4.ヘレニウス家
アルマス・ポルクはリーリヤ・メッツァに恋をしている。
念のため言っておくとアルマスがリーリヤに告白をしたわけではない。誰か人づてに聞いたわけでもないし、それとなく噂話を耳にしたのでもない。
じゃあ、どうしてそう言い切れるのかと聞かれれば、そんなの見ればわかるとリーリヤは主張する。
だって、そうじゃないならアルマスのあの態度はどう説明するのか。
故郷の森を追放されて着の身着のままのリーリヤをこの街に誘い、衣食住を整え、仕事まで探してくれている。なんなら、リーリヤが現代に適した知識や教養がないことを知ると勉強まで教えてくれる。まさに至れり尽くせりという状況。
加えて言うならば、リーリヤは自分が愛嬌のある性格だとは思っていない。素直に気持ちを出すことに抵抗があるのは自分でも自覚している。深い森で暮らしていたのもあり、他者と関わってこなかったので会話も下手だ。年頃の乙女なのにお洒落もよく知らないし、ヘレナやセルマと違って流行にも疎い。なんなら部屋の窓から聞こえてくる井戸端会議を盗み聞くに、近所のおばさん達の方が詳しいと言えるだろう。
それにちょっと前までは魔女に生まれ育った誇りを支えに生きていた。これはきっと良い意味ではなく、ただの驕りだったのだと思う。自分は特別な存在なのだと思い込んで、周囲を見下して、弱い心を必死に守っていた。正直に白状すると今もその気持ちはまだある。今までの人生で築かれた価値観はそう簡単に変えられない。けれども、少しずつ直していこうと思い始めたところなのだ。
ともあれ、そんな面倒極まりない女をここまで手厚くお世話してくれるのはおかしいと―――仮にアルマスが紳士的で優しい性格だったのだとしても。実際にはそうでないことはよく知っているが―――自分のことながらリーリヤでさえ頷いてしまう。
そうなるとアルマスの行動理由としてリーリヤが考えついた先はただ1つ『恋愛感情』だった。
普段のアルマスは突拍子もなく、しかもなんとも軽々しい言動ばかりでリーリヤは振り回されっぱなしだ。今日だって急に訪ねて来たかと思えば、リーリヤの意見などまったく聞かずに当然のごとく家から引っ張り出された。せっかくセルマがお出かけに誘ってくれたのに。しかし、そんな理不尽な行動も改めて振り返ってみると最終的にはリーリヤの為になっていたりする。
それはまるでリーリヤが幼い頃から繰り返し読んできた数多の物語に描かれている恋愛模様そのもの。しょっちゅうあるリーリヤを小馬鹿にするようなからかいだって好きな子に向けたちょっかいに思えてくる。
これはもう絶対にリーリヤに惚れているはず。
そう。そのはずなのだ。
ならばこの仕打ちはなんなのかと出来ることならアルマスを問い詰めてやりたかった。
「あら?どうかなさって?」
真っ赤な装飾の施された美しい扇子で口元を隠した若い女性がリーリヤに声をかける。
やたら長いテーブルを挟んでリーリヤと向かい会う位置にその女性は座っている。
傍目からも良く手入れされていることがわかる艶を帯びたブラウンの髪は複雑に編み込まれ、透き通った鳶色の瞳は長い睫毛に縁取られている。住む世界が違う。そうリーリヤに思わせるほど女性は美しく、そして煌びやかな雰囲気を纏っていた。
「ひゃうっ。な、なんでも・・・・・・」
リーリヤは怒られているわけでもないのに逃げるように顔を俯かせた。
先ほどから居心地が悪いなんてものではない。見たこともない広くて豪華な部屋に連れて来られただけでも落ち着かないのに、初めてあったばかりの人物と二人きり。その上、この女性ときたら見た目はとんでもなく綺麗なのにどこか不気味で空恐ろしさを感じるのだ。
扇子で口の動きが見えないことも相まってまるで陶器で作られた等身大の人形を相手にしているみたいに無機質で感情を覗かせない。声も楚々としてお淑やかではあっても、やはり抑揚に乏しかった。
