6.森開きの儀式
月明かりが眩く照らす。昼間はあれだけ暗く感じたのに今は逆に明るすぎるくらいだ。
「そういえば今日は満月か」
『森開きの儀式』をアルマスは実際に目にしたことは一度もない。知っていることといえば、文字通りに魔女が妖精の力を使役して『森を開く』ということだけ。他にはなにも知らないというのが実情だ。
しかし、それも仕方がない話である。なにせ『森開きの儀式』とは毎年開かれるような季節的な祭事ではなく、数十年もしくは数百年に一度しか行われないものなのだ。それこそ魔女の生涯においてたった一度のみ。魔女見習いが魔女へと認められるとき、つまり当代の魔女から次代の魔女へとその立場を引き継ぐ際にだけ『森開きの儀式』は執り行われる。
だから、アルマスもこれからリーリヤが何をするのか詳しいことは把握していない。
アルマスの視線の先でリーリヤは頻りに葉っぱがついた枝の杖を森に向けて振り回している。ちなみにアルマスはソリの上に無造作に置かれている大量の荷物の上に座り込んでいる。儀式に使うのか木の枝が何本も突っ込まれた袋から、随分古そうではあるが座布団っぽい敷物や厚手の服など雑多に積み込まれている。まるでこれから旅にでも出るかのような準備だ。こうして椅子代わりに使えるから文句はないが、ソリの大部分を占める荷物のほとんどは絶対に要らないとアルマスは思う。
ソリの速度はそれほど早くもなく、森に入ってからは特に小走り程度の速さを保っている。行き先は定かではなく、くねくねと蛇行したり、右へ左へ舵を取りながら進んでおり、どうにも森の奥へ向かっているようではなさそうだ。
「で、具体的にはこれからどうするんだ?」
アルマスの疑問にリーリヤは返事をしない。忙しなく周囲を見回しながら枝の杖を振って狼の妖精に指示を出している。ひょっとしたらアルマスの声自体彼女には聞こえていないのかもしれない。
おそらく彼女は焦っている。見るからに余裕がなく、集中できていない。もしかしなくても先ほどの村人達との揉め事が尾を引いているに違いなかった。
魔女として最も重要な儀式の直前にすべきことではなかった気がする。彼らを連れてくるきっかけとなったアルマスもほんの少しばかりの罪悪感を覚えてしまう。でも、だ。そもそもがここまで関係をこじらせているのが悪いとも言える。アルマスだって面倒に巻き込まれた側なのだ。
アルマスが誰に責められているわけでもないのに勝手に自己弁護をしているとソリが動きを緩めた。
「あったわ!よかった、この間よりも大分ズレてたから時間かかっちゃった」
ソリが止まったのはなんてことのない窪地。生えている木々も地形にもなにも特徴的なものは見当たらない。けれど、魔女でないアルマスでさえここが特別な場所であることは感覚的に理解できた。この付近に立ち入った瞬間に溢れんばかりの生気というか漲る力の本流を感じたのだ。
リーリヤはソリに載せていた荷物の中から一本の枝を引っ張り出す。もともと手に持っていた枝の杖と比べても一回り以上細い小枝だ。ソリから飛び降りた彼女はそれを雪の地面に突き刺した。
「聖なる木」
魔女の歌。妖精を使役するために魔女が用いる特別な歌だ。
先ほどと同様にリーリヤから湯気のように白い何かがゆったりと吹き出す。
一般にそれは魔力と呼ばれ、言葉の通じない妖精との意思疎通を可能とする唯一の手段とされる。魔力を介し、言葉ならぬ交感をする。妖精はそれに応え、この世ならざる現象をもたらす。魔女の秘術の根幹だ。もっとも魔女と妖精の主従関係を見るに意思の疎通といっても『対話』ではなく『命令』という方が正しいのだろう。
「守護の白樺」
リーリヤを取り巻く白い魔力は色を濃くし、大きく膨れ上がる。まるで間欠泉から湧き出る蒸気のようだ。
どんな人や物にも宿っているとされる魔力であるが、普通は認知することもできないし、ましてや意図的に操作することもできない。自在に強力な魔力を練り上げ、それをもって妖精を支配する。それができるのは妖精の地に棲まう魔女だけだ。
