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魔女が哭く、賢者はスープを飲む  作者: リンゴとタルト
第1章 魔女、街に棲む
12/44

5.孤独な魔女は寂しさを知る

 リーリヤは冷たい石畳の上に座り込む。

 自分の馬鹿さ加減が本当に嫌になる。

 見上げれば空は既に暗く染まっている。夕方を知らせる鐘はとっくに鳴ってしまった後だ。

 真っ黒な影に覆われた路地には人の気配はなく、怖いほどの静けさを湛えていた。

 道ばたにぽつんと1本だけ立っている街灯はリーリヤの頭上で頼りなく周囲を照らしている。壊れかけなのか、街灯に取り付けられた結晶は羽虫の羽ばたきのような低くて不快な音と共に点滅を繰り返していた。


「何してるんだろう、私」


 街灯の真下でリーリヤは黄昏れる。

 リーリヤの胸に去来するのは否定しがたい自己嫌悪だ。


 折角、アルマスが気を遣ってくれていたのに。


 そう心の中で呟いてリーリヤは膝を抱えて顔を埋める。

 アルマスがリーリヤを市場に誘ったのがリーリヤの気分転換のためだということくらいわかっている。昨日、今日と失敗が続いたことはリーリヤの気分を落ち込ませるには十分だった。


 昨日は散々だった。今まで『働く』なんてしたことがないリーリヤにとっては初めての仕事で、ついでに言うなら喫茶店という種類のお店があることだって昨日初めて知った。接客、調理、会計、掃除。どれをとっても初めての経験だった。それを差し引いてもひどかったのは言うまでもない。机に躓いて転ぶし、飲み物は床にぶちまけるし、客だって両手で数えられないくらい怒らせた。挙げ句の果てにはお金の計算を間違えて一悶着さえ起きた。


 今日だって昨日ほどではないにせよ、上手くいったなんて到底言えない。小さな子どもに本を読み聞かせるだけと聞いて、今度こそ簡単にできると思った自分はなんだったのだろう。

 まず、泣かれた。それはもうギャン泣きされた。本なんて読ませる以前の問題で、リーリヤは最初のうちはあからさまに子ども達から距離を置かれた。なぜなのか理由はさっぱりわからないけれど、子ども達はとにかくリーリヤを避けていた。


 そのせいで大人達が子ども相手に忙しくしている端っこの方でリーリヤはぽつんと一人でのけ者になっていた。明らかにリーリヤよりも何歳か年下に見える少女が気を利かせてリーリヤのもとへと小さな女の子達を連れてきてくれてからも思うとおりにはいかなかった。


 後からアルマスに聞いたところによるとリーリヤの知っている言葉とこの街で使われている共用語なる言語はまったくの別物らしい。結局、リーリヤは本を読み聞かせるのではなく、10歳以上も離れている小さな女の子達に逆に文字の読み方を教えてもらう始末だった。


 もっと出来ると思っていた。別に根拠があったわけではないが、自分なら上手くやれるとそう思い込んでいた。偉大なる魔女の系譜に連なる者として、村や街で暮らす普通の人達とは違う特別な存在であろうとしてきた。だからこそ、なんの特別な力もないただの一般人にすら出来ることなら自分に出来ないはずがないとリーリヤは考えていたのだ。


 現実は違った。リーリヤが魔女として十数年も修行してきたことはまるで役に立たなかった。

 でも、仕方がないではないか。やったことがなかったのだから。出来ないのは当たり前なのだ。


 そんな鬱屈とした思いを抱えていたことをきっとアルマスは察していたのだろう。

 市場を散策することはリーリヤにとっても良い気晴らしになった。懐かしい思い出と重なるようで、違う街の違う市場での出来事なのに驚くほど自然体でいられた。


 せっかく、楽しかったのに。


「ほんと、何してるんだろう」


 アルマスから逃げ出したリーリヤはとにかく走った。こんなに走ったのはいつぶりだろうかというほど。みっともなく息を荒げて足を動かした。

 けれども走るのはそんなに長く続かない。リーリヤは情けないことに自分でも自覚するくらいに体力がなかった。

 疲れた脚を引きずってふらふらと彷徨っていたリーリヤは、広場だか大通りだかの見知らぬ場所にいた。多分、その頃には最初の広場から結構離れていたと思う。


 しかも、夕方が近づいてきたせいか時間が経つにつれてリーリヤの周りにはどんどん人が増えてくる。仕事帰りと思われる人々が道いっぱいに押し寄せてきて、無意識に人混みを嫌ったリーリヤは人気のない方向を選んで進んでいたらしい。

