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2.白霞の森

 遙か昔、大陸が数えられないほど多くの国々に分かたれていた頃、人は今では想像もつかないほど高度な知識と緻密な技術に溢れた豊かな文明を謳歌していた。


 永劫続くと言われた人類の時代は、ある日唐突に終わることになる。極まった知性を持つはずの人類は生態系の頂点から瞬く間に追い落とされた。妖精の出現である。


 いや、妖精が生態系に君臨したわけではないからこの表現は正しくない。便宜上『彼ら』と呼ぶことにするが、彼らは生物の枠組みにすら収まっていない。何から生まれ出でて、どこから来たのか、何を糧にして存在しているのか、現代においても解き明かされていない謎に満ちた彼らは如何なる理由をもってか、何百年何千年とかけて築かれてきた人類の歴史とその遺産を悉く破壊尽くしたという。


 その最たるものは人がその知識の研鑽とともに長い年月をかけて作り出したとされる機械文明だ。

 今となっては数少ない古代の文献にその名を残すばかりとなった『機械』であるが、彼らの出現と共にありとあらゆる『機械』はその機能を停止し、人々は抗いようもなく妖精の暴威に晒された。まるで自然の代弁者と謂わんばかりの彼らの行いは嘘か誠か大地を割り、山を崩し、海を荒らしたとされる。


 とにもかくにも彼ら妖精により『機械』という智の結晶を奪い去られた人間は地球上の支配者の座から転げ落ちる他なかった。人はあろうことか彼らの存在により文明の、歴史の逆行を余儀なくされたというわけだ。


 大陸北部を切り取るように横たわる大山脈がその姿を現す前の話だ。遙か古に起きた、御伽話として語られる未曾有の大災害である。


 その後だ、魔女という存在が現れたのは。


 生き残った僅かな人類はかつて誇った叡智など見る影もなく、原始の時代のように自然の猛威に耐えながら、なにより妖精の悪意に怯えて暮らす時代が訪れた。


 ある歴史書曰く、嘲るように人を惑わし、嗤いながら暮らしを脅かし、時には自然環境すらも巻き込んで人を弄ぶ彼ら妖精を魔女は平然と従えたという。人里離れた森の中で、切り立った険しい山の中で、霧に沈んだ湿地の奥で、彼女達は人に害を為そうとする恐ろしい妖精たちを怪しげな術をもって封じて抑えてきた。そうして魔女に守られながら人の営みは現在まで細々と紡がれてきたのだ。


 歴史書の一節において記されるとおり、魔女が畏れられ、崇められ、敬われていたのは覆しようのない事実である。


 しかし、それも過去の話。現代において彼女らは―――。




「っとと」

 思考に耽っていたアルマスは泥濘みに足を滑らせ、慌てて近くの針葉樹の枝にしがみつく。

 背の高いトウヒの木に囲まれた森は、冬の間に積もった雪が中途半端に溶けてひどく歩きづらくなっている。


 危うくぐずぐずになった雪と泥の水たまりに飛び込みかけた金髪の青年アルマスは、枝を掴んだ腕に力を込めてなんとか身体を引っ張り起こした。

 顔に飛び散った泥混じりの雪など気にしている余裕はなく、汗を滴らせながら乱れた呼吸を整えるために何度も大きく息を吸う。


 本当に春になったのかと疑うほどに冷え切った外気に晒されているというのに、吹き出た汗は一向に止まる気配はない。座り込みたくなる弱気を振り払いながらも、アルマスはせめて一息だけでもつくために太い木の幹に背を預けて空を仰いだ。


 この森に入ってからというもの、アルマスは後悔しきりだった。


 降り続けていた雪がやっと収まり、森に踏み入ることが出来るようになったのはつい先日のこと。もう5月になるというのに森の中はほとんど白一色で、ここだけ冬に取り残されている気分になってくる。 