「生贄のトウヒ」
リーリヤは枝の杖を頭上から地面に振り下ろし、あふれ出る白い魔力が地面に刺さった小枝に向かう。白い雲が渦巻くようにぐるぐると小枝を中心に回り続ける。
「次に行くわよ。森が目覚めるまで時間がない」
「あれ?このままでいいの?」
アルマスが白い魔力の渦を指差す。魔力は謂わば言葉。魔力を放出するだけでは意味がなく、妖精に受け渡すことで初めて意味が生まれる。これでは魔女の秘術は完成していない。
「いいのよ。最後に一息にやるから」
そういってリーリヤは再びソリに飛び乗って慌ただしく狼を走らせた。
割れた苔むす大岩、崩れて欠落した丘の端、腐り落ちた倒木の根本。あれから3か所に移動した。
リーリヤはどれも同じように小枝を地面に植えて、魔女の歌を紡いだ。
時間にしてはそれほど経っていない気がする。大昔にあったとされる時計でもあれば、詳細な時間もわかったのだろうが現代では月や星の位置で大まかな時の推移を知るのがやっとだ。
「今日は霧がないんだな」
気づけば森の奥深くまで来ていたが、あの鬱陶しい白い霧は出てこない。おかげで月の光がよく通る。
「あれは師匠の、当代魔女のものよ。いつもならともかく、今夜ばかりはあの人の霧を出すわけにはいかないの」
反応を期待していたわけではないが、リーリヤがアルマスの方を振り返っていた。ソリは狼に任せて疲れたようにその場にしゃがみ込む。
「気をつけた方がいいわよ。今、この森は魔女の支配が緩んでる。妖精がいつ暴れたっておかしくないの。あなただって襲われちゃうかも」
「そうしたら君がなんとかするんだろ?俺は大事なお客様だからね。魔女様には守ってもらわないと」
「む・・・」
アルマスが怖がる様子でも期待していたのか、脅しにもまるで動じないアルマスにリーリヤは不満そうに唸る。
「任せたよ」
「なんかむかつく。ソリからたたき落としてやろうかしら」
アルマスは口の端をつり上げて笑うが、リーリヤは嫌そうに唇を歪めてから諦めたように溜め息をついた。
4か所に小枝を配置して回り終えたことで一息ついたおかげか少しだけ心にゆとりができたようだ。再会した当初の氷みたいに張り詰めた印象は薄れ、不貞腐れたように見えるこの姿こそが本当の彼女なのかもしれない。
「本番はこれからだろ。そんなに気を抜いちゃっていいの?」
ここまではあくまで下準備。本番はまだのはずだ。具体的な儀式の経過をよく知らないアルマスではあるがそこだけは断言できる。
なにせまだアルマス以外の見届け人の姿がないのだから。
「あなたには言われたくない。だらけまくってるくせに」
リーリヤが冷たくアルマスをなじる。2つ目の場所に向かうあたりからアルマスは荷物を枕替わりに寝そべっていた。乗り心地がさほどよくないソリの上では座っているだけでも地味に疲れるのだ。
「ひどい言い方だな。別にいいじゃないか、俺はやることないんだし」
「そうだけど。でも、なんか嫌」
「曖昧な理由だなぁ。まあ、いいや。ここは君に従っておくよ。なんせ、次期魔女様だからね」
アルマスは身体を起こす。文句を言いながらも従うアルマスにリーリヤはくすりと笑った。
十回ほど呼吸を繰り返す間、お互いに無言だった。そして、リーリヤが静かに語りだす。
「変ったわね、あなた」
「そりゃ変わるさ。もうガキじゃないんだから」
「そういう意味じゃないわ。・・・軽薄になった」
「よく言われるな、それ」
気にした風もなく、アルマスは頷く。実際に態度が軽いとか、言葉が雑だとか結構言われる。今日だって魔女殿にもお小言をもらった。だがいちいち反省したり、直そうとは思わない。アルマスにはアルマスの理由があってそうしているにすぎないのだから他人の意見などどうでもよかった。
「あなたはどうか知らないけれど。・・・私は久しぶりに会えてうれしかった」
