17.夜更かしと語らい2
アルマスの突き放す言葉に、リーリヤは宵闇色の瞳を揺らしている。
「いや、いいんだよ。人を嫌ったり、疎んだりすることくらい誰にでもある」
アルマスは席から立ち上がり、薄暗い花園を歩く。この庭園に外灯はなく、月と星の淡い光だけが足下を照らしている。
「誰しも『あいつが嫌いだ』、『こいつは気に入らない』なんて思っているものさ。口に出すかはともかく、心の中ではほとんどの人間がそんな暗い心を少しは抱えているだろう」
咲き誇るバラの一つに手を伸ばし、そっと花びらを撫でる。陽の下では綺麗な紅色でも、この薄闇の中では黒く染まって見える。
「けど、君のそれはちょっと違うかな。リーリヤ・メッツァ。君はこの街の人々、いや、極端に言うとこの世の人間すべてを見下しているように見える。まるで自分とは別の生き物で、対等な存在だと思っていないみたいだ」
バラの垣根を向いていたアルマスがリーリヤを振り返る。
「自覚ない?」
「そんな、こと・・・」
「花の乙女になろうとしたのも結局は自己顕示欲の一つだよね。特別でありたいと思う君にとって花の乙女は都合が良かった。本当はただそれだけなんじゃないの?他人を下に見ることで安心をしたいんだ。さっき計算やら読み書きやらがどうたらって言ってたけどさ。自分には出来ないのに皆は簡単に出来る。そんな劣等感が我慢ならなかったんでしょ。違う?そんなに驕った性格はしてない?けどね、俺は思ってるよ。君の中には人を見下す在り方が染み付いているって。それが無意識なのか、それとも自覚してるかは知らないけどね」
リーリヤは目を見開いている。
アルマスが指摘するまで本当に認識していなかったのだろうか。
わからない。
他人の心の内を読み取るなんてアルマスには出来ないのだから仕方ない。だから、客観的事実に基づいて突きつける。
「君さ、この街に来てから謝ったことある?」
「え?」
「なんでもいいよ。ちょっとしたすれ違い、単純なミス、喧嘩。何かしらは覚えがあるだろう?そのときに君は謝った?自分の非を認めて相手に詫びようと考えた?」
答えに窮するリーリヤを見れば事実がどうかなんて容易くわかる。
「ないよね。それこそが君の傲慢さを示している」
リーリヤの中に凝り固まった傲慢さは言い換えれば魔女としての矜持の高さだ。
アルマスは夜空を見上げ、星の光を仰ぐ。
そして、視線を下げれば静かに水を湛える噴水がある。まだ時は来ていない。
「・・・あんたのことは、見下していない」
ぽつりとリーリヤが苦しい言い訳を絞り出す。
「へぇ、それはなんとも有り難いことだ。きっと俺が『遍歴の智者』を背負う立場にいたからか。確かに君は俺のことだけは真っ当に相手をしていたね」
『遍歴の智者』。
その深い知識と見識を持って魔女と只人を繋ぐ存在。もう随分と昔に形骸化してしまった役目で、今はもう形式的な意味を残すだけ。それでも魔女にとっては未だに同族以外に唯一対等たり得るのだ。もしアルマスが代理とはいえその立場になかったら、リーリヤはともかく他の魔女達は会話の一つすら応じないに違いない。
「でも、それじゃダメなんだよ。君の世界に俺しかいないのならそれもいいかもしれない。それこそあの白霞の森で孤独に暮らすのであればね。けどね、そうじゃない。この街で生きていくためには大なり小なりいろんな人と関わりを持たなければならないんだよ。その程度、君ならもう十分わかっているだろう?」
アルマスはリーリヤに近づく。
リーリヤは椅子から立ち上がることもできないまま、小さく肩を縮こまらせる。
「自分は特別だとまだ思っているの?」
自分は普通の人間とは違う。妖精を制する特別な力を持っている。
