7.年頃乙女は理不尽とともに
「ふんっ」
がん、と鋭利な鉄の刃が分厚いオーク材の木面を打ち付ける。
叩き付けられた勢いにあわせて赤い雫が飛び散り、リーリヤの身体の前面を汚す。
リーリヤは不機嫌そうに鼻を鳴らした。そして、刻み損ねた標的を見据えて冷たい光を帯びる重たい刃をもう一度振り上げる。
「ぬんっ」
転がって逃げる獲物を狙って打ち付けられた刃はまたも外れた。虚しくも木の板だけを傷つけた刃物を恨めしげに睨み付ける。
リーリヤはいらつきを露わにして髪をかき上げた。
思い通りにいかない状況に対し、言葉にできない暗い感情が胸に渦巻く。そこにどこかの誰かへの私情は交ざっていない。交ざっていないといったら交ざっていないのだ。込み上げる感情を込めに込めてリーリヤは刃の柄を握り直す。
「あ、あの~。リ、リーリヤちゃん?」
誰かに声をかけられた気がしたが、リーリヤは構わず作業台に向けて刃物を叩き付ける。獲物どころか作業台さえも両断する気概だった。
「ふんぬっ」
「おぅわっ!?」
一際大きな打撃音とともに背後で上がる野太い悲鳴を余所に、リーリヤが振り下ろした包丁をすり抜けて、赤く熟れた苺がころりと転がる。
へたを切るべく狙った苺はリーリヤを嘲笑うように作業台に静かに佇んでいる。
「もうっ。なんなのこの生意気な苺は!」
リーリヤは怒りに震える。
当然のことながら苺が勝手に動き回るはずがなく、狙いを外しているのはリーリヤの問題だ。
諦めずに苺に狙いを定めて両手で包丁を構えるリーリヤに背後で別の作業をしていたトビアスが慌てて止めに入った。
「ちょ、ちょっと待って!いったん待ってくれ!頼むから!」
「へ?」
きょとんと振り返ったリーリヤを見て、トビアスは疲れ切った顔で脱力した。
「あ、あー。頑張ってやってくれているのはよくわかっている。その上でもう少しだけ、そう、もう少しだけでいいから丁寧にお願いできるかい?ほら、やっぱり刃物は危ないから。できれば片手で苺を押さえて優しく切って欲しい。両手で握って振り下ろすのだけはやめてほしいな、おじさん」
「あっ、・・・はい」
トビアスの説教というには押しの弱いお願いを聞いてリーリヤは冷静さを取り戻す。
作業台の周りを見渡せば苺の残骸らしき欠片が散らかっている。果汁も床に滴っており、まるで苺が破裂した後のようだ。この惨状にはさすがにリーリヤも反省せざるを得なかった。
最初はリーリヤも教わったとおりにやっていたのだ。しかし、そのうち包丁を握っていた右手が疲れてくると、包丁が途端に重く感じてしまい、最終的に両手で持つという判断に至った。良い案を思いついたと調子に乗っていざ切ろうとしたところで、ころころと台の上を転がる苺相手に熱くなった結果がこれである。
「いやいや。わかってくれればいいんだ。うん」
トビアスは安堵の息を吐いてから自分の作業に戻っていった。
苺の悲惨な状態についてはお咎めなしだった。どうせ後で形がなくなるまで煮詰めるから問題ないとのことだ。
リーリヤはトビアスの忠告を心に留めて、作業台と向かい合う。
作業台の端にまで転がっていった苺に手を伸ばそうとして途中で止まる。籠いっぱいになった苺の山から遠く離れた苺の姿がリーリヤの姿と重なったからだ。
先ほどリーリヤに声をかけてきたトビアスは明らかに及び腰となっていたし、話す言葉もかなり選んでいる様子だった。
ステーン夫妻はリーリヤにとても優しくしてくれている。けれども、何かと気にかけてくれるイレネと比べるとトビアスはリーリヤに対して触れがたい物を扱うような慎重すぎる気遣いを感じる。今だってそうだった。そういう扱いを受ける度に、やっぱりリーリヤはこの家に上手く馴染むことができていないのではないかと気落ちしてしまう。
リーリヤは沈み込む気分を振り払うようにして頭を振った。後頭部で一つにまとめた髪がぱさぱさと頬を叩く。気合いを入れ直すように息を吐き、リーリヤは伸ばしかけていた手で転がっていた苺を掴む。折角イレネから頼まれた手伝いだ、期待にはなるべく応えたい。
