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5.魔女見習いリーリヤ

 見渡す限りのすべてが赤く染まる。


 未だ雪が残る大地も、トウヒの木も、そして空さえも柔らかくも力強い夕日の色に変えられていく。

 夜の帳が下ろされる前のほんのひとときの光景は見る者の心に感傷を与えてやまない。昼と夜の移り変わるこの頃合いは、時に雄大な自然への感動をもたらし、時に歩みを止めぬ時間への寂寥を感じさせる。そして、人では作り出すことが出来ない美しさを孕むからこそ、時に恐怖と共に魔を呼び起こす。


「『大禍時』なんてよく言ったものだね」


 徐々に太陽が地平線の向こうへと姿を隠し、周囲の闇が濃くなるほどに目に見えない何かの存在感が増していく気がする。

 アルマスは一抱えもある大きな切り株の上に腰掛けながら、ただ太陽が沈む様子を眺めていた。


 場所は魔女との約束通り、村の近くにある森の外縁の泉だ。冬の間は分厚い氷の膜が水面を覆っていたのだろうが、残雪があるといっても春を迎えた今となっては穏やかな水面が顔を覗かせている。

儀式が始まるまでもう少し。アルマスは美しき景色を見据えたまま静かに待っていた。

 そろそろ日が沈みきる。そんな時刻にシャンと涼やかな音が耳に入った。


「やっとおでましか」


 アルマスの佇む泉のほとりの対岸にある森の奥から何かが近づいてくる気配があった。

 シャン、とまた澄んだ音色が響く。さっきよりも大きく、近くに聞こえた。

 シャン、シャン、シャン。繰り返されるほどに大気が震え、森のざわめきが強くなる。


 やがて対岸に現れたのは数匹の狼が引くソリに乗った一人の若い女性。太陽が名残惜しむように残した一筋の陽光を浴びて、柔らかに波打つ亜麻色の髪が透けて燃える黄金のように輝いて見えた。

 魔女であることを示す黒いワンピースととんがり帽子を身に纏った女性は深い森の闇に溶け込むようでいて、宵闇を思わせる淡く暗い青色の瞳がアルマスの視線を引き寄せてやまない。


 眩いばかりの夕日の代わりに優しげな月明かりが顔出すまでのしばしの間、女性とアルマスは互いに互いを見つめ合っていた。


「やあ。久しぶり」


 先に声を上げたのはアルマスだった。

 無言の間などなかったかのように軽快な語り口で挨拶をする。

 対する女性は返事をするでもなく、手に持っていた葉っぱが付いたままの枝のような長い杖のようなものを無造作に振った。

 シャランと葉が擦れる涼しげな音を伴って振るう。するとソリに繋がれた狼のうちの一匹が頭を垂れて鼻先で泉の水面を撫でるように突いた。途端に穏やかだった泉の水が静かに広がる波紋と共に凍り付いていく。真っ直ぐに伸びていく氷の道はアルマスのいる対岸まであっという間に届いた。


 妖精を使役する魔女の秘術に感心する間もなく、今にも割れてしまいそうな薄い氷で作られた道を狼に引かれたソリがするりと滑ってくる。

 アルマスの目前で制止した狼達は、至近距離で目視すれば生き物ではないことがすぐにわかる。氷のように透き通った身体を持つこの妖精を見るのは二度目だ。一度目は昼間に魔女に村まで送ってもらった際だ。


 ソリから女性が降りてアルマスの正面に立った。それに合わせてアルマスも椅子代わりにしていた切り株から立ち上がる。灰色がかった薄茶色の長い髪をふわりと背に流した彼女は、アルマスよりも頭一つほど低い。彼女はアルマスを見上げる姿勢で、静かに声を紡いだ。


「―――アルマス・ポルク」


 聞く者を落ち着かせる女性らしい柔らかさのある低めの声。黒い衣装を着飾った彼女はそれだけを告げると薄紅色の小さな唇を閉じた。

 アルマスの口が弧を描く。


「そう、その通り。そして、君はリーリヤ・メッツァだ。忘れられてなくてよかったよ」


 アルマスに名を呼ばれた女性は微かに頷いた。

 リーリヤ・メッツァ。『霞の森の女主人』の後継者であり、魔女となりし者。正確に言うのであれば現時点ではまだ魔女見習いであり、この儀式の完遂と共に晴れて一人の魔女となる。


