10.秘密のお茶会2
「え、え~と。ヘレナちゃんはああ言いましたけど、わたしだっていつも真剣なんですよ?本当ですよ?あはは・・・」
リーリヤとヘレナの視線を浴びたセルマの語りはなんとも頼りない弁明から始まった。
意外なことに彼女はまごついていた。今日の本題を振られたのに彼女はそれについて話そうとしない。
だが、リーリヤだけでなくヘレナでさえセルマが逃げるのを許さなかった。二人に無言で見つめられたセルマはやがて意を決して口を開こうとしたところで言葉が出る前に遮られた。
「これを」
低い声とともにセルマの背後から腕が突き出される。
唐突に現れた老齢の男性にリーリヤは硬直する。彼の接近にリーリヤはもちろんセルマもまったく気付いていなかった。
「ありがとうございます。おじさん」
ヘレナだけは位置関係的に見えていたようで落ち着いた様子で平然と受け答えをしていた。
男性はもともと寡黙なのか、ヘレナの礼に微かに頷くとそのまま店の奥に戻っていった。リーリヤの視線が去って行く男性からテーブルに戻ると、そこには軽食の載った皿がある。ハムとチーズが載ったスライスされたバゲットとスコーンだ。焼きたてのスコーンからは仄かに湯気が上がっている。
「今の人は・・・?」
リーリヤの疑問に答えたのはセルマだった。
「わたしのお父さんです」
「え?お祖父さんではなく?全然お父さんには見えなかったけど」
それはリーリヤの素直な感想だ。
どう見てもリーリヤにはセルマの父親に思えなかったのだ。
先ほどの男性は髪が白く染まり、大分年をとっているように見えた。60歳は疾うに越えているのではないか。セルマが10代ということを踏まえると親よりも祖父といった方が自然だ。
しかし、それは世間一般ではあまりよろしくない反応だったらしい。
「ちょっと!居候さん!」
椅子を蹴るように立ち上がったヘレナの一喝にリーリヤは咄嗟に首をすくめる。文句や嫌味ばかり言う奴ではあるがここまで大きな声を出すのを見るのは初めてだった。
「あなたという人はなんて失礼なことを言うんですか!まったく!非常識な人だとは思って、いました、が・・・?」
怒り冷めやらぬ様子のヘレナは机に手を付いて身を乗り出してくるが、その威勢はあっという間に弱まった。周囲に座っていた人達がヘレナの大声につられたように一斉に振り返ったせいだ。魔具の効果でリーリヤ達の会話は聞こえないはずなのに。他の客の反応にぎょっとしたヘレナは急に声を萎ませると、最後にはおどおどと力なく席に座り直した。
「あ、あれ?セルマさん。これって魔具は起動してるんですよね?」
「うん。そのはずだけど」
「そ、そうですよね。わたしの気のせい、ですよね・・・?」
ヘレナは恥ずかしさを誤魔化すように咳払いをする。
「なんにせよ、です。仮にもお嬢様だったというならばもう少し思慮と慎みを持った発言をするべきです。人には簡単に触れて欲しくない話題だってあるんです。わかりましたか?わかりましたよね?」
「え、ええ。気をつけるわ」
足でかつかつと地面を叩きながら睨め付けてくるヘレナの圧にリーリヤはたじたじとなる。今にも靴のつま先でリーリヤの臑を小突いてきそうだ。
「ヘレナちゃん、はしたないよ。それにわたしは気にしてないから。ね?」
「セルマさんがそう言うなら。はい」
リーリヤは気まずそうに口を引き結ぶ。
きっとリーリヤは踏み込みすぎたのだ。リーリヤとセルマは今日が初対面にも等しい。実際の初対面は図書館ではあるけれど、あのときは子ども達の相手にかかりきりでほとんど話すことはなかった。
家族、友人、他人。それだけではない。人と人の関係にはもっと様々な形があることをリーリヤはこの街に来て知った。けれども、それぞれがどんな距離感で成り立っているのかを経験がないリーリヤは現実感を持って認識できているわけではない。最適な距離感を掴むことは今のリーリヤには難しいことだった。
