1.星朧は吉兆を示すか
リーリヤが浅い眠りから目を覚ますと心地よい暗闇が広がっていた。
小さな窓に付けられた分厚いカーテンは閉め切られ、日の光を遮っている。そもそも窓を開けることなどないので今日が晴れているのか曇っているのかもわからない。音がしないから雨は降っていないはずだ。
明かりは付いていない。部屋の片隅にはランプの形をした器具があるが単純に使い方を知らなかった。おそらくこれが魔具というやつだろう。森にいたときは明かりも火も妖精に頼っていたので縁がなかった。それにぼんやりと朧気に周囲の輪郭を浮かび上がらせる薄闇が落ち着くのでわざわざ明かりを付けるつもりもない。
この狭い箱のような部屋での暮らしも大分慣れてきた。
外に出ることもなく、日がな一日ぬるま湯のような暗闇に包まれて物思いに耽るのも案外悪くないとリーリヤは思う。自身の体温から移ったぬくもりを宿す毛布を口元まで引っ張って身体を丸める。
最初はこの黒い闇が怖かった。魔女としての大切な儀式を失敗し、育ての師から拒絶され、幼い頃から住み慣れた森を追い払われた。自分がわからなくなり、どうしていいのかもわからず、とにかく孤独を強く感じていた。自分以外誰もいないこの暗い空間は、より一層自らの惨めさを深めてくる。
何日もの間、リーリヤは後悔に苛まれた。もっと上手くできなかったのか、あのとき村の人を見捨てていればよかったのか、それとも・・・。考えれば考えるほど答えはわからず、孤独を感じながら自分を責める。辛くて苦しい時間だった。
しかし、不思議なもので何度も何度も同じことをぐるぐると考えているとやがて自分の中で激しく揺らいでいた感情が少しだけ落ち着いていくのがわかった。嘆き、悲しみ、怒り、怯え、焦り、不安、孤独。およそ負の感情と呼ばれるものが少しずつ少しずつ心を突き刺すトゲが丸くなっていく。
この暗闇に包まれた部屋に一人で籠もっているだけで、何一つ事態は解決していないし、自分が置かれているこの状況も碌に理解していない。
それでもリーリヤの心にはゆとりが生まれ始めていた。
よく考えてみれば自分が棲んでいた森も深い緑で日が遮られてそんなに明るくはなかった。気付いてみれば部屋に満ちる薄暗さも慣れ親しんだ感覚に思えてくる。
そこからは安らかな微睡みに意識を任せる毎日だった。
ああ、願わくばこの平穏がずっと続けばいいのにとリーリヤは思う。例えこれが現実からの惨めな逃避であったとしても、今だけは許して欲しい。
そうでなければリーリヤはきっとこの世のあらゆる全てを呪ってしまうだろう。
「あー、やっと終わった」
まだまだ冷える夜風に身体を震わしてアルマスは工房の鍵を閉める。
既に空は宵闇に染まっている。
アルマスの工房は湖畔都市フルクートの東部にある職人街区の端も端、街灯すら疎らにしか立っていない街の外れにある。日が沈んでしばらくすれば周辺はもう真っ暗闇だ。昼間のごとく眩い中央区とは同じ都市にあるとは思えないくらいに違った。
小高い丘の上に位置する中央区の明かりを遠目に見ながらアルマスは帰路につく。
のしかかった疲れを振り払うように身体を伸ばせばパキパキと小気味の良い音が鳴った。
遠い辺境の地で行われた魔女の儀式が終わってから―――あれを『終えた』と言って良いのかわからないが―――とにかく儀式が終わり、アルマスが拠点を置いているフルクートに戻ってからもう7日経過した。
ここ最近はとにかくやることが多くて工房に籠もりきりになる日々だった。それもそのはず、わざわざ辺境の地に行って帰るのに1か月も要したのだ。アルマス一人しか居ないこの錬金工房に来る仕事を代わりに処理してくれる人なんているはずもなく、長旅で疲れたところを『元気が出まくる魔法薬』を胃に流し込んで気力で積み上がった仕事をやっつけたのが今さっきだ。
おかげでもうくたくたである。
やはり旅の最後がとどめだった気がする。儀式のあれこれで精神的に参ってしまい、その上で人慣れしておらずうじゃうじゃ人が行き交う街に圧倒され、完全に固まって動きを止めたリーリヤを背負ってフルクートまで運ぶ羽目になったのだ。道中は馬車や舟を使っていたとはいえ、人一人背負って旅をするのはさすがにこたえた。
「とりあえず夕飯どうするかな」