予想外のまっすぐな感情のこもった言葉にアルマスはあらぬ方向に視線を逸らす。
昔とはお互いに見た目も中身もそれなりに変わっている。この会話だって、関係性だって、思い出の中のものとは大分違う。それでも、彼女はそう思ったということだろう。
俺もだよ、とは簡単に言うことができない自分にアルマスは嫌気がさす。
リーリヤがじっとアルマスを見つめるだけの静かな時間が流れる。ソリは未だ目的地には着かないようだ。
なあ、とアルマスはそっぽを向いたままリーリヤに問う。
「君はなんで魔女になろうとしたんだ?」
「え?」
「いやさ、魔女は孤独だろう?これから君は一人で生きていかなければならないわけだし。普通はそんな暮らしは選ばない。厭世家であれば別かもしれないけど。特に君みたいな若い女性にはきっと辛いものになる」
アルマスからの問いにリーリヤはたどたどしくなる。人里離れた森の中という隔絶された世界で生きてきた彼女にとって魔女になるというのは疑問を差し挟むことではなかったのかもしれない。
「それは、だって、私が魔女にならないと、大変なことになる、でしょう?それこそ、皆の生活が・・・」
「皆というのはあの村人達のことだろ?」
「そう、だけど」
リーリヤが口を噤む。農具を担ぎ、恐ろしい剣幕でリーリヤを糾弾する村人達の姿がきっと脳裏に浮かんだはずだ。
彼らのためにリーリヤは己の人生を犠牲にして魔女となるのだ。
「すまない。余計なことを言った。忘れてくれ」
狼の引くソリの速度が極端に落ちる。都合4回同じことがあったのだからもうわかる。目的地に近づいたのだ。
俯くリーリヤの宵闇色の瞳に浮かぶ感情はなんなのか。もうその瞳にはアルマスは映っていないようだった。
ソリが完全に止まる。
そこは突き出た丘の上だった。遙か果てまで広がる巨大な森林を見渡すことができる見晴らしの良い場所だ。ここで『森開きの儀式』の最後の行程にして、最も重要な『森開き』が執り行われる。
「遅い到着じゃのう」
ソリから降りて昼間溶けたせいで滑りやすくなった凍った足場に苦労するアルマスとリーリヤに声を掛ける存在があった。
その言葉に含まれた嫌味と悪意にリーリヤの身体が強張る。
魔女見習いであるリーリヤでさえ緊張を禁じ得ない相手、そんな存在は一つしかない。
「どうもどうも。ちょいと遅れたようですみませんね。魔女様方」
アルマスが向き直ったのは丘と森の切れ目。木々の隙間からゆらりと伸びるのは人影だ。それも一つではない。幾つもの影が月明かりだけが照らす薄闇の世界でなお黒々と存在を主張している。
不気味に蠢く人型の影の先には、森のかしこに潜む何匹もの動物達がいる。栗鼠、蜥蜴、狼、烏などの生き物が木々の裏や枝の上から顔を覗かせている。その中にはなんと熊までいる。そのすべてが魔女達の使い魔だ。それも『白霞の森』ではなく、他の土地を支配する強大な魔女達に他ならない。
魔女の使い魔達は怪しく瞳を輝かせてアルマスを見ている。
「貴様は誰だ」
黄金の毛並みを持つ一匹の栗鼠がアルマスの前に出てくる。声を発したのは栗鼠から伸びる女性のシルエット。黒く塗りつぶされた影からは表情を見ることはできないのに、尊大で威厳に溢れた女の姿が強く想起された。なによりその声色はアルマスを見下している。何も驚くことではない。大抵の魔女は魔女以外の人間を同じ人種とは思っていないのだ。
アルマスは特段気分を害するわけでも臆するわけでもなくあえて恭しく礼をした。
「おっと、自己紹介をしていなかった。俺の名前はアルマス・ポルク。この度、儀式の監督役となった『遍歴の智者』の代理ですよ。貴女方にはイェレミアスの息子といった方が通じますかね」
代理と言った際には訝しむような気配が漂ったが、イェレミアスの名を聞いた瞬間に目の前の栗鼠の影だけでなく、他の魔女の影達のほとんどが態度を変化させた。それも悪い方向に。
「なんですって!あの腐れ外道の!?」