「10年ぶりくらいかな。あの生意気なおちびさんが見違えるように成長したね」


 アルマスとリーリヤは初対面ではない。

 遠い昔、数ヶ月という短い期間だが幼かった彼女とアルマスはともに暮らしていたことがある。子どもだったアルマスは詳しい事情は知らないが、アルマスよりも更に二つか三つ年下のリーリヤを屋敷で預かっていた。

 記憶の中の小さな女の子と目の前の女性を比べてみればやはり面影がある。柔らかそうな亜麻色の髪に、すっと通った綺麗な鼻筋、なにより想いの強さを内包する吸い込まれるような青灰色の瞳。


「・・・」


 リーリヤの反応は芳しくなかった。強張った彼女の表情は氷のように冷たく、無機質だった。

 それでもアルマスはいつものように軽口を続けようとして口を開き、言葉を出さないまま口を閉じた。

 知らぬ仲ではないために親しげに声を掛けてみたものの、改めて考えてみると随分昔に関わりがあった程度の仲だ。幼馴染みというには積み重ねた年月が乏しく、友人というには少しばかり年が離れ、腐れ縁というほど嫌いあっているわけでもない。共に遊んだし、笑い合ったし、喧嘩もした。しかしそれも大人になった今になって思えばほんの一時だけのこと。


 果たしてアルマスとリーリヤの関係を言葉にするならば何というのが正しいのだろうか。そして肝心の彼女はアルマスのことをどのように認識しているのだろうか。

 会話の糸口が掴めずに口を噤んでしまったアルマスの代わりに声を発したのはリーリヤだった。


「約束」


「へ?」


「約束を守ってくれたのね」


 感情の見えなかった鉄面皮が綻ぶように細やかな微笑みが浮かぶ。よく目をこらさなければ見逃してしまうほど僅かな変化だった。それは緊張のなかにどこか安堵の感情が滲み出ているように見えた。

 ひょっとしたらアルマス同様に距離感を掴み損ねているのではないかと勘ぐっていたが、リーリヤの様子を伺うにその心配は杞憂のようであった。『よく知らない馴れ馴れしい男』と思われて要らぬ警戒を与えないですんだことは喜ばしいことだ。


 このまま和やかに昔話に花を咲かせでもすれば、長い間顔を合わせることもなかった互いの溝も少しは埋まるというものだろう。実際、アルマスもそうしようかと考えていた。

 彼女の言う『約束』というものに心当たりがあると返答できるのであれば。


 アルマスに走った動揺をリーリヤは見逃さなかったらしい。朧気な月明かりのもとでもわかるほどはっきりとリーリヤの顔が曇る。


「もしかして覚えてないの?」


「いやいや。覚えてるよ。うん、覚えてる。だから、ちょっと待ってくれ」


 額を抑えて考え込むアルマスの態度は傍目から見てもわかりやすい。


「嘘・・・。でも、だとしたら、なんであなたはここにいるの?約束を守ってくれたから、だからあなたはこの儀式に呼ばれたのではないの?」


 リーリヤの青灰色の瞳が揺れている。その心情を察したわけではないだろうが、アルマスはようやく理解の表情を浮かべた。


「あー、あれかな。ほら、君の故郷を訪ねる、的な?」


「違うわ、そんな話じゃない・・・!」


 アルマスが悩んだ末に絞り出した回答は即座に否定された。


「ねえ、ほんとに覚えてないの?あの日、私達は約束したでしょう?冬の、ひどい嵐の夜に・・・」


「冬の嵐ってそんなに珍しくないからなぁ。それだけだとちょっと。言っちゃなんだけど君の勘違いという線は―――」


「そんなはずない!あなたははっきりと言ってたわ!例えあなたが忘れたのだとしても私は覚えてるもの!」


「まあまあ。落ち着いてよ。君の言うとおり約束をしてたとしても、子どもの頃にした他愛のない約束だろ?随分と昔のことだし、覚えてなくても仕方ないじゃないか」


 リーリヤは恐ろしいほどに張り詰めた雰囲気でアルマスに詰め寄ってくる。彼女の剣幕に触発されたかのようにうなり声を上げる氷の狼を横目で気にしながらリーリヤを宥めるが、どうやらアルマスの言葉は彼女に届いていないようだった。


