序章〜隼と雀蜂〜
―九月の夜。
雨上がりの湿った風が、ネオン街の残り香を押し流していく深夜の池袋。
街の喧騒から外れた、地図にない廃ビルの前で、ハイエースから二つの影が姿を現した。
長身の男が空を仰ぐ。
「ふぅ、嫌な風だな」
隣の小柄な女が男を冷めた目で見上げた。
「パイセン、疲れてます? 顔に全部出てますよ」
月明かりを背に、二人はゆっくり歩き出す。
長身の男。黒崎隼(30)。
漆黒の戦闘スーツをまとい、“高僧”の僧衣を編み込んだ深紫のグローブ“紫煙”を両手に。
腰には“鬼の牙”を加工したナイフ“酒呑之牙”。
ホルスターにはコルト・アナコンダに呪術的改造を施した“金剛銃”。
コードネーム――ファルコン。
隣を歩くのは、大鈴めぐ(24)。
濃紺の軽装甲スーツに、呪符のストラップが揺れる。
コードネーム――ホーネット。
⸻
三河の声が無線にノイズ混じりで流れた。
『上階、動きました。三体…“雑鬼”っすね』
黒崎が肩をまわし、スーツの関節が軋む。
「かったりぃな。2日連続かよ」
めぐが軽く笑う。
「さっさと終わらせましょう、ファルコンパイセン」
「へいへい…」
⸻
ビルに入った瞬間、天井が破れ、瘴気まみれの影が落ちてきた。
赤く吊り上がった目。爛れた皮膚。額の一本角。
腐臭を撒き散らしながら、三体の“雑鬼”が咆哮を上げる。
黒崎の口角がわずかに上がる。
「……来たな」
雑鬼たちは黒い腐液を弾丸のようにめぐへ吐きつける。
めぐは蝶のように身をひらりと捻った。
指先の札が鋭く光を帯びる。
「――封ッ!」
光をまとった札が空間を縫い、一体の額へ突き刺さる。
動きがピタリと止まった。
黒崎が無線へ向け顎を軽く動かした。
「三河、三体。Aランク下位。削除対象じゃねぇな」
『そっすね。監視続行で』
「ったく、こういうザコが一番めんどくせぇ…」
めぐが横目で睨む。
「文句より先に働いてください、ファルコン」
「はいはい…」
黒崎の膝が沈み、脚部補助が軋んだ。
右手の“酒呑之牙”が月光を吸う。
雑鬼二体が同時に襲いかかる。
「吽ッ!」
刃が一体の喉を切り裂き、影が霧散。
続けざまの蹴りがもう一体を壁へ叩きつける。
「ホーネット!」
めぐは素早く札を構えた。
「滅ッ――!」
閃光。しかし札が歪み、抜け落ちる。
「え!? “滅”が効かない!?」
動きを封じられていた雑鬼が札を引き抜き、再び蠢き始めた。
二体が融合し、肉が膨れ、角が無数に生え始める。
雑鬼だった“モノ”が低く唸る。
「轟――」
めぐの顔が強張る。
「嘘…!?」
三河の声が跳ね上がった。
『対象ランク上昇! 猛鬼! A+! 削除対象!』
黒崎はすでに踏み込んでいた。
“牙”が猛鬼の腕を断つ。
だが、肉は瞬時に再生する。
猛鬼の拳が迫る。
黒崎は両腕で受け流し、衝撃を殺しながら後方へ跳ぶ。
「三河! “銃”使う! ロック解除申請!」
無線から佐伯室長の声。
『聞こえとるよ――承認』
ガコン、と鈍い音を立て、金剛銃のロックが解除された。
黒崎が静かに目を閉じる。
静寂。
黒崎が低く呟く。
「南無大師遍照金剛――」
銃口前に胎蔵界曼荼羅が浮かび上がる。
引き金が引かれた瞬間、世界が震えた。
轟音。
爆ぜる光。
黒崎の右腕が軋み、ブーツが床を削る。
弾丸は曼陀羅を貫き、猛鬼の胸を撃ち抜いた。
閃光。
巨体が煙のように闇へ溶けた。
夜が戻った。
⸻
めぐが肩を上下させる。
「…やっぱり金剛銃、化け物みたいですね」
黒崎は右肩を揉みながらめぐを見やった。
「それより、お前の“封”、前よりキレてたじゃねぇか」
「毎晩残業で練習してますから」
「真面目すぎんだよ。ちゃんと寝てるか?」
「不真面目な人に合わせてたら、寿命が縮みますよ」
黒崎はふっと笑う。
「でも睡眠は大事なんだぜ」
「パイセン。いっつも事務所で寝てますもんねぇ」
⸻
遠くでサイレンが鳴る。
黒崎がセブンスターを取り出した瞬間、めぐが携帯灰皿を突き出した。
「マナーは守ってくださいね、パイセン」
「へいへい」
煙が夜空へ流れていく。
「大鈴……最近この辺、妙な事案が多いな」
「佐伯室長も言ってました。“流れ”が変わってるって」
「室長がそう感じるなら……笑えねぇな
(…空亡も近いのか…)」
⸻
ビルの出口へ向かう二人。
車のライトが差し込み、三河の声が弾む。
『おつかれさまでーす! お迎え完了っすよー!』
黒崎があくびをかみ殺す。
「バックアップご苦労、三河屋」
めぐが肩をすくめる。
「毎度助かってますよ」
黒崎は携帯灰皿にタバコを押し込んだ。
「あいついなきゃ帰りは徒歩だ」
無線の向こうで佐伯が笑う。
『黒崎ちゃん、めぐちゃん。お疲れさん。
報告書、明日までになぁ。
ついでに三河ちゃんの請求書もまとめといてなぁ』
二人の声が重なった。
「かったりぃ…」
夜風が吹き、煙の匂いを攫っていく。
その頃――
上空の闇よりもなお暗い“影”が、二人を見下ろし、音もなく夜へ溶けていった…。