場の空気が淀む。
なんだかセルマの話を聞く雰囲気ではなくなってしまった。
「そうです。今度はリーリヤさんのお話を聞きたいです」
セルマがリーリヤに話題を振る。その顔は心なしかほっとしているように見えた。
「私の?」
「ええ。ちょうど家族の話題が出たので。是非リーリヤさんのご家族についてお聞きしたいです。あっ。もちろん、リーリヤさんが良かったらですよ」
『家族』。
嫌な言葉だ。正直に言ってしまえば『いない』の一言で終わる。しかし、セルマが聞きたいのはきっとそういうことではない。もっと詳しいことを聞かれているとリーリヤは思った。
なんて答えたものかとリーリヤは考えあぐねる。
話してはいけない『魔女』の話以外ながら別にリーリヤとしては隠し立てすることはなにもない。それでも悩むのは『お嬢様設定』に矛盾が起きないようにしなければならないためだ。
なんだっただろうか。改めて思い返そうとすると案外難しい。確か、幼い頃に母を失い、継母からいびられて屋敷に閉じこもっていた設定だった気がする。そういえばあまり深く考えていなかったが、設定に登場するリーリヤに嫌がらせをする継母というのは師のことなのか。
そう考えるとリーリヤの人生をもの凄く簡略化するならば、アルマスの考えたお嬢様設定とそこまで違いはないのかもしれない。
隠し立てなんてしなくてもありのままに言っても問題がないように思えた。
リーリヤはまだ熱そうな焼きたてのスコーンに手を伸ばしながら雑談でもするように話し始める。
「母親はいないわね。小さいときに私を置いていなくなったわ」
「え・・・」
セルマの笑みが凍り付く。
興味なさげにしていたヘレナも眉をぴくりと動かしている。
しかし、リーリヤは思ったよりも熱々のスコーンに気を取られていて、そのことに気付かなかった。
「育ての親みたいな人はいたけど家族じゃないわね。直接そう言われたから」
「うわ・・・」
セルマの顔から笑みが消え、動きが止まる。
動かなくなったセルマの代わりになんでかヘレナが質問を引き継いだ。
「わたしも父と母からあなたのことは少しだけ聞いています。その育ての親というのはおそらく継母にあたる人のことでしょう。継母がいるということは少なくとも父親はいるはずですよね?」
リーリヤは火傷しそうになりながらもどうにかこうにかスコーンを千切りつつ答える。
「さあ?顔も見たことないわ。というか、名前も知らない。本当は父親なんていないんじゃない?」
だとしたらどうやってリーリヤが産まれたのかという話だが、リーリヤとしては師も生みの母も父親のことについてなにかを言っていた記憶が一切ないのだからしょうがない。何も知らない以上はいないのと大差ない。
あまりにも素っ気ないリーリヤの言い様にセルマもヘレナも黙ってしまった。
スコーンを口に放り込んだリーリヤは想像よりもパサパサしている上に味のしないスコーンに顔をしかめた。はっきり言って美味しくない。最近はイレネの手の込んだ料理ばかり食べているので余計にそう感じる。そう思って顔を上げたリーリヤは二人の表情が硬いことに気付く。
そこでリーリヤは察した。
ひょっとしたらまた距離感を間違えてしまったのかもしれない。リーリヤとしては今更過ぎて当たり前のように答えてしまったが、もしかしたらこういうことは聞かれたからといってほいほいと答えるものではなかったのだろうか。
「ごめんなさい。辛いことを聞いてしまって・・・」
セルマは悲しげに俯き、ヘレナは納得したように頷いた。
「思ったよりも複雑で不遇な家庭だったんですね。なるほど。だからですか」