今日のリーリヤは早朝からステーン家一階の作業場で苺ジャムの作成を手伝っている。
イレネと買い物をした日から何日も経つが、実はリーリヤはまだ新しい仕事が決まっていない。そんな暇を持て余したリーリヤを見て、イレネがトビアスに相談してくれたのだ。そうして裏方としてではあるものの、イレネやトビアスに声をかけられたときだけお手伝いをしている。
6月に入って春の季節も終わり、初夏が訪れたフルクートの街ではこれでもかというほど大量の苺が市場に並んでいる。
そのまま甘酸っぱい実に齧り付いて味わうのももちろん良いのだが、いくらなんでも食べ尽くせる量でもないので、保存のきくジャムにするのが一般的だそうだ。ステーン家が家族経営している雑貨屋でも季節ごとに作られるジャムは人気の主力商品だと聞く。
そういうわけで先日市場から大量に買い付けた苺をジャムにすべく、人手不足のステーン家のためにリーリヤもかり出されている。
「あらあら、まあまあ」
苺のへたをナイフで切り落としては赤い実を大きな鍋の中に放り込むことを繰り返していると、のんびりとした、けれども聞いているとなんだか落ち着く声が聞こえてリーリヤは顔を上げる。
ちょうど二階の台所で苺を煮詰めていたイレネが降りてきたところだった。
「頑張ってるわね。リーリヤちゃん、苺、どう?」
「は、はい。今これくらいです」
リーリヤは切り終わっている苺が入った鍋をイレネに渡す。だいたい鍋の半分くらいは埋まっていると思う。
「うん。もう一踏ん張りね。上は一段落したから私もこっち手伝うわね」
そういうとイレネはリーリヤの正面で苺を切る作業に加わる。
おっとりとした雰囲気に反してイレネの手元は素早い。リーリヤが1個切る間に5個は鍋に放り込んでいる。自分の手際が悪いのか、それともイレネが凄いのか、困惑するが暢気に呆然としている暇はない。リーリヤもとにかく手元の苺に向き合うしかない。
「それにしてもその服似合っているわ」
「へ?」
手を真っ赤な果汁だらけにしながら一心不乱に苺のへたを切っていたリーリヤは突然の褒め言葉を受けて顔を上げた。
ほのぼのとした口調をしているがその間もイレネは手を休めることはしていない。
リーリヤはイレネと違って作業しながら返事をするなんて器用なことができないので手は止まっている。
「そう、ですか?」
リーリヤは汚れを防ぐための前掛けをずらして、下に着込んだ衣服をイレネに見せる。
イレネに褒められた服は先日古着屋で購入してきた一着だ。暗めの緑系で所謂草色と呼ばれる色味をした長いスカートの裾には白いレースが縁取られ、身体の動きに合わせてふわりと揺れる。
スカートと同じ色合いのストライプ柄のベストとゆったりとした白いブラウスを組み合わせればまるで清楚な花のようだと鏡を見た自分自身に思ってしまったのはリーリヤの内緒だ。因みにベストは服の調整をしているときにイレネがどこからか持ってきた物で、首元のリボンのブローチと腰の大きなリボンが今風のアレンジだという。
素直に褒められるとこそばゆく、リーリヤは身を捩らせた。
街に来る前はゆったりとした黒いワンピースばかり着ていたし、見せる相手もいなかったので特にこだわりもなかった。しかし、こうして似合っていると言われると悪い気はしない。服装にもっと気を配ってもいいかもしれないという気持ちくらいは湧いてくる。
というか今更ながら前掛けをしていてよかったと思う。これがなければせっかくの洋服が苺の汁塗れになるところであった。
「とっても可愛らしいわ。リーリヤちゃんは線が細いからしっかりめのベストが似合うと思ったの。どこから見ても立派な王国淑女よ。元々良いお家の育ちだって聞いたからこっちの方がリーリヤちゃんも落ち着くかなって」
「あ、やっぱりそういう・・・」
