7.かくして魔女は追放される
結論から言おう。
儀式は失敗した。
アルマスとリーリヤはひしゃげてぼろぼろになったソリの上で小さく身体を丸めて身を寄せ合っている。ぞんざいに木や岩にぶつかる度に聞こえる嫌な軋みに冷や汗を流しながら、振り落とされないように這いつくばってソリにしがみつく。
ソリを引く狼の妖精は一心不乱に駆けており、アルマスの言うことを聞く様子はない。もとより妖精を自在に制御する術などアルマスは持っていないので諦めるしかなかった。
がたんと小石を踏んで、ソリが大きく跳ねる。儀式を経て一切の雪が消え去った森はその姿を一変させ、乱雑に茂る草木の隙間を埋めるように茶色い土くれがむき出しになっている。雪のない大地を滑るソリのなんと乗り心地の悪いことか。せめて落ち葉でもあれば違ったのだろうが、ガリガリとソリの滑り木が地面と擦れて削られる音がまるで自身の精神がすり減る様のように錯覚する。
リーリヤは未だ呆然としている。気を失っているわけではないものの話しかけてもぼんやりとしていて相槌の一つも返ってくることはない。当然と言えば当然だ。あんなことがあったのだから。
アルマスは暴走する狼に振り回されることになった原因を思い返した。
発端は儀式の失敗にあることは間違いない。
霞の森の女主人こと当代魔女が激怒したのだ。その怒りはまさに壮絶。使い魔である梟の一撃は一つの丘を破壊して余りある威力だった。
アルマスとリーリヤは崩壊する丘に巻き込まれた。アルマスが咄嗟に魔具で身を守らなければ、今頃生き埋めだったであろう。
なんとか土砂崩れから逃れたアルマスの頭上から巨大に膨れあがった梟が睨め付ける。
「遍歴の智者よ。念のため、確認をしておきます」
理性が弾ける寸前。アルマスにはそう思えた。それほどまでに激された煮えたぎる感情が漏れ出ている。
「なにを、ですかね・・・?」
「此度の惨事、他の魔女共の介入があったのか。知りたいのはそれだけです」
魔女。黄金の栗鼠であったり、蛇であったりを使い魔にして此度の儀式を見守る、もとい監視していた存在。彼女らが儀式に余計な手出しをしたせいで森開きの儀式が失敗したのか。その確認をアルマスに求めていた。
そもそも魔女だけでなく遍歴の智者までもが儀式に列席するのはそれが理由でもある。諍いと軋轢の多い魔女同士では妨害が入る可能性がある。そのため魔女の抑止となるように、正当に儀式が行われるように第三者の立場として遍歴の智者が求められるのだ。
そして、その正当性が妥当であったかをアルマスは尋ねられている。
間違いなくアルマスの返答次第でリーリヤの立場が変わってくる。陥れられた哀れな魔女見習いなのか、それとも自らの力を見誤った愚か者なのか。
一度だけ唾を飲み込む間を置いてから、アルマスは観念して答えた。リーリヤにとっての絶望を。
「嘘ついてもばれるだろうから言いますけど。俺の見た限りでは横槍はありませんでした。あの儀式は真っ当に行われていましたよ」
もちろん村の人間の邪魔があったのは一つの原因なのは間違いないだろう。しかし、村人は所詮何の力も持たない只人だ。魔女ならぬ彼らでは森や妖精に影響を及ぼすことは決して出来ない。だから、それに気を取られたリーリヤの落ち度と解釈される。
「―――そうですか」
灰色の毛並みの梟の色が変わっていく。いや、あれは羽の色が変化しているのではない。信じられないことに影が黒いへどろのように沸き立ち、梟の足から這い上がっている。
「魔女に親愛の情はありません。家族も友人も我らにはいない。孤独こそが魔女に許された唯一の在り方」
魔女は訥々と語る。
それはなんと寂しい生き方なのだろうか。そんなものは人の暮らしではない。
「リーリヤ。貴女を弟子として育てたのは、あくまでこの森を預かる魔女としての責務があったから。そこに情があったわけではない」
リーリヤの身体が小刻みに震える。その顔色は真っ青を通り超して白に近い。もともとの肌が白いだけにより病的に見える。師であり、育ての親であるはずの魔女からの無慈悲な告白。アルマスにはリーリヤの心情を慮ることすらできない。
