15.とっておき
夜も更けて暗くなった工房にアルマスは明かりを灯す。
結晶がはめ込まれた照明によって照らし出される室内は広いようで狭い。というのもそこそこ広さがある部屋の中のあちらこちらに道具や器具が散乱しているから実際ほど広く感じないのだ。大きな作業台はもとより、調薬用の大鍋、簡易的なかまどだってある。ちなみにアルマスはあまり使わないが金属錬成をするための大きな炉も別の部屋に設置されていたりする。
この部屋の第一印象はきっと散らかった部屋になるのだと思う。しかし、見る人が見ればこの配置には一定の理解と納得を得られるはずだ。アルマス独自のルールによって適当に置いているのではなく、錬金術の行程や手順を踏まえた合理的な配置なのである。これでもアルマスは一流の錬金術師であることを自負している。決して片付けるのが面倒だからという言い訳ではない。ただ問題があるとすれば何も知らない一般人からすれば整理整頓が苦手な人のようにしか見えないということだろうか。
それでも錬金術の素材がほとんど尽きている現状では部屋の散らかりようもまだマシな方である。
「これは一度乾かさないと使えないな」
工房に戻ってきた際に放り込んでいた布の袋を拾い上げる。中に入っているのは昼間に集めた幾つかの素材だ。本当は保管庫で適切に管理すべきところだが、あいにく素材はどれも湿っている。噴水に飛び込んだときに一緒に水浸しになってしまったのだ。
とりあえず袋から取り出して、手拭いで水分を拭き取った上で作業台の上に並べておく。半日も干せば多少は使い物になる。
素材の手入れはほどほどにしてアルマスは作業部屋から奥の執務室兼物置へと移る。作業部屋と比べても幾分と窮屈な空間だ。無造作に積まれた分厚い本の山から走り書きをしたメモの切れ端まで机や床などそこら中に放置されている。
アルマスは床に散らばる書類を足でぞんざいに払いつつ、壁際に並ぶ棚の戸を開く。
「確かここら辺に仕舞ってたはずなんだけど」
がさごそと中身を引っかき回しながらお目当ての物を探す。わざわざこんな夜遅くに工房に戻ってきたのもこの部屋で捜す物があったからだ。
なお、リーリヤはこの場にはいない。積もる話の前にまずは身支度のため母屋である屋敷に戻っている。有り体に言えば着替えである。さすがにタオル1枚で真夜中に出歩いていたら痴女以外の何者でもない。下手したらそんな少女と一緒にいるアルマスの方が自警団にしょっ引かれることになる。この街の自警団は有り難いことに真面目なのだ。特に最近は変な不審者が出るとのことで警邏にも気合いが入っているらしい。
「んー。おかしいな。ここだと思ってたんだけど」
アルマスは首を傾げる。直ぐに見つかると思っていたアルマスの思惑とは違い、どうにも捜し物が見当たらない。とあるお偉いさんからとっておきだと貰った物を適当にこの部屋のどこかに突っ込んだ、もとい大事に保管した記憶がある。問題はそのどこかを失念してしまっていることだ。
早くしないとリーリヤがこの工房に来てしまう。
工房と屋敷は繋がってこそいないものの同じ敷地内にある。中庭を通ればすぐなので今にもリーリヤが現れてもおかしくはない。しかし、リーリヤを工房に入れるわけにはいかなかった。
触ったら危険な物が置いてあるから、というのも理由の一つだ。なんの知識もない人間が気軽に触れてしまうと人体に害が出る物も当然ある。
それを除いても彼女を工房に立ち入らせるわけにはいかない事情があるのだが。
そういうわけであれこれひっくり返しながら棚を漁っていると工房の外からアルマスを呼ぶ声が聞こえてきた。
「どこー?どこにいるのー?」
リーリヤだ。着替えを終えて中庭に戻ってきたのだろう。
予想よりも来るのが早いのは、誰もいない暗い屋敷が不気味になって心細くなったとかだろうか。そんなことを考えてアルマスは思い直す。魔女として一生を孤独に生きることを覚悟していたリーリヤがその程度を気にするわけがない。
「ねぇってばー!」
