14.にぎやかな日常
リーリヤの朝はすっきりとした目覚めから始まった。
ベッドから抜け出ると躊躇うことなくカーテンを開け放ち、腕を上げて一伸びした後に太陽に向かって『おはよう』と挨拶する。
二度寝なんてせずに服を着替えると、イレネの用意した朝ご飯を食べて、自分から片付けの手伝いを申し出た。
かつてこんなに爽やかな朝を過ごすことがあっただろうか。心が晴れるとここまで軽やかに動けるとは。
それもこれもティアのおかげだ。悩み事を聞いてもらってよかった。問題を解決したわけではないけれども、どうすればいいかはなんとなくわかったのが大きい。
今日は明るく元気な一日にしてみよう。
そんなお気楽な気分でいられたのは、ほんの最初だけ。
「はぁ。ゆううつ・・・」
ベッドの上で仰向けになったリーリヤは、ぼんやりと天井を見上げる。
ポンと急に上がった機嫌が、ボンと真っ逆さまに落ちることもよくあること。
ましてや、自分の気分が良くても他人がそうとは限らない。
リーリヤはごろりとひっくり返ってうつ伏せになる。
「何もあんなに突っかかってこなくてもいいじゃない。せっかく気持ちを切り替えようと思ったばっかりだったのに」
ヘレナとのやりとりがリーリヤの気持ちを一気に落ち込ませた。
昨晩、ヘレニウス家から戻った後からなんだかヘレナの機嫌が悪いのだ。特にティアが優しかったと伝えてからは、あからさまにリーリヤにつんけんし始めた。
そのヘレナは本当かどうか知らないが、教会の手伝いがあるからと朝早くから出かけてしまった。
なので、今日はイレネが太陽の恵み亭への送り迎えをしてくれることになった。今もイレネの仕事が一息つくのを待っているところだ。
「よくわからないことも言われたし」
ヘレナが家を出る間際に言い残していったことがリーリヤの心に再び暗い陰を落としかけている。
イレネに呼ばれるまでリーリヤはずっと枕に顔をうずめるのだった。
「リーリヤちゃん、今日はどうしたの?昨日まではあんなに伸び伸びしてたのに」
テーブルにぐったりと上半身を横たえるリーリヤにモニカは目を丸くする。
太陽の恵み亭に来たばかりだというのにリーリヤはすでにこの様子である。
早朝から精力的に働き回るモニカとはまさに対照的だった。
リーリヤはテーブルから顔だけ起こしてモニカに尋ねる。
「ねぇ、『よろこびのマツリカ』って知ってる?」
「えっ。それは・・・」
「今朝、ヘレナに言われたのよ。この街には3人当て嵌まる人がいるって。私とあなたともう1人。3人揃ってそう呼ばれているらしいわ」
ヘレナの言い草からして碌な物ではないことはなんとなく察している。それでも、リーリヤはあえて冗談っぽく言ってみた。
「『マツリカ』って、ちょっと響きが可愛いわよね」
しかし、笑ってくれるだろうなと思っていたモニカは思いっきり顔を強張らせている。
「リーリヤちゃん。意味、理解して言ってる・・・?」
「え?」
モニカはテラスに他の人影がないことを確認してから、リーリヤに耳打ちをしてきた。
「あのね。その言葉は、『男性を誑かして悦ぶはしたない女』だって言われてるんだよ」
「っ―――!?」
瞬間、リーリヤは顔を真っ赤に染める。
「な、なにそれ!?私、そんなのじゃない!?」
「あたしだってそうだよ」
リーリヤの取り乱しようにモニカは苦笑する。
「リーリヤちゃん、時々かなり世間ずれしたこと言うよね」
「うっ」
心当たりがあるリーリヤは言い返せない。
静かに悶えるリーリヤを尻目にモニカはいつも通りに用意していたポットからお茶を注いでいる。
「はい。どうぞ」
「あ、ありがと」
モニカからハーブティーの入ったカップを受け取ると、リーリヤはのそのそと上体を起こす。