黒々とした見事な毛並みをした熊から伸びる人影が甲高い女性の声で叫ぶ。熊は山小屋くらいなら簡単に押しつぶせそうな立派な体躯になぜだか淡い紅色のコートを身につけている。なんだかちぐはぐな印象を与えてくる存在だ。
「あの陰険男の子どもか」
黄金の栗鼠の影もまた吐き捨てるように言う。蔑みの混じる声色に更に苦々しげな色が追加される。
アルマスは溜め息を吐きたくなった。あの男は本当に何をしてくれているのか。こんな辺境の地に来てまでもあの男の悪評に振り回されることになるとは。
「確かに顔立ちは似ている。だが、それとこれとは別の問題だ。そもそも奴が『遍歴の智者』であること自体納得していない。代理というならば尚更だ」
アルマスにとってもこれは予想外だった。
多少の反感くらいはあると思っていたが、その根本がアルマスの父イェレミアスにあるとすれば手の打ちようがない。
主人である魔女の敵意に反応し、使い魔である黄金の栗鼠もアルマスを害そうと前歯を剥き威嚇している。
どうしたものかとリーリヤの方を振り向けば、いつの間にか彼女の側に梟が現れていた。
「相も変わらず面倒な女ですね」
梟の影から聞こえる声は、昼間に聞いた魔女のものと同じだ。
「『トゥイヤ』の。此度の儀式は我が『ヴェルナの森』にて執り行うもの。その主人たる私が彼を資格ある者としてこの場に呼んだのです。たかが『見届人』でしかない貴女が口出しすることではありません」
「なんだと。『ヴェルナ』の。そもそも貴様が抑えられないから『森開き』などしなければならないのだ。偉そうなことを言う前に己が不甲斐なさを悔いて詫びるべきだろう」
梟と栗鼠が険悪な雰囲気を醸し出す。
小動物同士のにらみ合いなんて可愛げのあるものではなく、人食いの猛獣が互いに食い合わんとする凶悪さを振りまいている。
魔女達はとにかく仲が悪い。故に平時は不可侵という暗黙の了解があるほどだ。
そんな魔女達であっても新たな魔女の誕生と聞けば見届人として訪れることを望む。同族が増えることへの喜びとか歓迎とかではない。それは単に他人事では済まないという必要性に迫られるがためである。
「見苦しいのぉ。やはり年をくった魔女はやかましくていかんなぁ」
腕ほど太い胴体でとぐろを巻き、舌をちろちろと出す蛇を拠り所にした魔女の影が揶揄するように溢す。
あんたが一番年寄りくさいけどな、とはアルマスは口にしなかった。言おうものならネチネチと絡まれるのが目に見えている。
だがそんな配慮は無駄に終わったようだ。声には出さずとも蛇はアルマスの内心を察したらしく、拳を優に超える大きさの頭を起して鎌首をもたげた。
「生意気な小僧じゃのう。丸呑みにしてやっても良いのだぞ」
「うへぇ。せっかく言わなかったのに。わかっちゃうのか」
アルマスは面倒くさそうな表情を隠しもしない。
「当たり前じゃ。妾達は悪意に敏感ゆえな。魔女を嘗めるでないぞ」
空気が抜けるような不吉な音を漏らして蛇がにじり寄ろうとするのを見てアルマスは慌てて距離を置いた。
魔女が荒々しく鼻で笑うと蛇は興味を失ったように頭を下げる。
「ふふふ。ほら、我が同胞達。子ども達が困ってしまっているよ」
ぱたぱたとアルマスの肩に止まった小鳥が他の魔女達を諫めた。黒い翼を持つ白い小鳥だ。いや、話しているのはやはりその影だった。アルマスの影と入り交じったせいで、まるでアルマスから女性の影が伸びているようで気持ちが悪い。
しかし、言葉の内容とは裏腹に魔女達を批難する響きは含まれていない。むしろ楽しむように煽るようにさえずっている。
「問題は彼が我らのお眼鏡に適うかどうかだろう。ならば試してみればいいじゃないか。その方が話が早い」
そう言うと小鳥はちらりと後ろを振り返る。そこにはアルマスとリーリヤをここまで連れてきた氷の狼の妖精がいた。狼とは比較にもならないほど小柄な小鳥に視線を向けられ、氷の狼は一度だけぶるりと震えると様子が一変する。