「そんな・・・。なら・・・。なんで、私は」


 ふらつくように一歩下がったリーリヤは俯いてしまう。ただ事ではない様子の彼女にどうしたものかとアルマスが手をこまねいていると、リーリヤはきっと睨み付けるように顔を上げた。


「あなたと私は小さい頃に誓い合ったの。私は一人前の魔女になることを。あなたは遍歴の智者になることを」


 ここまで言えば思い出すでしょうとばかりに見上げてくるが、残念ながらアルマスにはその期待に応えることは出来そうもない。

 よく見れば彼女の指先が震えているのがわかった。あくまでアルマスには記憶にないとしか言えない話ではあるが、彼女にとっては『覚えていない』の一言で済ますことはできないものだったことが理解できる。ばつが悪くなったアルマスは黙って首を横に振るほかなかった。


「・・・そう。やっぱり、覚えていないのね」


 リーリヤは感情を漏らすまいと声を押し殺すように呟いたが、それは返って希望に縋っているように聞こえた。


「まあ、申し訳ないけど」


「別に、いいわよ。覚えてなくても約束を果たしてくれているなら。私はそれでいいの」


 聞き捨てならない言葉が聞こえた。


「ちょっと待ってくれ。約束を果たしただって?さっき君が言っていたことが約束の内容のすべてなら、俺は断固として否定しなければならない」


 異を唱えたのはアルマスだ。今度はリーリヤがアルマスの迫力に押されたように身を引いた。

 アルマスは大仰に手を広げて抗議する。


「いいか、俺は『遍歴の智者』なんかじゃない」


「・・・え?」


 何を言っているのかわからないという顔をするリーリヤにアルマスはゆっくりとかみ砕くように伝える。


「俺がこの森に来たのはあくまでどこにいるかもわからない放蕩親父の代役なんだよ。決して俺自身が『遍歴の智者』なんて古くさい役目を引き継いだわけじゃない。知ってるか?今の世を動かしているのは錬金術なんだ。日々の暮らしも、食べ物を作るのも、身を守るのだってそう。人々の生活の至る所に錬金術は使われている」


 アルマスの言葉が熱を帯びる。

 話すにつれて脳裏に疎ましい記憶が蘇り、どうしても苦々しげな感情が出てくる。


「対して、だ。『遍歴の智者』に必要な妖精学とか魔女学とか他にも幾つもあるけど、どれも面倒なわりに日常生活にはまったく何の役にも立たない。そんな時代遅れの学問を必死こいて修めるなんて馬鹿らしいだろう?俺だってそう思う。だから、こんな学問探究する奴は学者連中からも当然馬鹿にされる。それはもう嫌がらせされまくりだ。はた迷惑なことにそんなのが身内にいるってだけでそうなる」


 勢いに押されているリーリヤはきっとなんの話かもうわかっていないだろう。

 それでも構わずアルマスはこの問答の結論を告げる。


「そういうわけで俺は錬金術師になる。というか、なった。『遍歴の智者』なんて頼まれたってなりたくないね」


「じゃ、じゃあ。約束は、約束はどうなるの?」


「そもそも俺はしたつもりはないんだけど。まあ、無効になるね」


 あまりにも軽く告げるアルマスに、呆然とした表情で口をぱくぱくとさせるリーリヤ。どうやら言葉が出てこないようだが、それでも諦めきれないようで何かを口にしようとしたところをアルマスは手で制した。


「おっと。この話はこれで終わり。お客さんが来たようだからね」


「何を言って・・・!」


 アルマスが指で示した先には森の暗闇の中で揺らめく火の玉が浮かんでいる。それも一つではない。何十という数の小さな火がそう遠くない場所でちらちらと動いている。


 妖精、ではない。あれは松明の明かりだ。

 火の玉がアルマス達の方に近づくにつれ、木々をかき分ける音や雪を踏みしめる音を伴って何十人もの男達が大声で話しているのが聞こえてくる。


「いったい何?何なの?」


 リーリヤは戸惑っている。勝ち気な瞳に不安の色を浮かべ、眦が下がっている。それはそうだろう。森開きの儀式にこんな珍客の予定はない。

 やがて暗い森の中から男達が顔を出した。


「本当にいた!」


「魔女だ!魔女がいるぞ!」


 興奮して叫んでいるのはさっき見た顔だ。昼間アルマスを縄で縛り上げてくれた村の若者衆。ついで落ち着きのない若者よりは多少警戒心を持っている中年の男連中が現れ、その中心には村長と錬金術師のキースキの姿が見えた。