人によってはその容姿を絶賛したり、声だって聞き心地が良いと褒め称えたりするのだとは思う。実際、どちらも美しくはあるのだ。しかし、リーリヤは人間らしさが希薄なこの女性に対してどうしても気味悪さが上回ってしまっていた。
「そう。でしたら、ご自由にどうぞ。貴女のために用意させたものですから」
そう言って女性が指し示すのはリーリヤの目の前に置かれた軽食だった。女性が使用人に指示を出してわざわざ作らせたのだ。
リーリヤはお腹に手を当ててから料理に視線を落とす。お腹は空いている。昼食を食べ損なってしまったのでこれくらいの量なら軽く平らげることができる。それでも、リーリヤはせっかくの料理を前に気が進まなかった。
「あ、あの。やっぱり私一人で食べるのはちょっと・・・」
「お気遣いされなくてよろしくてよ」
女性はそう言うと湯気が揺れるお茶の入ったカップを優雅に手に取った。
「わたくしはもう昼食はすませておりますの。こちらだけで十分ですわ」
別に気遣いをしているわけではないとリーリヤは言いたかった。
この女性の無感情な視線を一身に浴びながら食事をしないといけない状況が嫌なだけだ。
いや、それも本当はどうでもいい。
リーリヤが頭を悩ませているのは別のことだ。目の前の料理の食べ方がわからない。それがリーリヤを窮地に追い詰めているたった1つの問題だった。
見た目は如何にも美味しそうだ。手の平よりも小さいくらいのスライスされたパンの上に彩り豊かな具材が載ったものが6種類並んでいる。具はたっぷりの剥きエビ、刻んだハーブを混ぜ込んだクリームチーズ、何かの野菜のグリルなど。リーリヤに料理を運んだメイドはサンドイッチだと言っていた。
まずそこでリーリヤは混乱した。リーリヤの知っているパンとパンで挟んだサンドイッチとは形が違ったのだ。そして、更にはお皿の横にナイフとフォークが準備された。サンドイッチとは素手で手軽に食べる物だと思っていたリーリヤはそこでまた身体を硬直させた。
――――――どうやって食べるの!?わかんない!
リーリヤは心の内で悲鳴を上げる。
これがステーン家で出された食事だったなら何も気にせずに素手で掴んで一個ずつ齧り付いただろう。けれど、ここはステーン家とは比べものにもならない街の中央部に建つ大きなお屋敷で、リーリヤの正面にいるのはそのご令嬢だ。
リーリヤはアルマスに言われたことを思い出す。
『気を引き締めてね。ヘレニウス家のお嬢様は礼節にすっごくうるさいから。もし彼女の機嫌を損ねたら、明日からこの街に住めなくなってもおかしくないよ』
リーリヤは小さく身体を震わせる。
女性の瞳はさっきからずっとリーリヤを向いている。きっとリーリヤの動きを注意深く観察しているに違いない。リーリヤが誤った動作をすれば誤魔化す暇すらなく咎められそうだ。
しかし、リーリヤはそんな『礼節』なんてまるっきり知らない。ただでさえ常識だって怪しいというのに。
挟まれていないサンドイッチを前にリーリヤは『正しい食べ方』に頭を悩ませる。
いつもサンドイッチを食べるみたいに手で取るのも憚られる雰囲気だ。かといってナイフとフォークで食べるにせよ、手前のものから食べれば良いのか、それともちょっとずつ順繰りに食べるのか。
リーリヤは取りあえずナイフとフォークを握ってそのまま固まる。リーリヤが手を動かそうとする度に扇子の奥に隠された女性の表情が不機嫌に歪んでいるような気がしてならないのだ。
びくびくと怯えるリーリヤの内心を読み取ったかのように女性が促してくる。
「さぁ、どうぞ。お食べになって」
「ひぃ・・・・・・」
さすがにそろそろ手を付けないと別の意味で怒りを買いそうだ。リーリヤは迷いながらも料理に手を伸ばす。
――――――アルマスっ!早くっ、早く戻ってきて!
