12.過信の代償
戻ってきたセルマはリーリヤ達に何度も謝ってきた。両親のことを任せてしまった件について相当負い目に感じているようだった。リーリヤとしては盗み聞きしようとして失敗し、少し会話をしただけなのでそんなに謝られてもしょうがない。
その夫妻はと言えば、無事に客達を宥めることができたらしい。とはいっても、顔を見せて問題ない旨を一言二言告げればそれで済んでしまったようだが。
夫妻もとっくに厨房に戻ってきて昼時で忙しく働き回っている。本来であればセルマもそのお手伝いをする予定であったみたいだ。けれども今は此方を優先していた。
「精霊様がいるのは厨房といっても食堂のではなくて、正確には奥のお家の方のかまどなんです」
ちょっと狭いんですけど、と先導するセルマの後ろを歩く。
セルマの言うかまどは食堂の厨房の更に奥にある通路を抜けた先、家族の居住空間にあるとのことだ。
なお、指輪の件は既にセルマに伝えてある。リーリヤは半ばあれが原因だと思っているものの、話を聞いたヘレナは半信半疑だった。しかし、セルマは心当たりがあるようだった。どうやらあの指輪、最近付け始めたそうだ。貰ったのだと嬉しそうに母親が話していたのをセルマが覚えていた。
これが原因で決まり、とはならなかった。
指輪が関係しているにせよ、そこからどう喧嘩に発展したかはわからずじまいだったからだ。
リーリヤはあの指輪が放つ気味の悪さからきっとそういう効果を持つ道具なのだと話したのだが、セルマもヘレナも指輪からは特別嫌な気配は感じなかったという。そもそも魔具かどうかなんて彼女達は感覚ではわからないらしい。
そういうわけで結局魔具の専門家たるアルマスに聞くことに落ち着いた。
解決とまでは行かなくても糸口らしきものが見えたことにはセルマも安堵していた。
それはそれとして妖精の異変は別の問題である。
そう告げたのはリーリヤだ。
むしろさっきの夫妻の喧嘩で妖精に悪影響が出てしまっている可能性があるから確認した方がいいと伝えた。
無論、方便だ。リーリヤとしては人の喧嘩ごときで妖精がどうこうするなんて信じていない。
しかし、セルマの両親が何事もなく仲直りして終わり、ではリーリヤが困るのだ。暴れる妖精を御し、花の乙女なんかよりもリーリヤの方が上手く妖精を扱えると証明することが当初の目的だったのだから当然でもある。
あからさまに魔女らしい行動さえ取らなければ問題になることはないだろう。この街でも広く認知されている魔女の衣装である黒い服は着てないし、手に馴染んだ白樺の杖もない。魔女の歌を紡がなければリーリヤが魔女の術を使ったことなんて誰にもわからないはず。
後は良い感じに妖精を懲らしめてセルマにでもリーリヤの活躍を広めてもらえばたちまち花の乙女へのお誘いが来るに違いない。そうすれば晴れて花の乙女の仲間入りというわけだ。
無職の居候などという不名誉な呼び名ともやっとおさらばだ。むしろ世の少女達の憧れになるのだから、これからは尊敬の視線を浴びることになるわけか。それは想像するだけで気分がよくなる。特にあのヘレナから憧憬を向けられると思うとちょっと、いや大分すかっとする。リーリヤに対する今までの無礼に誠意を込めて謝るのであれば、リーリヤを慕うことを受け入れてやってもいい。
そんなことを考えているとセルマとともに前を歩いていたヘレナの肩が小さく跳ねた。ヘレナは不快な視線でも浴びたように挙動不審にきょろきょろと辺りを見回してから後ろにいるリーリヤを振り返る。想像の中の殊勝なヘレナを思い出し一人勝ち誇った顔をするリーリヤにヘレナは怪訝な表情をしていたが、やがてどうでもいいとばかりに正面に向き直った。本当に失礼な少女である。