 村人達はご丁寧に武装までしていた。鉈や斧をはじめとして鋤や鍬などの農具を構える様子はまさに魔女狩りだ。これで目的は話し合いだというのだから冗談にもほどがある。


「さて。彼らは君に用があるみたいだ。なに安心するといいよ。一応、君と話をしたいだけみたいだから」


 リーリヤの表情は先ほどからめまぐるしく変わっている。喜び、怒り、悲しみ、動揺。最初の無表情が嘘のようだ。それでも彼女は気丈にも顔を上げて彼らを見据えてみせた。


 さして間を開けずに村人達はリーリヤのもとへと辿り着いた。村長とキースキが代表として正面に出てくる。

 近くまで寄らずに距離を置いているのは彼女の側にいる狼の姿をした妖精を恐れてか、それとも彼女自身を恐れてか。いずれにせよ、懸命な判断だとは思う。


「ご助力感謝します」


 村長がアルマスに対して軽く目礼をした。村長が言っているのは魔女と落ち合う場所を女の子に伝えてあげた件だ。

 さすがに夜闇に沈む暗い森にあの幼い少女を連れてこないだけの常識は持ち合わせているようで安心した。


「俺はなんにもしてないよ。ただ、今晩の予定を声に出して確認しただけさ。ああ、もしかしたら近くにいた人の耳に聞こえてしまったかもしれないけど」


 アルマスはわざとらしくとぼけてみせる。

 別にアルマスは魔女と村人の仲を取り持ちたいわけでも村人の味方というわけでもない。アルマスはその場から一歩離れて身振りで話をするように促す。

 あわせて樹上に浮かぶ怪しげな二つの赤い光を視界の端で確認する。まだ動いていないことからも、もうしばらくは静観をするらしい。

 まず口火を切ったのは村長だ。


「新しき森の女主人殿。こうして無理に押しかけたことをお許しください。どうしてもあなたとお話したいことがあるのです。どうかお聞き願いたい」


「どういうつもり、アルマス・ポルク。魔女と彼らは不可侵。私達は必要以上に関わることはしないのよ」


 村長ではなくリーリヤの批難がアルマスに飛んでくる。リーリヤは村長ひいては村の人間の話を聞くつもりがないようだった。予想通りと言えば予想通りの反応だ。なにせ魔女と村人は敵対まではせずとも好意的な感情を持っているとは到底言いがたい関係なのだ。


 それはいいのだが、なぜそこでアルマスに話を振るのか。この件においてアルマスはまったくの部外者だというのに。

 いや、それこそが『遍歴の智者』の本来の役割だったか。魔女と人の間に横たわる隔絶を取り除く調停役。同じ国に住まい、同じ言葉を話しているのに不思議なものではあるが、それほどまでに彼女ら魔女は常識では測れない存在とも言える。

 なんにせよ、所詮は代役でしかないアルマスにそこまで求めないで欲しい。アルマスは肩をすくめることで答えとした。


「それにさっきの話、私は納得していないわ」


「君は案外強情だな。でも、今はそれどころじゃないはずだよ」


 村人達の雰囲気は剣呑としている。さっきは敵対まではいかないといったが、武器を抱えて大勢で乗り込んできた彼らからは武力行使も辞さない覚悟があるように感じられる。無論、その程度で魔女をどうにかできるとは思わない。なにせここは『白霞の森』、魔女の領域だ。

 荒々しい鼻息を立てて今にも爆発しそうな村人達を抑えるように一歩出て村長が魔女へと語りかける。


「そう仰らないでください。我らが村とあなた方魔女との古き盟約について今一度協議を行いたいのです。数百年も前に交わされた盟約です。見直すべきことだってありましょう」


「私はそう思わない。今すぐここから立ち去りなさい。そうすればその冷たい鉄の塊を私に向けているのを見なかったことにしてあげる」


「そんな・・・!」


 リーリヤは歯牙にも掛けない。村長の顔が暗くなるのと同時に後ろにいた村人達が納得いかないと詰め寄ろうとし、狼の妖精の一喝を受けて逆に後ずさる。


「私はただ魔女の務めを全うするだけ。・・・そう、務めを果たすのよ、リーリヤ」


 リーリヤは小声で呟く。それは自身に言い聞かせているようだった。


「もういい、村長殿。まるで会話が成り立たん。魔女よ!こちらの要望は一つ。貴様ら魔女の不当な森の占拠をやめよ!我らとの対等な共存を受け入れられぬと言うならば、この森から立ち去ってもらう!」