こんな驕りを持っているうちは本当の意味で街の暮らしに馴染めない。
人によってはそれでもいい。誇るべき技術を持ち、揺らがない自己があり、一人の力で生きていけるのなら何も言わない。けれど、リーリヤのそれは別だ。街中で碌に振るえもしない、語ることもできない力に固執して何になるというのか。
リーリヤに人並みの情や優しさがないとは言わない。セルマに対する先ほどの反応からして、不器用な優しさは垣間見ることができる。だが、根底にあるのは魔女という超常の力を振るう上位者としてのそれだ。
「そうよ。私は特別。特別な存在なの」
リーリヤはそう言い切った。しかし、アルマスの顔を見ようとはしない。自分の膝に置かれた手を見つめるだけだ。
魔女は特別な存在である、そう教えられて育てられてきたのだろう。
その根はとても深い。なにせ彼女は十数年にも及ぶ人生の大半を妖精ばかりの危険で広大な森で寂しく生きてきたのだ。
「いつまでそんなこと言っているつもりなの?」
アルマスはリーリヤの右手を無理矢理持ち上げ、手を開かせる。そこには痛々しい火傷の跡が残っている。この時計塔を登る間、手すりに手をかける度に微かに表情を歪めていたのをアルマスは気付いていた。
「これだけ痛い目を見てまだ理解できてないの?」
「っ!」
リーリヤはアルマスの手を振り払い、胸元に手を引っ込める。
アルマスはあからさまに溜め息をついた。
「そんな風に自分に言い聞かせて弱い心を守っているわけだ。なら俺が教えてあげる」
「・・・やめ、て」
「リーリヤ・メッツァは―――」
「聞きたくない・・・!」
「もはや特別でも何でもない―――」
「やめてよ!」
「ただの女の子だ」
リーリヤが力なく項垂れる。
二人だけしかいない庭園に水のせせらぎだけが響く。
アルマスはリーリヤから視線を切ると庭園の中央に鎮座する噴水へと身体を向ける。真ん中から噴き出す清らかで澄んだ水は受け皿から溢れて次の受け皿へと静かに流れ落ち、下へ下へと落ちていく。最も大きい一番下の受け皿に溜まった水が星の光を反射して皿の奥底で揺らめいている。頃合いまでもう少しか。
「そんなに」
「ん?」
リーリヤは膝の上で手をぎゅっと握りしめ、痛みが走ったのか顔をしかめて直ぐに拳から力を抜いた。
「そんなに、簡単に変われないわよ」
弱々しいリーリヤの独白にアルマスは耳を傾ける。
「私は魔女で誰よりも特別だって思ってた。だから仕方ないって。暗い森の中で孤独でいることも、友達と毎日遊ぶことが出来なくとも、優しく頭を撫でてくれる母親がいなくても、特別な私はそれくらい耐えなくちゃって。そう思っていた」
そういうものがあると何も知らなければ苦悩することもなかったのかもしれない。
けれども、リーリヤは幼い頃にアルマスと共に屋敷で過ごしていた。知ってしまったのだ。物寂しい森での暮らしとは違う、温かな普通の子どもの暮らしを。まだ魔女見習いにさえなる前のことだったはずだ。ただ一人見知らぬ屋敷に預けられた幼子に対し、屋敷中の者がリーリヤを甘やかし、そして可愛がった。認めるのは癪だが、まだ大人になりきれていなかったアルマスが少しの嫉妬を覚えるくらいには使用人からもアルマスの母からも世話を焼かれていた。
「そう、ずっと思ってたのに」
無知な幼子は人のぬくもりを知り、されども森に戻れば寂しさを抱える生活に戻る。その苦しみは計り知れない。
冷徹な師とたった二人きりで人里離れた深い森で暮らす自身の境遇に疑問を覚えたりもしただろう。幼心にも感じた理不尽に耐えるための防衛本能として、己に特別性を見いだすのは当然の帰結だ。
「魔女じゃない私には何もない。私の人生は何だったの?どうすればいいの?もう、わかんない・・・」
ぐすっとリーリヤは鼻を啜る。