「それでも魔女としての持ちうる全てを授けたはずです。貴女が魔女として、このヴェルナの森を長く安らかに治めることができるように」
「ぅ・・・。ぁ、ぁ・・・」
リーリヤはか細く嗚咽を溢す。その宵闇色の瞳は悲嘆と悔恨で曇り、梟を、自らの師である魔女を正面から見据えることさえできないようだった。
「私は何度も伝えましたね、この儀式は魔女の人生でただ一度の機会しか与えられないことを。貴女が森に認められることができるのは今宵だけなのだと」
梟の胸の辺りまで黒い闇が浸食していく。
冷え冷えとした魔女の声色にアルマスの背筋に冷たいものが走る。この後になにが起こるのか察したアルマスは黒々と塗れた梟に注意を払いつつ、取るべき手立てを模索する。
「貴女は失敗した。この地を、ヴェルナの森を、そして私を裏切ったのです」
梟の頭が黒い粘液のような影に完全に飲み込まれた。猛禽類特有の無機質な赤い瞳が憎しみに彩られる。
「愚かな娘、リーリヤ。―――古来より、儀式に失敗した魔女は命をもって森を宥め鎮めるのがしきたり。師として最後のけじめをつけましょう。その命、森に還すがいい」
「それは遠慮させていただきますよっと!」
影の怪物と化した梟が身構えるよりも先にアルマスはリーリヤを抱えて走り出す。
駆け込んだのは森の中、そこには儀式が始まるよりも前に丘の上から落下したソリの残骸が木に引っ掛かっていた。氷の狼の妖精とソリを繋いでいた何本もの革紐はほとんどが千切れている。けれど幸運なことに1匹だけ革紐が繋がったまま残っていた。
アルマスは力任せに木から紐を外すとリーリヤを抱えたまま壊れかけのソリに乗り込んだ。
「そら、走れ!早く!今すぐ!走れったら!」
アルマスが声を張り上げるが氷の狼は聞く耳を持たない。地面に伏せたまま身動きすらしない。
「無駄なことを。今このときよりこの『ヴェルナの森』の全てが貴女を敵と見なす。『遍歴の智者』よ、邪魔立てするというならば貴方も生きて森から出られるとは思わないことです」
影と一体化した化け物から不気味に反響する魔女の声が発される。
「たかが儀式がダメになったくらいで大袈裟な。いいじゃないですか。人間誰だって失敗の一つや二つありますよ」
「物事には限度があります。子どもの些細な間違いとはわけが違う。これは森開きの儀式、この森の、引いてはこの大陸の安寧を懸けた重要な祭事でした。失敗など万に一つも許されなかった。たった一つの糸のほつれがやがて布に穴を空けるように、此度の過ちは世界をまた一歩滅びへと近づけた。遍歴の智者、貴方にも聞こえるでしょう。森の嘆く声が。苦しみ悶える怨嗟の叫びが」
森がさざめき軋みを上げる、そんないい知れない感覚こそが魔女の言う森の悲鳴だというならばアルマスにでさえ理解できてしまった。
「さて、時間稼ぎは終わりでいいですね?」
「くそっ。リーリヤ!・・・は、無理か」
狼の妖精を動かすならば魔女の力を持つリーリヤの方が適している。だが、儀式をしくじり、あまつさえ師に命を狙われる状況に彼女は心を失った人形のように静かだ。虚空を見つめ、目の焦点があっていない。
いっそのこと魔具を駆使して戦うか。魔女相手に勝てる気は微塵もしないが時間稼ぎくらいにはなるはず。
「お?お?おい、急にどうした、って。ぐおっ」
アルマスがソリから立ち上がろうとしたそのとき、氷の狼が機敏に身を起こす。そして、とてつもない勢いで走り始めた。態勢を崩して倒れこんだアルマスは、揺れるがままにソリから振り落とされそうになっているリーリヤを慌てて捕まえる。
背後では巨大な黒い化け物が小枝でも折るかのように木々を蹴散らしているのが見えた。どろどろとした粘液のようにも見える黒い影を纏った化け物は梟のときにあった飛行能力を失ったみたいだ。代わりに洒落にならない馬力で森を粉砕しながらアルマス達を追ってくる。
あまりの恐怖に我を失って逃走する氷の狼に引きずられ、アルマス達は必死にソリに縋りつくしかなかった。
こうして真夜中の長い追いかけっこが始まったのだ。