リーリヤが椅子に座り直すのに合わせて、モニカも着座した。
「あんまり大きな声で話すことじゃないんだけどね。『悦びの茉莉花』っていうのは、この街にいた人、いや、んー、実在したと言われる人物かな」
あんまりにもめちゃくちゃな話なんだよね、と前置いてモニカは語る。
「昔ね―――」
モニカの語った話は確かに現実的ではなかった。
遥か過去、フルクートには悪女の代名詞とされる若い女性がいたらしい。
「100年や200年じゃきかないくらい大昔のお話だから、あまり詳しくは伝わってなくて。でも、街の歴史を習うときには必ず登場する人物なの」
学校の授業では、その女性を中心に街全体を巻き込む大騒動が起きたのだと教えられるらしい。しかも、恐ろしいことに街が機能不全となるほどの緊急事態だったのだとか。
その原因が、たった1人の女性をめぐる色恋沙汰だとは。
常識不足のリーリヤでさえ、そんなまさかと疑う結末だ。
「茉莉花とはジャスミンの別名。その花言葉には『優美』とか良い意味もたくさんあるよ。けど、反対に悪い言葉もあるの。それがね、『淫ら』。それになぞらえて、男の人を誑かす女性のことを『悦びの茉莉花』って呼ぶようになったみたい」
モニカは親衛隊とやらの若い男達をたくさん囲っていると。
そして、リーリヤはアルマスを誑かしたと。
そんな妬みから標的にされたリーリヤ達は、面白おかしく歴史上の大悪女の再来だと騒ぎ立てられている。
はた迷惑な話だ。腹立たしいを通り越して、虚しくなる程度には。
リーリヤはまたテーブルに突っ伏す。
「リーリヤちゃんも相当な美人さんだものね。遅かれ早かれこうなってたよ。だから、元気だしたら、リーリヤちゃん」
美人。
褒め言葉なのにまったく嬉しく感じない。リーリヤ自身が自分のことを美人だと思ってないせいもある。
リーリヤと同じ境遇、いや、昨日少女達に取り囲まれていた様子を見るに、それ以上の酷い目にあっているだろうモニカはいつもどおりの愛嬌に溢れた笑みをニコニコと浮かべている。
「モニカちゃんはなんでそんなに平気そうなの?」
「気にしてないわけじゃないよ。それどころじゃないのが一番大きいのかも」
悩み事から一旦離れて、別のことに意識を向けてみること。
ティアから貰ったアドバイスが浮かぶ。
リーリヤと違ってモニカはただ単に忙しいだけかもしれないが。
リーリヤにも何かやるべきことでもあれば、少しはこの憂鬱さも楽になるのだろうか。
そうは思っても具体的な案は出てこない。基本、リーリヤにはやりたいことも、やらなきゃならないこともないのだ。
せいぜいこのお茶会に出るくらいなもの。それだってこうして暇を持て余している。ゆったりと快適で、のんびりとした時間が逆に恨めしい。
唸るリーリヤの目の前でモニカは席を立つ。
「そろそろお昼のラッシュの仕込みをしなきゃ。あまり相手ができずにごめんね」
「ううん。別に―――」
そのとき、リーリヤの頭に名案がヒラリと舞い降りた。
「パン、作ってみたい」
「ええっ!?」
「そうよ。良い案じゃない。ねぇ、モニカちゃん。私、お店の手伝いしたい!」
パン作り。当然、それは料理の一種である。
そして、リーリヤはちょっぴりだけど料理に自信があったのだ。
最近はイレネの横に立って野菜の皮剥きをしたり、料理の盛り付けだってよくしているし、雑貨屋の手伝いで食材を扱うのも随分と手慣れてきた。
モニカに可愛いエプロンを借りたリーリヤは、パン焼き職人達が走り回る厨房に意気揚々と踏み入った。
「こ、こんな、はずじゃ」
結果はこのざまである。
リーリヤは汗だくになって、ベンチに横たわっていた。