「あんただって応援してくれたじゃない。あんたはそれでいいの。簡単に諦めて何も思わないの?あの時くれたリボンにはそんな軽い想いしか込めてくれなかったの?」
「リボン?」
急に飛び出してきた『リボン』という単語にアルマスが戸惑う。
「ずっと昔、私にくれたじゃない。立派な魔女になれるようにって・・・。私、なれなかったのよ?森の魔女を継ぐことはできなかった。・・・なのにあんたはただの思い出話みたいにずかずか踏み込んでくるし。今もすっごく大事にしているのにぼろぼろにして捨てたとか言ってくるしっ。人の気も知らないで!」
怒った口調のわりにリーリヤは悲しそうだった。
こぼれ落ちる涙を手の甲で拭い、擦れて赤くなる目元も気にせずアルマスを睨み上げてくる。
思い出話のくだりは、おそらく先日の市場での一件だ。
アルマスはあのときにリーリヤがいきなり飛び出していった理由を今になってやっと理解した。理解した上で気の抜けた声を上げる。
「そんなことを気にしていたのか」
「そんな、ことって・・・」
子どもだった頃、リーリヤにリボンを送ったあの日のことくらいアルマスだって覚えている。
あの時、どういう気持ちを込めてリーリヤに渡したのか。
アルマスは片膝をつくと、傷ついた顔をしたリーリヤと視線を合わせた。
「いいかい。あれはね―――」
アルマスの記憶にある渋い緑色のリボン。
屋敷に帰りたくないとごねる幼いリーリヤに困ったアルマスが適当に目に付いた露店で買った物。散々遊びほうけて少なくなった有り金で買えたのは色味が渋すぎて売り残った安物だった。
色が気に入らないと不満を言うリーリヤに、似合うと繰り返してなんとか宥めて押しつけた。気恥ずかしさがなかったとは言わないが、アルマスにとってはちょっとした苦い思い出の一幕だ。
リーリヤの言うとおり、アルマスは確かに『未来の大魔女に』とかそんな感じの言葉を添えてリボンを手渡した。そのときのアルマスは魔女がなんたるかをまるで知らなかった。世間一般で知られる御伽話の中の悪役に憧れるちょっと変わった女の子程度に思っていたのだ。暗く深い森に棲み、凶暴な妖精を諫める魔女が実在するのだと知ったのはもっとずっと後の話。
だから、アルマスは本当にリーリヤが魔女になると信じていたわけではない。
ただ単純に『魔女になりたい』と周囲が見えなくなるほど夢中になっていて、それでいてどこまでも一生懸命だった幼いリーリヤを応援したいと思った。
リボンを贈るときに込めた想いはそれだった。
魔女だろうと何だろうと別に構わなかった。リーリヤがなりたいと心の底から思っているものならばアルマスは何だって背を押しただろう。
しかし、アルマスはそう口にするのを止めた。伝えるべきことはそんなことではないと思ったからだ。
「どこに?」
「なに・・・?」
唐突な話題の転換にリーリヤはどういう意味かと首を傾げている。
「その草色のリボンは今どこにある?」
アルマスはわかりやすくもう一度言い直す。
「・・・部屋の中にあるわよ。革製の小袋に大切に仕舞ってる」
「よし。じゃあ、これからはそれを身に着けると良いよ」
「は?」
何が『よし』なのか、何で身に着けろと言われているのか、リーリヤは理解が出来ていない。
「そのリボンは謂わば、君がこれまで頑張ってきた証。これからはそれを目に見えるところに付けておくんだ」
髪に結んでも服やバックといった小物に付けてもいいとアルマスは続ける。
