19.白日への焦がれ1
「これで終わりっと」
ぽぽぽん、と一際勢いよく大鍋から銀の輪光が吹き上がる。
片眼鏡を通して見える光景にアルマスは満足して頷く。
「うん。因子構成は想定通り。末端まで上手くかみ合ってる。なにより定着安定性が申し分ない。よし、総じて完璧以上の仕上がりだね。さすがは俺」
望んだ因子構成を成すということは、目的の練成物の作成に成功したことを指す。後の問題はその『質』に集約されるのだが、それに関しては語るまでもない。未だに大鍋から立ち上っている銀光を見れば、十分以上の成果を得ていることは明白だった。
アルマスはかまどから大鍋を下ろすと台座の上に置く。そして、かまどに灰をかけて手っ取り早く火を消した。
机に寄りかかるようにして大きく息を吐く。
もう汗だくだった。
燃え盛るかまどは熱いし、大鍋をかき回し続けていた両腕は疲労で軽く痙攣している。
休息を挟まずにぶっ通しで半日近く錬成するのは大分身体に堪えた。
本来ならもっと時間をかけて、1つ1つの素材をじっくり処理していき、場合によっては数日単位で錬成をしていく。長いと1か月や2か月かかることだってある。短時間に一気に作業を進めることができるのは実力がある証とはいえ、酷使した目や頭はもとより身体の負担がやはり大きい。
大鍋の中の出来たばかりの魔法薬から粗熱を取るついでに一息つく。
それでも止まらない汗が間違っても混ざらないように気をつけながら、空瓶の中に乳白色の魔法薬を詰めていく。まだほんのりと温かいそれはトロトロと粘り気がある液体だ。冷めたらもう少し固まり、クリームのように滑らかになるはずだ。
開け放たれた窓から空を見上げれば太陽は高く昇っており、どこからか喧騒が流れて聞こえてくる。いつの間にか昼も近い時間になっていた。
「ありゃ。寝ちゃったか」
作業が一段落してからリーリヤを見れば、椅子の背もたれに寄りかかって静かに寝息を立てていた。亜麻色の髪が一房垂れて、窓から入り込んだそよ風に揺れている。
どうやらリーリヤはアルマスが気付かないうちに寝入っていたようだった。
昨日は夜遅くまで起きていたし、朝も随分と早かったから当たり前と言えば当たり前だ。
このまま自然と目を覚ますまでそっとして上げたいところであるがこの後の予定もある。気持ちよさそうな寝顔に心苦しく感じつつも、アルマスはリーリヤの肩を揺する。
「ほら。起きて」
「・・・・・・ん、むぅ。私、寝ちゃってた?・・・・・・痛っ」
寝ぼけ眼で目元を擦ろうとするリーリヤは右手を掲げた拍子にぎこちなく動きを止める。
火傷があるのを忘れていて、痛みが走ったみたいだった。リーリヤの眉が情けなく顰められる。火傷は軽いようで重い怪我だ。一日経ったくらいでは治らないし、ひりつく痛みだってなくならない。
それがわかっていたからアルマスは早朝からわざわざ魔法薬の準備を進めていたのだ。
「右手、出してごらん」
「えっ?」
アルマスがそう言うとリーリヤは困惑した様子で逆に手を引っ込めてしまう。余り見せたくないのだろう、その手は握りしめられている。
昨晩は話の流れもあって無理矢理リーリヤの手を取ったりもした。今日のアルマスはそんなことをするつもりはなかった。
「リーリヤ」
アルマスが呼びかける。
するとリーリヤは迷った末におずおずと右手を差し出した。弱々しく出されたリーリヤの右手をアルマスは左手で優しく包み込む。びくりとその手が震えた。だが、リーリヤは手を引っ込めることはしなかった。代わりとばかりにリーリヤは顔を逸らして目を瞑ってしまったが。顔に赤みが差したように見えたものの、すぐに背けられてしまったので定かではなかった。
そんなことよりも、とアルマスの視線は下に向けられる。
強張った指が白くなるほど力が入っており、痛いだろうにリーリヤは右手を握りしめるのを止めなかった。
「指から力抜いて」
今度も少しの間をおいてから、リーリヤはゆっくりと自らの意思で指を開いていく。
アルマスはリーリヤの右手を見やる。手の平に走る赤い腫れはまだまだ痛々しい。肌が白いからこそ余計にそう思わせた。