 その結果、街灯すら疎らな暗い路地で一人惨めに縮こまっている。もちろん、ここがどこかなんてリーリヤにはわからない。


「どーしよ。もう」


 お腹も減ったし、夜風も身にしみるほど寒い。こんなに遅くなるまで出歩く予定ではなかったからリーリヤは上着を着ていない。昼間はあんなに暖かったのに、と思うも建物の影で蹲ってせめてもの風を凌ぐしかなかった。


 もう少し揚げパンを食べていれば良かった。ひもじさに後悔しても今のリーリヤには食べ物を得る手段がない。屋台や店の場所がどこかという問題もそうだが、なによりリーリヤはお金を所持していない。硬貨の計算もできないのに持っていても仕方ないとアルマスに言われたからだ。


 そう、アルマスだ。

 そもそもの原因は彼なのだ。


「私のために色々としてくれているのはわかってるんだけど」


 でも、リボンだけはダメだ。あんなに気軽に触れて欲しくなかった。

 リーリヤは心の奥に仕舞っていた大切なものをぞんざいに荒らされてしまった気がしてつい拒絶してしまった。


 アルマスは何も思わなかったのか。だって、あれは。

 いや、そういえばアルマスはリーリヤと幼い頃に交わした約束すら覚えていなかった薄情者だ。リーリヤのリボンに対する思い入れなんて気付くどころか、興味すらないのだろう。


 それがまたリーリヤには虚しかった。自分との思い出はそんなに簡単に忘れてしまうようなどうでもいいものだったのかと。


「寒いし、暗いわね」


 寒さと暗さ。

 森にいた頃は気にならなかったものが今はとても辛く感じる。森の闇はもっと濃く、冬の嵐は極寒であったのに、どういうわけか今の方が身にこたえる。


 それはきっと暖かい光を知ってしまったからだ。

 喫茶店や図書館にいた人達。それだけではない。道行く人々やステーン家もだ。明るい世界で親しげに語り合い、互いに認め合い、何気なく笑い合う。家族や友人に囲まれてなんでもない毎日を過ごしている。


 それにリーリヤは羨望を感じた。

 なによりそれは自分にはないものだった。家族も友人も自分の居場所もリーリヤにはない。ステーン家の人達は優しいけれど、どこまでいってもリーリヤは他人でしかなく、余所余所しさは消えてくれない。

 この二日間だけでもリーリヤはどうしようもなく理解させられた。


 ああ、私は―――


「一人ぼっち、なのね」


 当たり前のことを再確認した。

 霧の深い森の奥でひっそり暮らそうと、こうして街の中で暮らそうと何も変わらない。リーリヤは孤独なままだ。

 アルマスだって急に怒鳴って逃げ出したリーリヤのことなんてきっと追いかけてなんかくれない。


 じわりと浮かぶ涙を拭ったところでリーリヤはその気配に気付く。

 それは魔女であったリーリヤだからこそ、いつも身近に感じていたもの。

 顔を上げたリーリヤの見つめる先にそれはいた。

 

 妖精、だと思う。

 断定しなかったのは、リーリヤの慣れしたんだ感覚とは少しずれている気がしたからだ。その小さな違和感も妖精の姿を視界に捉えたことで薄れていく。

 まさか街に妖精がいるとは思わなかった。思い返してみればアルマスも街には存在しないとは言ってはいなかった。


 影から這い出るように現れたのは人型の小さな妖精だ。輪郭だけならばドレスを着た女性の人形のようにも見えなくないが、その身体は濃い緑色の液体でできている。妖精が小さな足を動かす度に全身がぷるぷると震える。白霞の森の妖精とは比べるべくもない貧弱な妖精だ。