「前にも言ったね。この街で暮らすために、君は過去を捨て去らなければならない。それは変わらない。けどさ、十数年にも及ぶ今までの君の努力が本当に消えて無くなるわけじゃない。その過去があるから今の君がいる。だからね、大っぴらに自慢することは出来なくともその証を見ることで君は『頑張ったんだ』と過去を思い出し、それを自信に変えるべきなんだ。傲慢さではなく、ね。これからの君の人生にまったく役に立たなかったのだとしても、そうすれば君が努力したこと自体は無意味ではない。ほら、前を向いて。未来を描いて。たとえ絵空事でも、今日の、今の活力になればそれで良いんだよ」
「・・・無理よ」
アルマスの励ましにリーリヤは首を横に振る。
「魔女としてだけ生きてきた。そのために人生を捧げる覚悟だってした。でも、もうその生き方は出来ない。・・・空っぽなの。何もないの。なのにどうして頑張れると言うのよ」
そうか、彼女は何者でもなくなることが怖いんだ。
アルマスはリーリヤの心の奥にやっと触れた気がした。
幼い頃からの努力が無駄になる喪失感はあるのだろう。だが、最もリーリヤの心を支配しているのはもっと別のこと。
魔女の使命を失った空虚感にリーリヤは恐怖を抱いている。自分が何者なのかがわからなくて、どうすれば良いかも思いつかなくて、だから薄っぺらい傲慢さで必死に取り繕っている。
「あんたも皮肉よね。こんな場所でそんなことを言うだなんて」
リーリヤは塔の方を振り返って呟く。
「お前はただの役立たずだってそう言われているみたい」
時間のわからない時計塔。
役割を失い、何者でもなくなったこの塔にリーリヤは共感している。それは悲しい共感だった。
「それは違うよ」
アルマスは静かに否定する。
「何が違うのよ・・・」
「それはね・・・。あっと。少し待って」
リーリヤの問いに答えようとして、しかし、アルマスは立ち上がると背後を確認する。
「何よ、もう・・・。誤魔化すならもっとちゃんとやってよ・・・」
「違うって。そういうのじゃない」
「じゃあ、なんだって言うの、よ・・・?」
アルマスが無理して誤魔化そうとしていると考えていたリーリヤの言葉が途切れる。多分、アルマスと同じ物を見て声を失ったのだろう。
いつの間にかアルマス達の周囲が明るく照らされていた。外灯もない薄暗いはずの庭園は、何十何百という宙に浮かぶ小さな光の玉によって眩いばかりに輝いている。
「き、れい・・・」
月と星の光が淡く降り注ぐ庭園も趣があって良かったが、それに勝る絶景が目の前に広がっている。
「来てごらんよ」
アルマスは光の海を泳ぐように庭園を進む。リーリヤもまた立ち上がると急いで後を追う。
「噴水から・・・?」
リーリヤの言ったとおり、光の玉は噴水から、より正確には噴水の一番下の受け皿から噴き出し続けている。
「『星の光は泉に止まる』。かの名匠グィーニネンの格言だ。その言葉の通り、ある一定の条件下で星の光は水の中に留まるんだ。澄んでいること。流れが穏やかであること。様々な要因を得て、星々は遙か天空から人の元まで降りてくる」
リーリヤはアルマスの声が耳に届いているのか届いていないのか曖昧な返事をした。それも致し方ない。時を忘れて魅入ってしまうほどに、この光景は幻想的で美しかった。
「『時忘れの塔』。別名を『星の止まり木』。無論、かつての役割は疾うに失われている。だけど、それで終わりじゃないんだ。今もこの塔はきちんと意味を為している」
もし時計塔としての機能を持ったままであれば、きっとこうはならなかったはずだ。時計塔ではなくなったからこそ、この塔は別の意味を与えられた。
「何者でもないからこそ成れるものもある。何者でもなくなることは悪いことじゃないんだよ」
この言葉はリーリヤに届いているだろうか。
やはりアルマスにはわからなかった。だが、別にいい。アルマスはアルマスのやるべきことをやるだけだ。
アルマスは懐から一つの空瓶を取り出す。
「それに錬金術師にとっては更に別の意味がある」