どこか不安げにも聞こえるリーリヤの声にアルマスは返事をする。
「工房にいる!すぐに行くからそこで待ってて!」
そう言ったのに扉が開く音がした。
リーリヤが工房の中に入ってきてしまったようだった。
「あ、いた。ここだったのね」
リーリヤは黒いドレスを身に纏っていた。
ドレスといっても所謂舞踏会で着るような華やかさはなく、落ち着きのあるゆったりとした衣服だ。袖の部分が柔らかく膨らんでいるのは、一昔以上前に流行った形式の特徴である。古風な作りながらも黒い衣装は亜麻色の髪を持つリーリヤにはよく似合っていた。
この服はアルマスが屋敷から引っ張り出してきたものだ。この屋敷の以前の持ち主の物である。
この工房を含めた屋敷一帯はアルマスの所有物ではない。あくまでアルマスは一時的に間借りしているだけに過ぎない。
基本的には工房くらいしか使用せず、必要があるとき以外は屋敷に出入りすることもないアルマスであるが、一応は現在の管理人に屋敷を含めた敷地内の物は自由にしていいと許可を貰っているので服の一つや二つ拝借するくらいは問題なかった。
入り口から直結している作業場へと足を踏み入れようとするリーリヤにアルマスは慌てて待ったをかけた。
「いやいや。外で待っててって言ったじゃん」
アルマスの制止に対し、リーリヤは口を小さく尖らせた。
「だって、寂しかったんだもん」
「そっかぁ。寂しかったのかぁ」
何を言われようと工房から追い出す気でいたアルマスは気勢を削がれてしまう。
リーリヤはどうにも感情の箍が緩んでいる印象だった。
アルマスの知っている彼女よりもかなり子どもっぽい。いつもの捻くれた刺々しさが抜けて、素直さと甘えが見える。サウナに入ったことで心に溜まっていた澱を少しは洗い流せた影響だろう。それはいいことなのだが、アルマスとしてはやりにくさが拭えない。
下手な言い訳をしてくるなら簡単に言いくるめられる自信があっても、今のリーリヤを力尽くで追い払うのは心が痛む。
それでもリーリヤに居座られるわけにはいかない理由があった。
アルマスは嘆息するとリーリヤの肩を掴んで身体の向きを変え、そのまま押して外へと連れ出そうとする。
「悪いけど君は外にいて。俺も準備が終わったら行くから。なに、ほんとに少しの間だけだから」
「なんで?私は入っちゃダメなの?仲間外れなの?魔女だから?」
「いや、そうと言えばそうだし、違うと言えば違うんだけど・・・」
理由はある。けれど、まだ言うには早いとアルマスは思っていた。
口ごもるアルマスをどう思ったのかリーリヤは暗い雰囲気を漂わせる。
「そうなんだ。やっぱり私は魔女だからあんたの家にも入れてもらえないのね。・・・くすん」
「違う違う。そう言う意味じゃない。そもそもここは俺の家じゃなくて工房なの。仕事場。わかる?錬金術師の工房はいろんな物が置いてあるから単純に危ないんだよ。ほら、そんなことは気にせず、外の空気でも吸ってよう。気分が晴れるから。ね?」
「暗いから一人じゃ嫌よ。あんたも来て」
「いや、だから俺はまだやることがあってさ・・・」
なんなのこの娘は、とアルマスは頭を抱える。素直は素直でもやたら面倒くさい。サウナに入っただけのはずなのに、酔っ払いを相手している気分になってくる。もちろん、普通のサウナに人を酩酊させる効果などない。この屋敷のサウナはアルマスもたまに使っているので確証を持って頷ける。
「あー、もう、いいや。まあ、今の君なら多分だけど大丈夫だと思うし」
結局はアルマスが折れた。
ここでいつまでも押し問答をしていてもしょうがない。
幸いにしていつものリーリヤならばともかく、心身がほどよくほどけている状態のリーリヤならばおそらく大丈夫だ。皮肉なことにリーリヤの面倒な絡みがそうであることをこれでもかと教えてくれている。
「汚い部屋ね、ここ」
作業部屋の内部を見たリーリヤの第一声がそれだった。
不本意な評価が下されたことにアルマスは抗議する。