大人しく賢い印象を与えていた狼達は急激に興奮状態に陥り、異様な行動を始める。涎をダラダラと口の端から垂らし、フラフラと足が覚束なくなり、焦点の合わない目をぐりんぐりんと動かしたかと思えば、アルマスを視界に捉えた途端にぴたりと動きが止まる。
「またエグいことをしおる」
蛇の影が哀れむようにぼやく。
「同感。底意地が悪いったらないね」
アルマスが愚痴を吐くのにあわせて、狼達がとち狂ったように突進を始めた。
「っ!危ない!」
先達の魔女達を前に萎縮していたリーリヤが狼の凶行に遅れて気付き声を上げる。
そのときになってようやく栗鼠と睨み合っていた梟が事態に気付く。
「『ヘルガ』の!我が森の妖精を勝手に使役するとはどういうつもりですか!」
「そう目くじらを立てないでおくれ。ただの余興じゃないか。それにすぐに返すことになるよ」
森の中を疾駆していたときに見た、しなやかで滑るような狼の姿はそこになく、力任せに地を蹴り出鱈目に足を動かす醜い獣がいるばかりだ。それでも狼達がアルマスのもとに辿り着くにはさしたる時間もいらなかった。
ソリを引きずりながら鋭利な牙をむき出しに襲い来る狼が巨大な顎を大きく開き、アルマスの腕に齧り付こうとする。リーリヤが懸命に制止しようとするが間に合わない。他の魔女達はただただ愉快そうに嗤っている。
アルマスの対応は端的だった。
「全くもって面倒だけど」
パン、と破裂音が澄んだ夜闇に響き渡る。
「『麋の副書』第十二章第九節。『老師曰く、月に魅入られた哀れな狼は気丈な乙女に左の頬を打たれ、たちまち恥じて去りぬ』、ってね。俺は女の子じゃないけどさ」
次いで狼達の騒々しい悲鳴が続いた。
狼達はアルマスを襲った勢いそのままに慌てて逃げ出す。ソリに繋がれた革紐をぐしゃぐしゃに絡ませながら、一心不乱にアルマスから離れようと尻尾を丸めて走り出し、その姿が急に消える。
「あ、やべ」
あまりにも錯乱した狼達はここが切り立った丘の上であるにも関わらず、丘の急斜面を滑り落ちていったのだ。それも引きずり回していたソリごと、だ。狼達の更なる悲痛な雄叫びが聞こえた後、木製のソリがひしゃげるひどい音がした。
「あー。うん、これは不可抗力というやつでしょ」
悪びれもせず言い訳をするアルマスには傷一つない。
それもそのはず。
アルマスがしたのは狼が十分近づくのを待ってから、狼にとっての左側面で勢いよく両手の平を打ち合わせただけ。それだけで狼達は恐慌に陥り、丘の下にソリもろとも転げ落ちていった。
錬金術によって作られた魔具を使ったわけでも、魔女のように妖精を使役したわけでもない。アルマスを助けたのは単純な知識だった。常人では知り得ない妖精に対する詳細な知識を有するからこそ、アルマスは『遍歴の智者』の代役たり得るのだ。アルマスとしては大変不本意なことでもあるのだが。
「ほらね」
小鳥の影が歌うように楽しげに告げる。表情が見えたならきっと得意げな顔をしていたに違いない。
「なるほど。最低限奴らをあしらうことはできるわけじゃの。うむ、妾は構わん。お主もよいじゃろ?『トゥイヤ』の」
「ふんっ。勝手にするがいい」
蛇の影が認めたとともに他の魔女の影も肯定の意を示すがごとく不吉な影の揺らめきを抑えていく。
黄金の栗鼠の影もまたもう反対するつもりはないらしい。
梟の魔女の影、すなわち霞の森の女主人は嘆息することで、この突然の騒ぎへの不満を飲み込んだ。そして、梟は羽根を広げて飛び上がると満月を背に夜空に浮かぶ。月光を受けて輪郭がより明確となった魔女の影が大きく膨れあがり、丘の一端を黒く染め上げた。
「リーリヤ。我が弟子。今宵、貴女に森の主の座を引き継ぎます。されどまだその時にあらず。この儀式の完遂をもってその証左といたしましょう。さあ、『見届人』の皆様方。我が同胞達、そして遍歴の智者よ。ご覧あれ。我が弟子が『ヴェルナの森』に認められる様を」
静寂が森を支配する中、リーリヤが丘の先へと歩みを進める。
