4.むかしむかしのえいゆうたん
ランタンの明かりがぼんやりと照らす、静かでほの暗い通路。
埃っぽくもあり、どこか甘く香る乾いた匂い。
数多の賢人が残した智の深淵に浸るには心地よい人寂しさ。
「やっぱ図書館はいいね」
両脇にずらりと並ぶ本の壁はやはり壮観だ。
アルマスは本棚から一つの本を引っ張り出す。
こうしていると学術都市シニネンクーマに居た頃を思い出す。あの頃は毎日飽きるほどに本や古書の山に埋もれて勉学や研究に明け暮れていた。
あれからもう1年以上経っていると思うとあんな陰湿な場所でも懐かしく感じてしまう。
手に取った本の背表紙を撫でる。
使い古された形跡はあれど大きな傷も破れもないそれはきっと丁寧に扱われてきたのだろう。料理や裁縫などの生活の知恵を親から子へと受け継ぐように、人々は本を通すことで未来に向けて様々な知識を引き継いでいく。
街に住む人が本や書物の管理をどれだけ重視しているかは本の状態を見ればよくわかる。こういう都市は文化的に豊かで成熟しているとアルマスは知っている。だからこそ改めて思う。湖畔都市フルクートは良い街なのだと。
「あとこれもかな」
数冊の本を選んだアルマスはその場では本を開かずに移動する。そもそもこれはアルマスが読むためのものでもないので当たり前と言えば当たり前だ。
ところで図書館には幾つか暗黙のルールがある。
一つ、傷みから守るため日の光に当たらない場所に保管すること。
一つ、カビないように水気や湿気から遠ざけること。
一つ、図書館ではお静かに。
常識と呼ばれるほどではないにせよ、多かれ少なかれ知れ渡っていることだ。
けれど最後の一つくらいはたまには破っても良いのかもしれない。
アルマスは徐々に近づいてくる喧騒に耳を澄ましながら、転落防止のために付けられた柵に手をかける。
そこは一階から二階が吹き抜けになった大きな空間だった。アルマスのいる二階からは階下が一望出来る。
アルマスが木製の高欄に肘をかけ、下を覗き込めば途端に耳を突くような騒がしさが広がった。
「子どもというのは元気なもんだね」
1階には多くの子ども達がいた。わちゃわちゃと忙しなく走り回る子。座り込んで泣きわめく子。本を読んでと頻りにせがむ子。初等教育に入る前のちょうど5、6歳くらいの子ども達が何十人も集まって、好き放題に大人達を振り回している。
対する大人達も慌ただしい。図書館勤めの司書を初めとして、ボランティアで参加している年若の少女達、それに今日は教会のシスターもいる。さすがにシスターは子どもを宥めるのが手慣れているようだ。
少し離れたところには各々の母親の姿も見える。彼女達はテーブルで思い思いの本を手に取りつつ幼い我が子達を微笑ましげに見ている。今日の彼女達は子守りもお休みだ。代わりに司書やシスター達が子ども達の相手をしていた。
今日は月に2回の『本の日』。幼い子ども達が本や知識に触れるための機会を設けるイベントで、親子連れで図書館に訪れている。
「おー。やってる、やってる」
アルマスは眼下で奮闘する司書達に混ざっているリーリヤを見つける。今日の彼女はボランティア枠での参加だ。小さな子ども達相手におっかなびっくりのへっぴり腰になっている彼女の姿をアルマスは暢気に見守っている。
リーリヤの周りには小さな女の子が2、3人集まって、リーリヤが持つ絵本をじっと見ている。
今は読書の時間なので司書やボランティアの少女達も同様にそれぞれが何人かの子ども達を集めて絵本や物語の読み聞かせをしているのだ。ちなみに上から見るからわかることだが、一部のシスター達は子ども達から見えないところでなにやらこそこそと動いている。おそらく次のイベントのための準備だろう。
「あれじゃ絵本を読んであげているんじゃなくて、読んでもらっているの間違いだね」