 どういうわけか妖精は覚束ない足取りでリーリヤに向かってくる。

 妖精から漂う悪臭にリーリヤは眉を潜めるがあえて追い払うことまではしなかった。


「なーに。あんたも一人ぼっちなの?」


 手を伸ばせばなんとか届く距離で歩みを止めた妖精にリーリヤが話しかける。当然、妖精が言葉を返すはずもない。

 しばらくの間、妖精はまるでリーリヤの寂しさを慰めるようにその場に留まった。


 ちなみにリーリヤは妖精に魔女の力で干渉はしていない。この妖精がリーリヤのもとまで近づいてきたのも、リーリヤの目の前で動かないのも妖精自身の判断による行動だ。

 藻の浮く汚れた湖を思わせるどぎつい色と臭いをしているが、不思議といないよりましだと感じた。むしろ人から嫌われる容貌を持つ点がリーリヤに親近感をもたらしていた。


「あっ。ちょっと待って」


 妖精は唐突に動きを再開するとリーリヤを素通りしてしまう。

 ぼてぼてと歩く妖精にリーリヤは慌てて立ち上がって後を追う。

 もしかしたらどこかに連れて行ってくれるのかと期待するリーリヤだがあいにく相手は妖精だ。人間の感情の機微など理解できるはずもない。


 妖精の目的地はすぐ近くだった。街灯のすぐ側にあった地面に嵌まる円形の金属の蓋の上に乗ると唐突に人型の身体を崩してどろどろの粘液へと変化し、金属の蓋に空いていた小さな穴に吸い込まれるようにいなくなった。

 リーリヤは物言わぬ金属の蓋を前に力なく座り込む。


「もう。おいてかないでよ」


 また一人ぼっちに戻ったことに落ち込むリーリヤの頭上から突然影が射す。


「っ・・・!」


 驚いたリーリヤが急いで振り返れば、すぐ近くに二人組の若い男達がいた。男達の注目はリーリヤへと向けられている。


 妖精に夢中で接近にまったく気付かなかった。

 まずいとリーリヤは焦る。リーリヤが妖精に話しかけていた姿を見られたかもしれない。もしそうならばリーリヤが魔女の関係者であることがばれてしまった可能性がある。


『魔女に関わるすべてを君は公言してはならない』


 アルマスとの約束がリーリヤの頭をよぎる。

 心臓がどくどくと脈打ち、嫌な汗が止まらない。約束を破ってしまったかもしれないことに涙が溢れそうになるが歯を食いしばって耐える。


「ど・・・たん・・かっ。た・・・うが・・いん・・か?」


 男達がリーリヤに何かを話しかけてくるが、まったく耳に入ってこない。

 焦燥にかられるリーリヤの瞳が捉えたのは男達が持つ長い木の棒だった。おそらくあれは武器だ。

 また何事かを口にしながら男達が一歩リーリヤに近づこうとする。その様子が白霞の森で武器を突きつけてきた村人達の姿と同じに見えた。


 瞬間、リーリヤの中に渦巻いていた負の感情が密度を増す。焦り、怒り、悲しみの想いが膨れあがり、心の枷が弾け飛ぶ。魔女の力を隠さなきゃいけないというリーリヤの理性とは別に反射的に魔力を練り上げる。身を守ろうとする本能がリーリヤに力の行使を強制する。


 リーリヤの纏う雰囲気が一変し、異様な迫力に男達が動きを止める。

 妖精と違って相手が人間だと感情に染まった魔力を当てるだけでは脅しにしかならない。真価を発揮するには魔力でもって妖精を使役する必要がある。妖精がいない街中では魔女の術があろうとも意味を為さないとほんの少し前までそう思っていた。


 けれど、この街にも妖精はいた。ならば、悪漢を撃退するくらいわけもないのだ。リーリヤは魔女の歌を紡ぐために大きく息を吸う。

 あまりの威圧感に男達が思わず木の棒を構えようとしたときだった。


「何を、してるんだ」


 心の底から震え上がってしまう、そんな声だった。

 ひぅ、とリーリヤは吸った息が漏れて変な声が出た。

 いつ現れたのか、男達の背後にはアルマスが立っていた。いつもの軽薄な笑みはなく、紫色の瞳には隠しきれない激情が宿っている。おかしいとリーリヤは思った。アルマスの瞳の色は灰色だったはず。