「普段は食堂のかまどを使うからほとんど使うことはないんですけど」
さして長くない通路を抜け、幾つかある扉を通り過ぎて一番奥の扉をセルマが開ける。
そこは手狭な部屋だった。
食堂の方に建物の敷地面積をとられてしまっているのか、店内と比べれば随分とこぢんまりとした空間だ。部屋の中央に古びたソファが鎮座していることが余計にそう思わせた。
「あそこね」
リーリヤの視線が部屋の端に向く。
さすがに部屋に入ればわかる。妖精の気配を感じた。
場所はソファの向こう側、壁際に設けられたレンガ組みの台の上にこんもりと盛られた灰の山が見える。簡素な暖炉とかまどを兼ねたもので、寒い日に暖を取る程度にしか使われていないのだと言う。
それにしても灰の量が凄い。結構な大きさのかまどなのに台の縁のぎりぎりまで灰が積み上げられている。ちょっとの衝撃で簡単に崩れ落ちてきそうだ。冬用の余った薪を妖精が勝手に取り込んで燃やし尽くしたらしい。かまどの周囲には燃やし損ねたであろう薪の端材や小枝が散らかっていた。とんだ迷惑妖精である。
意外にも一番にかまどへと駆け寄ったのはヘレナだった。
「わっ、わっ。ここに精霊様がいるんですか?」
興味と恐れが半々という感じで、一歩分だけかまどから距離をとっておっかなびっくり灰の山を眺めている。右へ左へ身体を移動させて様々な角度からかまどを見ている姿は年相応の子どもだった。しかし、妖精は灰の中に潜ってしまっていて、どんなに頑張ってもその姿を拝むことはできない。
リーリヤがヘレナの横に並ぶと自身のはしゃぎように気付いたらしくヘレナはほんのりと顔を赤く染めた。そして、リーリヤは何も言っていないというのに勝手に弁明を始めた。
「ち、違いますよ。別に精霊様に会うのが楽しみだったわけではありません。ただちょっと、興味があったというか。精霊様はとても愛らしい外見をしているといいますし、この街では幸運の象徴なので近くで見てみたいと昔から思っていたといいますか。でも、なかなかお目にかかれない上に、運良く会えても花の乙女の方がお相手するのを遠目から眺めるくらいしかできませんから。だから、ちょっとくらい興奮してもしょうがないんです」
「そうね」
リーリヤは面倒くさそうに頷く。
なんか幸運がどうたらとか聞き捨てならない言葉が聞こえた気もするが、いちいち訂正するのも億劫なので話を聞き流すことにした。
ヘレナはリーリヤの反応にどう思ったのか更に口早にまくし立てる。
「勘違いしないでください。女の子にとって花の乙女と精霊様は憧れなんです。綺麗で可愛らしい衣装を纏った乙女達が精霊様と触れあう、あの幻想的な光景は何度見ても感動してしまうくらい凄いんです。そもそも教典にも示されているとおり、花の乙女は大昔に世界をお救いされた謂わば聖女様。見る者の目と心を虜にする美しさとあらゆる生命を慈しむ深い優しさをお持ちだったと言います。一説によれば聖女様はかの女神様のお力の一端を授かった方だとか。今の花の乙女はその聖女様をもとにしているのです。それに精霊様もまた女神様がこの地に遣わされたと言われています。非常に繊細で人の理解の及ばないところもありますが、わたし達人間を導き、祝福を与えてくださる特別な存在です。つまり、何が言いたいかというとですね。わたしじゃなくても精霊様を見れば舞い上がっちゃうのは当たり前のことでして―――」
「わかったから。あんたは女の子として普通の反応をしただけ。これでいい?」
女神だ聖女だと一気に話されても困る。
第一リーリヤは教典なんて読んだこともないのだ。