「なんで手伝うなんて言っちゃったのよ、私・・・」
思い返せば思い返すほど、失敗の記憶が山程出てくる。
小麦粉に混ぜる水の分量を間違えたのは8回。
ミルクの入った大瓶をひっくり返したのは3回。
魚を包んだパイに勘違いして甘い果物のジャムを塗り込んだのは40個近く。
他にもまだまだある。
ライ麦の生地は固くてリーリヤにはとてもじゃないけど捏ねられないし、焼きたてのパンを転けて床にばら撒くのもしばしば。
挙句の果てには窯の熱気にあてられて、こうしてベンチに横になっている。
汗だくの服が肌に張り付いて気持ち悪い。
力なく倒れるリーリヤの様子を見に、ひょっこりとモニカが現れる。
「リーリヤちゃん、そろそろ動ける?パンの品出しをして欲しいの」
モニカはリーリヤとは比べ物にならない激務をこなして、なお疲れを感じさせない笑顔を浮かべている。
リーリヤの身体が震えたのは、汗で身体が冷えたからではないと思う。素直にモニカの行動力には驚きを禁じ得ない。
明るく売り子をしているのはもちろんのこと、パン焼き職人達にテキパキと指示を出す。その上で、パンを買いに来た客とも軽快に会話をこなし、泣き出した子どもがいれば、あっという間に笑顔にさせる。
なにより、リーリヤの後始末もモニカの仕事だった。
「ふぁい」
生返事をしてベンチから立ち上がろうとしたリーリヤは、覚束ない足取りで歩くこともままならずにペタンとベンチに座り込む。
脚に全然力が入らなかった。
「無理そう」
「そっか。なら、休んでていいよ。そうだ、回収をお願いしてた売り場の空籠ってどこにあるの?」
「うぇ?ど、どこ、置いたっけ・・・?」
頭が重くて上手く働かない。
失敗ばかりよく覚えているのに、肝心なことは思い出せない。
それが余計に情けなくてリーリヤの気分を落ち込ませる。
「オッケー。パン焼く前はなんでか粉保管の倉庫の中にいたよね?多分、あそこかな?リーリヤちゃんはそのまま休んでて大丈夫だからね。気にしないで」
モニカの優しい言葉がリーリヤには辛い。
ついでに思い出す。
モニカの推測はおそらく合っている。
この『太陽の恵み亭』は何十人もの職人が働く広い工房とはいえ、リーリヤは建物内で迷子になっていたのだ。そこをモニカに見つけてもらった。
忘れていたかった事実である。
リーリヤが身体の怠さと精神的な苦しみに呻いているうちに、お昼の忙しい時間も終わったようだ。
リーリヤが休んでいた休息室に他のパン焼き職人達がやってくる。
一仕事終えた彼らの空気は緩んでいる。
どんよりしているのはリーリヤの周囲だけだ。職人達もリーリヤには声一つかけることなく遠巻きに眺めている。
リーリヤは部屋の隅っこで、配られた賄いのパンをモソモソと囓る。
美味しいはずなのにとても味気なく感じる。三分の一も食べることなく、リーリヤはパンをテーブルに置く。
そんなリーリヤに近付いてくる人物がいた。
モニカだ。
「ねっ、リーリヤちゃん!午後はちょっと気分転換をしよう!」
向日葵のカチューシャと鮮やかな赤い髪が与える印象どおりの元気を振りまくモニカは、落ち込むリーリヤには少し眩しすぎた。
「ぶっは!風、凄っ!」
吹き付ける突風がリーリヤの亜麻色の髪を巻き上げる。
咄嗟に手で押さえつけようとしたのも虚しく、髪の毛は瞬く間にボサボサになった。
ここは商業区の中でも港に近い位置にある倉庫街。
湖にやってきたたくさんの船が下ろす、たくさんの荷物を、このたくさんの倉庫で管理しているそうだ。
そんな倉庫だらけの区画にも、倉庫以外の建物はある。
その一つがリーリヤがいる風車である。
