14.心の汗を流したら
きゅっとバルブを閉めてシャワーのお湯を止める。
この街に来るまで使ったことがなかったシャワーにももう随分と慣れたものだ。身体を清めるといえば湖で沐浴するか蒸した手拭いを使うのが日常であったリーリヤからすれば、バルブを捻るだけで温かなお湯が噴き出す仕組みには少なくない衝撃を受けた。
アルマスには魔具という錬金術で作られた道具を利用していると説明された。生き生きとした顔で詳細を語られても文明の利器に疎いリーリヤには難しく、結局仕組みはわからなかった。
壁にかけてあった大きなタオルを手に取り、身体から滑り落ちる水滴を拭き取っていく。
しっとりと塗れた亜麻色の髪を鼻先に近づけると石鹸の爽やかな香りがした。焦げた臭いがしなかったことに静かに安堵する。臭いが消えないようなら髪を切る羽目になると心配していたのだ。
粗方拭き終わるとタオルで身体を覆う。
緩やかな起伏を帯びる身体は森にいた頃よりも少しだけふくよかになった気がした。これはイレネの食事が原因だと思う。イレネの料理の数々はどれもリーリヤに新鮮さと喜びを与えてくれる。しかし、リーリヤのお腹の許容量以上に皿に盛ろうとするのはちょっとした困り事だ。美味しくてついつい食べてしまうせいでお腹が張ってしばらく動けなくなるのが恒例になりつつある。その度にイレネはにこにことして、ヘレナは冷たい視線を寄越すのだ。
「痛っ」
ぴりっとした痛みが右手に走る。
手の平には赤い火傷の跡が残っていた。線状に腫れ上がった手は見るからに痛々しい。
焼けるような熱さが残っている気がしてリーリヤは強く手を握りしめる。
暴走する妖精。燃え上がる部屋。大騒ぎする人々。なにより逃げ出した自分。その後の信じられないほどに馬鹿げた失態。いろんなことが頭の中で渦巻いて、訳がわからなくなるほど感情がぐちゃぐちゃになる。こんな状態でまともに考えることなんてできるはずがなかった。
自分がしていることが現実逃避だということはわかっている。それでもどうしても頭が、感情が考えることを拒否していた。
「はぁ」
逃げてばかりの自分が嫌になる。森を追放されて帰る場所を失ったあのときから少しも変わっていない。
「むっ」
シャワー室から出ると籠の中には脱いだ服がなかった。もちろん下着もだ。
誰の仕業かなんて一人しかいない。リーリヤが連れてこられたこの馬鹿でかい屋敷には彼以外誰もいなかったのだから。
煤だらけになっていた服はそのまま着ることはできなかったにせよ、知らずのうちにどこかに持ち去られているとそれはそれで複雑な気持ちになる。乙女的には抗議の一つでもするべきところだったが、今のリーリヤにはそんな気力はなかった。
籠の中には服の代わりに1枚のメモ用紙があった。そこにはリーリヤでも読める文字で短く書かれている。
『白い扉から出るように』
屋敷の内部からシャワー室へと繋がる扉ではなく、別にもう一つある扉を示しているのだろう。白く彩られた扉は枝や葉の模様が繊細に描かれている。これは白樺の木だ。リーリヤにとって最も身近にあった木なのですぐにわかった。
それにしても、せめて替えの服を用意して置いてくれてもよかったのでは、と思ってもどうしようもない。しょうがなくタオルを身体に巻き付けて、大人しくメモの指示に従うことにする。この扉がどこに通じているかは書いてなくとも、少なくとも外ということはないはずだ。
ぎぎぎと軋む扉を開けるとそこは光に満ちていた。
「えっ・・・」
リーリヤは呆然とする。
扉の先は外ではなかった。けれど、限りなく外と言ってもよかった。
そこは前後左右のすべてを透明なガラスで囲われた小屋のような空間だった。差し込む太陽の光を受けて、部屋の中央にある台座の上の水晶がきらきらと光を反射する。