この場にはいない薄情なアルマスにリーリヤは念じる他なかった。
食事の誘いなんて断ればよかったと後悔するリーリヤはこんな恐ろしい事態に至るまでの一幕を思い返すのだった。
アーリコクッカ広場から馬車に揺られて連れてこられたのは住宅街区の家々とは比較にならない大きな屋敷や館が建ち並ぶ中央区でも殊更目を引く壮観な建物だった。
アルマスから聞いたところ、ヘレニウス家というこのフルクートの街でも有数の名家だという。歴史も古く、格式も高い家柄で、まさしく上流階級の象徴とも言えるそうだ。
庭に咲き誇る花々は瑞々しく、ゆったり眺めているだけで一日過ぎ去ってしまいそうな景観をしている。残念ながらゆっくり眺める暇は与えられなかったので、ヘレニウス家の使用人達に導かれるままにリーリヤはアルマスの背後に引っ付いていく。
そうして案内された部屋でリーリヤ達は二人並んでソファに腰掛けて待たされていた。呼び出しをしたヘレニウス家のお嬢様とやらは準備にもう少し時間がかかるらしい。
「なんでそんなに縮こまってんの?」
勝手知ったる家で寛ぐようにだらしなくソファに沈み込むアルマスは出されたお茶をこれまたぞんざいに啜りながらリーリヤに聞いてくる。
「あんたが脅かすからでしょ・・・!」
その理不尽さにリーリヤは声を潜めてアルマスに抗議する。先ほど馬車の中で失礼な振る舞いをすればどんな酷い目に会うかを散々忠告してきたのはアルマス自身だ。因みに小声になったのは部屋の隅に使用人が控えているからだ。
「なんで私も連れてきたのよ。呼ばれたのはあんただけなのに。私、関係ないじゃない」
なんだか物々しい雰囲気を醸し出す使用人達を見てリーリヤも最初は断ったのだ。どうやらアルマスがリーリヤを連れて行こうとしていた新しい仕事とは何の関係もなさそうだったし、使用人達もアルマスへの用事だと言っていたのでリーリヤは早々に厄介事から逃げようとした。なのにアルマスが無理矢理リーリヤを引っ張ってきたのだ。
「別にいいじゃないか。それにさ、あそこから一人で大丈夫だった?」
アルマスに痛い所を衝かれる。あの広場から一人で家まで帰れるかと聞かれると自信を持っては頷けない。また惨めに迷子になる様子がありありと目に浮かぶのがリーリヤは情けなかった。
「それは・・・、無理かもだけど・・・。でも、場違い過ぎて」
リーリヤは室内を見回す。そこかしこに配置された家具や調度品はどれも良く磨かれて、どことなく高級そうに見える。この座っているソファだってこんなに柔らかくて包み込んでくるものは初めてだ。ちょっと欲しいと思ったが、きっとステーン家で気軽に買える値段ではないとそれくらいはリーリヤにも察することができた。
「そう?君も辺鄙な田舎とはいえ元お嬢様何だからこういうのは慣れてるんじゃないの?」
「それはあんたが勝手に作った設定でしょ」
「そうだった。冗談は置いておいてだけど。あの森の館だって見た目はともかく、内部はかなり広かったろ?今更、身構えるほどかな?」
アルマスに言われて思い出すのはリーリヤが幼い頃から暮らしていた魔女の館。確かにあそこは外観こそこじんまりしているが、妖精の力で広げられた館の中はこの屋敷より大きいかもしれない。だが、あの館とここでは決定的に違うものがある。
「こんなに無駄にキラキラしてないわよ。なにより、人だってすごく多いし」
「ああ。本音はそれね。リーリヤは相変わらず人見知りだね」
「うっさい。知らない人がいると落ち着かないのよ」
リーリヤはアルマスを睨んでから脱力をする。