花の乙女についてもなんだかややこしい背景がありそうだが、要は『妖精を操る職業』という認識があれば十分だろう。
「まぁ、はい。それなら」
ヘレナはなぜか納得いっていない顔をしている。
わざわざヘレナの言い分に頷いてやったというのにこれ以上何を望むのか。リーリヤが頭を悩ませていると直ぐ側からヘレナに同調する声が上がる。
「ヘレナちゃんの気持ちわかります」
「っ!ですよね!セルマさん!女の子なら皆同じですよね!」
「う、うん。そうなんだけど。ヘレナちゃん、ちょっと落ち着いて。ね?」
ヘレナの圧にセルマがたじたじになっている。
リーリヤは付き合っていられないとかまどの側にしゃがみ込む。
そこには灰かき棒が置いてある。すぐ真横にはやたら大きな花の刺繍がされた布束が何枚か放置されている。ハンカチか手拭のようにリーリヤには思えたが、なんにせよこんなかまどの近くに置いておいたら危ない。火の粉が飛んで燃え移る可能性だってあるのだ。リーリヤは布束を手に取ると、かまどから離れた場所に移動させた。
「それ、燃えちゃうわよ。気をつけて」
「あれ?これってまさか・・・?」
リーリヤが遠ざけた布を一枚拾い上げたヘレナは驚きと疑念がない交ぜになった瞳をセルマに向けた。
「うん、実はそうなの」
セルマの返答はなぜか罪悪感が滲んだものだった。
「いや、セルマさん。さすがにこれはまずいと思います」
「そうだよね。わかってるの。いけないことだって。でも、どうしてもじっとしてられなくて」
リーリヤの背後では二人が要領の得ない会話をしている。どうにも深刻そうな雰囲気をしているので気軽に声をかけるのが憚られた。
リーリヤはかまどに山となった灰と向き合う。
セルマ達のことは置いておくとして、リーリヤはリーリヤで目的を果たさなければならない。
目的とはもちろん様子がおかしいという妖精の沈静化、魔女風に言うと『しつけ』である。立場をわからせるとも言うかもしれない。
いつもなら練り上げた魔力を感覚に従って妖精に叩き付けるだけで事足りる。それだけで妖精は魔女にひれ伏し、ひどく従順になる。魔力とはそれだけ妖精の根幹に多大な影響を及ぼすものであるからだ。
しかし、相性が悪いのかそれとも慣れていないだけなのかこの街の妖精達はリーリヤにとってひどく捉えにくい。例えるならば暗闇の中で目を瞑っていたとして、目の前にか細い火を灯す蝋燭があると思っていたら、実は遠くの方で激しく燃えさかる焚き火だったとでも言おうか。魔女としての感覚にひっかかりはしても、何かを掛け違えているような違和感が残る。些細な感覚のずれ、されども影響がないわけではない。
この程度の認識の齟齬で妖精を大人しくさせるなんていう見習い魔女でも片手間でできる簡単な作業を失敗するとはリーリヤも思っていない。気にしているのは下手に手こずって格好悪い姿を曝すことだ。
ただ妖精の問題を片付ければいいわけではなく、颯爽と手際よく済ますという点が肝心だ。なにせ背後にいる二人には、『妖精の扱いに長けたリーリヤは花の乙女に適任である』という評判あるいは噂を広めてもらう計画なのだから。
そのためにもどんな妖精なのかを見定める必要がある。
リーリヤは手近にあった木桶をかまどの側に引き寄せる。結構な力仕事なので二人にもできれば手伝ってもらいたかったのだが致し方ない。腕まくりをして灰かき棒を引っ掴む。
その間もヘレナとセルマは声を潜めて話し合っている。
「セルマさんが見せたかったのはこれだったんですね。珍しくはっきりしない言い方をしているとは思っていましたが。確かにこれは大っぴらにはできませんね」
「黙っててごめんね、ヘレナちゃん」