リーリヤの横にいる女の子達は絵本のページを指差して、子どもらしく一生懸命に『これはこう書いてある』、『この場面はこういう意味合いだ』とリーリヤに教えている。そういう年頃なのか、女の子達の表情はお姉さんぶることが出来て満足そうだ。
リーリヤは子ども達の自主性を育むためにあえて聞き役に徹しているのではない。リーリヤの真剣に焦る表情を見ればわかる。
あれは絵本に書かれている非常に簡素な幼い子ども用の文章を読むことに必死なのだ。
「ううん。やっぱ簡単な読み書きくらい教えといた方がよかったのかな」
アルマスは先ほど見てしまっていた。
絵本を読む程度ならとさりげなく胸を張っていたリーリヤが本を開いた瞬間に顔を青ざめさせていく様子を。
実のところリーリヤは読み書きができなかったのだ。いや、厳密に言うのであればできはするのだ。
しかしそれは王国や周辺国で使われている共用語ではない。今や一部の学者や専門家のみが扱う『古代語』だった。
そうではないかとアルマスも密かに思っていた。
先日、アルマスが名前を書くように言った際、彼女は迷わず古代語で書き記してみせた。共用語という概念をまったく認知していないかのように。
「昔、教えてあげたはずなんだけどな。忘れちゃったか」
簡単な単語くらいならばきっと読めるのだろう。昨日の喫茶店では絵柄付きのメニューに載っているコーヒーやお菓子の名称に困っている様子はなかった。それでも文章になると話は違うらしい。
彼女の中で共用語と古代語がどう切り分けされているのかは、さすがのアルマスにすらいまいちわかりかねた。
ついでに言うとアルマスが物色していた本は、この事態を目の当たりにしたアルマスがリーリヤの語学勉強用に探してきたものである。もちろん、初等教育相当のお子様向けだ。
なんにせよ、絵本を読んであげようが、読んでもらってようが子ども達と上手くやれているのであればこの場はそれで十分に違いない。彼女の年長者としてのささやかな尊厳はともかくとして、だが。
1階では図書館とは思えないくらいの大騒ぎをしているというのにアルマスがのんびりとリーリヤの観察をしているのには理由がある。今日は1階のみ一般解放されているため、2階に子ども達が上がって来ることはない。つまりアルマスのいる場所はある意味安全地帯であるということだ。
また一人這々の体で階段を上ってくる姿がある。
髪も髭も白く染まり、もじゃもじゃの毛の中から優しげな瞳が覗く老年の男性だ。齢60を越えているが、背筋は真っ直ぐで階段を上る足取りも危なげない。
彼はアルマスの側に来ると親しげに話しかけてくる。
「いや-、参った。圧倒されてしまったよ」
彼は疲れたと大袈裟に表現してみせるが、その顔はにこやかだ。
「楽しそうでなにより」
「ああ、そうだな。楽しい。実に楽しいとも」
彼はこの図書館の司書長カレルヴォ・リタリネンだ。
フルクートには2つの図書館がある。一つは学術協会が所有する図書館で、どちらかというと資料館と言った方がしっくりくる。錬金術を初めとした難解で専門性の高い書籍を管理しており、利用するにも資格がいる。資格の階級によっても閲覧に制限がかかっており、おいそれと誰でも入館できるわけではない。
一方、今居るこの図書館は中央区にある2階建ての古い建物だ。誰でも利用することができ、所蔵されている書物も多岐に渡っている。昔からある書物が雑多に集められているおかげで、時には先史以前に作られた貴重な図鑑や、何処かの誰かの手記といった珍しい掘り出し物と遭遇することもある。
有用な本を写本することでどこの街でもほとんど似たような内容ばかり保管している学術協会のものより、宝箱のように何があるかわからないこちらの図書館の方がアルマスは好きだった。