 木々の合間から差し込むほんのり暖かな日射しだけが春の季節を連想させるが、鬱蒼とした森の中ではなんとも頼りないものだ。


 その木漏れ日のせいでべちょりと緩く靴が沈む箇所もあれば、光の届かない木々の裏は氷のように堅く凍って滑りやすくなっている。

 木こりや狩人のように普段森を歩く機会がないアルマスからすれば歩きづらいなんてものではない。それもここは森の深部にほど近い場所のはずだ。外縁の村にいる熟練の狩人だって間違っても踏み込まない領域だから道の整備などされているはずもなく、あるとしてもせいぜい獣道だというのだから参ってしまう。


 端的に言えば底冷えするほど寒いのに長時間歩きっぱなしで汗だくだし、その上足場も最悪だった。


 不慣れな森に踏み入ることが、こんなにも体力も気力も消耗するとは思っていなかった。

 太陽はすでに頭上にさしかかり、森に入ってからそろそろ半日くらい立つ。早朝に出たばかりの村はとうに見えなくなっている。周囲にはひょろ長い針葉樹だけが狭苦しく並んでおり、当たり前だが人の気配は少しも感じられなかった。


 右を向いても左を向いてもまるで代わり映えのしない景色は、方向感覚を狂わせ、人の心をも迷わせる。いくら歩こうともまるで進んでいないような錯覚に陥り、焦りがじりじりと精神を削っていく。

 ざわりと頭上で起きた不気味な葉擦れの音を耳にし、アルマスは背筋に冷たいものが走り、肩を小さく跳ねさせた。


「これが遭難かぁ」


 戯けるように言ってみたものの声が震えてしまったことにアルマスは自分の事ながら苦笑した。

 先ほどまで握りしめるように持っていた方位磁石は、今はただくるくる回るばかりでとっくに役に立たなくなっている。


 念のためと村で借りた羊皮紙の地図は随分古くてところどころ朽ちており、まともに読めたものではなかった。それでも方向を把握することくらいはできるだろうと思っていたが現在地も方角もわからなくなった以上はただの黒ずんだ動物の皮でしかない。


 事実としてアルマスは歩くべき道が見つからず、進むべき方向もわからず、対処すべき方策もなくなっていた。


 これこそ旅人を迷わせると悪名高き『白霞の森』の恐ろしさの一端なのだろう。


「うん、これは確かに怖いな」


 徐々に絡みついてくるようにわき上がる恐怖と絶望を見ない振りしてアルマスは背を預けていた木から離れる。小休止は終わりだ。疲労で悲鳴をあげる身体を叱咤して歩き始める。


 通常であれば道に迷った時点で無闇に動かないのが定石だ。助けが来るのを待つなり、状況が好転するのを期待して大人しくしているべきであろう。しかし、森に近い村の人間ですら立ち入らない奥深くに助けが来るはずもなく、じっとしていたところでそのうち日が落ちて気温も急激に下がることを考えれば状況は悪化することはあれど良くなることはまずない。

 それにアルマスだってなにも無策で歩き回っているわけではない。この森ではこれこそが『正解』なのだ。


 行動を再開して体感で四半刻ぐらい経った頃、ふと異変に気づいた。いつの間にか、アルマスの周りに白い霧が立ちこめている。


「ああ、やっとか」


 寒さ、悪路、方向感覚の喪失、その程度のことはどんな森でも起こりうる。だが、ここはそこらにあるただの森ではなく、あの『白霞の森』なのだ。むしろこれからが本番だと言える。

 漂う霧はあっという間にその濃度を深め、目の前はおろか足下さえ覚束ないほど視界が悪くなる。


 そして、随分と遠くからあるいは至近距離からだろうか、きゃらきゃらとどこかから嘲笑う姦しい声が響き渡る。耳元で囁かれるような、離れたところから呼ばれているような、はたまた周りすべてを囲まれているかのような曖昧で不快な感覚だ。