あれだけ騒がしかった魔女達も今ばかりは静かに彼女を見守っている。
アルマスは緊張で汗を垂らすリーリヤの横顔を無言で眺めているほかなかった。
リーリヤが枝の杖を空へと掲げる。そして、魔女の歌を紡いだ。『森開き』が始まったのだ。
「聖なる木」
朗々とリーリヤの声が森に響く。決して大きな声ではないのに、染み渡るように未だ雪で白く染まったままの森に伝わってゆく。
リーリヤから白い魔力がたゆたうのと同時に、森にも白い霧がじんわりと沸き立つ。
「守護の白樺」
白い霧は止まる気配がなく、どんどん吹き出て瞬く間に森中を覆っていく。
背の高いトウヒの木を悠々と飲み込んで、霧は白い濁流のように森の果てを目指して広まる。
輝く粒子を纏った白霞が月の光を受け止めて虹色に波打つ様子はまさに幻想的だ。
「生贄のトウヒ」
この短時間に何度も耳にした詩を唱え終わったときには見渡す限りの森が白い霧に満たされていた。もう雪の白さなのか、霧の白さなのか判別がつかない。
だがこれで終わりではない。『森開き』はまだ始まったばかりだ。
リーリヤは枝の杖を下からすくい上げるように大きく振り上げた。亜麻色の髪が風に煽られて舞い上がり、横顔が月に照らし出される。
「蜜の付いた手を差し出して、森のベールをめくりましょう―――」
視界の先、森の深奥に濃霧が切り裂かれるようにして黒々とした一画が突如として現れる。異様な領域だ。どす黒く染まった枯れた木々がひたすらに連なっているだけの荒れ果てた大地。不思議なことにその黒い森にだけは雪が残っておらず、白い霧も入り込めないようだった。傍目からは白い雲海の中に浮かぶ黒い孤島のように見えた。
遙か遠く離れたこの丘の上にいても息が詰まるような圧迫感を覚える。
「あれが魔境か」
アルマスの呟きに肩の上にいたままだった小鳥がアルマスを見上げ、あわせて魔女の影が応えた。
「おや。見るのは初めてかな。あれこそが我らを縛る忌まわしき地。魔境だよ」
アルマスは黒い森から目を離すことができなかった。
今にもおどろおどろしい何かが伸びてきて、アルマスの首を絞めにかかるようないい知れない悪寒がずっと途切れない。目を離した瞬間に命を奪われる。そんな予感がしてならなかった。きっと死の大地というのはこの場所のことを言うのだろう。
「なんとも情けない。『遍歴の智者』の代理殿はどうやら恐怖で言葉もでないようだ。震えて動けなくなる前に帰ったら如何かな」
黄金の栗鼠の影が嘲るように言う。
怖い。苦しい。それは間違いではない。それでもアルマスは振り払うように笑ってみせた。
「ご心配どうも。でも、この程度どうってことないですよ。自分の身くらい自分で守れますからね」
栗鼠の影はつまらなそうにするとリーリヤの方に向き直った。
「ひとまずは、かのぅ。あの娘、魔女としての素質は十分ある。流した魔力もこの地によく馴染んでおる。今のところ悪霊共も動く気配はなさそうだしの。しかし、酷なのはここからじゃぞ」
蛇の影が淡々と様子を伺っている。
「言っておくが小僧。もし万が一にも森が暴れ出すことがあれば妾はすぐに『戻る』からな。他の魔女共も同じであろうよ。それだけは心しておくがよい」
アルマスは気を引き締めた。
森が暴れる、というのは儀式の失敗を意味する。それこそ、およそ考えられる最悪の事態と言える。そうなったら魔女達はリーリヤやこの土地すら見捨てて逃げると言っているのだ。
薄情とは思わない。優先順位の問題だ。単純に、この森は彼女達の守るべき土地ではないのだ。
「さあ、次です。森を目覚めさせなさい」
梟の魔女に従って、リーリヤは次の段階に移ったようだった。
「聖なる木、幸運の林檎、祭壇の松。銀の鎖を伝って森の腕で迎えましょう―――」
一言ずつ区切るように時間をかけて歌い上げる。
その効果は顕著だった。
重たい地響きが微かに鳴ったかと思ったら、立っていられないほどの揺れがアルマス達を襲う。