なにが『なるほど』なのか。ヘレナは一人勝手に難しい表情をしている。
しかし、そのことを問い詰める前に彼女はやってきた。
「まあまあ。セルマがなんか変なこと言っちゃった?ごめんなさいね、この子ちょっとのんびりしてて抜けているところがあるの。これでも食べて気分を入れ替えてね」
「あっ、お母さん」
年の頃はさっきの男性と同じくらい。薄茶色の髪を綺麗に纏め上げている柔和な老女こそ、セルマに母と呼ばれた女性だ。
やっぱりリーリヤには母子というよりも祖母と孫に見えてしまった。今度は間違っても口にしないように心の中で思うだけに留めた。
「やっぱり若い女の子のお茶会には甘い物が必要よね。あの人はこういうところに気が利かないから」
セルマの母親は厨房にいる旦那の方を見てそれだけ言うと独特な香辛料の匂いが鼻をくすぐる砂糖のまぶされたパンをテーブルに置いていく。
「わっ。シナモンロールだっ」
「お茶会の定番ですね。わたしも大好きです」
次いでセルマの母はリーリヤの前に苺ジャムの入った瓶を置いた。
「あっ、どうも」
しかもご丁寧に一匙ジャムを掬うとスコーンの載った皿に添えてくれた。なるほど、スコーンにはこれをつけて食べればいいのか。
リーリヤが立ち去るセルマの母を見送っている間にも、セルマとヘレナはさっそく大皿から自身の取り皿へとシナモンロールを移していた。
リーリヤがセルマに尋ねる。
「ねぇ。あなたの両親って仲悪いのかしら?痛っ!」
ヘレナがリーリヤの臑を靴先で小突いたのだ。
「本当に失礼な人ですね。どこを見たらそうなるんですか。とんだ節穴さんですね。セルマさんのご両親はおしどり夫婦で喧嘩一つしない仲良しさんって有名なくらいなんですよ」
「だからって蹴ることないでしょ」
リーリヤがヘレナに抗議をすると、ヘレナからもう一度蹴りが飛んでくる。リーリヤは慌てて椅子ごと後ろに下がってやり過ごす。
「まったく、この人は何度言えばいいのか。セルマさんからも何か言ってやってください」
ヘレナの憤りはセルマには聞こえていないようだった。セルマはぽつりと言葉を溢す。
「凄い・・・。なんでわかったんですか」
「へうぇ?」
奇声を上げたのはヘレナだ。
リーリヤの不躾な発言にさすがのセルマも怒るのかと思いきや彼女は逆に感銘を受けていた。
「誰に話しても全然信じてもらえなかったのに」
「ふぅん。そうなんだ。あんなにもわかりやすいのに」
リーリヤからしてみれば一目瞭然であった。
セルマの両親は互いに向けて負の感情を抱いている。それも強く、暗い感情だ。店内にいる客の誰よりもあの二人は仄暗い感情を向け合っている。
魔女の感性を持つリーリヤがそれを見逃すはずもない。悪意に満ちた負の感情こそが魔女にとって最も身近なものなのだ。
「やっぱり。リーリヤさんを呼んで良かったです。わかる人にはわかるんですね」
「ど、どういうことです?説明をお願いします」
セルマは話をする前にテーブルの裏面を見て魔具が起動していることを改めて確認した。
おそらくだがこれこそセルマが相談したかった話なのだろう。
その翠色の大きな瞳を揺らしてセルマが話し始める。
「うちに精霊様がいることは知っていると思います」
リーリヤもヘレナも頷く。
そうでなければわざわざリーリヤもお茶会に参加しようなどとは思わなかった。
リーリヤは店内をぐるりと見回す。店に入ってから何度も確認をしていることだが、この客のいる室内からは妖精の気配が読み取れない。
セルマも補足するように続けた。
「さすがにこの場にはいません。精霊様は厨房の方です」
それにしたってここまで気配が感じ取れないことがリーリヤとしては気になるところだ。よっぽど力が弱いのか、それとも別の要因か。どうにもリーリヤにはこの街の妖精が捉えにくくて仕方がない。靄でもかかっているような奇妙な感覚があってしっくりこないのだ。