 さあ、来たぞとアルマスは思わず唾を飲み込んだ。


 『白霞の森』。それは魔女の支配する森だ。古来より迷いの森として語り継がれ、多くの旅人を攪乱し、そしてその命を奪ってきた呪いと悪意に溢れた土地。

 魔女が棲む地には妖精がいる。それも悪辣で陰湿な妖精だ。気を抜けば気付かないうちに命を落とすなんてことも冗談ではなくありうる。人の住む街中や整備された街道とは違う、この場は既に人の領域ではなく彼ら妖精の世界だ。生きるも死ぬも彼らの気分次第というわけだ。


 アルマスは目を瞑ると耳を澄ませた。閉ざされた視界の中、頭に響くのは特徴的な甲高い少女達のような笑い声。こんな森の奥深くで本当に人間の少女が、それもこうも可笑しそうに嗤う少女達がいるわけがない。この声を発しているのは明らかに妖精であった。


「うん、よかった。『戯れる少女達メッサネイト』だ」


 しばらく耳障りな嗤い声を聞いていたアルマスはやがて納得したように呟いた。

 強がりで言ったのではない。アルマスが目を閉じてまで耳を傾けていたのは、不明瞭な視界の中で妖精の声や周囲の木々のさざめきをもとに妖精の種類の見当を付けるためであった。


 結論としてアルマスは大したことのない類の妖精だと判断した。

 それになによりこの妖精は今のアルマスにとって都合が良い。

 アルマスは脳裏に目的地を強く思い浮かべると一本の針葉樹を中心にして三度だけ円を描くように歩いた。

 一回、二回、そして三回。その間も妖精の嗤い声が途切れることはない。それでも変わったこともある。今度は目を開いたままアルマスは注意深く妖精に意識を向けた。


 聞こえてくる嗤い声の位置が少し移動している。遠くからの呼び声、近くからのささやき声、入り交じるように響く妖精の喧騒はよくよく聞いてみればどれがどの方向からなのか理解できる。


「なるほどね」


 アルマスは一つ頷くと左手の方へと迷いなく歩を進めた。

 

 アルマスの歩みに焦りはなく、むしろゆったりと余裕さえ出ている。今のアルマスにとっては先ほどまで感じていた心細さが嘘のように感じられるほどだった。

 恐怖や緊張が一周回って思考が吹っ切れてしまったわけではなく、不気味な妖精の叫声を前にしてアルマスは確かに安心感を覚えていたのだ。


 その理由は偏にこの妖精自身にある。

 『戯れる少女達』といえば、森や山の中でまるで人の声に聞こえる音を囁いて迷った旅人を誘導し惑わせようとする厄介な妖精だ。どこに向かってもいつまでも付きまとってくるが、決してその言葉に耳を傾けてはいけない。呼び寄せる声に従って進んだ先には大抵崖や底なし沼など命に関わる危険な場所に辿り着く。その声に従って迷い人が助かることは絶対になく、例外なく死へと続く道程なのだ。


 しかし、逆に捉えれば妖精の声がしない方向は目的地に通じるということでもある。

 落ち着いて聞くことに集中すればすぐにわかる。前、後ろ、上、下、右からはひっきりなしに聞こえてくるのに、左側からだけは妖精の声が響いてこない。だからアルマスは左方向に歩き出したのだ。

 無知な旅人にとっては死へと誘う悪魔の囁きだとしても、アルマスにとってはただの親切な道先案内でしかない。


 心なしか妖精達の声がアルマスを引き戻そうと躍起になっているような気がしたが、わざわざ相手をしてやるつもりもない。アルマスは妖精達が付いてきていることを確認しながら少しだけ足を速めた。この便利な妖精達が飽きていなくなってしまうよりも早く、少しでも目的地に近づいてしまいたかった。


 なにせ、この森に棲む妖精は『戯れる少女達』だけではない。より危険で、よりあくどい妖精などごまんといる。道案内を失ってまた迷子になってしまえば、そんな妖精と鉢合わせる可能性が増すことになるのだ。いくらアルマスといえどもそれは勘弁して欲しかった。