アルマスは一呼吸を置いてから、おもむろに瓶を噴水に突き入れた。
「あっ」
リーリヤが残念そうに声を上げる。
アルマスが水面に触れた途端、噴水から噴き上げていた光の玉がぴたりと止まる。既に浮いている光は消えずとも、噴水からはもう新たな光は生まれなくなる。
その代わり、噴水から掬い上げた瓶の中には水とともに砂金のごとき煌めきが宿っている。
「ねぇ」
輝きを宿す瓶を空に掲げながらアルマスはリーリヤに話しかける。
「生きる意義なんて大層なもの、普通の人は持ってないんだよ」
魔女という役目を幼い頃から背負っていたリーリヤは、彼女が言うように特別だった。自分が何のために生まれてきたのかなんて、生きているうちに確信が持てる者のなんて少ないことか。一生を通して見つからずに終わる人がほとんどだ。人生の道半ば、もしくは晩年であってもそれを見つけられれば幸運なのだ。
それはつまり、こう言い換えることができる。
「君は恵まれていたんだ」
だが、リーリヤは納得いかないようだった。
「なにそれ・・・。あんなものが恵まれてるの?この街に来て思ったわ。いろんな人、いろんな生活があった。皆、満足そうだった。全員が全員幸せだったわけじゃないわ。でも、真剣に仕事に打ち込んで、明るい未来を見つめて。温かい家族が迎えてくれて。私は、そんなの知らない。知らなかった」
リーリヤの宵闇色の瞳が陰る。二人の周りはこんなにも明るいのに彼女の心にはまだ暗雲が立ちこめている。
「あの人、言ってたでしょ」
リーリヤは遠くを見ている。それで『あの人』が『霞の森の女主人』を示すのだとわかった。
「私のことを愛してなかったって。その通りよ。あの人にとって私はあくまで森を守る魔女という責務を継がせるべき弟子でしかなかった。・・・・・・家族なんて思われてなかったのよ」
重い一言だった。一体どれほどの感情が込められているのか。
「すぐ側にいたのに家族じゃないの。おかしな話よね。同じ屋敷に住んでいるのに私達は互いに孤独だった」
リーリヤは寂しげに笑う。その横顔はとても痛々しかった。
「それでも、あんたは私が恵まれているって言うの?」
アルマスは深く息を吸った。これだけははっきりと言っておきたかった。
「ああ、言うね。断言する。君は恵まれていた。生きる意義という運命を初めから知ることができていた。凡人がその人生をかけて探すべき答えを君は苦労することなく得ることができていた。それこそ、一生をかけても見つからない代物をだ」
声を荒げることがないよう、努めて冷静を保とうとする。その上で溢れんばかりの熱を込める。リーリヤにも伝わるように。
「そして、その意義を失った君は悲嘆になんか暮れる必要はない。不幸ではあったかもしれない。不憫でもあるだろう。けれど、けれど、だ。いいか、耳をすませて良く聞いておけよ」
アルマスはリーリヤと正面から向き合った。
「そんなもの大したことないんだ」
リーリヤの瞳が大きく見開かれる。進むべき道を失い怖がって蹲ろうとするリーリヤにアルマスは一条の星明かりを届けるべく言葉を紡ぐ。
「意義とやらを無くした君はただの人と同じになっただけにすぎない。皆のいるスタート地点に戻っただけ。この街に住む人と、ステーン一家と、そして俺と同じ場所に来ただけなんだ」
怖がらなくても大丈夫。アルマスの想いがリーリヤに伝わった気がした。
「だから、君は落ち込まなくていい。未来を見よう。俺と、俺達と一緒に。この街の人々と一緒に。なんだったら、この街を出て別の場所に行ったって良いんだ。君はもう自由なんだから。これから時間をかけてゆっくりと自由という難しい道を悩んでいこう」
リーリヤの瞳から一筋の涙が落ちる。それをアルマスは指で拭ってあげる。