アルマスとくだらない言い合いをしていたら喉が渇いてしまった。用意されていたリーリヤの分のカップを手に取り、ほどよく良い香りを漂わせるお茶をゆっくりと飲む。ほっと息をつくとアルマスの満足そうな顔が目に入る。
今のやりとりはリーリヤの緊張を解すためにあえてしたようだった。適当な性格に見えるのに悔しくなるほどそつのない男だ。こういうところが憎めないとリーリヤは思う。いつもやり込められてばかりいてもアルマスを嫌いになれない理由の1つだ。
幾分と気分が楽になったリーリヤがお茶のお代わりを頼もうかと思ったとき、使用人達の意識が張り詰めるのがわかった。アルマスもだらけた姿勢から身体を起こしている。リーリヤも慌てて背筋を伸ばした。
「ご機嫌よう。ようこそおいでくださいました」
ほどなくして訪れたのはとても美しい女性だった。
年の頃はリーリヤよりも少し上だと思う。丁寧に結い上げられたブラウンの髪と綺麗な鳶色の瞳がリーリヤの視線を奪う。
ティア・ヘレニウス。このヘレニウス家のお嬢様だ。
リーリヤは自分の着ている白いサマードレスが途端に恥ずかしく思えてしまった。ティアの纏うドレスは繊細な刺繍が幾重にも施された上品さに溢れたものであり、如何にも自分の服装が薄っぺらく感じてしまったからだ。
「やぁ、ティア。いつも通り君は美しいね。でもって、何が『ようこそ』だ。君が強引に呼びつけたくせに」
これだけ気品のある女性を前にしてもやっぱりアルマスはアルマスだった。
はらはらするのはリーリヤだ。人にはあれだけ態度に気をつけるようにと言っていたのに、自分は普段と変わらない気安さのままだ。もしかしたら、それだけ2人は仲が良いのだろうか。そう考えるとリーリヤは言いしれない胸の疼きを感じた気がした。
アルマスに不躾な文句をぶつけられたティアは手に持った赤い刺繍の施された銀縁の扇子を広げて口元に当てると微かに笑い声を漏らす。そして、その視線がアルマスからリーリヤへと移る。
見知らぬこいつは誰なのか、そう態度で示しているようにリーリヤは思った。リーリヤは嫌な気持ちになるよりも、背筋がひやりとした感触に身を震わせた。この人は同じ人間なのだろうか。そんな疑問が頭を過ぎる。それほどまでにティア・ヘレニウスという女性が醸し出す雰囲気はリーリヤが今まで見てきた人達よりも異質だった。
「ああ。彼女のことは気にしないでよ。同じ場所に居合わせてさ。少し用事があったんだけど、誰かさんに急に連行されたもんでね。1人にさせるのも忍びなくてこうして同行してもらってるんだよ」
リーリヤの代わりにアルマスが事情を説明する。そもそもティアを相手に勝手に発言してはいけないような圧を感じたので、リーリヤは膝の上で握り拳を作って肩に力を込めた状態でひたすら黙っていた。せっかくアルマスがリーリヤの緊張を緩めてくれたのに、もう既に身体はガチガチである。
不思議なのはアルマスの話し方が勝ち誇っているように見えたことだ。
ティアはアルマスに意味深な視線を送ってからしばし無言になるとやがて一言だけ発した。
「まあ、良いでしょう」
透明感とでも言えばいいのか、澄んだ響きなのに感情の見えない不思議な声だった。
ティアはリーリヤ達とテーブルを挟んだ向かい側のソファに腰掛ける。それに合わせて使用人がティアの前にお茶を用意する。リーリヤ達の前に置かれていたカップも一度下げられ、温かなお茶が入れ直された。そして、お茶菓子として花の形を精巧に模した小さなクッキーが添えられる。
食べ物を見たことでリーリヤの食欲が刺激された。すっかり忘れていたがまだお昼を食べていなかった。昼を告げる鐘はとっくに鳴っているのでお腹が空くわけだ。しかし、こんなにも美味しそうなクッキーがあるのにとてもじゃないが食べられる空気ではなかった。