 あれだけ煩わしく騒いでいた『戯れる少女達』の声が小鳥のさえずりくらいの大きさになった頃、アルマスはぽっかりと開けた場所に辿り着いていた。霧に満ちた森の中にあって広々とした空間は、そこだけ霧が薄れており一見して『森の広場』とも言うべき景観をしているが安易に足を踏み入れるのは躊躇ってしまう。


 ぽっかりと、と言ってもそこだけ不思議と木々が生えていないのではなく、その場所にある樹木が何かによりなぎ倒され、圧倒的な力で無理矢理へし折られていたのだ。


「見るからに怪しいよね、あれ」


 アルマスの視線は自然と空間の中央へと向かう。そこには一本のとんでもなく巨大な古木が生えていた。大人の男が5人いたとしてやっとその太い幹を囲むことができるかどうかというくらいにはその古木は太く、大きかった。


「こういうときは大抵『巨木のトレント』か『絡み茨の猿人トロール』と決まってる気がするけど」


 広場に入り込まないように慎重を期して距離を取りながら、アルマスは雑多に木々が倒れ込んでいる広場の縁に沿って移動し様子を見る。


「『動物系』である可能性も否定できないしな」


 どうしたものかと思考しながら、ぐるぐると広場の周囲を歩く。もう既に『戯れる少女達』の気配はないが、あの妖精達の感覚に従うのであればこの広場を通った向こう側がアルマスの目的地に続いているみたいだった。なにも考えずに広場を突っ切ってしまえば早いのだがどうにもきな臭い。あわよくばこの危なそうな空間を避けて進みたいと考えていたアルマスの足が止まる。


「そりゃそうか。これですんなりいけたらこの場所の意味がないか」


 アルマスの目の前にあるのは濃霧を通り超して、もはや白い壁と表現した方がいいような凄まじい密度の白霞。広場を迂回しようとした途中から、ある地点を境に現れた霧の壁の向こう側は試しに入り込んでみると今までとは別次元に思えるほどまるで視界が効かない。それこそ目を閉じているのと大差ない状況にアルマスは早々に引き返した。


 手探りで無理にでも進もうと思えばできなくはないが、それは命を捨てるに等しい愚行だ。

 森の中の危険はなにも妖精だけではなく、崖や底なし沼は言うに及ばず、ちょっとした地面の凹凸で足を踏み外したり、倒木などの障害物にぶつかるだけでも運が悪ければ大怪我につながる。なんとか周囲の把握ができる程度ならまだしもまったく認識すらできない状況下で闇雲に歩き回るのはリスクが高すぎた。

 おそらく森の深奥に近づいているのだと思う。言うなればこの広場は魔女の住処に続く関所といったところか。


 どうやら先ほどの怪しげな広場を通り抜けて先に進む以外に方法はなさそうであった。

 アルマスは広場の中央にそびえ立つ大樹を再び見やった。樹の種類は定かではないが、トウヒばかり生えているこの森において珍しい広葉樹は春先になったばかりのはずなのに光加減で黒くも見える深い緑の葉をあらんばかりに茂らせている。ぼこぼこと堅そうな節の目立つ何本もの枝も、幹ほどではなくともそこらの針葉樹の太さなど優に凌駕していた。

 この樹自体が妖精の類でなくても、魔女の手が入っているか強力な妖精の影響を受けているかのどちらかは明かである。


 胡乱げに樹を眺めていたアルマスは一つ息を吐く。


「しょうがないな。待ってても何も起こりそうにないし、まずは動くとしようか」


 アルマスはとりあえずとばかりに開けた広場の中に無造作に足を踏み入れた。さてどんな反応があるかなと様子を伺っていたアルマスに対し、予想に反して何かが起きる気配はしない。肩透かしを食らった気分になるアルマスだが油断はしない。気を抜いた瞬間にここが死地になることはわかりきっている。