ちなみに館長はこの場にはいない。館長は慣例的に名家旧家のお偉いさんがなる。ただ、そういう人はほとんど図書館に顔を出すことはないため、アルマスはその姿を見たことがない。
それ故にこのイベントの実質的な主催は彼ということになる。
「君はいいのかい?」
司書長は手の平を向けて1階を示す。子ども達とのふれ合いをアルマスも体験しなくてよいのかということだろう。
アルマスは肩をすくめた。
「子どもは苦手なんですよ」
「おや、これまた意外だ。君ならどんな子とも上手くやれそうに見えるがね」
「出来る出来ないと好き嫌いは別の問題ですからね」
「それは確かにそうだ」
アルマスのある種不遜な物言いにも彼は愉快そうに笑ってみせた。
敬語を使ってはいるもののアルマスのあけすけで軽い物言いは立場が偉い人ほど鼻につくらしい。そのためアルマスは特に街の中心である中央区に住むお偉方とは折が合わない。そんな中でも彼は珍しくアルマスを買ってくれていた。
「この年になるとよく思うんだがね。子どもというのは素晴らしいものだ。こんな老人にも元気を与えてくれる。余計なお世話かもしれんが、子育てにはなるべく関わるべきだと思うよ」
「そうですね。覚えておきます。まぁ、その助言が役に立つ日が来ると良いんですけどね」
「はっはっは。まったくだ。まだ結婚もしていない若者には早すぎたね」
司書長は穏やかに笑った後、慈愛に満ちた眼差しではしゃぎ回る子ども達を眺める。
「この光景も普通になってきたよ。君のおかげだとも」
「大袈裟ですよ。俺は提案しただけですって」
以前からこの『本の日』は定期的に開いていたのだが、どうにも小さい子ども達はそこまで興味を惹かれなかったのか参加者はごく僅かであったらしい。そこでアルマスが一つ案を出したことがあるのだ。
今ではそれが目当てでやってくる子どもも多い。親御さんにも評判の出し物だ。
「でも、お礼は受け取っておきます」
「うむ。そうするがいい。皆、君には感謝している」
満足そうに目を細める司書長と並んで階下を眺めていたアルマス達の視線の先でシスター達がなにやら子ども達を集め始める。大きな棚くらいの大きさがある木の箱が子ども達の前に設置され、待ちかねた子ども達がそわそわしている。
「おや。そろそろ準備が整ったようだ」
「みたいですね。さてさて。今日のお題は見物ですよ」
人形劇。それがアルマスの提案した手段だ。
『本の日』の第1部を読書会とし、第2部がこの人形劇となっている。これをやり始めてからは『本の日』への参加人数が増加したという。
人形劇を行うのは図書館の関係者ではなく、教会の人間だったりする。それは題材が教会に伝わる逸話や伝承をもとにしているからだ。彼女達シスターからしても子ども達に教会の教えを伝えるのにちょうど良い機会なのだ。
「今日のお話は『花の乙女と苺の森』。皆の大好きな『花の乙女』様のお話です」
シスターから題名を聞くと子ども達の目が輝いた。特に女の子達はそれが顕著だ。
そこから始まったのは精霊達と友達になっていく麗しい少女のお話。
可愛らしい人形が木箱の窓から顔を出して、小さな舞台の上でくるくると動く。
苺の森で苺を独り占めする悪い魔女を相手に義憤に駆られた少女が説得を試みるのだ。
中身はもちろん逸話そのままではなくて、子ども向けにかなり優しい世界に改変されている。実際に教会で保管されている本には、もっと生々しくて血塗れた話が綴られている。
しかし、全部が全部作り替えられているわけではなく大事なところは押さえてある。
すなわち魔女は悪い奴、そして花の乙女は優しくて凄い人。それが集約された話だ。
悪い魔女が従える精霊達は森に苺を摘みに来た人を意地悪して追い返すのだが、花が好きな少女が精霊達に花を分け与えることで心を改心させ、逆にその力を借りて魔女を懲らしめる。