リーリヤの空腹を余所にアルマスが口を開く。
「話は大体想像が付いてる。悪いけど準備はまだだよ」
リーリヤにはそれが何の話かはわからなかった。首を傾げているとティアが表情を変えずに口を開く。
「あら?わたくしはまだ何も言っておりませんわ」
「おとぼけはいいよ。祭りの準備の話でしょ。っていうか、君が催促してくるとは思わなかった。なに?学術協会にでも突っつかれたの?」
ティアの返答はすぐにはなかった。優雅な動作でカップを口元に運ぶと香りを楽しむようにしてからお茶を口に含む。ついでにお菓子を摘まんでくれればリーリヤもその流れで食べることができたのにと思う。残念ながらティアはお菓子に関心を寄せてくれない。
「そうですわね。まずはお互いの近況を語り合ってから、と思ったのですが。貴方にそれを求めるべきではありませんでしたか」
「時間の無駄さ。君が令嬢たらんと伝統や礼節を重視しているのはもちろん知っているけど、俺もこういう性格なわけだからね」
カップをテーブルに戻したティアは再び扇子を広げた。
「さる参事会議員から苦情がありました。アルマス様。貴方に依頼していた魔具の作成が遅延していると」
「参事会、ね。また大きなところから来たね。頭の古い連中が学術協会経由で嫌がらせしてくる程度だと思ってたけど」
「これでは夏至祭の運営に支障が出かねないので雇用しているヘレニウス家が責任を取るべき、とのことでしてよ」
「そんな大袈裟な。俺の担当はただの公共の備品だぞ。それも在庫管理の兼ね合いで数を確保しておきたいってだけの」
アルマスが呆れた声を出す。
そのついでにアルマスは目線でリーリヤに伝えてくる。これはクッキーを食べても良いという合図だ。ひょっとしたら隣にいるアルマスにはリーリヤのお腹の悲鳴が聞こえていたのかもしれないが、それは乙女的には決して認めたくない内容なので単にアルマスの察しが良かっただけと思うことにする。
幸いティアも思い悩むようにカップに視線を落としているので、今のうちにとリーリヤはサッとクッキーに齧り付く。
口内にクリームの濃厚さと爽やかな甘みが広がる。これは前に食べたことがある味だ。そうだ、シロカエデという木からとれるシロップだったはずだ。花弁の形をした薄いクッキー部分も軽やかな食感でリーリヤを夢中にさせる。
ティアは徐に扇子を閉じる。パチンと小気味良い音が部屋に響いた。
「ええ。わたくしもそこは疑問に思っていますわ。けれど、その場で1つ面白い話を聞きましてよ」
「あー。やっぱり。君が把握してないはずないか」
「アルマス様。貴方を雇っているヘレニウス家の者として、わたくしには貴方の仕事ぶりを管理する義務があるのです」
クッキーを頬張っていたリーリヤはティアの言葉に反応する。話を聞くにアルマスはこのヘレニウス家に個人的に雇われているらしい。そういえば以前工房の持ち主は自分ではないと言っていた気がする。
ティアは扇子を開くと、アルマスを指し示した。
「些細な依頼と言えども貴方の過失は我がヘレニウス家の瑕疵となり得る。ですから、そうならないように事前に手配をしていたはずです。お尋ねいたしますわ。以前にお渡した素材はいったいどうしたのですか?貴方の腕であれば考えられないことですが、どれだけ失敗しても問題がないように十分な量を用意してあったはずです」
「うん、あれね。別のことに全部使っちゃったよ。ごめんね」