「その感想には異議を申し立てたい。そもそもこれは錬金術師的には非常に意味のある―――」
「それでももうちょっとどうにかなるでしょ?床なんて埃が溜まっているし、机の上もなんかの滓が散らばっているし。もう少し綺麗にしたら?」
森の奥にある廃墟同然の屋敷に棲んでいたリーリヤのことだからアルマスは勝手にリーリヤを汚部屋仲間だと思っていた。まさかリーリヤの口から掃除しろと言われるとは。どうやら順調に掃除好きなイレネに感化されているらしい。
「・・・善処するよ」
思わぬリーリヤからの正論に分が悪いことを悟ったアルマスは引き下がる。そのままアルマスは工房の入り口に佇むリーリヤを放置して捜し物をするべく執務室へと逃げていく。これは追撃を躱すための戦略的撤退であった。
しかし、親と離れたくない雛のようにリーリヤもアルマスに付いてきたので特に意味はなかった。
「こっちの方がもっとすごいわね。今度掃除してあげようか?あまり上手じゃないけど今よりはきっとマシになると思うの」
執務室の惨状を見たリーリヤが眉を顰める。
紙や本を初め、箱や小型の器具などが散乱している現状を見ての一言だ。釈明させてもらえば、捜し物のために棚の中身をひっくり返しているせいで余計にそう見えるだけだ。さすがに常日頃からこんな状態にはなっていない、と思う。
「魅力的な提案だけど遠慮しておくよ。どこに何があるかわからなくなると困るからね。こういうのは自分で片した方が探すときに楽なんだ」
「もうすでにわからなくなっている気がするわよ・・・」
呆れたリーリヤの視線を浴びながらアルマスは机の引き出しを開け放つ。
「おっ。あった、あった。こんなところに仕舞ってたのか」
ようやっと見つけたのは一抱えもある金属製の箱。
机の上に載せた箱を軽く叩きながらアルマスは言った。
「待たせたね。それじゃあ、夜のピクニックとでもしゃれ込もうか」
まばらな街灯の間を縫うように黒く染まった路地をほんのりと照らす月明かりを頼りに歩く。
空に浮かぶ月は少しだけ欠けている。
誰もが寝静まった夜にアルマスとリーリヤは二人で連れ立つ。アルマスの手には二つの荷物がある。一つはちょっとした仕事道具が入っている。これはついでだ。本命はもう一つの方。ピクニックには欠かせない大事な道具が入っている。
工房から引っ張り出した箱はバスケットに突っ込んだ上でリーリヤが抱えている。何が入っているかはまだ教えていない。落としたら後悔するよ、と冗談交じりに告げたところ彼女は両手でしがみつくように抱きしめていた。あれでは躓いたときに逆に転びやすくなるのは目に見えている。落ち込む姿を眺めるのも、それはそれで面白そうだとアルマスは指摘しないことにした。
リーリヤは真剣になっているが、そんなに大層な物ではないからだ。
道中は他愛のない話をした。
話したのは主にリーリヤだった。
彼女の語る内容はアルマスの知らないものばかりだった。トビアスの提案で雑貨屋の手伝いを始めたこと。イレネから少しずつ家事を習っていること。簡単な調理ならできるようになったこと。そんな日常生活のちょっとした出来事だ。
リーリヤはよくしゃべった。それこそアルマスが意外に思うほどに。
それでも彼女の顔が晴れなかったのはきっと本当に話したいことは別にあるのだとアルマスに思わせた。
「まだ着かないの?」
リーリヤが横からアルマスを見上げてくる。その青灰色の瞳にはじれったさが見え隠れしている。
「もう少しだよ」
アルマスはこの道中で何度も発した言葉を繰り返す。
「それさっきも聞いた。ずっと同じ返事よ」
「そりゃ何回も同じ質問をしてくるもんだからね。でも、本当にあと少しだからさ」
「ほんとかしら。信じられないわ。結局、どこに行くのかも教えてくれないし」
「内緒にしてた方が楽しいだろ?期待してくれていいよ。なにせ、とっておきの場所だから」