 しかし、アルマスの厳しい視線がリーリヤに向いたことでその疑問も消し飛んだ。同時に今にも爆発しそうだった魔力が一気にしぼんでいく。


「もう一度聞くよ。ここでいったい何をしているんだ」


 リーリヤは俯く。

 アルマスの怒った声を初めて聞いた気がした。昔の記憶を遡れば、アルマスが怒る姿はそう珍しくなかった。幼い頃のアルマスは常にカリカリしていて、不機嫌なことの方が多かったからだ。

 それでも、ここまで激怒するアルマスをリーリヤは知らない。


 男達も背後にアルマスがいたことに驚いている様子だった。大袈裟なほど身体を仰け反らせて、一人は振り返りざまに足がもつれて尻餅をついている。もう一人も狼狽した様子のまま腰の引けた構えでアルマスに持っていた棒を突きつけている。


「だ、だだだ誰だっ!?さ、さてはお前が例の!?・・・って、あ、あれ?ひょっとして・・・?」


 突き出された棒を意にも介さずにアルマスが街灯の下まで踏み込んできたところで男達の態度が急に変わる。

 怯えを滲ませた敵意を引っ込めて、拍子抜けしたような間抜けな顔をしている。


「アルマス先生、ですか?」


「うん?君たちは・・・?」


 先生と呼ばれたことでアルマスの氷のように冷たい表情に罅が入る。眉を上げて、顎に手を当てて男達の姿格好を見定めている。


「見覚えがあるな。そうだ。自警団にいたよね」


「そうです!そうです!覚えていてくださったんですね!」


 若い男達はアルマスに覚えてもらっていたことがよほど嬉しかったらしい。二人揃ってきらきらとした瞳でアルマスを見ている。まるで憧れの人にあった子どものようだ。


「ふーん、なるほどね。それはそれとして、彼女になにか用があったのかな?俺の連れなんだけどさ」


 そう言ってアルマスが石畳にへたり込んだままのリーリヤを見る。その瞳はもういつもの灰色に戻っていて、火傷するような煮えたぎる感情はもうないようだった。そのことにリーリヤは密かに安堵する。

 アルマスの視線につられて男達もリーリヤを再度振り返った。そして、今思い出したというような顔をする。


「そうでした。ついびっくりして忘れてました。見回りの最中に具合悪そうに蹲っているのを見かけたので声をかけようとしたんですけど・・・」


「先生のお連れの方だったんですね。ひょっとすると余計なことしちゃいましたかね、僕ら。どうやら怖がらせちゃったみたいですし」


「いやいや、ありがとう。困っている人を助けるのは良いことだよ。でも、大丈夫。彼女、人の多さにちょっと疲れちゃったみたいでさ。こうして静かな場所で少し休んでいたところなんだ」


 アルマスはペラペラと嘘を並べ立てる。

 この場を適当に切り抜けるためとはいえ、よくもこうでまかせを言えるものだ。それもリーリヤと違って実に落ち着いた対応だ。そのことに頼りがいを感じてしまうのがなんだか負けたようで悔しかった。


 しかし、そのおかげでリーリヤが気になっていたことを聞くことが出来た。どうやら若い男達はリーリヤが妖精に話しかけていたところを見ていなかったようだ。人形のような大きさの妖精は小さかったこともあり、角度的にリーリヤの身体に隠れていたのだろう。


 それはつまり、一連の行動はリーリヤの早とちりだったというわけだ。魔女の関係者であることはばれていないし、この男達はリーリヤに敵意があったわけでもない。魔女の歌を使わなくて本当によかったと思う。


 安心した途端に寒さを思い出す。

 春も終わりかけとはいえ、夜になればめっきり冷え込む。

 ぶるりと身体を震わしたリーリヤの肩に何かがかけられる。見上げれば側にまで来ていたアルマスが男達と話しながらリーリヤに上着をかけたのだ。さすがのアルマスも夜中に出歩くことは想定していなかったらしく、上着は生地の薄いものだった。少し物足りない気がしたのに、上着に残っていた温もりがリーリヤの緊張を解いていく。


