第三話 相伝
1
六月。
午前中の特事室事務所では、黒崎とめぐが溜まった報告書と格闘していた。
黒崎が頭を掻きむしる。
「あーもう!なんで報告書なんか書かなきゃなんねぇんだよ…めんどくせぇ」
めぐもげんなりした顔でペンを止めた。
「…まだまだありますよ。そういえば先輩、化け猫倒した時、すごい動きしてましたよね。動画にも残ってましたけど…どうやって動いてたんですか?」
「見てたのかよ。あんま覚えてねぇけど…無意識に“玄武流”が出たのかもな」
めぐが首を傾げる。
「げんぶりゅう?」
「昔、親父と師匠に無理やり叩き込まれた、忍術と武術のハイブリッドみたいなもんだ」
めぐの目が一気に輝いた。
「忍術⁈ 先輩! 私にも教えてくださいよ!」
「かったりぃなぁ…けど、一回、師匠んとこ行ってみっか?」
「ぜひ!」
黒崎が佐伯のほうへ顔を向ける。
「室長、午後外出しますけど、いいですか?」
佐伯はコーヒーの香りを楽しみながら頷いた。
「ん?怪異報告は何も来てへんから、ええよ」
⸻
一階のガレージ。
そこに鎮座しているのはミッドナイトブルーのS30型フェアレディZ。ナンバー『横浜33Xて 88-23』。
黒崎が顎をしゃくった。
「こいつで行く」
「クラシックカーですか?」
めぐが目を丸くする。
黒崎は陶酔したようにボディを撫で回した。
「憧れだったんだ、“悪魔のZ”。中はかなりいじったんだぜ。見ろ、この流れるようなフォルム。美しいだろ?」
めぐは苦笑いを浮かべる。
「私、車のことはちょっと…」
黒崎は呆れたようにため息をついた。
「ったく…『湾岸ミッドナイト』ぐらい読んどけよ。…乗れ」
「は〜い。…ドア重っ!」
キーが回り、エンジンが唸りを上げる。
重低音がガレージの空気を震わせ、めぐの髪がふわりと浮いた。
⸻
フェアレディZは唸り声を上げ、秩父方面へと走る。
黒崎が前方を見ながらつぶやく。
「爺さんの引きこもった家、この辺りなんだよなぁ。爺さんつっても血の繋がりはないんだけどな」
「どんな人なんですか?」
「会ったら一発でわかる…」
車は木々の奥に佇む古びた平屋の前で止まった。
「ここだ」
二人は車を降りる。
黒崎は辺りを見回し、静かに言う。
「気を抜くなよ…」
めぐは首を傾げた。
「え?」
その瞬間、影が音もなく舞い降り、黒崎に高速のカンチョーを繰り出した。
「痛った!」
「わっ!」
黒崎は尻を押さえたまま叫ぶ。
「やっぱまだ生きてたか、爺さん!」
影──爺さんはゲラゲラ笑った。
「ハハハっ。ハヤト、お前もまだまだだな」
五十代にしか見えない痩せ型の男。
白髪混じりの蓬髪、ダボダボの『NIRVANA』Tシャツに破れたジーンズ。
黒崎が呆れた声を漏らした。
「『NIRVANA』って…爺さん、あんたもう涅槃に片足突っ込んでんだろ!」
爺さんはにやりと笑う。
「ハヤト、久しぶりだな」
めぐが黒崎を見る。
「この人が?」
「ああ。オレと親父の師匠。ああ見えて九十歳超えてるんだ…。痛てて…」
「今年で九十八だ」
「嘘⁈」
黒崎が紹介する。
「服部拝蔵。忍者の末裔だ」
拝蔵は胸を張る。
「拙者、服部拝蔵、只今参上!ニンニン!」
めぐの顔がぱっと明るくなった。
「ハットリくんだ!」
黒崎が振り返る。
「知ってんのかよ⁈」
「父が好きだったので!」
拝蔵は小指を立てながら、いやらしくニヤついた。
「ハヤト、可愛い子連れてるな。コレか?」
「ちげぇわ! こいつが玄武流教えてほしいって言うから連れて来たんだよ!」
めぐは慌てて姿勢を正した。
「はじめまして! 大鈴めぐです! 黒崎先輩の部下で、まだ駆け出しですが、よろしくお願いします!」
拝蔵は腰を突き出しながらにやにや。
「そうかそうか。…で、やったの?」
「やってねーよ…」
「やってません!」
二人の声がぴたりと重なった。
黒崎がため息をつく。
「爺さん、『コンプライアンス』って知ってるか?」
「何それ?フランス料理?」
めぐが小声でつぶやく。
「なんなのこの人…」
「相変わらずだな…」
拝蔵は茶化すように言う。
「で、なんだ?玄武流をその嬢ちゃんに教えるために “昔の師匠に会いに来たでござる の巻” ってか?」
「またハットリくんだ!」
黒崎は苦笑しつつ肩をすくめた。
「オレが教えるより、爺さんに見てもらった方が早いと思ってな」
「そうか、上がりな」
三人は家の奥へと進んでいった。
⸻
2
道場に入ると、拝蔵があぐらをかき、めぐを見上げた。
「で、嬢ちゃん、何覚えたい?」
「水の上歩くやつ!」
「それ、甲賀」
「えっ⁈流派が違うんですか?」
「オイラは伊賀の系譜の玄武流。“沈まず、流されず、揺るがず”がモットーだ」
めぐの顔に感嘆が浮かぶ。
「…なんだかカッコいいですね!」
「だろ? でも地味なんだよなあ」
黒崎が口を挟む。