 じっとりとした嫌な汗が纏わり付くのをなるべく気にしないようにしながら、いつも通りの気楽さを心がけて足を進める。軽快な足取りでちょうど広場の半ばまで来た途端、身体中の臓腑が締め上げられる言いようのない感覚がアルマスを襲う。思わず込み上げる吐き気を無理矢理抑え付け、膝を着かずに済んだのは上出来であった。


 一拍の間をおいて理解する。突然巨木の幹に浮かび上がった皺だらけの老顔が、その醜悪な見た目に相応しい聞くに堪えない悲鳴を発したのだ。


「やっぱり『巨木のトレント』か。これまたゴツいのがいるもんだ。まっ、この感じだと多分門番ってとこだろうね」


 地面が揺れ動いていることを錯覚させる高低入り交じる雄叫びに冷や汗を流しつつ、アルマスはそれでも口角を上げて見せた。

倒せと言われれば迷わず首を横に振る。魔女ならぬ只人であるアルマスには妖精を力尽くでどうこうするなど無理な話だ。


 しかし、別にどこぞの怪物退治の英雄譚のように倒す必要はないのだ。どうにか彼の妖精を出し抜いて広場を素通りさせてもらえればいいだけ。そう考えれば少しは肩に入った力も抜けてくる。


「ひとまずアレの出方を見たいところだな。―――やばっ」


 叫び終えた『巨木の翁』はそれでも苦しげなうめき声を漏らしながらその太い枝を腕のように持ち上げる。ミシミシと生々しい音を響かせながらしなる枝は膨大な数の葉をまき散らしながら頭上から振り下ろされる。


 慌てて後退するアルマスはギリギリ範囲内から逃れた。先ほどまでアルマスが立っていた場所は地響きと共に巨大な枝の腕に叩き潰されている。余りの勢いに大枝は雪の地面に深くめり込み、白い煙のように粉雪が舞い上がった。


 一撃でも当たれば死ぬ。そうでなくても掠っただけでも死にかねない。


 その事実が実感を纏ってアルマスの脳裏に過ぎる。それと同時に冷静な思考の中で枝が届く距離の限界があることに気付く。『巨木の翁』が持つ枝の腕は恐ろしい破壊力を持ち、それが何本も襲いかかってくるとなれば紛れもなく脅威だ。しかし、当たらなければどうということもない。

 恐怖に狂って突撃なんて馬鹿な真似をせず、落ち着いて対処をすることができればまだ怪我を覚悟する段階ですらない。


 最も簡単な手段として思いつくのは、地面に根を張った相手が動けないのを利用すること。すなわち枝の腕が届かないギリギリの距離を見極めて広場の出口まで近づいていけばいいのだが―――。


「やっぱ無理か」


 『巨木の翁』が生えているのは完全に広場の中央というわけではなく、『巨木の翁』の背面側にある広場の出口に少し寄っているらしい。広場の端を通るようにして半分以上進んできたが、これ以上出口に近づくためには荒れ狂う枝の嵐の中をくぐり抜ける必要がある。


 どれだけ枝を振り回しても一向に当たる気配のないアルマスに業を煮やしたのか、『巨木の翁』は一層乱暴に枝を地面に叩き付けてアルマスに向けて呪詛のごときうめき声をわめいている。


「うーん、どうしようか」


 このまま放っておいて『巨木の翁』が疲れたり飽きたりするのを待つのも手ではある。正直、良い方法とは思えない。そもそも妖精でも疲れるのかとか、これだけ執着をしているアルマスへの興味を失ってくれるのかという点が不確かだ。


「まずは無難に行こうか。錬金術師らしく、ね」


 アルマスの手が背嚢に伸びる。雑多に詰め込まれた道具を漁り、目当ての物を掴む。

 手に握った宝石のように煌めく緑色の輝石を慣れたように指で弾くと、内包された光の粒子が震えて輝きを増していく。そして、輝石が砕け散るのと同時に暴風が吹き荒れた。緑の粒子が入り交じった突風は雪の大地を巻き込みながら下から上へと吹き上げる。