「いいえ。事情を知ってますからわたしもそこまで否定はできません。ですが、セルマさんは本当は花の乙女に・・・」
「それはいいの。もう納得していることだから」
「セルマさんはそれでいいんですか?後悔しませんか?」
黙々と作業をしているリーリヤを置いてけぼりにして二人だけでしんみりとしているところ悪いが、そろそろリーリヤの腕もしんどくなってきた。リーリヤは何度目かになる灰かき棒を灰の山に突っ込みながら声をかける。
「いい加減こっちを手伝ってくれない?」
「あ、ごめんなさい。って、リーリヤさぁん!?」
「ちょっとちょっとちょっと!何してるんですか!」
二人の悲鳴にリーリヤは後ろを振り返った。
その拍子にかまどの上から木桶に大量の灰がざっぱりと流れ込む。その光景にセルマとヘレナは面白いくらいに動揺していた。
「見ればわかるでしょ?あれを掻き出そうと思って」
あれ、というのが灰ではなく精霊のことだと理解したヘレナは全力で首を横に振った。
「やり方があるでしょう!?さっき精霊様は繊細だって言いましたよね!?なんでそんなに雑なんですか!」
「心配性ね。大丈夫よ、これくらい」
リーリヤの常識では妖精なんて多少手荒に扱ったところでなんの支障もない。奴らはそんな些細なことは気にも留めない存在だ。
「そんなわけないでしょう!?いいからそれを置いてこっちに来てください!精霊様を手荒に扱ったらどんなに危険か知らないんですか!?」
だが、ヘレナとセルマはそう思わなかったらしい。二人は急いで駆け寄ってくると灰かき棒を取り上げて、手を引っ張ってリーリヤをかまどから引き離した。
そのままリーリヤは二人に連れられてソファの影に隠れた。ヘレナとセルマに挟まれたリーリヤは肩を押さえられて強制的にその場で蹲ることになる。
しかし、当然ながら何も起こるはずがない。100を数えるくらいの時間が経ってヘレナとセルマはようやくそのことを飲み込んだようだった。それでも心配だったのだろう二人は恐る恐るソファの後ろから顔を出してかまどの様子を確認している。
「ど、どうでしょう?」
「お怒りにはなってない、と思うけど」
「だから大丈夫だって言ったでしょ。大袈裟よ、二人とも」
リーリヤがソファの背もたれに勢いよく手を付いて立ち上がる。
ぱん、と鳴った乾いた音につられて崩れかけた灰の山が更に崩れ、そこから赤くて丸いものがころりと転がり出てきた。
ヘレナとセルマはまたもや驚いてソファの後ろに隠れてしまう。
そんな二人に呆れつつリーリヤは灰のベッドの上で悠々と佇むその小さな存在に目を向ける。
「ふぅん。こいつね」
大きさは握り拳より少し小さいくらい。
炎に炙られた炭の一欠片を思わせる丸い体はゆらゆらと静かな熱気を纏いながら赤や黄色に絶えず移り変わり今も燃えているようだ。
リーリヤの耳にヘレナの感嘆の吐息が届いた。
いつの間にかソファの影から出ていた二人はかまどの前まで移動していた。
「ほわぁ。とっても綺麗です」
「うん。『かまどの精霊様』。いつ見てもうっとりしちゃうよね」
透き通ったその赤さは宝石にも例えられるほどで、同時にその身に内包する輝かしくも儚げな揺らめきは見ていて飽きない。見た目だけをとれば、彼女達が目を奪われるのも仕方がない。
「ほら。こいつに気になる点があるんでしょ。見てあげるからどいてどいて」
ヘレナとセルマは名残惜しげに場所を開ける。代わりにリーリヤがかまどの真ん前に立つ。
目の前にするとリーリヤにもそれが人を模しているのだとわかった。ちょこんと突き出た頭と手足にあたる部位がある。ちろちろと漏れ出る火の粉が髪を連想させて余計に人形のように見える。ぐでっとだらけた姿勢でそいつはかまどの上で寝そべっていた。