商業区に寄って適当な物を調達して行くことにする。
疲れすぎて逆に腹は空いていないのだが食べないわけにもいかない。面倒だからと食事を抜いてしまうと『元気が出まくる魔法薬』の反動でひどいことになるのだ。たった一晩でげっそりとやせ細り、何か大病に患ったのではないかと勘ぐられるほどなので無理矢理でも腹に食べ物を詰め込むことにしている。
今の時間なら屋台も多く出ており、何かしらアルマスの食欲を刺激する物も売っているだろう。
なんとなく店に入る気分ではなかったアルマスは、今晩は屋台で買い食いすることに決めて歩き出す。
「あれ?」
寂れた工房付近からようやく職人街区と呼べる区画あたりまで来たところで、ぽつんとある街灯の下にアルマスは見知った顔を見つけた。
「なんだ、お前帰って来てたのか」
不機嫌そうに眉を顰めてアルマスを見やるのは40歳半ばほどの中年の男。くたびれた茶色いコートを羽織り、街灯にもたれて煙草の煙を燻らせる姿は無駄に渋さを感じさせる。
「親方じゃないですか。お久しぶり。けど、ちょっとわざとらしいですよ」
「あん?何がだよ。後、親方って呼ぶんじゃねぇ」
柄の悪い口調と低く唸るような声色は初めて聞く者であれば萎縮させること間違いないが、アルマスは気にした様子もなく親しげに会話を続ける。
「だって昼間会ったでしょ。それに昨日も一昨日も見かけたし」
もちろんアルマスも忙しかったので挨拶や会話をしたわけではないが、同じく仕事に励んでいたはずのこの男がアルマスを視界に捉えてちらちらと気にしたように見ていたのくらいわかっている。
「・・・」
しかし、男の方はアルマスがそこまで把握しているとは思わなかったらしい。わざとらしくそっぽを向いて煙草を吸っている。
それと、とアルマスは続ける。
「煙草は良くないですよ。身体にも良くないけど、それ以上に錬金術に影響がある。些細な要因であろうとも不必要なリスクは排除するのが鉄則です」
煙草がもたらす煙や臭いが服に残るだけでも、繊細で複雑な錬金術においては時に重大な事故に繋がりうる。親方という役職につくこの街有数の錬金術師であるこの男がそれを理解していないわけがない。
それに煙草は随分昔に止めたとアルマスは聞いていたのだがどうやらそれは誤った情報だったらしい。
「んなことわかってる。普段は吸わねぇ。けど、吸いたくなるときだってあんのさ、大人にはな」
暗にアルマスのことを子ども扱いしてくるのは昔から変わらない一面だ。だがアルマスももう既に22だ。まだまだ青臭いと言われるかもしれないが、それでも年齢的にはいっぱしの大人の一員である。
「まあ、大した理由じゃないことだけはわかりますよ。大人ですからね、俺も」
どうせ奥さんに怒られたとか、仕事で躓いてるとか、その程度のことだろう。
「ったく。めんどくせぇ奴になりやがって」
男は悪態をつくと律儀に携帯していた灰皿で煙草をもみ消す。
「で、こんなところで何してるんです、親方。いくらなんでもこんなところで用もなくフラフラするほど暇じゃないでしょ」
「ふん。お前の知ったことじゃないだろ。それより、親方って呼ぶなって言ってんだろ。お前にそう言われる筋合いはない」
「はいはい。じゃ、エドのおやっさん」
どうにも癖のあるこの男の名はエドヴァルド・テラスラ。フルクートでは名が知られている錬金術師であり、金属錬成においては周辺都市含めても五指に入る腕前と評判だ。
結局、エドヴァルドがどうしてこの寒空の下で一人突っ立っているのかは教えてくれなかったが、その答えはすぐにやってきた。
「お~い、親方。買ってきましたよ~」
ぞんざいな敬語に緩い雰囲気の女性が両腕に袋を抱えてやってきたのだ。茶色い髪の毛をさらりと短く切りまとめた若い女性だ。
彼女はエドヴァルドの横に立っているアルマスに気付くと朗らかに笑いかけてきた。
「アルマス君もいたんだ。こんばんは」
「こんばんは、マイラさん。今日は星見ですか?」
アルマスの視線は彼女が手に持つ袋ではなく、彼女の細い体型には不釣り合いなほど膨れあがった背中のリュックに向いていた。ぱんぱんに詰め込まれたリュックは今にもはち切れそうで、とてもではないが女性が気軽に持ち運べる量ではない。見た目と違ってマイラが実は怪力、などというわけではなくただ単に『入れると重さが軽くなるリュック』を使っているだけだろう。