「綺麗・・・」
無意識に言葉が零れる。
未だ空にある太陽からの日射しが何本もの筋となって降り注ぐ光景はリーリヤの目を奪う。
自然とリーリヤは足を踏み出す。床は木板が敷き詰められ、触れた素足から木の温もりを感じた。
「少し変わってるけどサウナだね。君もサウナくらいは知ってるだろ?」
「っ!?」
どこからか聞こえてきた声にリーリヤは驚く。
そうだ、ここはガラスの部屋。外からも丸見えだ。
咄嗟に身体を隠そうとしてタオル一枚しか羽織っていないことに気付いたリーリヤはしゃがみ込んでできるだけ小さく丸まった。いくら身嗜みに頓着する気力がないと言ってもこのあられもない姿を人に見られるのには抵抗があった。
「誰っ!?どこっ!?」
「こっちこっち」
縮こまった体勢で鋭く視線を巡らせるとアルマスを見つけた。へらへら笑って暢気に手を振っている。
アルマスが立っているのはガラスを隔てた向こう側。ちょうど入ってきた屋敷に通じる扉とは相対する位置にいる。アルマスの立つ側にもまた扉があった。その扉は今度こそ本当に外に繋がっているようだった。
アルマスが扉からガラスの部屋に入ってくることを警戒しつつ、リーリヤはアルマスを咎める声を出した。
「こんなとこに呼び出してなに?ここはなんなのよ。いったい何がしたいの?・・・まさか私の素肌を見るためにこんな部屋に?この変態っ!」
リーリヤは眉をつり上げて声を荒げる。
「変態。変態ねぇ」
「ぐぬぅ」
アルマスから意味深な視線を送られてリーリヤは呻く。
ついさっき自身が犯した痴態くらいリーリヤだって覚えている。事情があったとはいえ、まさか人前であんなことをするなんて。一生の不覚だ。それもほぼ目の前と言っていい距離にこのアルマスはいたのだ。リーリヤの恥ずかしい姿を見逃したなんてあり得ないだろう。
勝手に頬が熱くなり、リーリヤは顔が赤く染まるのを自覚した。
あえて意識しないようにしていたのに。わざわざ指摘してくるなんて意地悪だ。乙女の繊細な心がひどく傷ついていることくらい察して欲しい。リーリヤは受け入れがたい羞恥と身勝手な苛立ちをない交ぜにして八つ当たり気味にアルマスを睨み付ける。
アルマスはといえば落ち着くようにとぞんざいに手振りで示してくる。そのなんでもないような仕草が余計にリーリヤの癇に障る。
「というか、そうよ、服っ。服を返して!」
「まあまあ。そう怒らないで。まず安心するといいよ。君の服はマイラさん、覚えてるか知らないけど君をここに連れてくる際に一緒に来てくれた女性だね、彼女に手伝って貰ったから俺は触っても見てもいない。かなり汚れていたから彼女が持ち帰って洗濯してくれるそうだ。下着もあったからね。俺は気にしないって言ったんだけど、女の子の下着を男が勝手に洗うのは非常識らしい。普通に怒られたよ。彼女も忙しいだろうに親切だよね。ああ、そうそう。替えの服はあとで渡すから心配しないで」
「う、うん。そう・・・」
リーリヤの勢いはアルマスの流れるような怒濤の説明に鎮火されてしまった。
見知らぬ女性の名前が出て来たことに混乱する。思い返してみれば朧気ながらにそんな女性がいたような気がする。この屋敷までの道中、腰の抜けたリーリヤを背負ったアルマスと会話していた女性のことだろう。忘れたい記憶過ぎて言われるまで存在を記憶から消していたみたいだ。それにあわせてそのまま忘れていたかった記憶も一緒に頭の中に蘇ってくる。
両手で顔を隠して羞恥に悶えるリーリヤを気にすることなく、アルマスはガラスの壁を拳で軽く叩いてみせた。
「それと、これね。実はこっちからは何も見えないんだよ」
「見えない・・・・」
「そう。ガラスみたいなんだけどガラスじゃない。そういう物質を使ってるのさ」