それにしてもこの街で出会う妖精は人型ばかりだ。リーリヤのいた森では動物や植物の見た目をした妖精が多かったので、人型が相手だとなんとなくやりづらさがある。
妖精の形態は土地や環境の影響を受けるそうだ。人間の多い街では自然と妖精も人の姿を模していくものなのかもしれない。
「なんともなさそうだけど・・・?」
ごろごろと緩慢な動作で灰を寝転がっているだけで、セルマが気にしていたような異変は見つからない。手の平に収まるくらいの小さな体に見合った貧弱な力しか持っていないただの弱っちい妖精だ。
より観察するべくリーリヤは亜麻色の髪が垂れて焦げないように気をつけながら未だ静かに燃える妖精に顔を近づけた。
その様子にセルマが心配そうに声を上げた。
「あっ、気を付けてください」
「平気よ、別に。って、え?ぐわっぷ」
リーリヤの視界が黒く覆われた。
げふっと見た目にそぐわない濁った音とともにかまどの妖精がどす黒い煙を吐いたのだ。それも狙ったようにリーリヤの顔に直撃した。おかげで顔も髪も灰と煤だらけ。しかも普通の煤とは違って粘性があってなんか気持ち悪い。さすがに燃え移りはしなかったものの、得も言われぬ焦げた嫌な臭いを全身に浴びることになった。
「うわぁ。あれはひどいです。なんというか、もう、ええっと、ひどいとしか言えませんね」
「わたしもあそこまでされたことはないよ。うぅ、もっと強くリーリヤさんを止めておけばよかった・・・」
「いえ、あの人の自業自得ですよ。きっと精霊様も灰の中から無理矢理引きずり出されたことが気にくわなかったのでしょう。それにしてもこれはあれですね」
「やっぱりヘレナちゃんもそう思う?」
「ええ。見事な『半グレ』です」
ヘレナとセルマの暢気な感想が耳に届いた。しかも、この強烈な異臭から逃れるためにちゃっかりとリーリヤから距離をとっている。
半ば呆然としていたリーリヤは自身に起こったことが信じられなかった。
自分が、あの白霞の森の魔女の後継者であったリーリヤが妖精に虚仮にされた。それも大した力も持たない弱小の妖精に。かまどの妖精はぷすぷすと顔らしき部位から細い煙をくゆらせながら、あからさまにそっぽを向いている。
「こいつ・・・!」
リーリヤは怒りに震える。
なにが『半グレ』だ。たかだか妖精風情が調子に乗ってあろうことか楯突いてくるとは。油断していたとはいえ、こんな無様な姿をさらすことになるなんて。リーリヤの魔女としての誇りにぴしりと罅が入る。
今すぐひねり潰してやろうか。
怒りと羞恥の交ざった感情がリーリヤの内心に渦巻く。その右手が妖精に向けられた。
「冷静になりなさい、リーリヤ」
すんでの所で左手で右手首を掴んで抑え込むと、リーリヤはそう自分に言い聞かせた。
ここで力任せにこのクソ生意気な妖精に魔力をぶつけるわけにはいかない。そんなことをすればこの貧弱な力しか持たない妖精はあっという間に消し飛びかねない。それはリーリヤの望むところではない。
妖精を踏みつぶすのではなく、華麗に従える様子を披露するためにここまで来たのだ。その観客はといえば鼻を摘まんで少しでも距離をとろうとする失礼な少女達であるが。
「とりあえずこれで顔だけでも拭いたらどうですか」
「あっ。わたしのも使ってください」
ヘレナが水色のシンプルなハンカチを取り出す。セルマのハンカチは可愛らしい猫柄だ。
二人は揃ってソファの上にハンカチを置くとそそくさと扉の前まで移動した。
どれだけ近づきたくないのだ。リーリヤは地味に悲しくなった。ヘレナなんてソファに置くだけなのに腕をめいっぱいまで伸ばしてハンカチの端を指先で摘まむようにしていた。
「・・・どうも」