街中で見た女性達よりもなんだか形式張った服装だなとは思っていたのだ。
なんというか、しっかり見たことがないのであくまで想像の中でしかないのだが貴族とかお嬢様とかそんな感じなのだ。一応は田舎の箱入りお嬢様という謎の設定をされてしまっているので、イレネの中では違和感がないのかもしれない。リーリヤとしては違和感しかないのだが。
正直、マナーや礼節なんてお嬢様らしいことは何もわからないので、こんな格好をしていると勘違いが加速していく気がしてリーリヤとしてはちょっと怖くもある。
アルマスはそこまで考えてこんなアホな設定にしたのだろうか。いや、きっとそんなに深く考えていない気がする。アルマス・ポルクは思いつきでリーリヤを振り回す軽薄男なのだ。ほんと馬鹿じゃないかと思う。いろんな意味で。
「アルマス君に見せられないのが残念ね」
「うっ・・・!」
イレネの見透かすような視線にリーリヤは呻く。
ちょうどアルマスのことが頭に浮かんでいたので咄嗟に否定できなかった。
このやりとりも初めてではない。イレネはことあるごとに服装のことを揶揄ってくる。何回言われようとリーリヤの返す言葉は同じだ。
「だから見せるつもりなんてないですって」
「本当に?」
「本当です。絶対に」
そうだ。別に見せてやろうなどとは思っていない。
あんな軽薄な上に薄情な奴、リーリヤの知ったことではない。
「そう?なら私の勘違いだったのかしら。だからここ最近機嫌が悪いのかなと思ってたのだけど」
「んぐっ・・・!」
イレネは楚々として笑っている。
近頃、リーリヤはイレネの手の平の上で転がされているように思えてならない。
思い当たることがあってリーリヤは目を逸らしてしまった。
「ち、違います。ちょっと話したいことがあるだけで・・・」
イレネの言うように買ったばかりの服を見せびらかしたかったわけではない。ただ、話し合いをしたかったのだ。
一番は噴水のある広場で見た花の乙女のこと。イレネからも聞いたが、リーリヤの年齢では今から花の乙女になるのは難しいらしい。けれど、妖精を宥めるだけなんていうあんな簡単でリーリヤに向いている仕事は他に考えられない。そう簡単に諦められるはずもなかった。
魔女としての技量もあるし、白霞の森で数多の妖精を従えた実績もある。いっそのこと実力さえ示してしまえば案外簡単に認められるのではないか。
そんな諸々を含めたリーリヤの今後に関わる重要なことをアルマスに相談したいと思っていた。
まあ、服の感想も聞いてみたいと思ってなくもないけれども。
だというのにアルマスはあの夜以降は一度も顔を見せていない。もう一週間も経つというのに。あっちこっちに人を連れ回したかと思えば、今度は何日も音沙汰がなかったり。つくづく人を振り回す男だ。
リーリヤとしては目の前に良い解決策があるのに手が出せない状態なのだ。早くと急かす心がもどかしくて、それがリーリヤの苛立ちを募らせていたのは事実である。
いっそのこと勝手にやってしまおうかとも考えた。しかし、そのためには妖精が揉め事を起こしている場面に出くわす必要がある。イレネからの情報ではある程度定期的に決まった場所で妖精に関する設備の不具合や問題が起きるらしいのだが、具体的にはいつどこで何が起こるのかまでは知りようがない。
アルマスならなんだかんだで知っていたりするのではないか。そんな期待感も含めてアルマスに話を通しておくつもりだった。
なのにこうも待たされるのは予想外だ。アルマスは街外れの工房にいるとトビアスは言っていた。けれども地区名を聞いたってリーリヤにはどこなのか見当も付かない。道もわからない街中を一人で歩いて探すのは嫌だし、イレネもトビアスも忙しく働いているので連れて行ってくれとも言えない雰囲気だ。結局、リーリヤは大人しく手伝いをしながらステーン家で待ち続けているわけだった。