最後は改心しなかった魔女だけが崖から落ちて森から悪者がいなくなり、森の苺は皆で仲良く食べられるようになりました。
そんなハッピーエンドの物語がシスター達によって語られてゆく。
魔女が倒されたところで子ども達から喜びの声があがった。周囲の大人達も控えめながら笑顔で拍手をしている。
顔を強張らせているのはリーリヤ一人だけだった。
「お花の女の子、かっこよかった」
「みんなのイチゴとっちゃうなんて、わるいまじょさんね!」
「いやなまじょ、やっつけられてよかった!」
絵本の時間で随分とリーリヤに懐いていた女の子達が揃ってリーリヤに満面の笑みを向ける。
人形劇に興奮する楽しそうな少女達を前にリーリヤは震える唇を開いて答えた。
「そ―――」
アルマスが遠くから見守る中、リーリヤが発した言葉は―――。
「そんなの魔女じゃないって言うのかと思ったよ」
広場の噴水の縁に座り込むリーリヤにアルマスは果実水を渡す。
図書館でのボランティアは無事に終了した。人形劇を楽しんだ子ども達を見送って、会場の後片付けもとっくに終わっている。
今は中央区から北にある商業区に移動して小さめの広場で休んでいるところだ。
果実水を両手で持ったまま、リーリヤはぼうっとしている。
アルマスもリーリヤの横に腰掛ける。
図書館での読書会と人形劇はだいたい昼の鐘が鳴った頃に始まり、午後の1回目の鐘が鳴る頃に終了することが多い。
フルクートでは1日に7回鐘が鳴る。朝が来たことを示す早朝の鐘、午前には2回、うち1回は仕事開始の合図を兼ねているところが多いと聞く。そして、昼の鐘を挟んで、午後にも2回あり、特に2回目は1日の終わりを示す夕方の鐘を兼ねる。最後に夜が更けた頃もう一度鳴る。
今は午後の1回目の鐘が鳴ってからしばらく経っているが、夕暮れを知らせる2回目の鐘まではまだまだ時間がある。
真っ昼間の広場には遊び回る子どもと日向ぼっこをするお年寄りがいるだけだ。ここではゆったりとした時間が流れている。
「・・・私のこと試したの?」
リーリヤからの問いに怒りは感じなかった。だからというわけではないが、アルマスは誤魔化すことをしなかった。
「まぁ、そういう面もあった」
今日の『本の日』でやる人形劇の題目はアルマスも事前に知っていた。教会だっていつも魔女を悪役にした話をするわけではない。それ以外にも説き明かすべき説教などいくらでもある。
それでも今日を選んだのは題目が『魔女』と『花の乙女』の物語だったからだ。
魔女を虚仮にされたリーリヤが感情的になってしまわないかという点はアルマスもずっと気にしていた。こればかりはその時になってみないとわからないものだ。いくら怒りを抑えようとしても堪えきれないときもあるのが人間だ。特に魔女であればなおさら。
「よく耐えたよ、実際」
あのときのリーリヤはぎこちなくはありながらも『そ、そうね。よかったわね』と返事をしていた。無邪気な女の子達を前にして自制することが出来ていた。
「そういう、約束だったし」
果実水を飲み干すまでの間、アルマスとリーリヤは心を休ませるような二人だけの静寂に浸っていた。
市場に行こう、と言い始めたのはアルマスだった。
一息ついてリーリヤの表情もほぐれた頃に思い立ったようにアルマスは告げた。
「市場?なにしに?」
「そりゃ買い物しにでしょ。今日は好きな物食って、好きな物を見て、好きな物を買おう。昨日、今日と頑張った君へのご褒美だ」
「好きな物って言われても。ないわよ、そんなの。それに市場なんてほとんど行ったことないし」
リーリヤはどうにも乗り気でない。気分が乗らないということもあると思うが、彼女のことだ、行ったことがない場所への抵抗感が少なからずあるのだろう。仕事のような必要なことと言われればなんとか重い腰を上げても、特段用事もないとなると余計に気が重くなる。その気持ちを察することくらいアルマスは出来る。