一体どれくらいの時間が経ったのだろうか。
1刻とも2刻とも思えるが、きっと4半刻も経っていないのだろう。せめて月の位置でも把握できれば時間だけでなく、現在地も少しはわかったかもしれない。森の中は濃い霧が充満しているせいで碌に周囲の状況を把握することもできなかった。
魔女の言葉は単なる脅しではなかった。
白霞の森は容赦なくアルマス達に襲い掛かり、否応なく魔女の深い怒りと失望を理解させられた。
黒い化け物と成り果てた魔女の使い魔は言うに及ばず、昼間見た『巨木の翁』が凄まじい勢いで追いかけてきて図太い枝を腕のように振り回し、いたずら妖精達は頭上から堅く丸めた泥の塊と一緒に鋭く尖った針葉樹の葉を雨のように降らせる。惑わしの花はしびれ粉を吹き散らかし、強烈な異臭を放つ泥沼が足元から泥でできた手を伸ばしてソリから引きずり下ろそうとしてくる。魔女の棲む『白霞の森』の悪名に違わない猛威がいっぺんに襲いかかる。
その度にアルマスはなけなしの魔具を惜しみなく使いなんとか脅威を退けてきた。
行き先は完全にソリを引っ張る狼に委ねられているため、アルマスとしては森の出口に向かっていることを祈るしかない。
とにかく森から出てしまえばさすがの魔女も追跡はしなくなるはずだ。魔女の力が十全に発揮されるのは、その力が馴染んでいる土地と妖精に限定される。魔女の領域から離れれば離れるほど及ぶ力も顕著に落ちてくるのだ。
「そろそろ諦めてくれると良いんだけど」
耳を澄ます限りでは、あの黒い化け物が近くにいる気配はしない。これだけ霧が濃いと耳を澄ませて音で判断するほかない。
アルマスの耳には自分の心臓の鼓動と腕に抱えたリーリヤの小さな息づかいくらいしか聞こえなかった。さっきまでは休む暇もなく妖精達が襲い掛かってきたことを考えるにひょっとするとアルマス達のことを見失ったのかもしれない。いくら魔女といえども狼の足で高速で逃げ惑うソリを常に補足するのは容易ではないのだろう。
「とりあえずは追っ手を撒けたとして、ここからどうやって逃げたものかな」
狼とソリを繋ぐ革紐さえ切ってしまえばこの暴走ソリから簡単に解放される。森からの脅威さえなくなったのであればその方が安全に森から脱出できるかもしれない。
そう思っていたのがいけなかった。
アルマスの思考が次に打つべき手の模索に向いた隙を突くようにそれは現れた。
白い霧の帳をくぐるように黒い塊が急激に近づいてくる。それも一つではない。一個一個は人が抱えられるほどの大きさだが、とにかく数が多い。わらわらと地面を覆い尽くさんばかりに黒い粘液の塊みたいなものは表面を波打たせながら蠢いている。
「しまったっ・・・!」
意表を突かれたアルマスが呻いた瞬間、小さな黒い塊は急激に動きを加速させ、一か所に群がるとあの黒い化け物の姿に戻っていく。
まずいと脳裏に過ぎったときには既に遅く、黒い化け物は至近距離からアルマス達にぶつかってきた。
突進がズレたのは偶々だった。
黒い化け物はとてつもない衝撃とともに樹木を吹き飛ばし、周囲一帯の地面さえ割砕く。あまりの威力に直撃していないにもかかわらずアルマス達は吹き飛ばされる。
「―――っ!」
悲鳴を押し殺したアルマス達が宙を舞ったのは幸いなことにほんの少しの時間だった。落下した高さは子どもの背丈にも満たない。しかしそれでも既に歪なほどにひしゃげていたソリは着地の際の勢いに耐えられず、バラバラと木片が割れて落ちていく。アルマス達が大した怪我をせずにすんだ代償としては安いものだろうが、乗り物としては致命的なまでの欠陥となった。ソリが完全に壊れて二人が投げ出されるのも時間の問題にみえた。
それでも止まるわけにはいかない。背後にはあの黒い化け物がまだ付いてきているはずだからだ。
「どういうことだ・・・?」
すぐにでも来ると思っていた追撃が来ないことに疑問に思ったアルマスがソリの残骸にしがみつきながらやっとの思いで後ろを振り返ると黒い化け物は後方でぴたりと制止していた。あっという間に距離が開き、黒い化け物は白い霧に飲まれて見えなくなった。