「精霊様がうちにいらっしゃったのはつい1か月ほど前なんです。ある日、普段は使わないかまどから煙が出ていたので覗いてみると可愛らしい精霊様がいたんです」
セルマは両手で包む動作をしてその大きさを表現している。どうやら本当に小さな火の妖精らしい。
「しばらくの間はなんの問題もありませんでした。けど、1週間くらい前から様子が変わってきてしまって」
「まさか、『悪堕ち』ですか!」
ヘレナが急に大声を出す。
セルマが慌ててヘレナの口を塞ぐ。
会話を聞こえなくする魔具とやらが作動しているのだから気にする必要はないのにと思いながらリーリヤは苺ジャムを付けたスコーンを口に運ぶ。スコーンは冷めてしまっていたが、ほろほろ崩れる生地と酸味のあるジャムが調和して美味しい。
それにしても『悪堕ち』とは。また知らない用語が出て来た。リーリヤがスコーンを咀嚼している間にも話は進んでいく。
「ヘレナちゃん、声が大きいって!それにまだそこまではいってないと思うんだ。だって『悪堕ち』するときって黒い靄が出るんだよね?それはまだ出てないから」
「じゃあ、まだ影響は軽いんですね。いや、それにしても、セルマさんのお家に限ってそんなはずは。・・・っ!それでご両親の喧嘩が関係するのですか」
「どういうこと?」
話についていけないリーリヤに対してヘレナはダメな子を見る目をする。
「あ-、もう。本当にあなたは何も知らないんですね。いいですか。精霊様が普段わたし達と共存しているのは言うまでもありませんね。でもそれは互いに干渉しあうことと同義なんです。基本的には良いことばかりです。精霊様の『祝福』は特別ですから。けれど、中には悪いことだってあります。そうですね、簡単に説明すると精霊様がお怒りになっていればわたし達の生活にも影響が出ます。極端に言うと水道管が破裂したり、火災が起きたりです」
ここまではわかりますね、と指を突きつけられリーリヤは首を縦に振る。
「逆に言えばわたし達が怒っていても精霊様に影響が出ます。人同士が喧嘩したり、いがみ合っていると精霊様もまた攻撃的な性質になってしまうんです。つまりはわたし達の怒りが伝播して精霊様がお怒りになります。ちょっとの喧嘩ならどこだって日常茶飯事ですし大したことありません。ですが、度が過ぎると大変なことになります。お怒りになるだけですめばいいですけれども、もし『悪堕ち』なんてしまったら目も当てられません。そうなればお店の評判にも関わってきますし、ひどいと人の生き死にも関わるとか」
リーリヤは不満げに唸る。
妖精が人の感情をくみ取ることは珍しくない。奴らはそうして最も人間が恐怖し、忌避することをする。それが妖精という存在だ。しかし、人の感情が妖精の本質を揺らがすというのはリーリヤも知らない。
どんな善良な人間が妖精に笑いかけたところで奴らは嬉々として人間を嵌め殺そうとしてくる。妖精が人に心を開いて仲良くしようなどとすることは絶対にない。周りの人間がどうであろうと妖精の本質は変わらない。
だから妖精が人に害を与えないように魔女が力づくで抑える必要があるのだ。
こうして話を聞いていると彼女らの言う『精霊』が本当にリーリヤの知っている『妖精』と同じなのかと疑問が出てくる。
「具体的には?」
「へ?」
「その『悪堕ち』ってやつになるとどうなるのよ」
「それは・・・、知りませんけど」
なんだ、ヘレナだって大袈裟に言うわりにそんなに詳しくないじゃないか。
リーリヤがそんな気持ちを込めて口元に笑みを浮かべるとヘレナはむっとした表情をした。
そこでセルマが慌てて仲裁に入ってくる。