「へぇ。それでこんなところを見回りしていたのか」


「そうなんですよ。特にこの辺で不審な人影を見たという話を良く聞きまして。今のところ何をされたとか、被害が出ているわけではないので青年団の方で軽く見回りをするだけにしておこうとなったんです」


「いやぁ。それにしても、さっき先生がいらっしゃったときには驚きました。噂の不審者が出たのかと勘違いして危うく悲鳴を上げそうになっちゃいましたよ」


 軽く談笑しているアルマスはリーリヤに上着を貸したせいもあり、薄着でひどく寒そうだ。リーリヤが一人申し訳なさを感じていると話はいつの間にか終わったようであった。


「お仕事お疲れ様。頑張ってね」


「はい!先生もお時間あるときに支部までいらっしゃってください。是非歓迎させていただきますから」


 アルマスが頷くと青年達は嬉しそうに暗い路地に戻って行った。

 自警団とやらがいなくなり、リーリヤとアルマスの二人だけが残る。アルマスの顔からすっと外向けの柔和な表情が抜け落ちる。


「帰ろうか」


「・・・うん」


 アルマスが差し出した手を取って立ち上がるもリーリヤはアルマスの顔を見ることができなかった。

 帰り道は無言だった。

 いつもは鬱陶しいくらいおしゃべりのアルマスがまったく会話をしようとしないのが逆に怖かった。


 さっきの自警団達はリーリヤが魔女の術を使おうとしたことを理解できていなかった。けれど、アルマスは別だ。アルマスはリーリヤが何をしようとしていたかを十分理解している。


 リーリヤはアルマスとの約束を破ろうとした。

 身の危険を感じたが故の行為だったとはいえやり過ぎた。上手く話を誤魔化したり、もっと他にも手段はあった。そもそも焦らずに相手の話を良く聞いてれば、ただ心配して声をかけてきただけとわかったはずだ。


 いくらリーリヤでも短絡的だったと反省している。

 それなのにアルマスはリーリヤを叱ることもなければ説教することもしない。それどころか話題にすら上げない。

 直接なじられるよりも無言で責められる方が苦しいなんて知らなかった。


 黙ったまま歩き続けて気付いたらステーン家の前にいた。だというのにリーリヤもアルマスも家の中に入ろうとしない。そのまま何を話すでもなく立ち尽くしていると、やがてアルマスが頭を掻くようにして言った。


「悪かったね。配慮が足りていなかった」


「え?」


 なんでアルマスが謝るのか、リーリヤにはわからなかった。誰がどう見ても今回の件はリーリヤが勝手に暴走していただけだ。それなのに、なぜ彼が申し訳なさそうな顔をしているのか。


「一応、俺としても既に物が無くなっていることは承知の上で話しているつもりだったんだ。もう10年以上前に渡した物だしね。特別な材質でもなんでもないただの布で作られた物だったから、もうとっくに使えなくなったか、捨ててしまってもおかしくないってね」


 リボンの話だとすぐに気付く。

 大分遠回りな話し方をしているのはおそらくリーリヤを余計に刺激しないためだと思われた。けれどもアルマスが何を言いたいのか、リーリヤにはまったく伝わってこない。


「あれは君にあげた物なんだから、君がどうしようと別にいいんだよ。大事に使おうと、逆に雑に扱おうとね。その結果どうなっていようと別に俺は何も思わないし、何も言わないからさ」


 遅ればせながらリーリヤは理解する。

 広場でのリーリヤの反応から『昔にアルマスが贈ったリボンはなんらかの理由で処分されており、もうリーリヤの手元には残っていない。そのことをリーリヤは気に病んでいたのに急に話題に上がってしまったため、どうすればいいかわからなくなって逃げ出してしまった』とアルマスは解釈したようだった。