せめて実力を示す機会さえあれば。そうすればアルマスの手なんか借りなくても自力でどうにかするのにとリーリヤは歯がみする思いだった。
「そうだなぁ。最近、あいつ顔を出さないからな」
トビアスが会話に参加してくる。
リーリヤと二人きりだと難しい顔をしてほとんど話さないのにイレネが間に挟まると途端に饒舌になる。こういうときのトビアスの表情はどうにもほっとしている感じがするのはなぜなのだろうか。
「きっと忙しいのよ。なんていってもアルマス君はこの街一番の錬金術師なんだから」
「一番?あのアルマスが?」
リーリヤは疑いの目を向ける。
あのへらへらした男が街で一番凄いと言われても想像がつかない。
そもそも錬金術師というものがどういった職業なのかもリーリヤはよくわかっていない。ちょこちょこ不思議な力を持った指輪や腕輪を持っているらしいのは見ていて知っているけれどもそれだけだ。
トビアスはジャムの入った瓶にラベルをつける作業を止めて、顎髭をさすりながら首を捻った。
「実力だけはあるらしい。とはいっても俺達も詳しいことはわからないんだが。あいつから仕入れている品を見る限り腕は良い。それは断言できる。だが一番なのかと言われるとどうなんだか。あの『名人』を越えるほどにはどうにも見えないんだよな」
リーリヤとしてはその話をもっと聞いてみたかった。
アルマスが作った物が雑貨屋に並んでいることを知らなかったし、それがどれでなんなのかとか。
なんでアルマスが『街で一番凄い錬金術師』と言われているのかも気になる。ひょっとするとアルマスが勝手に言っているだけなのではないか。平気でほらを吹く姿が容易に頭に浮かぶ。
それ以外にも聞きたいことはたくさんあった。
アルマスの昔のことは少しくらい知っているつもりだが、今のことはほとんど何も知らないのだ。改まって本人に聞くのも気恥ずかしいし、この機会にさりげなく情報を集めてやろうという腹づもりだった。
しかし、その思惑は外れてしまう。
ある意味この家で一番の厄介者が姿を現したのだ。空気が読めない自覚のあるリーリヤでさえもこの娘ほど和を乱してはいないと思っている。
眉間に皺を寄せてむっつりとした少女が階段を降りてくる。
「あら。ヘレナちゃん、おめかししてどこか行くの?」
長い黒髪に合う大きな白い帽子を被り、爽やかな水色のワンピースの上に赤い花柄の刺繍が入った薄手のカーディガンを羽織っている。
ヘレナは青色の瞳を細めて、リーリヤ達にきつい視線を向けてから玄関を兼ねている店側の方に足を向けた。
「わたし、お昼入りませんから」
それだけ言って出て行こうとするヘレナに待ったをかけたのはトビアスだった。
「ヘレナ。お母さんの質問に答えなさい。どこに行くのかと聞いているだろう」
足を止めてヘレナは振り返る。その表情は『不機嫌です』という感情が全開となっている。目をつり上げて睨み付けるヘレナに対し、トビアスは忽然とした態度を取る。
「夕ご飯までには帰ります。それでいいでしょう」
「良くない。どこに行くのかきちんとお父さん達に教えなさい」
「嫌です。なんで言わなきゃならないんですか」
睨み合うヘレナとトビアス。
リーリヤとしてはあの生意気な少女がどこに行こうとどうでもいい。けれど、この場の雰囲気を悪くするのは止めて欲しいところだ。それもすでに手遅れだとは思うが。
「それに家の手伝いだって碌にしないで。今が忙しいのは知っているだろう。学校のない日くらい家のことを手伝ったらどうだ。リーリヤちゃんを見倣いなさい」
ヘレナは中等教育なるものを受けており、ほとんど昼間は外出している。なんでも基礎的な学問を学ぶ場であることはリーリヤも知っている。リーリヤも先日アルマスに初等教育からやり直せと本を渡されたのが記憶に新しい。その本はアルマスの言い方があまりにもむかついたのでその場で叩き返してやった。