厳然たる態度を取るティアに対し、アルマスは実にあっけらかんとしたものだった。リーリヤもティアの存在を忘れてつい軽口を叩いてしまう。
「あんた、バカじゃないの」
「失敬な。必要だったんだよ、そのときは。それに悪かったとは思ってるよ?まさか全部使い切る羽目になるとは想定してなかったんだ」
アルマスは肩をすくめて頻りに仕方がなかったと主張する。何に使ったのかは知らないがアルマスが反省していないことだけはリーリヤにもよく伝わった。
別にそんな資格もないのにリーリヤが不満そうに鼻を鳴らすとアルマスはお詫びとばかりに自身のクッキーをお皿ごと差し出してきたのでリーリヤはこれ以上なじることを止めてやる。
扇子で表情を隠していたティアはまたもやパチンと音を立てて扇子を閉じる。
「仕方がないですわね。この件は不問といたしましょう。この話を蒸し返してもなんの進展もありませんもの。せめて次からは素材が無くなったことくらいは報告するように」
「さっすが、ティアお嬢様。話がわかるね。それに君のことだからもう代わりの素材を用意してくれてんじゃないの?」
アルマスがへらへらと笑みを浮かべる。
馬鹿にされているようでリーリヤなら思わず小突きたくなる。それでもティアは声を荒げることはおろか、眉を潜めることすらしない。ただ静かにお茶の香りを味わっているだけだ。
「ええ、少々高く付きましたが。後ほど案内させます。ああ、それと、1つお願いがありますわ」
「うん、いいよ」
アルマスはお願いの中身を聞くことなく受け入れていた。そこに一種の信頼関係が見て取れるようでリーリヤは面白くなかった。未だ止まぬ空腹を宥めるためと、リーリヤはカップのお茶を飲み干して胃に流し込む。
「例年、この時期は『迷う』子どもが多いでしょう?ですから貴方には事前に『白の標』を作って貰いたいのです。こちらも材料は既に用意をさせておりますわ」
「作れと言うなら作るよ?だけどさ、そんなの毎年わかりきっていることなんだから、どこぞの派閥の錬金術師がとっくに大量に作ってるんじゃないの?」
「ええ、いつもならその手筈になっているところです。ですが、どうやら問題が起きたようで」
ティアの鳶色の瞳は何も語らず、言葉を紡ぐバラ色の唇は変わらず扇子の向こう側に隠されている。
「どなたかに頼まれたというわけではありませんわ。しかし、我が家でも幾つか所持しておきたいのです」
「ふーん。権力争い、派閥同士の腹の探り合いって奴ね。そっちは君に任せるよ。得意だもんね、そういうの」
「ふふっ。仰っている意味がわかりかねますわ。わたくし、世間知らずなものでして」
扇子を畳んだティアは微笑を浮かべる。表情は笑っているのに感情が見えてこない、謂わば透明な微笑みだった。それなのに見惚れるほどに美しくて、リーリヤは知らぬうちに空になったカップを両手で握りしめる。
「よく言うよ。とにかく了解。俺は指示通りに作るとするさ」
アルマスは立ち上がるとリーリヤに振り返った。
「ちょっと行ってくる。素材の選別くらいは俺の仕事だろうしね。じゃあ、案内頼むよ」
「あっ。ちょっ。アルマス―――」
それだけ言うとアルマスはリーリヤを置いて1人の使用人とともに部屋を出て行ってしまう。
残るのは中身のないカップを抱えたリーリヤと再び扇子の下に表情を隠したティアだけだ。鏡を見なくてもわかる。今、リーリヤは酷く心細そうな顔をしていることだろう。
「貴女」
「ひゃ、ひゃいっ」
ティアから声をかけられると思っていなかったリーリヤは驚いてソファから腰を浮かせる。それをちょうどいいタイミングとでも言うようにティアはリーリヤに誘いをかけてきた。