もともと職人街区の端の方にあるアルマスの工房から商業区がある北部方面へと向かっている。アルマス達は街を囲う外壁に沿って外縁部の道を通って行く。真っ直ぐ行くよりも距離はあるが、この暗い視界の中では複雑な路地を進むよりもこっちの方がわかりやすくて早い。次第にアルマスの目指していた場所もその姿をはっきりとさせていく。
リーリヤのふてくされた顔を横目で見やる。
「それなりに遅い時間だけどまだ眠くない?」
既に時刻は真夜中と言っても差し支えない頃合いだ。
この時間に起きているのは夜更かしが好きな変わり者か、よからぬ事を考える不審者くらいというのは少し大袈裟か。
リーリヤは小首を傾げて身体の調子を確認している。
「大丈夫。不思議なくらいまだ眠くないわ。いつもならもう寝ている時間なのに不思議ね」
「そっか。じゃあ、腹は減ってる?」
アルマスの問いにリーリヤは大きく目を見開く。まるでアルマスが聞くまで忘れていたといった様子だ。
リーリヤは意識をしたことで急に空腹を感じ始めたみたいだった。その細い眉が困ったように下がってしまった。おそらく荷物を抱えていなければお腹を押さえてさすっていただろうことが容易に想像できた。
「・・・言われてみれば、そうね。お腹はぺこぺこ。考えてみると当たり前よね。今日はお昼から何も食べてないもの。いろいろあってそれどころじゃなかったし」
「ほうほう。それは大変だ。なら急がないといけないね」
そう告げてアルマスは立ち止まる。
目的の場所に着いたのだ。
「ここは・・・?」
リーリヤは困惑の表情を浮かべていた。
そうなるのも無理はない。
「ここが目的地。通称『時忘れの塔』。まぁ、人によって呼び方が違うけどね」
アルマス達が到着したのは職人街区と商業区のちょうど境辺り、湖にもほど近い位置にそびえ立つ高い石塔だ。周囲の建物よりも遙かに高い石造りの角塔は夜空の闇に溶けるように先端が見えない。その正面には大きくて頑丈そうな扉が設けられていた。
リーリヤは何かを察したように一歩後ずさる。
「え・・・?まさかだけど、登るなんて言わないわよね・・・?」
「ご明察だね。その通りだよ」
「もうこんなに暗いのに?それにかなり高いわよ?結構危ないと思うんだけど。それでも登るの?」
『違うと言って』という気持ちがリーリヤの表情に良く出ている。
「もちろん。それじゃあ、張り切って行こうか」
リーリヤの引きつる顔を見ながらアルマスは無駄に爽やかに言ってのけた。
夜風が心地よくアルマスの髪を撫でていく。
風は好きだ。決まった形もなく、何かに縛られることもなく、自由でどこまでも飛んでいけるところが特に。風を全身で感じるとき、アルマスは自身が風になれたように錯覚する。
目を閉じて、肺いっぱいに空気を吸い込めばいつだって心は解き放たれる。昼間でもあってもそれは変わらないが、夜は一層のこと開放的に思えた。
湖の方へと吹き抜ける少しだけ湿った風を堪能したアルマスは満足げに下へと視線を向ける。
「付いてきているー?」
階段の途中で立ち止まっていたアルマスが振り返るとリーリヤが随分と下の方で手すりにしがみついているところだった。
「・・・も、もうやだぁ」
ひん、とリーリヤは情けない悲鳴を上げている。
「あーらら。だから怖いなら下を見ない方がいいって言ったのに」
アルマスとリーリヤが登っているのは石塔に設けられた螺旋を描く階段だ。
しかし、それは塔内部に設けられた物ではない。
塔の外壁に沿うように作られた階段である。なんでも後から付けられたものらしく、見た目は簡素で頼りない印象を与えてくる。金属製の薄い踏み板と細い手すりのみの階段は、あわや足を踏み外して落ちてしまうのではと思わせるらしい。アルマスは風通しが良くて好きなのだが中々共感してくれる人はいない。見た目に反して頑丈なので壊れる心配はする必要もなかった。
石塔の内部にも階段自体はある。
それなのにアルマス達が内部の階段を使わないのは、単純に立入り禁止となっているからだ。扉は厳重に施錠されており、それこそ街のお偉いさんでもない限り滅多に入ることはできない。アルマスだってそれは例外ではない。