それでもアルマスは引き下がらなかった。
「じゃあ、まずは好きな物を探すことから始めようか。なに、この街のはそこそこ期待できるよ。それに行ってみれば案外楽しめるものさ。それとも、今更怖いとでも言うのかい?」
「は?怖いわけないじゃない。・・・いいわよ。行けば良いんでしょ。別に怖くなんてないし」
あからさまなアルマスの煽りにリーリヤは容易く乗ってくる。
人と接する機会が少なかったリーリヤは、魔女であったという自負も相まって挑発に弱い。というか慣れていない。それがここ数日でわかったリーリヤの一面だ。
余りにも思い通りの反応過ぎてつい口元が緩んだアルマスは、リーリヤが不機嫌になる前に笑いを引っ込めた。
「そっか、そっか。なら行こう」
二人は連れたって、少し進んだ先にあるもっと大きな広場を目指す。そこまで行けばいろんな店が出ているはずだ。
道中の話題は最近のステーン家での様子だった。
「そういえばトビアス達とは上手くやれてる?」
「イレネさんとトビアスさんは良くしてくれる。けど・・・」
「けど?」
リーリヤは眉を寄せてしかめっ面をする。
「あの子はなんなの?話しかけようとしてもあからさまに無視してくるんだけど」
あの子とはステーン一家の最後の一人ヘレナのことだ。
今年で確か13歳になる黒髪に青い瞳をした少女だ。母親とも父親とも違う先祖返りの髪色に最近悩んでいる気難しい年頃真っ最中。それでも血縁上は従兄にあたるアルマスには恥ずかしがりながらも素直な良い子である。
「きっと君が何かしたんじゃない?」
「してないわよっ。・・・多分」
「最近の話じゃなくても君が引き籠もってるときに辛く当たったとかさ」
「それは、ある、かも、しれないけど。え?それが原因なの?どーしよ、何言ったか覚えてない」
気分が沈んで何もかもどうでもよかった頃の話じゃ、誰に何を言ってしまったかを覚えていなくても仕方がない。
あの頃のリーリヤは荒れ狂う感情の波の中で自分の心を守るので必死だったはずだからだ。
「もしかしたら全然違う可能性もあるしね。時間をかけて打ち解けていくのが一番だよ、きっと。そのためには会話をする意思を示すのが重要だと思うよ。そうすればいつか彼女も心を開いてくれるかもしれないしね」
「そう、ね。そうよね。帰ったらもう一回話しかけてみる」
「うん。その意気だ。それはそれとして、ほら、着いたよ」
さっきまでいた小さな広場よりも何倍も大きいこの場所には様々な露店が立ち並んでいる。テントが繋がるように幾つも並んでおり、広場を複雑な迷路に変えてしまっている。野菜、果物、肉に魚といった生鮮食品の区画もあれば、服や小物などの店が集まっている区画もある。
「なに?今日はお祭りでもやってるの?」
今はまだ昼間と言うこともあり、夕食前の買い物に勤しむ主婦や暇な時間を持てあます老人達が気ままに店を覗いているのが目立つ。それでも市場と言うだけあり、結構な人が行き交っている。その上、広場の中央付近ではおひねり目当てで大道芸人やライアー片手に歌を披露する吟遊詩人もいる。夜の酒場に出向くまでの小遣い稼ぎだろう。
確かに初めて田舎の村から出て来たようなお上りさんであればリーリヤと同じ感想を抱きそうだ。
「いやいや、市場じゃこれが普通だよ。お祭りのときはもっと比較にならないくらい賑やかになる。人もお店の数も倍以上さ」
「そ、そんなに・・・?私には無理そうかも」
想像の中の光景にリーリヤは気後れしている。
多分、実際のお祭りともなればリーリヤの想像を遙かに越えるだろう。この街の祭典には他の街や村からも大勢の人が観光に訪れる。大通りにひしめく人だかりを見たリーリヤが卒倒する姿が目に浮かぶ。
それと比べれば人慣れしていないリーリヤの練習としては今くらいの人混みがちょうど良いのかもしれない。