リーリヤは複雑な顔をしながらソファからハンカチを拾う。
まだ床に落ちていた布きれを渡されなかっただけ人情があるのだと思うことにする。
顔を拭うとハンカチにはべったりと灰と煤がこびり付いていた。ハンカチなんて2枚もいらないと思っていたが、結局2枚使った上でなお拭ききれないほど。
亜麻色の髪の毛はただでさえ灰色がかって見えるのに更に煙っぽくなってしまっていた。髪の毛に手ぐしを通そうとしたら、べったりと黒い煤が手についたのでリーリヤは早々に諦めた。
あとで洗えば落ちるだろうかと不安が過ぎる。特に髪に臭いが残るのは嫌だ。これでもリーリヤなりにずっと手入れをしてきたのに。これだけでも泣きそうになる。
服装もまた悲惨な状態だった。草色のスカートは言うに及ばず、ブラウスとベストなんて肩の付近から真っ黒に染まっている。せっかくイレネに褒めてもらった服が台無しである。
「それ、返さなくていいですからね」
そう言ってハンカチを指差すヘレナは相変わらず辛辣だった。
「だ、大丈夫です。わたしが2枚とも責任もって洗いますから!厨房でありがちなしつこい油汚れだって簡単に落ちちゃうくらい強力な洗剤があるのでご心配なく!」
きっとセルマなりの優しさなのだとは思う。でも、そんな凄い洗浄力が必要なくらい臭くて汚れてると言われているようでリーリヤは傷ついた。視界が少し滲んでいるような気がする。
それもこれも原因は『あれ』である。
リーリヤはかまどの妖精を振り返りながら睨み付ける。だというのにかまどの妖精は嘲笑うようにもう一度リーリヤに向けて黒煙を吐いてきた。
「うぇっ!?」
驚いたリーリヤは背中を丸めて煙を身体で受け止めた。先ほどよりも勢いは弱かったものの、今度は背中が灰と煤塗れになってしまった。
「2度目ですよ、2度目。ほんとに嫌われてますね、この人は」
「へ、ヘレナちゃん?ちょっとは心配してあげて」
「そうですね。わたしも大人げなかったです。さすがに可哀想ですものね」
ヘレナがリーリヤを見る瞳に映るのは尊敬でもなく、憧憬でもなく、ただただ憐憫だった。
カッと身体が熱くなる。リーリヤは心の枷が弾け飛ぶのを感じた。
「・・・」
ゆらりと覚束ない足取りでリーリヤはかまどへ一歩近づく。ついでとばかりに床に落ちていた薪の端材を拾い上げた。細くて頼りない小枝は、手の平に軽く打ち付けるとぱしりと予想以上に良い音が鳴った。
「お、お気持ちはわかりますけど落ち着いてください。ね?リーリヤさん?」
リーリヤの纏う言いしれぬ雰囲気にセルマが慌てる。ヘレナも被せるように声を荒げた。
「なに子どもみたいな反応をしてるんですか!まさかですけど、それで精霊様を叩こうなんて考えてませんよね?」
セルマもヘレナも早まらないようにと制止してくる。
それでもリーリヤの腕を掴んで止めようとまではしてこない。
だって臭いから。それに凄く汚いから。
年頃の乙女ならこんな悪臭と汚れに塗れるなんて我慢できないはずだ。リーリヤだって同じ気分だ。
けれども二人の心配は余計なものだった。
妖精に物理的に攻撃を加えるだけなんて無意味なことをリーリヤはしない。
「うるさいわね。私は冷静よ」
そうだ、リーリヤは冷静だ。
冷静に妖精を懲らしめる方法を考えている。
魔女は歌を通して膨大な魔力を自在に操り、数多の妖精を支配する。でもリーリヤは魔女の歌を紡ぐつもりはない。それは魔女バレの危険性があるからであり、なによりこの弱っちい妖精には過剰だからだ。
それ以外にも妖精を御す方法など幾らでもある。最も単純なのは触れて直接魔力を流すこと。『言うことを聞け』、『私の方が上だ』と妖精にわからせることだ。