何が起きているのかを見定めるべく眼下の森を見やればあまりの事にアルマスは間抜けにも口を開けてしまった。
「これは、また・・・。とんでもない、な」
とてつもない地震と地鳴りを伴って発生したのは、まさしく伝承に聞く神々の御業と見紛うほど。
森が、変動していた。大地がうねり、木々ごと盛り上がって動いている。森全体が脈動し、木や地面を覆っていた白い雪は地面に飲み込まれ、若々しい葉の緑色が顕在化する。瞬く間に冬の白は春の緑へと切り替わった。木も石も丘も湖でさえも等しく移り変わり、作り替えられていく。
古き森が跡形もなく壊され、生命力の溢れる新しき森が再生する。
これこそが『森開き』。霧として伝わったリーリヤの魔力に森中の妖精達が応えている。
恐るべき魔女の秘術。そして、妖精の力。
こんなものを見せられたら、人間の智恵や技術などなんてちっぽけなんだと思い知らされる。
「それでも、なんだよな・・・」
アルマスの呟きは誰にも聞かれることなく轟音にかき消された。
リーリヤはさすがに消耗したらしく、肩で息をしながら汗だくになっている。ぽたぽたと垂れ落ちる汗が彼女自身のすべてを振り絞って必死に儀式に臨んでいることを教えてくれる。
未だ鳴り止まぬ地響きの中、リーリヤが絶えず見据えているのは黒き森だった。あれだけの大規模な地形の変動があったにも関わらず、黒い森は健在だ。それどころか、アルマスの見間違いでなければ黒い森の範囲が広がっているような気がする。
いや、やはり見間違いではない。現在進行形で黒い領域が徐々に広まっている。
「これは、まずいのでは」
「まずいとも。押されてる。よく耐えてるとは思うけど、それでも浸食が強すぎる。『魔境』の領域の縮小どころか拡大するなんてね。『ヴェルナ』が『森開き』を強行するだけのことはあったわけか」
アルマスの予感に小鳥の魔女が同意する。
他の魔女達も明言はしないながらも概ね同じ考えのようであった。リーリヤの能力をなじる者はいない。それ以上に土地の状態が悪化しているとみている。
それでも押され気味ながらもなんとか抑えられるはずだった。黒い森の拡大を許しながらも儀式自体は完遂することもできるはずであったのだ。このまま何も起きなければ。
「なんという・・・!馬鹿なことを!」
梟の魔女の怒りの滲んだ叫びが耳に届く。
アルマスも見た。森の片隅で赤々と火の手が上がっていた。
「あれは村の方か」
村にほど近い部分で濁った煙を纏ってたくさんの木が燃えていた。
何があったのかを想像するのは容易かった。
村の人間が森に火を放ったのだ。故意なのか偶然なのかは知りようもない。会話を一方的に打ち切った魔女への腹いせの可能性もあれば、無謀にも森に分け入って遭遇した妖精から身を守るために火を放ったということも考えられる。
どちらにしろ大差はない。重要なのはすでに森の広範囲に火が燃え移ってしまっていることだ。
その勢いは弱まることなく激しさを増していく。
せっかく雪化粧が落とされたばかりの瑞々しい緑の森が無残にも焼け落ちている。
「霧が仇になったのか」
まだ小火であったのであれば対処も簡単であっただろう。
しかし、森に満ちた白い霧の中ではちょっとの煙など見分けがつかない。火が付いて直ぐに気付けというのも無理な話だ。
例え森が燃えてしまうのだとしても、この場は無視して儀式を継続するべきであった。焼けた森は魔女の力があれば再生するし、深奥より浸食を強める黒い森の方が遙かに脅威だったからだ。
だが、リーリヤはそうしなかった。その理由を小鳥の魔女が教えてくれた。
「愚か者達が妖精から逃げ惑っているね。大方この霧の魔力に酔って不安定になった妖精を無闇に刺激でもしたんだろう」
魔女を、リーリヤを追いかけようとでもしたのか。
幾ら錬金術師の作った魔具があるとはいえ、妖精の潜む夜の森に踏み込むとは考えなしが過ぎる。