既に帰りたそうにしているリーリヤを引っ張って、アルマスは目的の屋台を目指す。
まずは小腹を満たすための定番から。どこの街でも売っているこの国の名物は、発酵させた小麦の生地を丸めて油で揚げてから砂糖をまぶしたもの。揚げパンの一種でふわふわもちもちで甘くて美味しい。市場を歩くときの必需品だ。
「わっ。おいしい」
屋台で買った揚げたてに早速かぶり付いたリーリヤが目を丸くする。
素朴な甘さと柔らかい触感にあっという間に一つ食べてしまった。
「おかわりはいかがかな?」
「・・・いる」
アルマスがにやりと笑いながら同じ物をもう1つ差し出すと、リーリヤはしばしの葛藤の末に受け取った。あれだけ乗り気じゃなかったのに夢中で食べてしまったことに抵抗感があったようだ。しかしそれも甘い誘惑の前では長く保たなかったらしい。
アルマスとリーリヤは揚げパン片手にふらふらと店を冷やかしていく。
適当に立ち寄った野菜の店では言わずとしれたジャガイモがごろごろと転がっており、その横に瑞々しい葉物が並ぶ。
「今の旬はキャベツとか、フェンネルとかだね。特にこの時期のキャベツは柔らかさと甘みがあっていいよ」
「へー。あんまり見たことないわね」
「マジで?キャベツを見たことがない?君が今までどんな物を食べてたか、ホントに想像がつかないんだけど」
「別に、普通のよ。森に生えてた草とかキノコとか。ここにはないみたいだけど」
「草って、君・・・」
次に訪れたのは魚屋だ。魚特有の匂いが鼻を突く。クーケルゥ湖で水揚げされたばかりの新鮮な魚は種類も豊富だ。
「近くに湖があるよね。ここの魚はほとんどそこから捕れたやつ。興味があれば今度お勧めのお店を紹介するよ。魚料理に異様に詳しい奴がいてさ。いや、あれは魚に興味があるというより別の物にご執心なんだけど」
ふーん、と生返事をしていたリーリヤが小山になっている小魚を指差した。
「あっ、これ見たことある。昨日の夕食にあったわね。揚げたものに白いクリームがかかってた」
「この街の代表的な家庭料理だね。それと、あと一、ニか月もすればザリガニの時期が来る。市場いっぱいに赤いザリガニが並ぶんだ。あの光景は結構な迫力があるね」
「ざりがに?」
「ああ。そのままだと泥臭いけど、きちんと泥抜きして塩ゆですれば濃厚で美味しいんだ。待ち遠しいよ」
その後は弾き語りをしている吟遊詩人のもとへ訪れた。さっきよりも人だかりが増えている。どうやら評判の吟遊詩人が気紛れに広場に顔を出してきたらしい。
当然ながら椅子や席なんてないので、アルマスとリーリヤは端っこの方で花壇の縁に腰掛けて耳を澄ませて聞いていた。
「綺麗な声ね」
リーリヤが感心したように言う。
遠目にも美しい金髪の吟遊詩人は臨場感に溢れた声色で周囲を魅了している。今は込み上げる悲しみと愛情に染まった曲を見事に演奏していた。
「悲運で別れる恋人の歌だ。どうしようもない運命に逆らいながらも、結局は別離を受け入れざるを得なかった若い男女の悲劇の話。こうして聞くと思わされるものがあるよね」
「私にはわからない。わからないけど、なんだかすごく悲しい気分になるわね」
そのまま2、3曲ほど聞いたところで今日の演奏は終いになった。
アルマスとリーリヤは周りの人と同様に緩く拍手を送る。
そして、アルマスは奏者の前に置かれた帽子に銀貨を入れた。楽しませてくれたせめてもの謝礼だ。他の人達も少なからず銅貨や大銅貨を投げ入れている。
波打つ金髪を背に流した吟遊詩人のお姉さんがアルマスにウィンクをしてくる。多分、銀貨を入れたからだろう。アルマスはこういうときには少しだけ奮発するように意識している。後々、回り回って役に立つときがあるからだ。
「さて。今度は小物を見に行こうか」
古着や革のポーチなどの小物を扱っている区画に向かう。