「なに?なんなの、いきなり。どういう状況なの、これ・・・?」
リーリヤはアルマスが聞き取れないほど小さい声でぶつぶつと独り言を漏らしている。
アルマスは作業台の上に置いていた1つの瓶を取る。そこには作ったばかりの魔法薬がたっぷりと入っている。
「ちょっとくすぐったいからね」
「くすぐ・・・?え?なん―――」
頑なに目を閉じたままのリーリヤが慌てながら文句を言うがアルマスは取り合わなかった。ここまでくれば律儀に説明するよりも実際に体験した方が断然早い。
指で瓶から白いクリームを掬い取って、アルマスはリーリヤの赤く腫れた火傷跡に塗り込んでいく。
「ひゃうっ!?」
気の抜ける悲鳴を上げたリーリヤは身悶えするほどのむず痒さに溜まらず手を引っ込める。だが、それもあっという間に治まった。
びっくりして目を瞬かせていたリーリヤは、自らの右手を見て宵闇色の瞳を大きく見開いた。
「すごい・・・」
「『火傷の薬』さ。効果は抜群だろ?」
無論、この魔法薬の正式名称は別にある。しかし、この場ではそれだけ伝われば支障はなかった。
「もう全然痛くないわ。あんなにジンジンしてたのに。それにまったく跡が残ってない」
「そりゃよかったよ」
リーリヤの手はさっきまでの痛ましい跡が嘘だったかのように綺麗な肌を取り戻している。
なぜか手の平をくるくるとひっくり返して何度も治ったことを確かめているリーリヤをアルマスは不思議そうに見る。
「そんなに珍しい?魔女だって怪我の1つや2つ治す術くらいあるんじゃないの?」
あの広大な白霞の森だ。妖精の数も相当だろう。全てとはいかずとも大部分の妖精を従える魔女となれば、怪我の治療を行う術を持っていても何ら不思議ではない。なにせリーリヤは森を作り替えることすらできたのだ。妖精さえいれば出来ないことなど何もないと言われてもおかしくなかった。
だからリーリヤの返答は意外だった。
「そんなこと出来ないわよ」
何を当たり前のことを、と言わんばかりの表情をリーリヤはしていた。
「私達が扱うのは妖精なのよ?アルマスだって言ってたじゃない。妖精は人に危害を加えるって。その通りよ。あいつらは迷い込んだ旅人でもいようものならちょっかいを出さずにはいられないの。そんな奴らよ?使役するのはあくまで妖精の力。そんなのを使って怪我を治せると思う?」
「そう言われるとそうだね。彼らは『善』と『悪』で言うならば間違いなく『悪』だ。いや、本質的にはちょっと違うか。いずれにせよ、妖精の在り方は人を害する側面が強い」
リーリヤは『ちょっかい』なんて言葉を使ったが、妖精の所業なんて生死に直結する危険なものがほとんどだ。妖精を支配して自在に操る魔女の術も、あくまで妖精の力の範疇でしか振るえないということか。であれば、人を癒やしたりするよりも妖精の性質的には暴力や破壊の方面に偏るわけだ。
「あれ?待ってくれよ。あの館には確か『魔女の秘薬』があっただろう?」
もう随分と前に感じるが魔女の館にアルマスが訪れた際、その女主人ことリーリヤの師から『魔女の秘薬』を混ぜた飲み物を出されたことがある。万病に効き、あらゆる怪我を癒すと謳われる霊薬は、現代錬金術の極致でもなお届かない頂にある。当然、アルマスが作り上げたさっきの魔法薬とは比べものにすらならない。
「滅多に作れないのよ。本当に貴重なものだから私も触ったことすらないわ。保管場所もあの人しか知らない。あと、作り方だって――――」
「作り方を知ってるのか!?」
「はぅわっ」
アルマスが思わず身を乗り出す。
アルマスの気迫に押されたのか、リーリヤは奇妙な悲鳴と共に身体を後ろに下げようとして椅子の背もたれにぶつかり、アルマスから距離を取ることに失敗した。リーリヤは至近距離にあるアルマスの顔から逃げるようにあらぬ方向に視線を向けて早口で答えた。
「し、知らないわよっ。秘薬の作り方は森の魔女として認められたあかつきに伝授される予定だったのっ」
「なーんだ」
アルマスは残念そうに肩を落とす。アルマスがリーリヤへと詰めた距離を元に戻すとリーリヤは安堵の息を吐いた。