リーリヤは理解するまでに少しの時間を要した。
どう見たってガラスにしか見えないのにアルマスは違うと言う。リーリヤは疑い半分の眼差しを向けるが、アルマスは反応しなかった。よくよく観察すればアルマスの目線もリーリヤからはちょっとずれている。
これも錬金術による産物なのかもしれない。
そう考えればガラスのようなガラスじゃない何かもあり得るような気がした。
それでもリーリヤの疑念を完全に消し去るには至らなかった。
「本当に見えてない?」
「ほんと、ほんと。俺、大事なことは嘘つかないから信じて」
リーリヤの念押しにアルマスは簡単に頷く。
余りにも軽すぎる反応にこれでは信じたくても信じられない。わざとやってリーリヤの葛藤する様子を楽しんでいるとすら思えてくる。
リーリヤの考えを余所にアルマスは言葉を続けた。
「あと、さっきも言ったけど、これはサウナだよ。それも上流階級仕様のとんでもない娯楽品。一見、ガラス張りでシンプルな構造だと思うでしょ。これでも高度な魔具とか特殊な物質とかわんさか使ってたりするんだ。まさしく金持ちの道楽というべき代物だよ。まっ、これはその試作品として作られたみたいなんだけど。俺がここにいるのは使い方がわかんないかなと思ってさ」
リーリヤは首を傾げる。
「サウナ・・・。どこかで聞いたことが・・・。そういえばイレネさんに誘われたことがあるわ。公共サウナだったかしら。いっぱい人がいるって聞いたから断ったのを覚えてる」
「は?じゃあ、サウナに入ったことはないの?今まで一度も?」
「え、ええ」
「マジで?信じられないんだけど。絶対人生損しているよ、君」
「そこまで言う?」
断言されるとリーリヤもなんだか勿体ないことをした気分になってくる。
「実際に経験すればわかるよ。サウナがどんなに素晴らしいものかを理解するのに生まれも育ちも関係ないからね。ささっ。縮こまってないでまずは真ん中の結晶に触れて」
本当に見えてないのか疑わしい発言は気になるものの、あらぬ方向を見ているアルマスに注意を払いながら部屋の真ん中に立つ台座に近づく。そこには赤みを帯びた丸い水晶が台座にはまり込んでいる。
リーリヤはアルマスに言われたとおりに手の平で水晶に触れる。
「触れたね?そしたら、ゆっくり撫でるんだ。そうだね、今回は2回か3回で十分だと思う」
慎重に手を横に滑らせるとすべすべの水晶は手の動きに合わせてガラスが震えるような涼しげな音を伴って内部に赤と銀の粒子が飛び交い始める。
3回撫で終わる頃には水晶がじんわりと熱を帯びていた。リーリヤはびっくりして手を引っ込める。
「あとは適当に座ってていいよ。少しするとあったかくなるから」
ガラスの部屋は台座を中心として内向きに木製のベンチが連なっている。ぐるりと部屋を一周するベンチの一画にリーリヤは腰を下ろす。
横にはこれまた奇妙な器具があった。杖のような形状をしている細いガラスの管は、弧を描いた先端に大きな丸いガラスの玉が垂れ下がっている。どういう仕組みか球の中には桃色に色づいた花びらのような薄いものがゆらゆらと漂っていた。
「なにこれ?」
ガラスの玉の中に水でも入っているのかと突いてみると予想した硬い感触ではなく、普通に指がガラスの玉に沈み込んだ。というかこれはガラスではない。驚くことに水の塊である。両手で包めるほどの大きな水の玉が管の先端からぶら下がっているのだ。しかも引き抜いた指は濡れていなかった。水に触れた感覚はあったのにだ。
「変なの」
水の玉を眺めているうちに気付けばリーリヤの肌はしっとりと汗が滲んでいた。