「爺さん、とりあえず、こいつには“基礎”を教えてやってほしい」
「基礎ねぇ…最近の若ぇのは“バエる技”ばっか好むからなあ」
「え、バエるのも嫌いじゃないです!」
「うん、正直でよろしい! でもな、強ぇやつは地味なことを腐るほどやってんのよ」
黒崎は遠い目をした。
「オレも昔、“歩き方”だけで一年しごかれた…」
「歩き方で!?」
拝蔵が真剣な声になる。
「そう。地面の踏み方ひとつで勝負が決まることもある。嬢ちゃん、まずは“立つ”ところからだ。この構えを真似しな」
めぐは戸惑いながらも構えを真似した。
「もう少し腰を落として、背筋を真っ直ぐに…そう。その姿勢で一時間な」
「ええ⁈」
拝蔵は立ち上がり、黒崎の方へ向き直る。
「ハヤト、嬢ちゃん待ってる間に、久しぶりに手合わせしてみるか?」
真剣な眼差しで一歩踏み込む。
「かかって来い…」
黒崎の口角が上がった。
「爺さん、オレも昔のままじゃねぇぞ…」
構えを取り、つぶやく。
「行く…」
黒崎が素早く攻撃を繰り出す。しかし拝蔵はすべてを寸前でかわしていく。
その指先が黒崎の眉間、人中、顎、水月へ、軽く触れた。
「くっ…!」
拝蔵は耳元で低く囁く。
「ハヤト…。フォースを使え…」
黒崎は一瞬ぽかんとした。
「…は? オレはジェダイじゃねぇ!」
「ならば“感覚”を使え。忘れちまったか? 散々教えただろ。力じゃない。流れを読め…」
黒崎は深く息を吸い、静かに拳を構え直す。
空気の揺らぎが、指先に確かに伝わった。
さっきまでより力が抜け、それでいて鋭さが増す。
拝蔵の髪が風に揺れた。
「少しは覚えていたようだな。だが──」
彼は低くつぶやく。
「そんなんじゃ“慶蔵”は超えられんぞ…」
めぐは小さくつぶやいた。
(けいぞう?)
黒崎の視線が鋭くなる。
(慶ちゃん…)
黒崎は“半眼”になり、もう一度踏み込んだ。
拝蔵はその動きを見て微笑む。
「それだ…」
⸻
3
やがて黒崎が道場にばったりと倒れ込む。
拝蔵は平然とその身体をひょいと飛び越え、めぐへと歩いていった。
「うん、筋がいいな。膝と腰に力が入りすぎてない」
めぐは汗を滴らせ、震える脚を抱える。
「太ももと、ふくらはぎがパンパンです…」
「時間だ。休んでいいぞ。…めぐ、だったな? 嬢ちゃん、素質がある。ハヤト以上だな」
めぐは座り込みながら目を丸くした。
「えっ?ほんとですか〜?」
拝蔵が顎をさする。
「社交辞令は好かん。何かやってたか?」
めぐは照れながら答えた。
「新体操を。一応、国体にも…」
「そうか、なるほど。子供が出来たら連れといで。ウチで育ててやろう。オイラの跡取りにする!」
黒崎が寝転んだまま呻く。
「また出たよ…」
「まだ早いですよ!」
拝蔵はケラケラ笑う。
「へっ、冗談だ。ま、基礎だけはキッチリ教えてやる。帰ったら繰り返しやんな」
「はい!」
黒崎はのそりと起き上がり、タバコを取り出しながら道場を出る。
「はぁ、一服してくる」
めぐはそっと拝蔵に近づいた。
「…師匠、先輩ってどんな子供だったんですか?」
「ん? ハヤトか。奴の両親は仕事で忙しかったからな。オムツが取れた頃からオイラと一緒に暮らしてたんだ」
「そんな頃から…」
「泣き虫だったが、よく笑う子だったよ。鍛錬の時はベソかきながらも一生懸命やってたなあ」
めぐはにやりとした。
「先輩が泣き虫!弱点、さらに見っけ!」
拝蔵の表情がふっと曇る。
「…『アレ』が起こるまではなぁ…」
「アレ?」
その時、襖が開き、黒崎が戻ってきた。
「爺さん、あんま余計な事は言わないでくれよ…」
拝蔵は軽く肩をすくめた。
「…すまん。さ、嬢ちゃん、さっきの続きだ」
めぐはいくつかの姿勢を拝蔵から教わっていく。
「…あとは心の持ちようだ。“倒す”こと考えるな。“立つ”ことだけ考えろ。
沈まず、流されず、揺るがず──立ち続ける奴には、負けは来ねぇ」
「立ち続ける…はいっ!」
「基礎以外はハヤトから教わんな。オイラから見ればまだまだヒヨッコだが、まあ、できる方だ」
「わかりました!師匠!」
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4
フェアレディZに乗り込む二人。
黒崎は疲れ果てた表情でハンドルを握った。
「爺さん、邪魔した。達者でな」
めぐは助手席からちょこんと頭を出す。
「師匠!ありがとうございました!」
「おう、またいつでも来いよ!」
フェアレディZは爆音を響かせて走り去っていく。
拝蔵は車が見えなくなるまで手を振り続けた。
タバコに火をつけ、ゆっくりと煙を吐く。
「ふう…長生きしてぇなぁ。十年後、ハヤトとあの嬢ちゃんがどんな風になってるか、見てぇもん…」
彼はしばらく煙を眺めた後、タバコの箱を静かに握り潰した。
「……タバコやめよ」