注目するべきはそこではなく、リュックからはみ出ている大きな望遠鏡であった。
「そうそう。これで夜空を見るんだよ」
「今の時期だと、春の星ラミリエシーですね。それにしてもそれ使って観測するなんてよほどの大仕事ですか」
ラミリエシーとは春の季節に東の空に淡く黄色に輝く星だ。エドヴァルドとマイラはこれからその星を観測しに街の外縁まで行くという。
錬金術と天体観測は無関係にも思えるが、実は重要な繋がりがある。
正確には星というよりも、遙か空高くを流れる魔力の流れを観測するのだ。通常魔力は人の目で見ることは適わないものだが、大気の魔力の量や質、速度によって特定の星の光度や見え方に影響を与えることが知られている。錬金術の流派によっては星の観測を基礎として叩き込んでいるところさえある。
複雑で難解な錬金術ほど天候、気温、大気の魔力といった素材以外の要素が絡んでくる。どの要素がどう変化すれば錬成時にどんな影響がでるかという知識や経験はその流派や一族におけるかけがえのない財産でもある。
とは言っても日常生活で関わるような錬金術にそこまでの精度を求めることは少ないので高位の錬金術師がたまに用いる手段だ。
「いやいや、これが仕事じゃないんだよね。親方の趣味というか、健気な努力というか」
「おい、マイラ。余計なこと言うんじゃねぇ。ったく、こいつは口ばかり無駄に動かしやがって」
「むっ。わざわざ手伝ってあげてるのにそんなこと言う?こんな大きな荷物運んで、下準備だって全部私がしてるのに」
マイラは頬を膨らませるとエドヴァルドを不機嫌そうに睨み付けるが当の本人にはまったく効いていないようだった。
「手伝ってくれなんて言ってないだろ。後、敬語使え、敬語。親方への礼儀がなってねぇぞ」
「ふん。はいはい、わかりましたよ。まったく、こんな寒いのに今日に限ってなんで外で観測するなんて言い始めるんですかね。付き合う方はいい迷惑ですよ」
「こっちの方が街灯少ないからだ。その分暗くて見えやすい。言わなくてもわかるだろうが」
「いつもは工房の中庭じゃん」
「敬語にしろ」
アルマスの前で喧嘩を始める二人。しかし、アルマスは仲裁をしたりなどしない。なにせ、この二人はいつもこうなのだ。
「そんなことより夕飯は買ってきたのか」
「・・・ほら、『太陽の恵み亭』のパン。焼きたて、ではないですけどそこまで文句は言わないでくださいよ。ちょっとごたごたがあったんですから」
彼女はまだ文句を言い足りない様子ではあったがしぶしぶと引き下がる。そして、手に持っていた袋を親方に手渡した。
そこには様々なパンが入っていた。丸く柔らかそうなパンから、燻製した鮭や野菜が挟んであるものだったり、ライ麦を混ぜた黒っぽいパンにゆで卵やチーズを入れたものなど。焼きたてではないとは言うがほんのりと香ばしく漂う匂いはなんとも美味しそうだ。こうして食べ物を前にすると腹なんて減っていなかったはずなのに急に食欲が湧いてくる。
「なんだ、マイラ。いくらなんでもちょっと量が多いだろ。買いすぎだ」
エドヴァルドが袋の中を確認しながら眉を上げた。
「えぇ!?だって、これは親方が長丁場だから夜食分もあわせて買ってこいって・・・」
「中止だ」
「へぇ?」
「今日は帰るぞ」
言いながらエドヴァルドは既に歩き始めている。
感情的にも物理的にも置いてけぼりになったのはマイラだ。
「ちょ、ちょ、ちょっと待って!え?中止って星の観測を?なんで!?」
「ああ、そうだ。こんなにあってもオレ達だけじゃ食い切れねぇ。お前、ちょうどいいから食うの手伝え」
エドヴァルドは足を止めると振り返りながらパンを2つほどアルマスに投げてよこした。
「どうも。くれるなら貰っときますよ。でも、いいんですか。観測せずに帰っちゃって。マイラさんの言うとおりわざわざ準備してここまで来たのに」
「そうそう。いくらなんでもひどすぎる。ちゃんと説明して、そして、なにより私に謝って!」
「だから敬語って、もういいや、めんどくせぇ。いいんだよ、今回はもうそれどころじゃないからな。やっぱここからでも空気が濁ってやがる」
アルマスも夜空を仰いでみる。