「わたしも詳細までは。けど、小さい頃に教会で『黒い靄を纏った精霊様には近づいてはいけない』と教わるんです。それは『悪堕ち』の証だからと。昔、この街でひどいことがあったみたいなんですが実際に何が起きたかまでは」
「そうです。そもそもそうなる前に精霊様に異変があれば花の乙女に依頼するものなんです。そうそうそんな精霊様と遭遇すること自体が滅多にないんです」
リーリヤもそこまでその『悪堕ち』とやらに興味があるわけではない。
重要なのはその花の乙女に相談するべきであろう異変とやらが今起きているのかどうかだ。
「話は大体わかったわ。あなたの両親の喧嘩が、その、精霊に悪い影響を及ぼしているというのね」
リーリヤの確認にセルマは顔を俯かせてしまった。
セルマとしては仲の良いと評判の両親がそこまでひどい喧嘩をしていることに内心思うところはあるのだろう。
「確かにこのままだと良くないですね。そこまで精霊が荒れているわけではないのなら、ご両親の喧嘩を止めて仲直りして貰うのが一番いいと思うんですが」
それができれば苦労はしないとリーリヤでさえ思う。当然、セルマも考えたはず。
「わたしもそう思ったよ。でも、なんで二人が喧嘩しているのかわからなくて。二人ともわたしの前では普段通りにしようとするし、聞いてもはぐらかされてしまって・・・」
少し黙った末にセルマは震えるような小声で寂しげに言った。
「それにわたしにはきっと教えてくれないよ」
家族であり娘でもある人物の発言とは思えなかった。
その意図を問おうとしたリーリヤの耳元にヘレナがそっと口を寄せてきた。反射的にリーリヤは距離をとる。もちろん、眉間に深い皺を寄せたのは言うまでもない。ヘレナもまた苦虫を噛んだような表情をしていた。
それでもヘレナは耳を貸せと無言で手招きをしてくるので、リーリヤはしょうがなくヘレナの方に顔を寄せる。
「セルマさんは養子なんです」
それがセルマが両親に対して喧嘩の原因を問い詰めることができない理由だった。
ああ、とリーリヤは小声で漏らした。
だから、彼女らは祖父母と孫くらいに年が離れているのだ。そして、いくら仲が良く見えても本当の親子でなければ踏み込めない領域があるとセルマは思っているのだ。
まどろっこしいとリーリヤは思う。本当だろうが偽物だろうが『家族』ならば気にせず聞けばいいものを。そういう思考をしてしまうのはリーリヤが未だに人の機微を理解できていない証左なのかもしれない。それとも家族を持たないが故の幻想を抱いているのか。
「では、わたし達、いえ、わたしがご両親の喧嘩の要因を聞いてくればいいんですね」
わざわざ言い直す必要はないのに、ヘレナはリーリヤを見てから主語を変更した。
言いたいことはわかる。ほぼ初対面のセルマの両親相手にリーリヤがそんな家族間の私的なことについて聞き出せるわけがない。話術的にも心理的にもまず無理だ。わかっていても初めから戦力外として扱われるのもやはりむかつくのだ。
しかし、セルマは首を横に振った。
「違うの!そこまで迷惑はかけられないよ。それにね、もし、今よりも喧嘩がひどくなっちゃったらと思うと・・・」
そう言われればリーリヤにもヘレナにもどうしようもない。
セルマは寂しさの滲む笑みを浮かべる。
「わたしはこのお店で仲良く働く二人が好きだから」
儚げだった。そして、健気でもある。
セルマは本当に両親のことが好きなのだと他人のリーリヤにも伝わってくる。大事にしているからこそ家族の仲を守りたい。なにより大事にしているからこそ関係を壊すのが怖くて踏み込めない。
適当な気持ちで他人が安易に搔き乱すことは憚られた。
「こう言ってはなんですが、いい年した大人達ですから。自然と仲直りするのを待つのが一番ですか」
ヘレナの言葉にセルマがこくんと頷いた。
何もせずとも解決するのであればその方がいいに決まっている。