 それは違うとリーリヤは言いたかった。しかし、否定する資格をリーリヤは持っていない。


「っ」


 それでも何かを伝えなければいけない気がして、必死に言葉を探しているところで後ろから声をかけられた。


「あの、入らないならどいてくれませんか」


 そこにいたのはしっとりとした黒髪に青い瞳をした少女だ。不機嫌丸出しでふてくされた様子のステーン家の一人娘こと、ヘレナ・ステーンである。

 リーリヤ達がステーン家の目の前で立ち話をしていたせいでヘレナは家に入れずに困っていた。


 彼女はリーリヤの顔を見てあからさまに嫌そうな顔をしてみせた。

 その露骨すぎる態度にリーリヤは頬をひくつかせる。


「やぁ。ヘレナちゃん。今帰りかい?」


 アルマスがヘレナに声をかける。もうアルマスはいつも通りの雰囲気に戻っている。

 ヘレナはアルマスを上目遣いで見てから恥ずかしげに顔を伏せてもじもじとする。リーリヤに対してとは清々しいほどに違う扱いに尚更腹が立った。


「あっ、はい。お、おにい・・・。ア、アルマスさんもお仕事お疲れ様です。わっ。アルマスさん、それ、寒くないんですか」


 ヘレナが驚いたのはアルマスが余りにも薄着だったからだ。

 話すきっかけが見つからなかっただけでリーリヤだってずっと気にしていた。空気に触れているだけで手だって冷たくなる気温なのに、アルマスは薄いシャツを1枚着ているだけだ。それなのにまったく寒がる素振りさえなかった。


「大丈夫だよ。こいつを付けてるから」


 アルマスは左手首に付けていた腕輪をかざす。その金属製の腕輪には綺麗な赤色の結晶が嵌まっており、銀色に輝く星の光のような粒子が無数に舞っていた。

 しかし、それだけでは何が大丈夫なのかわからない。腕輪がいったいなんだというのだろうか。リーリヤが首を傾げているとアルマスが説明してくれた。


「こいつは『身につけている者の身体をほんのり温める』という力が込められているんだ。錬金術による産物だね」


「ほんのり?」


「ああ、ほんのり。例えば、こいつを付けて凍り付くような極寒の湖に飛び込んでも身体は温まらない。普通に凍える。錬金術といっても万能ではないから、そこは致し方ない。用途用法はきちんと守りましょうってことさ」


 錬金術には馴染みがないリーリヤであるが、これだけ聞くと便利なようなそうでもないような微妙な物という印象になる。これならまだ妖精を使役していた方が使い勝手がいい。森にいた頃は身の回りのことはなんでも妖精にやらせていたものだ。あいにく森でよく見かけた妖精はこの街にいないので再現することはできないのだが。

 そんなことより、と話を変える前振りをしてアルマスはヘレナに向き合った。


「こんな時間まで何をしていたんだい?もしかして遊んでいたのかな。だとしたら良くないよ。君はまだ子どもなんだから夜中に一人で出歩くのは止めた方がいい。お父さんとお母さんに余計な心配をかけるのはいただけないね」


 アルマス曰く、ヘレナはまだ13歳。世間一般では子どもであるし、その外見もきちんと年相応だ。日が暮れて随分と立つのに外をうろついているのは、倫理的にも安全面的にもよろしくないということだ。