学校というのは毎日ではなく、だいたい7日間のうち5日あるそうだ。今日と明日は土曜日と日曜日で一般的にはお休みの日の認識であり、学校も同様なのだという。リーリヤは未だにこの曜日の感覚が乏しくて何曜日と言われても咄嗟に反応するのはまだ難しい。
この話を聞いたとき、7日間のうち2日間しか休みの日がないのは少なすぎるとリーリヤは思ったものだ。街の人達は働き過ぎだ。休みの日と働く日を逆にするべきだとリーリヤは主張したい。
それにしても、ここでリーリヤを引き合いに出さないで欲しかった。どう考えてもリーリヤにとって良い方向には話が転ばない。声なき叫びは誰にも届かず、無情にもヘレナの視線がリーリヤの方を向く。
その冷たい視線に唾を飲み込むも、リーリヤは瞳を逸らさなかった。
「そこの居候さんは暇なんですよね?わたしは忙しいんです。一緒にしないでください」
イラッと来た。
なんか言ってくるだろうとは思ったがそこを突いてくるのか。
リーリヤが言い返そうとすると機先を制するようにヘレナは大袈裟に溜め息を吐いた。
「今日はセルマさんと約束しているんです。だからお手伝いもできません。もうこれでいいですか?」
融通が利かない頑固な父親にしょうがないから譲歩してやる、そんな言い方だった。
トビアスは口元が引きつっている。しかし、怒るのは耐えたようだ。感情にまかせて怒鳴らなかったのは父親としての矜持だろうか。
ついでに言うとリーリヤも文句を言う機会を逃してしまった。なんか悔しいので手元の苺を恨めしげに睨み付けてやる。
「わかった。じゃあ、ここにあるお父さんが作ったジャムをお店に並べてくれ。そうしたら今日は終わりでいいから」
「・・・・・・・」
それでもトビアスは仕事の手伝いを譲らなかった。トビアスの前にはジャム瓶が詰まった木箱が何箱もある。店の棚に並べるだけでも結構な手間がかかりそうだ。
ヘレナは無視して出て行くかと思いきや意外にも木箱の一つをひっつかんで店の方へと向かっていった。
もちろんその顔はふくれっ面であったのは言うまでもない。
「ごめんね。あの子も難しい年頃みたいで」
イレネがリーリヤに謝ってくる。
ああも無造作に噛み付かれればリーリヤも黙ってはいられない。年下の子どもの癇癪だからと受け流せるほどリーリヤも大人ではなかった。だが、世話になったイレネの申し訳なさそうな顔を見ると心の中で燻っていた炎も鎮火せざるを得ない。
「どうすればいいんだ。あの子が何を考えているのかまるでわからない。若い女の子との接し方は難しいなぁ」
トビアスもまた泣き言を漏らしている。
額に手を当て天井を仰ぐトビアスの仕草を見てリーリヤは気付いた。
イレネがいないときのトビアスがリーリヤに対してやたら及び腰になっていたのもこれが原因だろう。
要するにトビアスは年頃の女の子の扱いに困っているのだ。リーリヤ然り、ヘレナ然り。特に娘のヘレナについてはより一層手を焼いている様子だった。
トビアスに対するヘレナの荒れ模様はなかなかのものだ。
まず挨拶代わりに文句を言う。何でもかんでも突っかかるし、気に入らなければガンガン噛み付く。
その上、同じ部屋に入れば不愉快そうに顔を歪めてこれ見よがしに席を外す。これでは父親としての威厳も何もあったものではないだろう。
肩を落としてイレネに慰められている姿をよく目撃する。
自分にもそんな頃があったのだろうかとリーリヤは思い返してみる。しかし、すぐに無意味だと思い直した。
母親は幼いリーリヤを師に預けてそれっきりだし、父親にいたっては見たことすらない。師はいてもあの人は家族ではない。甘えさせてもらった記憶だってまるでない。
優しい両親に囲まれたヘレナとリーリヤでは比較するだけ無駄であった。
「アルマスがいた頃はここまでひどくなかったんだが。何が悪いんだろうな」
トビアスの嘆きを聞き流しながら、リーリヤは苺のへた取りに戻る。
可哀想な気はする。それでもヘレナのことでリーリヤができることはない。少なくともリーリヤはそう思っていた。