物理的に侵入する手段がないわけではないので、扉をこじ開けようとすればいくらでもやりようはある。けれども今日はしなかった。なぜなら塔の内部からではなく、外部の階段からでも伝っていける場所に用があるからだ。
「それにしても意外だね。君はこのくらいのことは気にすら留めないと思っていた。ほら、あの森にいたときには切り立った丘の上も、荒れた地面に飛び跳ね回るソリも平気だっただろ?」
膝を小刻みに震えさせたリーリヤはそれ以上動けないようだった。
「それは、だって・・・。あのときは妖精を操ればどうとでもなったから。けど、今はそうじゃないし・・・」
「ふぅん?」
アルマスは意味深な反応を見せる。リーリヤが自身の状況を正しく認識しているとは思っていなかったのだ。
「今日だって失敗しちゃった・・・」
そう言ったリーリヤの声は小さかった。
淡い月明かりを浴びるリーリヤはそれでもなお陰を滲ませる。
リーリヤはそれきり一歩も前に進めない様子だった。これでは登り切る前に朝を迎えることになるだろう。
仕方がないと思ったアルマスはリーリヤの側まで戻り、手すりを掴んでいる手とは逆の手に抱え込んでいるバスケットを受け取ると空いたその手を軽く握る。
「ほら。顎を上げて、下を見ないで。怖いなら俺だけを見てなよ。引っ張ってあげるからさ」
そうすることでやっとリーリヤは歩き出す。一歩一歩はひどくゆっくりだったが、それでも確実に少しずつ登ってゆく。
リーリヤを見てアルマスは噴き出しそうになった。面白いほど必死にアルマスのことを見つめている。絶対に地面を見てなるものかという強い意志を感じた。
これでは景色を見る余裕も無さそうだ。未だ石塔の半ばであるとはいえ、折角見晴らしがいいというのに勿体ないことである。
それよりも、とリーリヤが話しかけてくる。
「ねぇ。話って本当にここじゃなきゃダメだったの?」
どうやらリーリヤはこの塔に登ることに不満があるようだった。些か言うのが遅い気もする。リーリヤなりの気遣いには見えないので、おそらく気にする余裕がなかっただけだろう。今だって、落ちたら怪我では済みそうにないこの高さからただ意識を逸らしたいだけかもしれない。
「いや?どこでもできるでしょ、そんなの」
あっけらかんとしたアルマスの物言いにリーリヤは唖然とする。
「なっ・・・んなのよ、もうっ・・・!じゃあ、わざわざこんなところ登んなくてもいいじゃないのっ」
ここが不安定な階段の上でなければ地団駄でも踏んでいそうだった。
段々と素に戻ってきているリーリヤにアルマスの口角が上がる。素直なリーリヤも可愛げがあって良いのだが、アルマスとしてはからかい甲斐のあるいつもののリーリヤの方が好ましかった。なによりこの何気ない掛け合いが楽しくもある。
ふて腐れるリーリヤを引っ張りつつ、アルマスは開いた場所に出る。まだ塔の高さの半分にも到達していない階段の途中に設けられたこの場所は、石塔から突き出る形になった一種のバルコニーだ。
「ほら、見上げてごらんよ」
アルマスは頭上を指差した。
そこからは巨大な時計盤を見ることができた。角塔の四面ある壁面のうちアルマス達から見える一面だけにその円盤は存在する。
「これは機械式の大時計。かつて滅びた文明の遺産だ。といっても外側だけで内部の機構はとっくのとうになくなっている。ここにあるのはあくまでその名残だけさ。そもそも時計って知ってる?」
「馬鹿にしないで。それくらい知ってるわよ。見るのは初めてだけど、本の中にあったわ。時間を示す道具でしょ」
リーリヤは当たり前のように言うが、その認識は一般的ではない。現代において一般の人は時計なんて知らないのが普通だ。
時間といえば『鐘の音』であって、決して『時計』ではないのだ。
リーリヤの言う本というのは間違いなく古代語で書かれたものだろう。そうでなければ『時計』なんて文言はそう簡単に載っていない。
「そうか。きっとそれは古代の、それこそ妖精が現れるずっと前に作られた本だろうね。君達魔女の棲み処にはまだまだ世に広まっていない古代文明の遺産が眠っていると聞くから」