「そうね。良かったらお食事でもいかが?」
「へ?」
この人は案外優しいのかもしれない。ぐぅと鳴り止まぬお腹を押さえてそう思ってしまったのがリーリヤの試練の始まりだった。
「何だ、これ?」
ヘレニウス家の財力を持って強引にかき集められた数多の素材を種類や質に応じて整理し、依頼された錬成に必要な分をそこから選別する。その作業を問題なく終えてヘレニウス家のメイドに仕分けた素材を工房に送り届けるようにと指示を出したアルマスは一息つこうと館の中の食堂に向かった。
何か小腹を満たせる物を用意してもらおうと扉を開けた先を見て、呆気にとられた声が出てしまったのが今さっきだ。
食堂ではアルマスが想像していなかった珍妙な光景が広がっていた。
アルマスの感性からすると無駄に馬鹿でかいテーブルの端でリーリヤがひんひんと泣きながら果物の乗った焼き菓子を食べている。
それだけでも理解に困るのに更にはその真後ろに立ったティアが真顔でじっとりとリーリヤを見下している。いつも優雅な令嬢を気取っているティアにしては珍しく随分と厳しめな視線だ。
状況を整理しようとアルマスは少しの間だけ考え込む。
「何だ、これ・・・・・・」
そして、やっぱり首を捻るのだった。
人々が行き交う往来を歩きながらアルマスは唐突に吹き出した。
先ほどのリーリヤ達の様子を思い出してしまったのだ。
「まだ笑うの?」
不機嫌そうに隣でリーリヤが唸り、アルマスは口元に拳を当ててすぐに取り繕う。
「んんっ。いや、そんなこと・・・・・・。ぶふっ」
言っている最中にまた笑いが込み上げてきて、結局腹を抱えて一頻り笑ってしまう。もちろんリーリヤは目をつり上げるとアルマスを置いて先に行ってしまった。
「ほんと、ごめんて。許してよ」
やっとこさ笑いの収まったアルマスが駆け足でリーリヤの横に並ぶ。
謝りながら顔を覗き見ればリーリヤの横顔が羞恥でほんのり赤く染まっている。リーリヤはアルマスから逃げるように顔を背けた。
ヘレニウス家からの帰り道、アルマス達は馬車で送ると言われたのを断り、中央区の中心部から商業区の広場に戻っているところだった。
小高い丘の上に立ち並ぶ大きくて立派な家々から雑然と建物が密集する風景へと移り変わるまでの間、リーリヤはずっとこんな感じでへそを曲げている。恥ずかしさとも怒りともとれない形容しがたい感情はまだまだ収まらないようだ。アルマスが何度も繰り返し思い出し笑いをしているせいかもしれないが。
「いや、実際、彼女に指導されるなんて凄い事だよ」
含み笑いを押し殺しつつアルマスは大袈裟に両手を広げる。
アルマスが食堂に戻った際に行われていたのは、ティアによるリーリヤへの食事作法の授業だった。
あのティア・ヘレニウスがどこともしれない娘に礼儀作法を教え込む。上流階級としての矜持が強いティアは目下の者の振る舞いに目くじらを立てることは滅多にない。余程の無礼でも働かない限りは涼しげな表情で受け流すのが常だ。それこそが持てる者故の余裕であり、持たざる者への義務と言うところか。
そんなティアが動いた。つまるところ、それだけリーリヤが見ていられなかったとも言う。
「なによ。サンドイッチくらいどう食べてもいいじゃない。一応、がんばって悩んだのよ。それなのに、あの人、私に『いったいどんな教育を受けてきたのかしら』だなんて」
「いやぁ、びっくりする気持ちもわかっちゃうな。まさかオープンサンドをわざわざ重ねて食べようとするなんて」
「ちゃんとナイフとフォークは使おうとしたのに」