アルマス達を追い立てることを急に止めたことに不気味さを覚える。ひょっとして魔女の方に何かが起きたのか。それこそアルマス達を気にする余裕もないほどの緊急事態が発生しているのか。
もしそうであればアルマス達にとっては朗報だ。魔女による妖精の執拗な襲撃がなければ生き延びれる可能性がずっと上がる。
「いや、まさか・・・!」
最悪の可能性に思い至ったアルマスが狼とソリをつなげる革紐を切り捨てようとしたそのとき、唐突に白い霧が黒い瘴気へと切り替わった。
生ぬるい風が肌をざりざりと擦る気味の悪い感覚が全身を襲う。背骨を身体から抜き取って直接神経をぞんざいに捕まれたような不快感も一緒だ。
腐った汚物をどろどろに煮詰めたかのような異臭が鼻の奥に入り込み、目や耳からも無理矢理に染み込んでくる。
強烈な感覚に思わず目を閉じて堪え忍び、再び目を開いたときには水を頭から被ったかのように冷や汗でびしょ濡れだった。
「気持ちが悪い。頭がおかしくなりそうだ」
周囲を見れば大地はどす黒く染まり、そこら中から鼻が曲がりそうな黒紫色のガスが吹き出ている。青々としていた木々は枯れ腐り、枝も幹も歪みに歪んで巨人に握りつぶされた後のようだ。
どういう原理なのか、煌々と光っていたはずの満月は滴る血を浴びたかのごとく鈍い紅色を放っている。
「『魔境』」
魔女が追跡を止めるはずである。アルマス達は知らぬうちに魔境に迷い込んでいた。
横ではリーリヤも辛そうに両手で口元を押さえている。その額にはアルマス同様に汗が浮かび、息をするのも苦しそうだ。
呼吸する度に喉が焼け、瘴気の毒が身体を侵し、命が削られる感覚が絶え間なく続く。魔具を使って少しでも瘴気を遠ざけようとしても魔境の異様な環境は魔具にも干渉するらしく励起することすらできなかった。
「なんだ。やっぱり魔女でも辛いんだな」
「・・・来たの自体初めてよ。ここにはししょ・・・、あの人しか立ち入れなかった。まさか、こんな場所だったなんて」
魔境の狂気が心を失いかけていたリーリヤに正気を戻したのはせめてもの救いだった。リーリヤは極端に参っている様子ではあるがその瞳に光を取り戻していた。声に力がないのはこのひどい環境のせいだけではないのは明白だ。師である魔女からの徹底的な拒絶が彼女の精神を蝕んでいる。
「疲れ切っているところ悪いけど、こいつをどうにかできないか。悪霊に見つかる前にここから抜けたい」
アルマスは魔境に入ってなお暴走を続けている狼の妖精を指し示す。どういうわけか先ほどからぐんぐんと速度を増しており、凄まじい速度で流れていく魔境の異質な景色は視界に映るだけで生きた心地がしない。
魔女であるリーリヤならば妖精を制御するのは容易いはず。彼女の力を借りられるならば魔境はもちろんこの森から抜け出すのも難しくない。魔具が使い物にならない現状では最善にして唯一の方策と言えた。
だがリーリヤは弱々しく首を横に振った。
「無理」
「は?」
「さっきからやってるけど全然言うこと聞いてくれないの。きっと、この瘴気のせい。命令するどころか私達を攻撃しようとする意思すら感じる。せいぜい瘴気に染まるのを遅らせて私達に襲いかからないようにするのが精一杯」
アルマスは状況を把握し、事態を正確に理解するにつれ、じわりと強烈な危機感が湧き上がる。
「いや、やばいでしょ」
「うん」
力なく頷いたリーリヤは眠るように目を閉じる。魔力の消耗で気を失ったのだ。慌てて揺すり起こそうとしたアルマスだが、そのとき遠くに恐ろしいものを見つけた。『絡み茨の猿人』だ。
魔境の狂気に染まった妖精は悪霊と呼ばれる。そう、悪霊。あれはもはや妖精ではない。人間の尊厳を踏み躙り、嬉々として壊して弄ぶ災害にも等しい存在だ。
それも森の悪魔の代名詞、悪名高き『絡み茨の猿人』である。無数の木の枝や蔦が絡み合い、ぐちゃぐちゃにこねくり回して、無理矢理人の形に押しとどめたような姿。ぽっかりあいた二つの眼窩に不気味に浮かぶ朧げな暗い光。その危うい眼差しをアルマス達の方に向けて、おぞましい笑みを浮かべた。