 危うく非行少女の烙印を押されかけたヘレナが慌てて否定する。


「ち、違います。わたし、別に遊んでたわけじゃないですっ」


「ふむ。というと?」


 詳細を求めるアルマスに応えるようにヘレナはじろりとリーリヤを睨み付けてくる。

 今度はなんだとリーリヤはつい身構える。


「どこかの誰かさんが夜になっても一向に帰ってこないから家族総出で探してたんです」


「あー。そりゃ、そっか。そうだよな。すっかり忘れてたよ」


 アルマスが額に手をあてる。

 リーリヤはヘレナの話をかみ砕くのに少し時間がかかった。それはつまり―――。


「あと、別にわたしは一人じゃありませんよ。さっきまでは父も一緒でしたから。余りにも小うるさいので置いて来ちゃいましたが」


「それはごめんね。そして、ありがとう」


「いえ、そんな。アルマスさんにお礼を言われることではないです」


「そうか。ヘレナちゃんは優しいな。でも、ありがたいのは本当だからさ」


 アルマスがもう一度礼を言うと、ヘレナは照れて赤くなった顔を隠すようにそそくさと家に戻っていった。

 去り際にリーリヤにだけ聞こえる声でちくりと嫌味を言うのを忘れなかったのはさすがという他ない。リーリヤはとことんヘレナに嫌われているようだった。


「おにい・・・、んんっ、アルマスさんにこれ以上迷惑をかけないでくださいね」


 リーリヤは咄嗟に言い返しそうになるのをぐっと堪える。相手は年下、生意気ではあるがそれくらい大目に見るべきだ。

 それに今日ばかりはリーリヤが悪い。


「後で皆に謝んなきゃな」


 それだけ言ってアルマスはぽんとリーリヤの頭に手を置く。その手を振り払う気にならなかったのは胸の奥で震える心を抑えるのに手一杯だったからだ。

 道の向こうからくたびれた様子のトビアスがやってくる。アルマスは苦笑いを浮かべるとリーリヤの側を離れてトビアスを迎えに行った。


 リーリヤは今さっき気付かされた事実を心の中でそっと繰り返す。

 顔を合わせば文句しか言わない生意気な年下娘も、心優しいイレネも、懐の深いトビアスも。なによりアルマスだってそう。


 リーリヤにも心配して探してくれる人がいる。


 そのことが春の夜風に冷え切っていたリーリヤを少しだけ温かくしてくれた。











 誰もが寝静まった深夜。

 リーリヤはクローゼットの奥にしまい込んでいた衣装を引っ張り出す。


 朧気な月明かりに照らし出されたのは真っ黒なワンピース。

 かつてリーリヤが身に纏っていた魔女の装束だ。儀式を行うにあたってリーリヤのために師があつらえたものでもある。


 黒一色という簡素な色味ながら、隅々まで緻密な刺繍が施されている。黒い糸で編み込まれた数々の文様は一つ一つが古代から伝わる特別な意味を持つ。

 もう二度と着る機会はおろか、見ることもないと思っていた。


 リーリヤは衣装の内側、胸の辺りに作られたポケットを探る。この衣装を準備する際にリーリヤが唯一注文をつけたところだ。

 ポケットに入っていたのは古びた革の小袋。固く結ばれた紐を解き、中にしまっていた大切な物を取り出す。


 草色のリボンだ。くすみのある濃い黄緑色のそれはリーリヤが子どもの頃から大事にしていた数少ない宝物。

 アルマスはぼろぼろになってとっくに捨てていると考えていたようであったが、本当はこうして大切に保管していた。


 長い時を経過しても、少しも色あせることなく、ほつれや傷だって一つもない。それはリーリヤがどれだけ丁寧に手入れし、大切に扱ってきたかを示している。それこそリーリヤはこのリボンを数えるほどしか身に着けたことがない。


 髪を結うのが嫌いだからではない。子どもにとっては渋すぎる色合いが気に入らなかったわけでもない。

 ただ初めて友達に貰った物を汚したくなかったのだ。森の中ではうっかり枝葉に引っかけるかもしれないし、悪戯な妖精達に奪われでもしたら目も当てられない。

 だからこそ本来の用途ではなくても御守のように持ち歩くことにしていた。

 来たるべき時が来るまではそうするつもりだった。


 リーリヤは月明かりが反射する姿見の前に立つ。女の子なら絶対に必要だとイレネから半ば押しつけられた鏡は薄闇の中にありながらはっきりとリーリヤを写す。

 櫛で髪を梳き、リボンを手に取って髪を結ぼうとする。けれど、できなかった。

 リーリヤはリボンを持った手を力なく落とす。


「やっぱり、だめ。私には付けられない」


 項垂れるように目を瞑ればあの頃の光景が蘇る。


 ぶっきらぼうな言葉とともに不器用に突き出した手に握られたリボン。気恥ずかしげにしながらもまっすぐリーリヤを見つめていた。その瞳はリーリヤが魔女になることを少しも疑っていなかった。

 あのときのアルマスの言葉を今でも覚えている。


『未来の大魔女様へ』


 言葉に込められた期待。幼いリーリヤはそれを強く感じ、心が満たされる思いだった。自分を理解してくれる人がここにいるのだと嬉しくて仕方がなかった。


 しかし、リーリヤはあのときのアルマスの期待に応えることはもうできない。

 リーリヤは魔女になれていない。なることはできなかったのだ。


 祝福は呪いへと置き換わり、絶えずリーリヤを縛り続けていた。

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