 魔女に対して配慮した言い回しをする村長にしびれを切らしたキースキが年に見合わぬ大声を張る。魔女への大胆な物言いは村の外部からやってきた人間であることの証左に思えた。なによりも魔女への怯えや恐れというものがまったくない。腕の立つ錬金術師であるという自負があり、事実色々と調合や練成をして準備をしてきているのだろう。


「不当?占拠?何を言ってるの?」


 困惑するリーリヤの声が聞こえる。彼らの要望を本当に突っぱねる気なら何を言われようと相手にしなければいいのに。そうしないのは魔女としての矜持が傷つけられたかそれとも無視しきれない彼女の優しさ故なのか。

 しかし、アルマスの予想よりも事態は大きくなっている。彼らの目的はもっと俗物的なものだと思っていたが、魔女を追い払うと言い出すとは。


「ふん。貴様らが森に生えている非常に貴重な素材を囲っていることはわかっている。今更隠し立てするなど白々しい。ここには学術的にも重要な植物が自生している。だが、古き盟約などとうそぶいて村の人間が森で採取することに過剰な制限をかけているというではないか」


 キースキは腕を突き出して強く糾弾する。その手には火のついていないランタンが握られていた。もちろん間抜けにも火を付け忘れたというわけではなく、魔女に対抗するために用意した魔具だろう。


「森の奥地へと侵入することを禁ずる。勝手に採取をされぬように霧を使って妨害しているのもそのためだろう。なんという傲慢!この素材が出回るだけでどれだけ錬金術が発展し、世の中への貢献となるかを考えたことがないのか!自らの利ばかりを追い求めるなど愚か極まることだ!」


「へえ。大義はそれか。もちろん、『表向きは』だろうけど」


 キースキの演説を聞き流しながらアルマスは納得したように頷いた。

 キースキが義憤に駆られているのは本当だろう。彼はとても演技をしているようには見えない。しかし、村の人間は別だ。キースキの言葉を耳にして村人の何人かが視線を逸らしたのをアルマスは見逃さなかった。


 結局の所、村人達の目当てはそこなのだ。キースキが述べたように魔女の棲み処となる土地には錬金術の素材としては一級品という言葉では表現できないほどに価値のあるものが存在する。それはつまり森からもたらされるその素材を売り払うことによって、村の人間はこの辺境では考えられない裕福な暮らしを実現していたというわけだ。


 要はもっと自由にお高い植物を採取して、もっと贅沢な生活をしたいというのが村人の本音なのだ。

 人々への貢献だとか、錬金術の探求だとかは、ここらでは高名だというキースキを焚き付けるための餌に過ぎない。真面目で思い込みの激しい錬金術師が迷走してしまうのはよくあることだ。なまじ実力が伴っている分たちが悪い。


「森の恵みを独占し、私腹を肥やす悪しき魔女よ。我らの手を取れぬというならば力尽くで排除するまで」


 そうだそうだと上がる声を背景にキースキは手に持つランタンを高く掲げた。そしてランタンに仕込まれた赤い輝石を叩くと、それに反応してランタンの内部に火が灯る。


「『火泡の篝火』。当然、用意してくるか」


 ランタンで燃える炎は普通の火ではなかった。火の粉を散らす代わりに淡く輝く光の泡をいくつも溢れさせる。

 錬金術の探求の末、人類が唯一編み出した妖精への対抗手段『火泡の篝火』。

 人が火の泡に触れればほのかな熱さとともに満ち足りたような温かな気持ちをもたらす不思議な火だが、妖精は極端にこの火泡ひいてはランタンの炎を怖がる。現にリーリヤの側にいた氷の狼の妖精達はふわふわと宙を漂う火泡に警戒を露わにし、じりじりと後退までしている。


 広範囲にばらまかれた泡は泉に張った氷面に反射してひどく幻想的でもある。だがどんなに綺麗でもこれは紛れもなく火。風に吹かれた火の泡の一つが雪の地面に触れ、ジュっという音と共に少しの雪を溶かして弾けて消えた。