風車自体は街中でも珍しくはない。特に商業区や職人街区には割とどこにでもあるそうだ。
小麦粉を挽いたり、石や木を切ったりと手間や力のいる作業に風車は何かと欠かせない。リーリヤも街を歩いていて、風車を見たことは何度もある。
そんな数多くある風車の中でも、この石塔の風車は一際大きくて目立つ。
辺り一帯に広がるのは倉庫ばかりとはいえ、石塔に登れば遠くの大きな広場までだって見渡せる。
「眺めも良くて素敵な場所よね。・・・・・・この風さえなければ!」
決して今日の天候が嵐みたいに荒れているわけではない。ほんのさっきまでは風も穏やかな晴天だった。
ならば、何が原因か。
リーリヤは頭上を見上げる。
風を受けた帆によって風車の羽根はクルクルと回る。いや、もはや勢いが強すぎて、ブオンブオンの方が正しい。
注目すべきは風切り音を立てて回る風車の周囲に、きらきらと緑色に光る点がいくつも見えることだ。
目を凝らせばなんとかその姿を捉えることができる。小さくて半透明な人型で、緑の燐光を纏って宙を自在に飛ぶ存在。
そう。風の精霊が舞っているのだ。
しかも、これ、絶賛暴走中だろう。怒り狂うというより、はしゃぎ回るといった感じにやりたい放題している。
「もう吹き飛ばされそうなんだけどっ・・・!?」
あちらこちらからと荒れ狂う風に煽られて、絶対に落ちまいとリーリヤは必死に手すりにしがみつく。
そろそろ限界と悲鳴を上げそうになった時、管理人と話してくると言っていたモニカがやっと階段を登ってやってきた。
モニカの服装は太陽の恵み亭で付けていたエプロンを外し、代わりに花の刺繡がされたケープを羽織っている。その手にはいつぞやに見た日傘が握られている。
「遅いわよ!『良いものを見せてあげる』って言ってたのに!酷い目に遭わされているんだけど!?」
「あはは。ごめんって、リーリヤちゃん。それにちゃんと見せてあげるよ。しかも、特等席でねっ!」
快活な返事とともにモニカは日傘を開く。
白地に向日葵の花がたっぷりと刺繍された日傘には、三輪の向日葵の『花飾り』が宝石のごとく黄色く艶めく。
この風の中で開くなんて危ない、と思うリーリヤの心配とは裏腹に、モニカは巧みに日傘を操り、軽やかにくるりと翻してみせる。まるで風の影響を感じさせなかった。
「さぁ。モニカちゃんの『花歌』をとくとご覧あれ」
戯けたようにはにかむモニカは、そっと指先で『花飾り』を撫でる。すると、向日葵の形をした結晶は眩しいくらいの輝きを宿し、沁み入るような澄んだ音を発する。
リィン、と『花飾り』の奏でるガラスよりも柔らかい繊細な音が幾重にも響き、共鳴し、幻想的な演奏へと昇華される。
同時に日傘からは向日葵の花びらが溢れ出す。
魔力でできた花びらが光の欠片を落として散る様は儚くも美しい。
目の前いっぱいに広がる光景の美しさと迫力にリーリヤは息を呑む。
この光景を観るのは2度目だ。
それでもリーリヤの心に去来した感動はなんら陰ることはなかった。むしろ、より強く惹きつけられる。
優雅に踊るような黄色い花々の渦に精霊達が包まれると、吹き荒れていた風の勢いが弱まった気がした。
「すこーし!強めに行くからね!」
明るくも力強いモニカの掛け声にあわせて、『花飾り』が一層煌めきを増す。
大きな、とても大きな向日葵を模した黄色い光の塊がモニカの前方に咲き誇った。
花びらの奔流が急激に加速する。
ああ、なんて幻想的なんだろう。
気づけば風は凪ぎ、風車は動きを止めていた。精霊も落ち着きを取り戻したようだった。
無数の黄色い残光だけが、名残惜しむようにふわりふわりと地面に降りそそぐ。
花びらの雨が収まるまで、リーリヤはその景色に見惚れていた。