オープンサンドとはスライスしたパンに具材を乗せただけのパンで挟まないサンドイッチだ。ナイフとフォークで切り分けながら食べる料理でレストランでは良く目にする。しかし、外で食事をする機会がほぼないリーリヤにとっては見慣れない食べ物だったのだろう。
オープンサンド同士をひっくり返して普通のサンドイッチのように食べようとしたらしい。その上でナイフを使ったはいいが、ただでさえ具材が多いオープンサンドなので、具材ははみ出るし、皿に溢れるし、上手く切れないし、と相当苦労したそうだ。食器を扱うのが下手な幼子のように食べ散らかす羽目になったとか。
その結果、見るに堪えなかったティアによって身に着けるべき淑女の作法の特訓が始まったのだ。それは昼食のサンドイッチだけでは終わらず、食後のデザートにまで及んだ。
リーリヤにとって悲惨な時間だったであろうことは言うまでもない。
「そもそもアルマスが私を置いて行っちゃうからあんなことになったんじゃない」
リーリヤの人見知りな性格を考えれば、初対面の人と二人きりになったらテンパった上で奇行に走るくらいは予想していてもよかった。けれども、リーリヤだって幼い子どもではないのだ。アルマスもそこまで面倒は見切れない。
とはいえ、無関係のリーリヤをヘレニウス家に引きずっていったのはアルマスだ。そのおかげで得た利もあるので無下にするのも可哀想だった。
「それはごめんよ。どうやら急ぎの用事だったみたいだからさ」
「そう言えば何かを作って欲しいって話だったわよね」
「ああ。『白き標』ね」
「『白き標』?」
目を瞬かせるリーリヤにアルマスはどこから説明しようかと悩み、ちょうどいい出来事があったのを思い出す。
「今日、広場に来るときに見たよね。あの『玉っころ』。覚えてる?」
「ええ。一応、精霊なのよね」
小さくて丸いひ弱な精霊。彼らの存在はフルクートの街の夏の風物詩でもある。
「そう。因果関係の説明が難しいんだけど、毎年、あれが出始めると迷子になる子どもが増えるんだよ」
「どういうこと?」
「どうやら一匹では大したことない『玉っころ』でも数が増えればそれなりに影響が出るらしい。家の近くで遊んでいたはずの子どもがいつの間にか遠くの広場にいたり、親と一緒に市場で買い物していたはずなのに知らぬうちに人気の少ない路地に立っていたとか。子ども自身も気付かないうちに遠く離れた場所に移動しているんだ。『精霊の小路』に迷い込むって昔から言われるんだけどね。そういうどこに行ったかわからなくなった子を探すための道具が『白き標』なんだよ。普通に探したら大変なんてもんじゃないからね」
「ふぅん。不思議なこともあるのね。・・・・・・あっ。見て、あそこっ」
声を上げたリーリヤが指で示した場所には『玉っころ』の姿があった。十字路に別れた路地の先だ。
「話をすれば、だね。リーリヤも気をつけなよ。迷子になったら1人じゃ帰れないんだから」
「むぐっ。人が気にしていることを・・・・・・」
にやりと口の端を持ち上げたアルマスとは逆にリーリヤは唇を尖らせている。
「あはは。冗談だよ。『精霊の小路』は子ども専用らしくてね。特に初等教育に入るか入らないかくらいの子達かな。君が巻き込まれるなんてことは―――」
おふざけのつもりで脅かしただけのつもりだった。本当にそれだけだったのだ。
だが、アルマスが視線を外した一瞬の後、そこにリーリヤは居なくなっていた。
「え?」
アルマスは慌てて周囲を見回す。
隠れる隙間も、時間だってなかった。それなのにリーリヤの姿はどこにもない。
「嘘だろ・・・・・・」
人々が足早に過ぎ去る十字路の真ん中でアルマスは呆然と立ち尽くすしかなかった。




