、耳鳴りのような低い音が、空の奥で鳴っている。
父・隼一が立ち止まり、空を見上げて言う。
「――まさか、空亡⁈ まだ還ってなかったのか!」
その瞬間、母・さやかの顔が変わる。
優しかった表情が、黒崎が見たこともない“戦士”の顔になる。
「拝蔵先生、すぐにハヤトを連れて逃げてください!」
さやかはそう叫んで、暗闇に向かう。
……そして、“闇”が降りてくる。
“闇”は辺りの人々を、まるで風に散る砂のように吸い込んでいく。
拝蔵が黒崎を抱えて風のように走る。
振り返った時、隼一とさやか、慶蔵の姿が“闇”に飲み込まれようとしていた。
“闇”に呑まれる寸前、慶蔵が叫ぶ。
「じいちゃん! ハヤトを連れてもっと遠くへ!!」
次の瞬間、街から音が消えた。
世界が息を止めたように、何も動かない。
拝蔵が呟く。
「あれが、“空亡”…」
黒崎が泣きながら叫ぶ。
「父さん!母さーん!慶ちゃーん!」
静寂のあと、そこに残っていたのは、人の気配が完全に消えた街だった。
――――
「情報は全て消された。動画も、ネットの書き込みも。“無かったこと”にされた。
結局、毒ガス漏洩事故として処理された…」
黒崎は曇天を見上げる。
「二日後、慶ちゃんが“ガス発生源”付近で見つかった。
オレと爺さんが搬送先の病院に駆けつけた時に見たのは、うわごとを呟くだけの慶ちゃんだった。
そして、その後――慶ちゃんは、消えた」
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4
「“空亡”のことを知ったのは、この仕事に就く直前だ」
黒崎の指先が、煙草の灰を落とす。
「オレが自衛隊の海外派遣任務で負傷して帰国した時、ここに呼び出された。そして、佐伯室長に言われた。
『君、父親の跡、継がへんか?』って。
最初は何のことかわからなかった。
けどそこで初めて聞かされたんだ。――両親と、慶ちゃんがやっていた“仕事”のことを。
オレはその場で特事室に入ることに決めた。
そして本部での訓練を経て、ここに配属された。
訓練で同期だった美維と共に。……それが、五年前のことだ。
“空亡”は、もう二度と姿を見せないんじゃないかとも思っていた。……昨日までは。
慶ちゃんだけ一度は戻ってきた。
オレの両親も、まだあの“闇”の奥に囚われているんじゃないかと、オレは思ってる。
居るならば、取り戻す。
居なくても、せめてその魂だけは
──解放したい」
⸻
5
めぐが、おそるおそる口を開く。
「…慶蔵さんはどんな方なんですか?」
黒崎はしばらく黙っていた。
思い出が胸の奥から滲み出すまで、言葉を選ぶように。
「慶ちゃんはオレが物心ついた頃から一緒に暮らしてた。
八つ年上で、身体がデカくて“弁慶”って呼ばれてた。
オレの両親は忙しくて、たまにしか会えなかった。
けど、慶ちゃんと爺さんがいたから寂しくはなかった」
懐かしむような口調。
その裏に、取り戻せない時間への痛みが微かに混じる。
「慶ちゃんはいつも大声で笑ってた。
怒ると怖いところもあったけど、滅多な事では怒らなかった。
とにかく優しくて、強くて、オレのヒーローだった。
オレも、慶ちゃんみたいになりてぇって思ってた……」
黒崎の手が、何かを掴むように動き、手のひらを見つめる。
めぐの目に、涙が一気に溜まる。
「うわ〜ん! 先輩辛かったでしょうね! うわ〜ん!」
「なんでお前が泣いてんだよ!」
「うわ〜ん! 先輩! 私、もっと強くなりたい! 美維さんや真太郎君みたいに!」
「あいつらは特別だよ。
でも、お前はお前だ。“自分”を超えろ。
――お前が頑張ってるのは、オレはよく知ってる。
今朝だってトレーニングしてただろ?
オレは、そういう頑張ってる奴……嫌いじゃねぇ…」
めぐは涙を拭きながら、少し笑う。
「……はい。私も、先輩がごくたま〜に見せる優しいとこ、嫌いじゃねぇ、です」
黒崎、照れながら目を逸らす。
「はっ。やめろ、気持ち悪ぃ」
めぐ、ふっと笑う。
「先輩! スパーリング、おなしゃす!」
遠くで雲が揺れている。
黒崎も微笑む。
「おお、望むところだ」
その瞬間、曇天を割るように、陽の光が差し込んだ。