「私からすると昔の時代の話だなんて思ってなかったけどね。今は時計ってないの?」
「似たものならあるよ。けど、複雑な機構を誇った古代の代物とは根本的に違う。現代において『時計』と呼ばれる器具は幾つかあるけど、どれも錬金術によって作られた魔具だ。かなり大きいし、維持にも費用が嵩む。なにより正しい時間を刻むことがとんでもなく難しい。とてもじゃないけど個人で保有する類の物じゃないね。だから『時計』の管理は教会が一任されている。普段鳴る鐘はそれを元に鳴らされているんだよ」
「へぇ、そうなんだ。・・・当たり前だけど、動いていないのね。あれ」
視線の先にある時計の針はいつまで経っても動く気配はない。
内部の機構が丸ごと失われている以上はどうしようもない話だ。ただ単に故障しているのとはわけが違う。
そもそも古代の遺物、機械文明は既に滅びて久しいのだ。何百、何千年も前の話だと言われている。
「そうだね。『時忘れの塔』。この呼び名の由来のうちの一つだ」
この呼び名には別の由来がある。
アルマスはバルコニーの向こう側を覗く。そこからは街の北側に位置するクーケルゥ湖が見て取れる。改めて確認してみると思っていたよりも近い。区画を一つ越えた先はもう湖だ。湖はとても大きく、対岸に広がる森の一部だけを見ることができる。
そう、この時計盤は街の方ではなく、なぜか湖に向いているのだ。例え時計の針が動いていたとしても、これでは街に住む人々は時間を知ることはできない。
なぜこの時計塔がこんな見当違いの方向に建てられたのかはもはや誰も知りようがない。
何に時を告げるための塔だったのか。湖に浮かぶ船に向けてだったのか。はたまた違う理由があるのか。
この塔を登る人は誰もが一度は不思議に思い、そして動かない時計に考えても無意味なことを悟り、そのうち忘れてゆく。今ではそういう存在になっている。
「時間のわからない時計なんてただの役立たずよね」
リーリヤの独白にも似た呟きはやけに実感が籠っているように聞こえた。あるいは自分自身に重ね合わせているのかもしれない。妖精を従えることができない魔女。リーリヤからすれば他人事ではない。
少しの休息を挟んだ後、アルマス達はまた階段を昇り始めた。
そんなに時間をおかずに二つ目のバルコニーに辿り着く。そこはさっきのバルコニーとは塔を挟んで真逆の位置にある。
この場所こそが外階段の終着点であり、アルマスの『とっておき』だ。
まず視界に入るのは生き生きとした緑の色。ついで華やかな香りと共に夜の闇に浸るバラの花々が出迎える。小さな噴水すら設けられたこの空中庭園の花々は色とりどりで太陽の下であればより鮮やかに咲き誇るのだろう。しかし、薄闇の中であってもその美しさは失われていない。
見上げれば空には月と星々が瞬き、眼下には湖畔都市フルクートの夜の姿が見下ろせる。ぽつぽつと未だ明かりの残る職人街区が左手側で、右側の商業区は昼間にあれだけ騒がしかったのが嘘のように静まりかえっている。真ん中には夜であっても街灯の輝きが眩しい中央区が、更に奥には西部地区の住宅街も見渡せる。
街を一望出来る夜景を前にしてアルマスはリーリヤを振り向く。
宵闇を思わせるリーリヤの瞳にはたくさんの光が映り込んでいる。まるで小さな夜空を内包しているようだった。
「お気に召したかな?」
「・・・ええ。そうね。すごく、綺麗」
「それはよかった」
リーリヤが景色に見取れる間にアルマスはバルコニーの隅に置かれていたテーブルと椅子を見晴らしの良い場所にセッティングする。
「さあ、レディ。座って。夜更かしはこれからだよ」
アルマスはあえて気障っぽく戯けてみせた。
きっとこれからする話はリーリヤにとってもアルマスにとっても面白くないものになる。こんな綺麗な景色でも見ていなければ到底気が滅入るだろう。
せめてもの心の慰みとなれば。
未だ心あらずなリーリヤを見て、アルマスはそう思うのだった。