格好良くだとか、華麗にだとかもうどうでもいい。リーリヤの目論見は既に破綻したも同然。ならば過程はともかく、最後だけでもリーリヤらしく締めくくる。昔の人は言っていた、『終わりよければ全て良し』と。
故に取る手段は一つ。
小枝の先にそっと左手を添え、握りしめる。そして、心の中で力強く呟く。
さぁ、今こそ魔女の恐ろしさをその身に刻んでやろう。
花の乙女などと持て囃されている魔女もどきとは違う、本物の妖精捌きを目に焼き付け、畏怖と尊敬の念を抱いて平伏すがいい。特にヘレナは泣いて謝れ。
そんな気持ちを材料にして心に火を付けて魔力を練る。左手を離せば、枝の先端には赤く紅い魔力が渦巻き、本物の火のように揺らめいている。扉の側にいる二人との距離と立ち位置を考えれば、リーリヤの背に隠れて何をしているのか正確に把握することは難しいだろう。それでいい、彼女達は妖精が大人しくなったという結果だけを見届けるので十分だ。
かまどの妖精もリーリヤの発する魔力に怯えたように震え上がっている。
「今更遅いわよ」
リーリヤは不満げに鼻を鳴らしてから小枝を振るった。
「あっ」
誰かの間の抜けた声とともにぺしんと小枝が妖精を叩いた。
込められた魔力の影響を受け、妖精は大人しくなる。少なくともリーリヤに煙を吹き付けようなんて愚かな真似はしなくなる。
それにいくら頭にきていたといっても、こんな弱々しい妖精相手にムキになって魔力を込めたりしない。むしろ、この妖精にあわせて魔力の出力をかなり控えめにする配慮さえしていた。
だから予想外だった。
こんなにも爆発的に燃え広がるのは。
ぼごん、とひどい破裂音が響き渡る。次いで少女達の甲高い悲鳴が聞こえた。
灰は爆ぜて宙を舞い、大量の火の粉が小さくないかまどを埋め尽くす。巨大な炎の塊と化した妖精が怨嗟のごとき唸り声を叫ぶ。
あまりにもあっけなく妖精は暴走した。
「熱っ」
燃え盛る炎はリーリヤの持っていた小枝を軽々しく呑み込んでいく。
火傷をした右手を庇い、リーリヤは縺れる足取りでふらふらと後ろに下がる。
かまどの妖精は火勢を増し、圧倒的な熱がリーリヤの肌をひりつかせる。
「なん、で・・・?」
リーリヤの戸惑いに共鳴するように火の化身は身じろぎし、室内に火の粉が舞い散る。
背中に何かがあたった感触を得て、壁際まで下がりきったのだと理解した。すぐ横には扉の近くで蹲る二人の少女達がいる。
『どうした!?』
『セルマ!皆、無事!?』
爆音を聞き届けたであろうセルマの両親が部屋に飛び込んできた。そして、かまどで煌々と燃えさかる炎の塊を見て絶句する。
『精霊様なの!?』
『お母さん、お父さん!どうしたらっ・・・!?』
『ああ・・・!セルマ!怪我はない!?』
『一体何がっ。いや、とにかく急いで花の乙女を呼ぶしかない。何があったかは後だ』
『どうした、マスター!何が起きた!?』
『精霊様がお怒りだ!花の乙女を、花の乙女を連れてきてくれ!』
目の前で起きている会話なのにどこか遠くから聞こえてくる感じがした。
どんどんと人が集まりだす。
リーリヤ達は追い立てられるように部屋から通路に引っ張り出された。
暴れる妖精のせいで部屋に踏み込めないと大勢の大人達が騒いでいる。いつ火が燃え移り火事になってもおかしくない。桶やバケツに水を汲んで慌ただしく駆け込む人もいる。
その様子をリーリヤは通路の端で立ち尽くして見ていた。
締め付けるように胸が苦しくなり、思わず両手で押さえた。視界が揺れて気持ちが悪い。
この惨事を引き起こしたのは自分だ。
そのことを自覚してしまえば、もう見ていられなかった。
震える足が後ろに下がる。
リーリヤはその場から逃げ出した。