平時ならまだしも、儀式の最中となればリーリヤに遠く離れた妖精の制御を期待するのは難しい。幸いというべきか、不幸というべきか、派手に火の手が上がったことからも『火泡の篝火』は準備しているはずだ。魔女という枷が外れて凶暴になった妖精相手にどこまでできるかはわからないが自力でどうにかして貰うしかない。そうでなければ死が待つだけだ。
「何人かは死人がでるか・・・」
「はっ。代理殿は甘いことを言う。運が良ければ何人か生き残る、の間違いだろう」
栗鼠の魔女が断言する。
悪辣な物言いだが、正直なところを言えばアルマスも同じ考えだった。
「優しいのう。次代の『ヴェルナ』は」
蛇の魔女がどうでもよさげに呟く。そして、続けた。
「だがそれは傲慢じゃぞ」
リーリヤは苦しそうに眉をしかめながらも枝の杖を振るう。アルマスの目には燃えさかる森の一部がほんの少し動いたような気がした。おそらく村人を助けるためだ。
「ぐぅ・・!」
「リーリヤ!村の人間など放っておきなさい!彼らは自らの責任で無謀にもこの森に踏み入った。それも、この儀式の日に!その代償を払うことになったまでのこと。そんな些事よりも儀式に集中するのです!」
村人に意識を割いただけ、黒い森の勢いもまた強くなる。森の奥と外から、黒と赤の津波が押し寄せてリーリヤを苛む。
村人の犠牲を見なかった振りして儀式を完遂すれば、これ以上の『魔境』の浸食を留めることができる。もし村人の救出を優先すれば、それだけこの白霞の森は黒く染まり荒廃する。
取るべき選択肢は明かだ。自分勝手な村の人間なんかよりも森を守る大義を優先する。
だがときとして人は合理的な判断を選べないときがある。
リーリヤは両方を取った。森を守り、村人も助ける。出来たのであれば、最善であろう選択肢を。それが間違いであるとはアルマスも言いたくなかった。
「っ、森を、守るおまじない。森を縛る、おまじないっ。赤と、白っ、と、黒の絹糸で、束ねましょうっ―――!」
最後の歌が紡がれる。『魔境』から溢れ出る瘴気を遮るために、膨大な木々が防壁となるよう森が変化する。同時に炎が天へと昇る燃えさかる森の区画は地面から水が噴き出て雨を降らす。
そして、黒き森は儀式が始まる前のように白い霧のベールに囲まれてその姿を隠した。
儀式の完遂、その言葉がアルマスの脳裏に過ぎる。
リーリヤは力を使い果たしたかのようにその場に座り込んだ。
「・・・リーリヤ。我が弟子。なんと、なんと」
梟が夜空に浮かぶ。高く、高く、月にすら届くのではないかと思わせるほどに。いつのまにか、周囲には魔女達の使い魔がいなくなっている。栗鼠も蛇も、あの巨躯を誇った熊さえも姿が消えている。
「愚かなことを!!」
霞の森の女主人、遠雷のような彼女の呪詛が吐き出された直後に森の一部で白い霧が吹き飛んだ。
汚泥がごとき真っ黒な瘴気が恐ろしいほどの速さで森を黒く染め上げる。『魔境』が急速に範囲を拡大していた。
ほぼ同時に上空で白が弾けた。
その勢いは凄まじく、アルマスは白い津波に飲まれたのだと思った。
白い津波は霧だった。それもリーリヤが生み出したものよりも遙かに濃密で重く身体に纏わり付いてくる。
霧の奔流の中、アルマスは頭上から巨大な影に覆われていることに気付いた。空に浮かんでいた梟は膨大な白い霧状の魔力を森中に撒き散らすとともに、その体積を巨大に膨れ上がらせていた。羽ばたくことを止めた梟が重力に従い落下する。その真下にはリーリヤがいた。
「リーリヤっ!」
巨大になった梟がリーリヤを踏みつぶそうとする。
呆然とへたり込んだままのリーリヤは逃げることさえできない。駆け込んだアルマスが彼女を抱えて助け出す。だが、巨体となった梟はアルマス達に直撃こそしなかったものの、その一撃は丘の一部を破壊するには十分すぎるものであった。
足場が崩壊する。もはや立つことすらできず、アルマスはリーリヤを守るように抱きしめながらただ落ちて行くしかなかった。