魔女の秘術は現代錬金術とはまったく違う技術体系をしている。例え『魔女の秘薬』の製法が完璧に判明してもそのまま錬金術のレシピとして活用することは無理だろう。それでも材料の1つでも知ることが出来れば、錬金術への新たな知見を得られたかもしれない。特に魔法薬の分野において一石を投じることになるのはほぼ間違いない。それ程までに魔女の秘術というのは人知を超えており、それ故にひどく秘匿的だ。
この世は未知に溢れている。些細な出来事が錬金術という学問にとんでもない変革を起こすこともある。ましてや魔女の秘術ともなれば期待せずにはいられなかった。それだけにリーリヤが製法を知らなかったのは残念だった。
「それにあれを作るのは物凄く大変らしいわよ。何年も何十年もかけてできるのはやっと爪の先くらいの量なんだって。あの人が珍しく嘆いてたのを覚えてる」
師のことを語るリーリヤは複雑な表情だ。
アルマスもまた勿体ないことをしたと内心後悔していた。やはりあのときに飲む振りをして持ち帰ってくればよかった。だが、悔やんだところでどうしようもない。そもそも『魔女の秘薬』を飲んでいなければ、きっとあの村で散々な目にあっていただろうことは想像に難くない。
しばらく顎に手を当てて火傷の薬が入った瓶を見ていたアルマスは徐にそれを掲げて見せた。
「リーリヤ、これあげるよ」
アルマスの急な提案にリーリヤは戸惑いを浮かべる。
「えっと、貰っていいの?」
「うん。まぁ、火傷にしか効かないけどね。でも、女の子なら持ってて損はないと思うよ」
「よくわからないけど、そうなの?」
含みを持たせたアルマスの言葉をリーリヤはよくわかっていない様子だった。こてん、と首を傾げている。別に悪い意味ではないし、逆に持っていた方がリーリヤのためでもある。それにもしかしたらこの後に使うことになるかもしれない。ならばリーリヤこそが持つべきだった。
「あっと。そうそう、忘れてた。このまま渡すとこだった。ちょっと待ってて」
瓶の口は開いていて、そのままでは傾けると溢れてしまう。
アルマスは瓶を作業台の上に一旦戻すと手早く蓋を閉める。その上で、ある物を瓶の上から巻いていく。
「はい。どうぞ」
「え?これって―――」
リーリヤの両手に火傷に効く魔法薬が入った瓶が収まる。
瓶にはリボンが巻き付けてあった。それも瓶に巻いても余りあるほどずっと長い。明らかに贈答用の飾りではなく、別の用途を想定している。
「髪を結ぶための、リボン、よね・・・?」
そのリボンは草色だった。派手な装飾もないシンプルな意匠。随分と昔にアルマスがリーリヤに贈ったものとよく似ている。違うのはリボンの端の方に鈴に似た形の白い花が連なっている刺繍があるくらいか。
「うん、そうだよ。前のリボンの代わりにと思って用意してたんだよね」
以前、昔にあげたリボンの話をしたときに妙に気にしていたリーリヤの反応から、アルマスはリーリヤがリボンを失くすなりしてしまったのだと思い込んでいた。だから、そのことを気に病んでいるリーリヤに向けて代わりのリボンを準備していたのだ。その必要性がなかったことは昨晩リーリヤから直接聞くことになったのだが、折角だからこのままリーリヤに渡してしまおうという考えだ。
因みにリボンはアルマスが市場を練り歩いて手に入れた物だ。小物売りの屋台にリボンはたくさん置いてあっても中々この渋い色味がなくて探すのに苦労した。もちろん人気で売り切れているという意味ではなく、この癖のある色を好んで買う変わり者が滅多にいないので初めから売っていないそうだ。何と言っても華やかな色彩と派手やかな飾りをふんだんに使ったおしゃれな物の方が流行なのだそう。
「良かったら使って。本来の趣旨とは違ったけど、君のための物だし」
それはアルマスの本心であり、事実そんな軽い気持ちでいた。アルマスはリーリヤが素直に受け取るものだと疑っていなかったのだ。
「よ、余計なお世話よ。お生憎様、結び紐やあくせさりーには困ってないの」
さすがにアルマスも言葉に詰まった。
リボン1つで大喜びするとまでは思っていなかった。けれども、普通に受け取るぐらいはするだろうと予想していたのだ。