仲直りをしなかったらどうするのかということは言っても仕方がない。見守ると決めた以上はどうせできることは何もないのだ。
「なら、結局相談ってなんだったの?」
リーリヤの疑問はもっともである。
セルマの気持ちはもともと定まっていたように見えた。
ならばわざわざヘレナだけでなく、リーリヤまでお茶会に誘ったのはなぜなのか。気持ちの整理や意思の表明ではないはずだ。ほとんど関わりのなかったリーリヤにそんなことをする意味も必要性も見いだせない。
セルマが本当に相談したかったのは、きっとこの先だ。
セルマはその愛らしい顔立ちに陰を宿し、さっきよりももっと小さな声で罪を打ち明けるように告げた。
「精霊様の気持ちを鎮めたくて。できれば花の乙女様は頼らずに」
セルマの沈痛な様子とは裏腹にリーリヤは心が逸った。
これはきっとリーリヤが望んでいた展開だ。
セルマの両親の喧嘩を直接止めることはできない。しかし、このままでは妖精に悪影響が出る。いや、すでに出始めているという。そして、この状況を放置すればやがては『悪堕ち』なるとてもよろしくない事態に発展しかねない。
となれば、今度は対症療法が必要となる。つまりは荒ぶる妖精の鎮静化だ。原因である喧嘩の仲裁をしない以上は当然の帰結であろう。
「それは・・・」
ヘレナが言葉に詰まる。
本来であればこの街の妖精の専門家である花の乙女とやらが対応すべき事案なはずだ。
「わかってるんです。本当は花の乙女様にお願いするべきことだって。でも、大事にしたくないんです。もし精霊様がお怒りになったなんて知られたらお店にどんな影響が出てしまうかわかりません」
セルマは意を決するように両手で包んだカップに入ったお茶を飲み干す。
「それにどのみち今の状態では依頼できません。さっきもお伝えした通り、精霊様の様子はそこまで表面化したものではないんです。多分、家族の中ではわたししか気付いていません。両親を説得して正式に依頼するのは難しいでしょうし、わたしのお小遣い程度じゃとてもお金を用立てることができませんから」
だから自分でどうにかするしかない。
それはセルマの決心だった。
そのための協力をセルマは得たかったのだ。おそらくリーリヤをお茶会に呼んだのは、お嬢様であるリーリヤならば上流階級の嗜みとして妖精の扱いに多少の心得があると考えたのだと思う。もともとリーリヤのお嬢様設定に基づく噂話をセルマが知っていたことからもこれで話が繋がった。
リーリヤはテーブルの下でそっと拳を握る。不謹慎かもしれないがこれはリーリヤが活躍する絶好の機会だ。
「そういうことならアルマスさんを呼びましょう。アルマスさんなら何か良い考えを教えてくれますよ」
ヘレナが余計なことを言う。
アルマスなんて頼らなくても、ここには妖精の専門家の最たるリーリヤがいるのだ。
「その必要はないわよ。私に任せなさい。さぁ、その『精霊』のもとに案内して」
「あ、はい!」
リーリヤが快諾の返事をしたことにセルマは瞳を輝かせた。
リーリヤがセルマと共に席を立ち上がると、ヘレナが慌てて引き留めてきた。
「ま、待ってください!」
リーリヤは小さく舌打ちをする。
まったく面倒な少女だ。大人しくリーリヤの勇姿を眺めていれば良いのに。
「今、舌打ちしましたね?まったく、あなたという人は上品さの欠片もありません。セルマさんも落ち着いてください。話を聞く限り急を要することでないようですし、まずはアルマスさんに相談するところから―――」
ヘレナの煩わしい声が途中で止まる。
ヘレナだけではない。一瞬だが、あれだけ騒がしかった店内がしんと静まり返った。
店の奥、厨房の方からそれほどの怒号が飛んできたのだ。
リーリヤはセルマ達と顔を見合わせる。セルマの顔は蒼白に染まっていた。