ガラスのサウナに満ちる空気は湿り気と熱を帯び、息を吸い込めばうっすらと甘い花の香りがする。先ほど浴びたシャワーよりかは熱かったが、辛いと思うほどではなく、むしろその逆で心地の良い微睡みに浸っている気分になるちょうど良さだった。
見上げれば湯気で曇ったガラスの天井から柔らかい光が溢れている。リーリヤはゆったりと目を細めた。
なるほど、これはいいものかもしれない。
なにより何も考えなくて済むところが今のリーリヤには有り難かった。
「あふぅ」
ほどよい温もりに気の抜けた吐息を漏らす。
「そうそう忘れるところだった」
そこを見計らったようにアルマスが声をかけてきた。
「っ!?」
リーリヤはだらけた姿勢から慌てて背筋を正す。アルマスが近くにいるのを完全に忘れていた。めくれかけたタオルを再度身体にきつく巻き付ける。見えてないと言われても気になるものは気になるのだ。
「あんたずっとそこにいたの・・・?」
「いやいや、さすがにずっとじゃないよ。伝え忘れたことがあったから戻ってきただけ」
アルマスの声がした方向を見やる。
湿気でガラスが白くなっているので、さっきと違ってその姿をはっきりと見ることは適わない。ぼんやりとした輪郭が浮かんでいるのでそこにいるのは確かなようだった。
「ロウリュって言うんだけど。本来は熱々の石に水をぶっかけるんだ。すると蒸気が吹き上がるからそれを浴びる。もちろんあっつい。でもね、それがいいんだよ。発汗作用、血行促進。心を落ちかせる効果もあるかな。言葉で表現するとちょっと陳腐になる気がするから、これもやってみた方がいい。人によっては白樺の葉で身体を叩くこともある」
「えぇ・・・。葉っぱで叩くの?・・・私はいいわ。今でも十分気持ちいいし」
頭の中で葉っぱでひっぱたかれる自分を想像する。やるとすれば自分でするのだろうがあまりいいものに思えなかった。
「叩くのはお好みだよ。やんなきゃいけないわけでもないし、やりたくなければそれでいい。まっ、ロウリュも同じだけどね。どうするかは一度味わってからでも遅くないと思うよ。特にこのサウナはひと味もふた味も違う。なにせ、お貴族様にも通用するほどの特別製。高位錬金術師の無駄に高度な技術が使われているからね。まったくこれを作った人は暇人だよ」
ちなみに白樺の葉はないから我慢してね、とアルマスは付け加えた。
それにしても口ぶりからするとこのガラスのサウナはアルマスが作った物ではないらしい。ここはアルマスの工房だと聞いていたからリーリヤは不思議に感じた。アルマス以外の人は誰もいないのに一体誰が作ったというのだろうか。
気にはなるが改めて問うほどではない。目下のリーリヤの興味はロウリュなるものに向いている。アルマスがそこまで勧めるのであれば試してあげないこともない。
「それでどうすればいいの?」
「近くに変な魔具があるでしょ。花びらの入った水の玉がぶら下がっているやつ。それを揺らしてごらん。手の平で押す感じね。・・・おおっと、気をつけて。鳴らすのは1回だけでいいからね」
「こうすればいいのね。・・・えっ?」
サウナのほどよい熱気によってぽわぽわとしていたリーリヤの頭が一拍置いてアルマスの忠告を認識したときには水の玉を勢いよくはたいた後だった。揺れにあわせて『からんころん』と優しい音が響く。加減を間違えたリーリヤのせいで2回、3回と水の玉が大きく揺れ、それと同じだけ何度も音が鳴る。慌てて抑えたときにはもう遅かった。
サウナの中心に鎮座する赤く煌めく結晶の真上に花びらと同じ桃色に染まった水の塊が生成される。1つではない。リーリヤが鳴らした分だけ空中に水塊が作られていく。
そのまま落下した桃色の水は結晶に直撃した。そして、それは一気に水蒸気となって弾けた。
「ぶはっ」
サウナ全体に広がるほどの水蒸気の熱波が連続してリーリヤに襲いかかる。