そもそもアルマスは星の観測をして影響を測れるほどにこの土地に来て時間が立っていない。彼らのように古くから続く工房を継いでいるわけでもないので、現状のアルマスには星の観測なんてただ綺麗だという感想しか出てこない。
当然、エドヴァルドの言う『濁り』なんてわからなかった。長年この街で星を見続けてきたが故の判断なのだろう。
「おい、さっさと帰るぞ。面倒事に巻き込まれるのはごめんだからな」
「ああ、もう。仕方ない人だなぁ。アルマス君も一緒に行こ。リンゴーン区まで帰るんだよね」
エドヴァルドの傍若無人な振る舞いには慣れたものなのか、マイラは諦めたように肩を落とした。そして、おそらくは道中の愚痴を吐き出す相手としてマイラはアルマスを誘う。確かに街の西部方面にある市街地の一つリンゴーン区であれば、彼らとともに職人街区の中心に向かっていく進路で間違いはない。
「残念ですけど、俺はこっちの方向です」
アルマスがエドヴァルド達とは違う方向を指さすとマイラは首を傾げる。
「あれ?」
「つい最近、引っ越したんですよ」
一瞬怪訝な表情をしたマイラではあったがすぐに納得の表情を見せる。
「ああ、なるほどね。だからここしばらく忙しそうにしてたんだ。いやぁ、しょっちゅう工房に顔出してたのに急に来なくなったから、なにかあったのかと思ってたけどそういうことだったんだね」
街に戻ってから対応していた急ぎの用件のうちの一つがこの引っ越しだ。もともと持っている荷物は少ないのだが急遽居候先を変更する必要性があったので慌ただしかったのだ。
エドヴァルドの方はすでにアルマスの引っ越しのことは知っていたのか特に反応はなかった。彼の場合、情報源が情報源のため知っていても何らおかしくはない。
相変わらず仲の良いことで、とアルマスは内心思う。
「何?心境の変化でもあったの?トビアスさんと大喧嘩でもしちゃった?なんならお姉さんが取り持ってあげようか」
「そんなんじゃありませんよ。単純にスペースの問題です。俺の居場所がなくなっただけなんでそんなに気にしないでください」
「ふーん?よくわかんないけど困ってるんだったら相談してね」
曖昧な表現に逃げたことでマイラは腑に落ちない様子だったがこれは言葉にするのは少し面倒な部類だ。申し訳ないがこのままこの話題は終わらせる。
「今は商業区よりの住宅街にいますよ。グス区ですね」
商業区は主に湖に面している街の北部方面にある。そのため、アルマスの新しい住処は位置的に北西部あたりといったところか。
「これまた遠いね。前から思ってたけど工房には住まないの?立派なお屋敷付いてるじゃない―――、っとと、ごめんね。話し込んじゃった。親方も大分機嫌悪そうだから今日はここまでね」
さすがお喋り好きな女性としてエドヴァルドから目を付けられるだけはあるマイラだ。このままアルマスから根掘り葉掘り話を聞き出そうとしていたが、あいにく今日はエドヴァルド同伴だ。
彼は苛立ちを表すかのようにちらちらとアルマス達を振り返ってはちょっと進んで再度振り返るということを繰り返している。早くしろという言外の意思表示だ。
一人でさっさと帰らないのは若い女性であるマイラの身の安全を考慮してということだろう。いかな湖畔都市フルクートでも危険はそこら中に潜んでいる。女性の一人歩きはもってのほかだ。
「相変わらずだなぁ、あの人は」
優しいんだか優しくないんだかわからない行動をするエドヴァルドにアルマスはむしろ感心してしまった。優しくないようで優しい人なのはアルマスも十分知っている。
「あの人も意地っ張りだから。いつも辛くあたってるけど本当はアルマス君が心配だったんだよ。多分、今日もね。じゃあね、近いうちに工房に寄ってね。皆、君が来ないって寂しがってるんだから」
そう言ってマイラは小走りでエドヴァルドを追いかける。彼女の大きな荷物が左右に揺れる様をしばらく見送ってからアルマスも歩き出す。
貰ったパンを囓りながら、ふと夜空を見上げれば星が瞬いている。濁りはやっぱり見えなかった。
きらきらと輝く砂粒のような星々は一体何を意味するのか。それとも意味など何もないのか。視界の端に幸運を呼ぶ春の印ことラミリエシーを見つける。淡い黄色は月よりもなお穏やかさを宿している。
「そろそろ彼女も落ち着いた頃かな」
明日あたり様子を見に行こう、そう思うアルマスだった。