アルマスからすれば手元に保管して置いてもしょうがない程度だったのに、実際に断られるとなんだか釈然としない気持ちになるのはなんでなのか。
「・・・あ、そうなの?そっか。余計なお世話だったか」
いらないならとアルマスがリボンを回収しようとするとリーリヤは慌ててアルマスの手を遮ってくる。
「で、でもね。せっかく準備してくれたんだし、貰ってあげないこともないわよ」
訳がわからなかった。
どっちだよ、と口から出そうになってアルマスはすんでのところで言葉を飲み込んだ。
リーリヤは頬を真っ赤に染め、挙動不審気味に目を泳がせている。
ひょっとすると自分でも何を言っているのかわかってないのかもしれない。
そういえばリーリヤもまだ10代なのだと思い出す。もう立派に大人の一人として数えられる年齢であっても、抜けきらない思春期が時折顔を出す年頃でもある。トビアスやイレネから聞くところによると意外なことに普段は大人びた雰囲気を醸し出しているらしいが、しかしそれも要は意地っ張りなのに人見知りのせいでそう見えるだけなのだ。だから、ちょっとしたことで容易に子どもみたいな幼稚な一面が顔を出す。
リーリヤが急に変なことを口走ったのもそれならば納得がいく。特にリーリヤは普通の街娘としての暮らしをしてこなかった経緯がある。そう考えれば現在進行形で多少遅い思春期の真っ只中でもおかしくない。
そこでアルマスはこれ以上この件について考えるのをやめた。思春期に揺れる乙女なんて合理的な思考から程遠い存在。深く考えるだけ無駄だと判断した。
「あー、うん。まぁ。好きにしていいよ。使うも捨てるもリーリヤの意思を尊重するよ」
「捨てないわよ・・・」
「ん?なに?」
「なんでもないっ!」
自由にしていいと言っているのになぜリーリヤが不機嫌そうにしているのかアルマスには理由が思いつかなかった。とりあえずリーリヤが受け取る意思を示しているので、これはこれで良しとしておこう。
アルマスはそう自身を納得させようとする。
ふて腐れて頬を膨らませているリーリヤを前にアルマスは情けなく頭を掻いた。
アルマスが魔法薬の調合に使った道具の片付けをしている間にリーリヤの機嫌は直っていた。時間が解決したといえば聞こえはいいが、どうやらそれで収まらずにまったく真逆の上機嫌にまでなっていた。怒ってるかと思いきやいつの間にかリボンを片手に鼻歌を奏でるリーリヤに気付いたときのアルマスの遣る瀬なさは筆舌に尽くしがたい。
それはいいのだが、とアルマスは背後を振り返る。
「で?なんでそんなに離れてるわけ?」
「き、気にしないでっ」
「いや、めっちゃ気になるんだけど」
リーリヤはアルマスから3歩は離れた距離にいる。
これが二人だけの場所であれば不審に思いはしてもわざわざ指摘するつもりはなかった。先ほどの思春期らしきよくわからない振る舞いの件もあるので害のない奇行は大目に見るつもりでいた。
「普通に後ろの人に迷惑だからこっちに詰めなって」
晴天とも言える澄んだ空の下、商業区の一端にあるアーリコクッカ広場は多くの人で賑わっている。ちょうど昼時なので、食事処や屋台には詰めかけるように大勢の人が押し寄せている。例に漏れずアルマス達もまた屋台の列に並んでいた。
リーリヤの背後では人の良さそうな若夫婦がアルマス達を見て微笑ましげにしている。それに気付いたリーリヤは恥ずかしそうに俯いてそそくさとアルマスの隣にやってくる。
地面を見つめているので亜麻色の髪に隠れてリーリヤの表情を伺うことは出来ない。なお、渡したばかりのリボンは汚さないようにと大事に仕舞っているらしくリーリヤは髪を結んでいない。それでも、髪の間から除く耳が赤く染まっていることから羞恥を感じていることだけは察することが出来た。
自らの痴態を見られたことに対してか、それともアルマスと横に並んでいる現状に対してか、一体どちらへの恥ずかしさなのかは不明だ。それでもリーリヤがこうもアルマスを意識している理由はなんとなくわかる。