「なーに。ぽんこつな君が人並みに働けるようになるまでは見守っててあげるさ」
茶化すようにアルマスが言うとリーリヤは涙を拭ったアルマスの手を軽くはたく。
「・・・やっぱり最後の一言は余計よ」
アルマスは苦笑して懐から取り出したハンカチをリーリヤに渡した。
宙に浮かんだ数々の光玉も時間と共に数を減らし、やがて元通りの薄闇の世界に戻る。
如何に条件の整った噴水であっても星の光が溢れて噴き出すのは日に一度まで。天候や気温によっては一度も起きないことだってある。アルマスが採取をしてしまった以上、今日はもう光が生まれることはない。
アルマスは横目でリーリヤを見る。
口元まで毛布にくるまったリーリヤは静かに星空を見上げていて、アルマスが見ていることに気付かない様子だった。手を伸ばせば届く距離を空けて、アルマスとリーリヤは庭園の地面に座り込んでいた。
塔を降りる気分にはなれなかったので、アルマスとリーリヤはこの場所で夜を過ごすことにしたのだ。
密かにアルマスは安堵の息を吐く。
当初の想定通りにリーリヤの心を一度は折った。その上でなんとか立ち直らせるところまでやったつもりだ。
さすがに上手くいった自信はなかった。人の心を意のままに操るなどまず不可能だ。それこそ魔法薬でも使わないかぎりはどうにもならない。それでも及第点には達していると思いたい。
魔女の驕りを砕く。これは必須だった。
でなければ、近いうちに街の住民と軋轢が生じて取り返しのつかない事態に発展した。そうなる可能性があった、程度の意味ではない。なにせ歴史が証明しているのだ。前例は少ないが、魔女が人里に降りる話はある。そして、決まって魔女達は街や村で厄介事や諍いを起こしてきた。人の営みに魔女が上手く溶け込んでいった事例なんてアルマスは聞いたことがない。
いつだって魔女は破滅と不幸の象徴だ。御伽話の中の悪い魔女も元々は実話をモチーフにしたのではないかと疑うほどだ。
「毛布、入らないの?」
アルマスの視線に気付いたわけでもないだろうが、リーリヤは夜空を見たままアルマスに話しかけてくる。
「ああ。一つしかないからね。君が使ってよ。俺は寒くないし」
そう告げて以前にも説明したことのある暖を取るためのブレスレットを示す。リーリヤは少しだけアルマスの方を向いてからまた直ぐに視線を上に向けた。
「そう・・・」
そして、また静寂が訪れる。
アルマスはこの静けさにむず痒さを感じていた。なんというか落ち着かない。
リーリヤとの話が終わったからこそ思う。これで良かったのかと。
リーリヤの心に土足で踏み込み、無遠慮に傷つけ、最後には強引にでも前を向かせた。
後悔しているわけではない。リーリヤがこの街に居続けるためには通らねばならない苦難だった。
けれども、そんなことをしでかしたアルマスが当然の顔をして彼女の隣に座っていてもいいのだろうか。あんなにもリーリヤの心の内を引っかき回し、辛い顔をさせていたのに。
故にアルマスは落ち着かないのだ。
「私達の関係ってなんなの?」
だから、そうリーリヤに問われたことにアルマスは虚を突かれた気分だった。
「・・・言葉に当てはめなくてもいいと思うけどね」
友達、恋人、家族。どれも違う気がした。
アルマスは悩んだ末に言葉を濁すしかなかった。
「そんな適当に言わないでよ」
リーリヤは毛布の中に顔を埋める。
多分、リーリヤは不安なのだ。家族のいないリーリヤは無条件で心を許せる相手を持たない。それはとても寄る辺ない気持ちだろう。そのためにリーリヤは確かな形を求めている。
手助けをするといった肝心のアルマスとの関係性だってひどくあやふやだ。かつては友達だった。じゃあ、今は何なのか。今も友達だろうか。それは違うと断言できた。こんな歪な関係を友情と呼んではいけない。