 人以外のものに触れれば、火の粉同様に熱で焦がしてやがて炎として燃え移る。しかも手元で燃えるだけの松明と違い、火泡は風に吹かれてふらふらと不規則に飛び回り、その量も十や二十ではきかない。確かに妖精への有効な手段ではあるが森で使うには危険すぎる代物だ。


 まさか森ごと燃やすつもりではあるまい。それこそ彼らのいう森の恵みが焼き払われてしまうことになる。いくら魔女に対する強力な一手であるといえども、いささか無茶が過ぎる。

 キースキはさらにリーリヤに向けて踏み出す。氷の狼は威嚇をするもランタンの火が嫌なのか委縮してしまい唸り声も弱弱しい。


「魔女の時代は終わった。これからは我々人の手で切り開く時代なのだ」


 『火泡の篝火』が発明されて以降、人類は妖精の脅威から逃れつつあるのは事実だ。そこらの森に分け入ることも命がけではなくなったし、街が襲われて破滅することも聞かなくなった。人々が受ける魔女からの恩恵は時代と共に薄れている。

 それにしても面白いことを言うとアルマスは思った。それでは魔女が人ではないかのような物言いだ。


「もう、いいわ」


 リーリヤの纏う雰囲気が変わる。

 手に持った木の枝の杖を地面にトンと突く。シャンと葉擦れの音がなり、及び腰になっていた狼達がびくりと揺れる。そして、リーリヤの方を振り向き、火の灯るランタンを持つキースキに対してよりも明らかに怯えた様子を見せた。

 もう一度リーリヤが枝の杖を地面に振り下ろす。それで狼達はキースキを含めた村人達に完全に向き直り、ぎらりと尖った歯をむき出しにした。まるで『火泡の篝火』よりも魔女の方が恐ろしいとばかりだ。


 リーリヤが小さく息を吸う。そして、枝の杖を小刻みに振りながら歌うように口ずさむ。


「赤い帽子の女の子が森を歩いていると―――」


 ゆらりと彼女から立ち上る何か。

 彼女の周りの空間が急に密度を増したように重くなる。ぴりぴりと精神を押しつぶす異様な圧力を感じて、村人達が騒然とする。おぼつかない足で逃げる者、尻餅をついて後ずさる者、歯を食いしばって耐える者。さすがにキースキと村長は顔面を蒼白にしながらもその場に留まっている。


「カタヤタルがやってきて彼女を怒らせた―――」


 リーリヤが続きを歌い上げているそのとき、ホー、と森に木霊する梟の鳴き声が聞こえた。

 リーリヤはぴたりと歌うのを止める。次いで纏っていた異質な雰囲気が霧散する。


「あちゃー。ここまでか」


 アルマスが上を仰げばそこには当代の魔女こと『霞の森の女主人』の使い魔が怪しく瞳を輝かせている。

 今の梟の鳴き声はリーリヤへの制止の呼びかけであり、催促でもあった。

 要は儀式を始める時が来たということ。こうなれば村人の相手など後回しだ。


「なんともきりが悪いところだけどしょうがない。儀式優先だしな」


 リーリヤと村人達の話し合い、半ばその域を超えていた気もするが、とにかく話し合いもこれでお終い。村人も言いたいことは言ったのだろうが到底納得などしていない。リーリヤとしても中途半端に終わったことで彼らへの牽制を失敗している。あれでは下手すると敵愾心を煽るだけで逆効果だ。魔女という畏怖と威厳を示し、不満を飲み込ませるには単純に恐怖が足りない。


 梟が樹上から飛び立ち、もう一度鳴く。心なしか先ほどよりも鋭い。急げということだろう。


「始めるわよ。乗りなさい、アルマス・ポルク」


「りょーかい」


 リーリヤの指示どおりに木製の大きなソリに乗り込むアルマスを遠巻きにしたまま、村長がリーリヤを呼び止める。


「待ってください!まだ話は終わってません!」


 しかし、リーリヤは見向きもしない。

 彼女が枝の杖を振るうのに合わせて狼達が俊敏に動き、来た道を戻るように泉の上の氷の道を走り始める。


「もう一悶着ありそうだな」


 怒り狂って罵声を上げる村人達の姿がどんどんと小さくなるのを見届ける。

 アルマスの呟きを置いてけぼりにして、ソリは森の暗がりへと滑り込んでいった。

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