前を向いたアルマスの視界には、サンドイッチの屋台の前に置かれた看板がある。看板には『カップル特別デー』なる記載が大々的にしてあった。ただ単に値段がお得になるだけではなく、『具材マシマシ。愛情マシマシ。2人で1つを分かち合い、愛を確かめ合おう。今日という日に素敵な思い出を』などとふざけた垂れ幕がでかでかとぶら下がっている。どうやらドデカいサンドイッチを恋人同士で一緒に食べる仕様らしい。
アルマス達の前にも何人か並んでいるが、どれも仲睦まじい男女の組み合わせだ。別にアルマスも狙ってこの屋台にしたわけではない。遅い朝食兼昼食を求めて広場まで来たものの、どこも人がごった返して仕方がなかったのだ。広場を見渡せばこの屋台以上に混雑している店ばかりだ。
この店の客が少ないのは偏にその派手な上に責めすぎた謳い文句のせいだろう。基本、興味本位で訪れている人が多そうだ。アルマスとしては昼時なのに大して並ぶことなく食事にありつけるので楽で良いというくらいの感想だが、常識的な感性を持ち合わせていれば少なからず躊躇する外観をしている。
正直なところリーリヤにそんな感性があると思っていなかったので、笑い話のつもりで文字の読めないリーリヤに謳い文句を読んで聞かせたら思い切り動揺していて驚いてしまった。嫌がる素振りではなかったが、急に落ち着かない様子になったのだ。結局、人混みが嫌すぎてこの屋台を選ぶことになったので、リーリヤの人見知りの本質には変わりがないようでアルマスはなんだか安心してしまった。
ねぇ、とリーリヤがアルマスの服の裾を引っ張る。
「ここまで来といてなんだけど。私、そんなにお腹空いてないの」
リーリヤがぽつりとそんなことを言い始める。
碌に朝食も食べてないのにそんなはずはと思う一方で、昨晩あれだけお菓子を食べていたのだからそれもそうかとも思う。
しかし、本当はきっとそんな理由ではないのだろう。アルマスが先ほど告げた次の行き先を知ったリーリヤはただ単に気が重くなっているのだ。
「食べなよ。お腹が減ってなくてもね。じゃないと、頑張るべき時に踏ん張れないよ。だから、食べよう」
食欲の無さそうなリーリヤにアルマスは無理矢理でも食べるようにと言う。
リーリヤからの肯定の返事はなかった。それでも、それ以上何かを言うつもりは無さそうだった。リーリヤの白くて細い指はアルマスの服の裾を摘まんだままだ。
二人して無言のまま人の流れに沿うように少しずつ前に進んでいく。
アルマス達の前に後1組だけとなったとき、アルマスは広場のある方向に視線を向けた。
「やっぱり今日もいないか。彼女、最近は随分と忙しそうだね」
意外にもアルマスの独り言に反応する人がいた。
「おっ。お兄さんもモニカちゃん目当てかい?」
アルマスに声をかけてきたのは屋台の店主だった。アルマスが余所見をしている間に目の前にいた1組もいなくなっていたらしい。
その明け透けな物言いにアルマスは苦笑する。仮にもカップル推奨の店だというのに別の女性お目当てだと堂々と言ってのけるのはどうなのだろうか。
とりあえず違うと否定しようとして、それよりも先に店主を叱咤する者がいた。店主の横で客に笑顔を振りまいて、店主の作ったサンドイッチを受け渡していた女性だ。店主の耳を遠慮なく引っ張る距離感からしておそらく奥さん、または恋人のようだ。
「こら!余計なこと言ってないで仕事して!」
「痛たたたた。いいじゃんか。妻と『推し』はまったく別物なんだよ。なぁ、兄さん!」
そんな同意を求められてもアルマスも返答しづらい。
常ならば軽く流して終わりにするところなのだがアルマスは珍しく口籠もる。リーリヤが横からじっとりとアルマスを睨め付けている気がしてならなかったからだ。
本当に今日のリーリヤは何なのか。今までのリーリヤだったら見知らぬ人の名前に首を傾げるか、はたまた興味なさそうにそっぽを向いていただろうに。
アルマスは一先ず注文をすると奥さんは愛想笑いを浮かべ、作り置きのサンドイッチを取りに奥へと引っ込む。そこを狙って店主はわざわざアルマスに顔を近づけて内緒話でもするように小声で話しかけてくる。