そんなことを考える頭とは別にすらすらと捻くれた言い訳が口から出てくる。
「この人は友達であっちは知り合い、そっちは他人。そんな風にわざわざ意識する必要はないんじゃないかな。そう言うのって自然と関係を築くものだし、時と共に変わっていくものでもある。ふと考えたときにそれとなく認識するものさ。それに自分がそう思ったからと言って相手も同じとは限らないしね」
「・・・人間関係って難しいのね」
リーリヤは毛布から目だけを覗かせる。
「極論、自分で勝手に決めればいいんだよ。何が正しいとかじゃなくて、自分がどう思うかに尽きるってわけ。それで傷つくこともあるし、相手からしたら迷惑なこともある。そしたら、また関係性を変えればいい。まぁ、そもそも俺は友人とか家族とかそんな言葉なんてどうでもいいと思ってるから」
「結局、どうなのよ・・・」
膝の間に顔を埋めながら呆れたようにアルマスを見てくるリーリヤ。
そんなものアルマスの方が知りたかった。
ただ一つ言えるのは、まだこの関係に名前を付けたくないということ。
これはアルマスの勝手だ。アルマスの事情でそう思っている。だから、納得いかずにふて腐れたリーリヤが何を思ったのか妥協案だと言って、一緒の毛布に入れという横暴を断ることはできなかった。リーリヤの抱えている不安を思えばこそ、それくらいは応じるべきだと思った。
一人用の毛布に二人で入るためにはぴったりとくっつかなければならない。
真横に座って身体を密着させて毛布を羽織る。
ここまで距離が近いと否応にもリーリヤの体温を感じた。庭園のバラとは違う甘やかな花の匂いも仄かに香る。アルマスはリーリヤの要求を受けれたことを早速後悔しそうになる。そんなつもりはなかったのに自分の鼓動が大きく脈打つ音が聞こえた。とてもではないが寝付けそうにない。
リーリヤもまた俯いて頬を赤くしている。自分で提案しておいてこうなることを見越していなかったのか。これでは二人して滑稽だった。
アルマスはせめて気を紛らわせるために夜空を見上げ、そこに見知った星を見つけた。
「ラミリエシー・・・」
アルマスの懐でかちゃりと瓶が音を立てる。瓶を取り出すと中に入っている星の光を宿した水、『星水』が夜空で穏やかに輝くラミリエシーと同じ淡い黄金の煌めきを灯す。
病や怪我を治す魔法薬は病や怪我の数だけ種類があると言われるが、そのほぼすべての治療薬の素材となり得るとされる、星水の中でも更に貴重な万能の水薬。
その効能の高さに反し、手に入れるのは容易ではない。星の数が数多あるとおり、星水に含まれる星の因子も幾つもの星々が複雑に入り交じり絡み合う。一流の錬金術師であっても採取の際に特定の星の因子を選び取るのは生半可なことではない。それもラミリエシーは春の星、初夏に足を踏み入れた今の時期に入手するのは難易度が跳ね上がる。アルマスといえども運の要素が強かった。
故にこの星水を手にした者は幸運を手にすると呼ばれる。幸運の象徴と呼ばれる所以だ。
「人の世には見放されていても、運には恵まれているようだね。これならまだなんとでもなる」
思わず呟いたアルマスはすぐ隣にリーリヤがいることを思い出し、独り言が聞かれてないかと慌てて横を見る。
心配は杞憂だった。リーリヤは既に寝入っていた。細身で、それでも柔らかさを帯びた身体をアルマスに預けて、穏やかで安らかな顔をしている。
アルマスの心が揺れる。それでもアルマスはその感覚に気付かない振りをする。
もう一度空を見上げた。
幸運の星ラミリエシーはアルマス達を優しく見守ってくれている気がした。
星々が太陽の白い光に飲まれて消えるまで、アルマスは空を見上げ続けていた。