 その勢いは凄まじく、巨木の妖精の太い枝の腕が大量の葉っぱを散らしながら上空に向けて無理矢理持ち上げられている。


「さすがに火を使って森を燃やしでもしたら怒られそうだからね。お次は―――」


 二つ目の輝石をその手に構えたところで、アルマスは輝石を励起させるのを止めた。正確にはその必要性がないことに気付いたのだ。


「あー、そっか。そういえばそうだったね」


 強烈な風により、その枝のほとんどを天に伸ばす格好となった巨木の妖精は、太い幹に浮かび上がった老顔を露出する羽目になっている。木肌に刻まれた無数の皺で表現されている感情は怒りでも、苦しみでもない。わかりにくいがきっとあれは恥辱に類するものだ。


 アルマスは笑う。

 巨木の妖精の顔をじっと見つめながら正面から堂々と歩み寄る。近づけば近づくほど風の拘束から抜け出そうとする妖精の抵抗が弱まっていく。


「『巨木の翁』は縄張り意識が高いという。近づいてきた狩人や動物に対して、とにかく枝を振るって追い払う逸話が有名だよね。ではなぜ君という妖精が誰も近づかせたがらないのか」


 あれだけ枝を振り回して荒れ狂っていた巨木の妖精は、その場から動けないにも関わらず器用に幹を捻って顔を背けようとしている。だが残念ながら太い幹のど真ん中にある大きな顔を隠すことなどできはしない。

 アルマスが一歩近づく度に巨木の妖精は消え入りそうな悲痛な叫びを漏らす。


「簡単だ、その醜い顔を見られたくないんだろう?」


 ついにアルマスと巨木の妖精との距離が腕を伸ばせば届くほどとなった。

 真下から見上げるアルマスに対し、彼の妖精は小刻みに震えるばかりだ。まるで断罪を待つ罪人のように恥辱や恐怖がない交ぜになっている。


 近くから巨木の妖精を見たアルマスの感想としてはやはり醜悪の一言に尽きてしまう。長々と見ていたいものではなかったが、おそらくこの妖精が暴れることなく大人しくしているのは、真正面からその顔面を見据えている間だけだ。きっと視線を逸らした瞬間にこの巨木の妖精は怒りと共にアルマスにその太い枝の腕を叩き付けるのであろう。

 しかし、いつまでもこんな老顔と見つめ合っているわけにもいかない。アルマスの目的は巨木の妖精の後ろ側にある広場の出口なのだから。


「そんな君にいいものをあげるよ。遠慮せず、どうぞ」


 アルマスは手に握ったものを至近距離から投げつける。放られた物体は狙い違わず巨木の妖精の眉間にぶち当たった。

 アルマスが投げたのはなにも特別なものではない。錬金術によって作られた魔法のごとき神秘を内包する輝石ではなく、陽光によって溶けた雪と泥を混ぜ合わせて作ったただの泥団子だ。中に石を入れているわけでもないから人に当たったとしても大した威力はない。ましてや巨大な樹である『巨木の翁』にぶつけても何の効果も見込めないはずだ。


―――普通ならば。


「うん、いい顔になったじゃないか。お似合いだぜ、君」


 咄嗟に耳を塞いだアルマスの目の前で巨木の妖精が金切り声を発する。幹に浮かんだ顔が面白いように驚愕と悲嘆の表情に変わった。

それと同時にアルマスは妖精の背後に向かって走り出すが、想定通り恐ろしい枝の腕による乱打は襲ってこない。


 巨木の妖精は泥団子をぶつけられた箇所を気にして枝をわさわさと揺らしている。何百、何千という葉が落ちるのもお構いなしだ。枝は良くしなるといっても本当の腕のように自由に動かせるわけではないらしく、幹にこびり付いた泥汚れを必死に拭おうとしているものの拭うことはできていなかった。