「・・・そうだ」
ショリショリと苺を切る音に交ざり、トビアスの呟きが耳に入る。
振り返ればトビアスがリーリヤを見ていた。
嫌な予感がする。咄嗟に目を逸らそうとするがもう遅かった。
「なぁ、リーリヤちゃん。悪いが頼まれてくれないか」
「はい?」
一体何をしろと言うのか。この件でリーリヤが役立てることはないと考えたばかりだというのに。
「ヘレナに話を聞いてみて欲しいんだ。あの子が俺達の、いや、俺の何が気に入らないのか。父親としてどうしても知りたい。本当は俺が直接話し合うべきだというのはわかっている。けれど、今のあの子はきっと俺とは向き合ってくれないだろうから」
「そうね。私達が聞こうとしても意固地になっちゃうものね。けど、リーリヤちゃんが相手なら違うのかも。あの子も年の近いリーリヤちゃんの方が話しやすいと思うし」
イレネがリーリヤの肩にそっと手を置く。
トビアスだけでなく、イレネも同調する。二人とも巫山戯ている様子もなく、真剣な眼差しをしている。
「無理にとは言わない。けど、できるのならば頼みたい。我が家でヘレナと喧嘩をしないのはリーリヤちゃんくらいだ。このまま家族の間にわだかまりがあるなんて嫌なんだ」
「お話を聞くだけでもあの子の気持ちが少しは収まるかもしれないから。リーリヤちゃん、お願い」
「えぇ・・・!?」
二人の正気をリーリヤは疑わざるを得なかった。
リーリヤはトビアスみたいにヘレナと口喧嘩になることはほとんどない。でもそれは仲が良いからというのとは違う。逆だ。言い合いに発展しないほど仲が深くないからそうなっているだけなのだ。
というかヘレナのリーリヤに対する反応は一貫している。この家で暮らすようになってからずっとヘレナはリーリヤのことを異物として扱っている。
顔を見ようとしない。視線も合わさない。返事をしないのも当たり前。こうして思い返してみると直接的な嫌がらせを受けていないのが不思議なほどだ。
以前アルマスに愚痴を漏らしたことがあるが、原因はリーリヤにもわからない。初めて顔を合わせてからずっとヘレナはリーリヤに厳しい態度をとってくる。
関係の改善をするべくリーリヤなりに努力はした。そのうち態度が変わるだろうというアルマスの言葉を信じて、なるべく声をかけて会話をしようと試みた。元来人見知りのリーリヤにしては頑張っていたと思う。それなのにヘレナの返答はせいぜい冷たい目で睨むか、不機嫌そうに鼻を鳴らすことしかない。
あまりにも徹底しているものだから、リーリヤも意地になって声をかけ続けている。そのせいか、ヘレナの態度は露骨になってきており、完全に悪循環に嵌まっていた。もはやリーリヤも仲良くなろうだなんて思っていない。
リーリヤとヘレナの間で行われているのは静かなる冷戦なのだ。
第一、今さっきリーリヤに対してヘレナが嫌味を言っていたのを聞いていなかったのか。
喧嘩や罵り合いみたいに表面化していないだけで、この家でヘレナに最も目の敵にされているのはリーリヤである。当事者であるからこそ断言できた。
そんなリーリヤがステーン夫妻の代わりにヘレナとのわだかまりを解くなんてどう考えても無理だ。ステーン家の和解どころか家庭崩壊になる結末しか見えない。
断ろう、そう思ってリーリヤは顔を上げた。
「うっ」
イレネもトビアスも切実な目でリーリヤを見ていた。
二人は本気でリーリヤに期待しているのだ。
「ああ、もうっ。・・・わかりました、やってみるだけやりますけど。上手くいかなくても文句言わないでくださいね」
「おおっ!本当かい!?」
「よかったわ。これで安心ね」
「だから期待しないでくださいってば」
トビアスがジャム瓶が入った木箱を差し出してくる。ヘレナが引っ掴んでいったものと同じだ。これで一緒に作業をしながら会話を試みろということだ。
リーリヤはやけくそになってトビアスから木箱を受け取った。