しかし、肌に触れる熱さはほんの一瞬だけで、それは直ぐさま濃厚な花の香りとなってリーリヤを包み込んだ。
「ほわっ」
蒸気は空中に溶けることなく、光の粒子を纏って宙を漂っている。まるで雲のようだ。リーリヤはたっぷりの雲の中に埋まる気分を味わう。不思議な感覚だった。蒸気の雲はなぜかもこもことした触り心地があって、抱きしめようとすると甘やかな花の匂いを残して消えてゆく。
「どう?いいものでしょ?」
声だけでアルマスが自信に満ちた笑みを浮かべていることが想像できた。
いつもならむかつく顔だと眉を寄せるところ、リーリヤは素直に頷いた。
「ええ。なんか、いいわね。身体はぽかぽかしているのに、すごくすっきりするし。それに香りもお花畑に寝転がっているみたいなの。蕩けちゃう気分」
口元が緩み、眦も下がる。理性が働く間もなく頭に浮かんだ言葉がするすると溢れていく。もし今の顔を見られたら一週間は外に出られなくなるくらいだらしない表情をしていると思う。けれど、そんなことは気にならなかった。ただ心も身体も全部が気持ちいい。
「それは良かった。気の済むまで楽しむといいよ。満足したら水の玉は床に放り投げること。それだけ忘れないようにね。じゃ、俺はあっちにいるから」
「は~い」
浮つく心のままに気の抜ける声を出す。リーリヤの興味は完全にロウリュなるものに向けられている。
1回、2回と追加で水の玉を揺らす。器具に付いた水の玉が瑞々しい音を掻き立て、同じ順序を辿って熱波が生まれる。
「ふわぁ」
多分、10回くらいは蒸気を浴びてリーリヤはやっと満ち足りた。その頃には全身が火照り、汗まみれになっていた。
そろそろ終わりにしよう。
アルマスは水の玉を投げると言っていたが、器具にぶら下がっている水の玉をどう取ればいいのか。リーリヤは少し迷ったものの、両手で包み込んで軽く引っ張れば抵抗なく器具から取り外すことができた。紐も何も付いていないのにどうやって水の塊が垂れ下がっていたのかは謎である。
下からすくい上げるように放り投げた水の玉はサウナの中心付近で床に落ちる。しゅわり、そんな音を伴って水の玉は消えてしまった。
次はどんな変化があるのだろう。少し楽しみになっていたリーリヤは、ぽたりと頭に雫が落ちてきたのを感じた。水滴が屋根から落ちてきたのかと見上げた途端、大量の水の粒がリーリヤに降り注いだ。まるで雨だ。それも花の香りに満ちた桃色の雨。
肌を滑るたっぷりの水がリーリヤのかいた汗を流していく。
十分洗い流すことができたところで、今度はサウナの中に風が渦巻いた。髪を靡かせる人肌程度の温風はリーリヤの身体から余分な水分をさっと飛ばしていく。
「わったったった」
緩やかなのにやたら押しの強い風に背を押され、サウナで力の抜けたリーリヤは縺れるように歩を進める。その先には外へと続く扉があった。ぶつかると思わず身構えるも衝撃はない。扉が勝手に開いたのだ。
そこは綺麗な中庭だった。周りを囲うように色とりどりの花々が咲いている。ほどよく湿った肌を爽やかなそよ風が撫でていき、ここが外であることを強調する。
足下にはご丁寧に外履き用のサンダルが用意されていた。
リーリヤはサンダルを履くと中庭に設置されたベンチへと向かった。そこにいるであろう人物に吸い寄せられるように近づいていく。
「座りなよ」
背後にいるリーリヤにアルマスは振り返ることなく言った。
アルマスはリーリヤに背を向けたままベンチに座り、整えられた芝生で戯れる小鳥を見ている。
リーリヤは言われるままにアルマスの横に座った。ベンチにはリーリヤへの配慮かサラサラとしたシーツが敷かれている。相変わらず気が利くのか利かないのかわからない男だ。そう思っていると横からカップが差し出される。並々と入っているのは果実水だ。