「醜いからって更に醜くなっても気にしないってわけじゃないんだよな」


 老いぼれたような皺くちゃで見るに堪えない自らの顔を殊更卑下している巨木の妖精は顔面を汚されることを死ぬほど嫌がるという。だからこそ、その顔面が汚れでもしようものなら一時的にだが人を襲うどころではなくなる。


 顔を覆い隠すように枝を揺らす『巨木の翁』を尻目にアルマスは広場の出口へと向かう。腹に響く気味の悪い嘆きの声を漏らす『巨木の翁』だが、いつ悲しみを怒りに変えて動き出すかはわからない。とはいえ、半刻ほどはうずくまって動かなくても不思議ではないはずだった。


「あれ?」


 異変に気付いたのはアルマスが無事に広場の出口に辿り着いたときだった。

 大人しくなった『巨木の翁』を後にして、悠々と先に進もうと考えていたアルマスの背後に枝が叩き付けられたのだ。もう既に枝が届く範囲は脱しているため、風圧がアルマスの髪を揺らすばかりではあるがその行為には怒りが充ち満ちている。


「おっかしいな。しばらく動かないはずなんだけど。もしかして君、特異種だったりする?」


 質問に返ってくるのは不気味なうめき声だけ。

 アルマスの考えではしばらく暴れることはないと踏んでいたが、結果はほんの少しの時間で立ち直ってしまっている。

 それでも普通の『巨木の翁』であればこれ以上アルマスに危害を加えることは適わないはずだった。


「なんとなくわかってたけど、こうなると威圧感がもの凄いね。あんなのと追いかけっことか勘弁して欲しいよ、ほんと」


 つい口から愚痴が漏れる。

 アルマスが引きつる顔をする先では、『巨木の翁』が枝を地面に付けて支えにして根を蠢かせている。その光景は樹がひとりでに地面から這い出ようとしているとしか見えなかった。


 半ば予想していたことではある。

 あのままの定位置から『巨木の翁』が動けないのであれば、枝の可動範囲外に位置する広場の隅々にある木々がへし折れているのはおかしいのだ。


 そうであれば当然、枝を伸ばすなり、樹自体が動くなりしないと理屈に合わない。

 その答えがアルマスの目の前で実証されつつある。

 あの巨体で動くとなればどの程度の速さかはわからずとも楽に振り払うことはできそうにもなかった。


「こんなところで使いたくはないんだけどな」


 アルマスが背嚢に仕舞った輝石に手を伸ばそうとしたとき、ついには地面から完全に抜け出してアルマスに向けて突貫しようとしていた『巨木の翁』の動きが止まった。


 ほー、と気の抜ける鳴き声がアルマスの頭上から落ちてくる。

 見上げれば、アルマスからほど近い針葉樹の枝の上、そこには一羽の梟がいる。薄暗い木々の下で、巨大な瞳が怪しく光っていた。


 大きな羽根を広げた梟は滑らかに空を飛び、『巨木の翁』の数ある枝の一本に降り立つ。そして身じろぐ『巨木の翁』に向けてもう一度鳴き声を響かせた。

 するとあれだけ暴れ狂い、いきり立っていたはずの巨木の妖精は振り上げかけていた太い枝の腕を力なく下ろす。怒りに染まっていた顔に怯えを滲ませ、そのまますごすごと地面の中に戻っていってしまった。


 瞬く間に巨木の妖精を押しとどめた梟は、用が済んだとばかりにアルマスの側へと降りてくる。大きくて赤い瞳が無機質にアルマスを見据えていた。


「これはこれは。魔女殿、いや、その使い魔かな。何にしろ助かりましたよ」


 アルマスがなんてことのないように話しかけるが当然梟が返事をするわけもない。ふいっとアルマスから視線を切ると森の奥の方へと向きを変えた。

 おそらくこの梟は魔女がアルマスに差し向けた道案内なのだろう。


「じゃ、お願いします」


 荷物を背負い直したアルマスが再度梟に話しかける。

 やはりその言葉に答えは返ってこなかったが、梟はアルマスをちらりと見ると鬱蒼とした木々の暗がりへと飛び上がった。

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