首飾りや腕輪などの装飾品は店ごとで些細ながらも意匠に違いがある。ちょっと見るだけですぐ別の店を覗くことを繰り返していたが、これだけ店の数が多ければ案外飽きはこないものだった。
リーリヤは饒舌ではなかったが、彼女との気の置けない会話はどこか懐かしさを感じて楽しかった。リーリヤの横顔を覗いてみると、ほんのりと口元が緩んでいるのがわかる。彼女も相応に楽しんでいるのであれば、市場に誘ったのも悪くない選択であった。
ふとアルマスは思う。前にもこんなことがあった気がする。少し悩んでから思い出す。あれは幼い頃にリーリヤと過ごした思い出の一幕だ。
「覚えているかい?昔もこうやって二人で市場を回ったよね」
「そうね。私が誘ったのよね」
「そんな可愛いもんじゃなかったけどね。君があまりにもごねるもんだから俺が折れたんだよ。ちょうど祭りが終わった直後で、お店もあんまりなくてさ。それでもなんだかんだで楽しんでいたよ」
思い浮かぶのは子ども時代の小さな冒険。アルマスとリーリヤは二人揃って屋敷を抜け出し、初めてお付きもなしに子どもだけで街を散策したのだ。
フルクートの街ではない、アルマスの生まれ故郷での話だ。
「あの頃はなんでも新鮮に感じたわ。全部が知らない世界だった」
「今だってそう変わらないだろ?」
「ふふっ。そうかも。・・・でも、子どものときと比べて見える物が変わった気がする。あの頃は純粋だった。今よりもっとずっと―――」
遠い目をするリーリヤの視線がある一点で止まる。それはなんてことのない一つの装飾品の露店だ。興味のある物でも見つけたのだろうか。いろいろ市場は見て回っているけれども、まだ彼女にはご褒美の贈り物をしていなかった。
そういえばあのときにもアルマスはリーリヤに贈り物をしていた。あれは確か何だっただろうか。
思い出せそうで思い出せない記憶をもどかしく思いつつ、アルマスはリーリヤに声をかける。
「どうしたんだい?何か気になる物でもあった?」
「・・・っ。いえ、何でもないわ。向こうに行きましょ」
「いやいや、そう急がなくてもいいよ。まだ夕刻までには時間があるしね。ほら、寄っていこう」
「あっ。ちょっとっ」
リーリヤの制止を遠慮と受け取ったアルマスは彼女が止めるのを聞かずにその露店を物色する。
そこには布や糸を編んで作られた腕輪や髪飾りなどの装飾品があった。大人の女性が身に付けるよりも女の子が好みそうな簡素ながらも可愛らしさを押し出した意匠だ。布製というだけあり、子どもでも容易に手に入りそうな値段でもある。
「あれ?」
アルマスの意識が向いたのは髪留め用の色とりどりのリボンだ。
「リボン、か」
アルマスの呟きにリーリヤがびくりと震える。
アルマスは明るい黄緑色のリボンを手に取る。実物を見たことで古い記憶を掘り出すことができた。昔、アルマスがリーリヤに贈ったのはこれと同じ緑色のリボンだった。ただし似てはいるが色はもっと暗いものだった気がする。
「なあ、確か昔に―――」
懐かしい思い出話を続けるつもりでアルマスがリーリヤに声をかけたときだった。
「知らないっ!」
リーリヤが急に大声で叫ぶ。
その顔にはなぜか悲壮さが浮かんでいた。リーリヤの突然の変化にアルマスの理解が追いつかない。今の今まで彼女はアルマスと穏やかに買い物を楽しんでいたはずなのに。
呆気にとられるアルマスを見て、リーリヤは自身の過ちに気付いたかのように表情を歪めた。そして、アルマスに事情を問われる前にリーリヤは走り出してしまう。
「あっ、おい、君!」
アルマスの呼び止める声がリーリヤの足を止めることはなかった。彼女はあっという間に人混みの中に紛れてしまった。
「あちゃあ。なんかまずったのか、俺」
残されたアルマスは困ったように頭をかく。
ただ一つわかっているのは、リーリヤの瞳には涙が浮かんでいた。