このままでは二人とも死ぬ。
瘴気のせいで手足に碌な力も入らず、魔具もまったく使えない。ソリから飛び降りたところで魔境から出る前に悪霊共になぶり殺しにされるだけだ。
『いいか、アル。本を読め。あらん限りの智を身につけるんだ。それがお前自身を守る盾になる』
脳裏に蘇るのは幼い頃に聞いた父の声。今更あの男の声を聞くとは皮肉である。今までさんざっぱらアルマス達家族に迷惑をかけてきたくせに。
ソリが急速に『絡み茨の猿人』に近づく。
悪霊が腕を振り上げてアルマス達を叩き潰そうと待ち構えている。覚悟を決めるほかなかった。
「いいよ、やってやる」
アルマスは寒くもないのにかじかむ指に力を込めて、暴走する狼の妖精の尻尾を握りしめた。すると、狼が奇妙な雄叫びとともに更に速度を上げる。タイミングをずらされた悪霊の一撃はアルマス達の頭上をかすめるだけで済んだ。
だがそれで終わりではなかった。
そこからは確かに地獄であった。
魔女が主導した妖精の追撃とは比にならない悪霊達の歓迎が始まった。
悪意も狂気も妖精とはまるで違う。人を殺し、喰らうための力と姿を持った悪霊は容赦なくアルマス達を襲う。非力な餌を奪い合うように悪霊達が押し寄せ、互いに互いを蹴散らし壊しながら獲物であるアルマス達を狙い続ける。
アルマスは無我夢中だった。
意識すら曖昧になる死闘の中、遠目に視界が捕らえたのは醜くいほどの暗黒の世界でそびえ立つ白い一本の樹。純白の大樹がなぜこんな場所に生えているのか、一瞬疑問を覚えたものの考える余裕もなくそのまま思考の彼方に消えていった。
気付けば太陽が昇っていて、アルマスは森から随分と離れた街道に寝転がっていた。
ソリは完全に砕け散り周囲に散らばっている。氷の狼の妖精も力尽きた末に溶けて消えかけていた。
リーリヤはアルマスの隣で横になっている。静かに呼吸をしているのがわかるのでまだ気を失っているか、寝ているのだろう。
アルマスは地面に寝たまま空を見た。澄んだ青が広がり、ゆったりと白く細い雲が泳いでいる。
息を吸って、吐いた。自分が生きていることを自覚する。アルマス達はあの地獄のような魔境を生き延びたのだ。
「ここは、どこ?」
真横からリーリヤの困惑の声が聞こえてくる。アルマスは空から視線を外さずに返答する。
「おや。起きたんだ。一応、どこかの街道だろうね。けど、少なくとも白霞の森じゃないよ」
「っ・・・!」
白霞の名を聞いてリーリヤは息を飲むように震えた。あれだけのことがあったのだ、思うところも多いだろう。
彼女の心に去来したのはどんな感情だったのか。あの恐ろしき魔境から逃げることが出来た安堵か、それとも儀式に失敗して師の期待に添えなかった後悔か。もしかしたら慣れ親しんだ故郷を追われることになった悲しみだってあるかもしれない。
「―――逃げて来ちゃった」
まるで悪いことでもして叱られるのを待つ子どものように怯えるリーリヤにアルマスは首を横に振った。
「あの状況じゃ仕方がなかった。あのままだと君はきっと大変なことになっていたよ。だから、逃げて良かったんだ」
「それでも、あそこは私の居場所だったのに・・・」
心の準備をする間もなく森から追放されたリーリヤの気持ちがアルマスにも少しは理解できた。いつまでもあると思っていた故郷や家が自分の意思とは無関係に奪われ、または失われる。その虚無感は計り知れない。
でもアルマスは思うのだ。それは世界を知らないからだと。居場所だって人との繋がりだっていくらでも作ることが出来る。視野を広げ、新しい世界に飛び込めばすぐにわかる。しかし、きっとこれは言葉だけでは伝わらない気がする。
「私、これからどうなるの」
ぽつりとリーリヤが言葉を漏らす。
アルマスは答えなかった。それは役目も立場も何もかも失った彼女自身がこれから考えるべきことだからだ。
人が倒れてると街道を通りがかった馬車から慌てて人が飛び出してくるまでアルマスとリーリヤはずっと空を眺めていた。
この日、一人の魔女見習いはその立場を追われ、どこにでもいるただの平凡な娘となった。