「気が利くわね」
リーリヤは心の中でのアルマスの評価を引っ込めることにした。ちょっとは気が利く男に認識を改めることにする。
喉が渇いていたリーリヤはカップを受け取ると一息に飲み干した。サウナ上がりにさっぱりとした果実水で喉を潤すのは堪らなく良かった。
リーリヤは大きく息を吐きながら空を見上げる。
もう遅い時間なのにまだ太陽は空の上にある。だが、徐々にその高度を下げ始めていた。もう少しすれば日も完全に沈むだろう。リーリヤは目を細めて初夏の涼しげな風を味わう。
「あっ・・・!」
そこで唐突に自身の格好を思い出した。今、リーリヤはタオル一枚しか身につけていないということを。
何が『気が利くわね』だ。リーリヤは少し前の自分をひっぱたきたくなった。余裕ぶる前に服を着るべきであった。なにをとち狂ってタオル一枚で外に出て来てしまったのか。これでは痴女だ、昼間に続いて恥の上塗りをしている。
というかアルマスもアルマスだ。年頃の少女がほぼ素っ裸の状態で隣にいることに何も思わないのか。もっと慌てるなり、恥ずかしがるなりするべきではないのか。それなのにアルマスはリーリヤに視線一つ寄越さず、落ち着いた様子で庭の景観を眺めている。
「気にしなくていいよ」
慌てた雰囲気を出すリーリヤにアルマスは静かに言った。
「気にするわよっ。ちょっと服を着てくるから―――」
「いいんだよ、本当に。サウナの後だけは皆、気にしないものなんだ。入る人も入らない人もね。そういう文化がこの国にはある。それだけサウナは特別なんだ。身嗜みなんて気にするくらいならもっと別のことを気にした方がいい。ほら、試しに目を閉じてみて。きっと風も音も、なんだっていつもとは違って聞こえてくるはずだから」
何を馬鹿なことを、とはリーリヤは言わなかった。アルマスの声がそれだけ穏やかだったからかもしれない。
恥ずかしさがなくなったわけではない。それでもリーリヤはアルマスの言うとおりに目を閉じてみた。
「深く、息を吸って」
髪を揺らす風、葉のこすれる音、鼻をくすぐる土の匂い。
森にいるみたいだ。自然とそう思った。
息を吸い、吐く。ひたすらそれを繰り返した。その間にも太陽はゆっくりと、しかし確実に下がっていった。
身体の火照りが薄れてきた頃、荒れていた心が落ち着いていくのがわかった。それこそ心に刺さっていた小さな棘がぽろぽろと抜けていったような気がした。
自分の中にあったわだかまりがするりとほどけていくのを感じた。だから、こんな言葉が出て来たのだ。
「ねぇ、話があるの」
話すべきことが、話したいことがたくさんあった。
今日の出来事だけではない。これからの不安だってそうだ。花の乙女になろうなんて考えたのもリーリヤの中にあった言葉にできない焦燥感が原因だ。
でも一番は、魔女の術を使ったのに妖精が暴走し、あまつさえ火事になりかねない惨事に発展してしまったこと。
セルマの家は無事だろうか、燃えていないだろうか。誰か怪我をした人が出ていたらと思うと胸が苦しくなる。リーリヤはどうすればいいのかわからずに逃げてしまった。
目を背けてはいけないのに見ない振りをしていたことばかりだ。それに向かい合う勇気がなかった。正直に言うと今だってそんなものはない。
けれど、話すことだけはできる気がした。
アルマスの返事はリーリヤの期待していたものだった。
「うん、いいよ。言ったろ。愚痴くらい聞くってさ」
「・・・ありがと」
「でも、その前に服を着ようか」
「っ・・・!もうっ」
にやりと笑うアルマスにリーリヤは無言で蹴りを入れた。
いつの間にか夕暮れが訪れていた。長い一日がやっと終わりを告げようとしていた。けれども、二人の一日はまだ終わらない。