「いやね。ここだけの話。この場所に屋台を開いたのも、モニカちゃんをいつでも見ることが出来るからっていうのが一番でね」
そりゃ、奥さんもキレるわけだ。
この店主の『推し』への想いはどこかの大馬鹿野郎に通ずるものがある。いや、あちらの方が一癖も二癖も面倒くさくて、ひん曲がった性根をしている。この店主も大概であることはもちろん言うまでもない。
「モニカって誰?どんな関係なのよ」
リーリヤが摘まんでいたアルマスの服の裾をぐいぐいと引っ張ってくる。
店主はその様子を見てニマニマと笑っている。きっと確信犯だ。こうなるのがわかってて、あえてモニカの話に触れたのだ。嫌味な感じはそれほどしないので、隣にいる女性を見ずに何かを探すように広場へと視線を彷徨わせていた軽率男への軽い注意と発破をかけたというわけだ。
そもそもリーリヤとは恋人でもないので店主の見当違いである。だが、カップル用の屋台に来ている以上、大っぴらに否定するわけにもいかなかった。
リーリヤの刺々しい眼差しに耐えながら、アルマスは店主の妻から『具沢山』という謳い文句通りの分厚いベーコンと紫がかった玉ねぎと真っ赤なパプリカがはみ出る巨大なサンドイッチを受け取り、そのままそれをリーリヤの口に突っ込んだ。
「ぐむっ」
「また今度紹介するよ。ほら。今日はあそこに行くんだから余計なことは気にせず食べようか」
リーリヤの小さな口には到底入りきらないサンドイッチで口を塞いでやっとリーリヤは静かになった。
店主の笑い声を背景に、アルマスは気疲れに思わず息を吐いた。
腹が減っていないというわりにリーリヤは大きなサンドイッチの三分の一くらいを見事平らげた。アルマスからすると理不尽極まりない怒りを露わにして、勢いよくかぶり付く食べっぷりだった。さすがに全部を食べきるまではいかず、リーリヤの残りがアルマスの昼食となった。
お腹がいっぱいになってアルマスにサンドイッチを渡してから、自分の囓った跡が残っていることに慌てたリーリヤは怒りが吹っ飛んでしまったようで、それだけはアルマスにとって良い誤算だったと言える。アルマスにはどうでもいいことであっても、リーリヤが年頃の乙女らしい恥じらいを見せるようになったのには未だ違和感が残る。何にせよ、そんな些細なことを気にする余裕があるのもここまでだ。
リーリヤとは違ってお行儀良く座って食事する気もないアルマスは残りのサンドイッチを食べながら目的地へと向かうことにする。
道すがら喉の渇きを潤すために果実水を買い、2人揃ってフルクートの街並みを南下する。
フルクートの真ん中にある中央区を迂回するように商業区を抜けて、西部方面一帯に広がる住宅街区を歩く。街路を進むにつれてリーリヤの足は重たくなり、視線がどんどん下がっていく。その度にアルマスはリーリヤの背を軽く叩くだけして歩調を合わせるでもなく前を行く。するとリーリヤは負けじとアルマスに追いついてくる。それを何度も繰り返した。
カップの中の果実水も飲み干して、腹もこなれてきた頃にそれは見えてきた。
「・・・っ」
リーリヤがアルマスの横で息を飲む音が聞こえた。
遠目に見ても思わず絶句するほどの悲惨さ。
「これはあんまりだね」
想像よりも酷く焼け焦げた建物を見てアルマスも正直な感想が漏れる。
『陽気なひまわり亭』。いや、元『陽気なひまわり亭』と言った方が正しいのかもしれない。
建物の半分以上が凄まじい猛火に包まれたのだと焼け跡を見ただけでも察することが出来る。それほどまでに骨組みの木は黒く炭化し、煤に塗れたレンガの壁は一部崩れてさえいる。火の出所自体は燃えにくいはずの石組みの部分であるにも関わらず、かまどの精霊がもたらした暴威は大きく刻みつけられている。
「錬金術じゃ、直せないの?」
「無茶を言うね。錬金術は確かに便利だけど万能ではない。どうしたって、できることには限りがあるんだよ」
アルマス達が半ば焼け落ちた『陽気なひまわり亭』の前で立ち尽くしていると幼さの残る少女の声が耳に届く。
「あっ。リーリヤさん」
リーリヤの身体があからさまに強張る。
リーリヤが自身の罪と向き合う時間がやってきたのだ。