僕の鳥葬
鳥葬という文化を知ったのはいつだっただろう。
何かの映像で、見た。女の子が鳥の集団に啄まれるのだ。
そのときの女の子は生きていたような気がする。でも、葬儀なのになぜ?という考えが、ずっと頭の上に、雲みたいに漂っては消えていた。
鳥葬……標高の高い地域で、肉が腐らないために、地に還らぬ体を空に還すための手立て。
床のでこぼこした図書室で、そんな本を読んだ。表紙は丁寧にパウチされていてつるつるだ。ぼくは、飛んできた蚊を自分の貸し出し記録を書くカードのような紙で叩き、押しつぶしたときから…誰のとも知れない赤い血と黒いぐじゃぐじゃのアトが残った日から、カードを使って本を借りるのが少し嫌いだった。
骨……博物館で見た。大きな恐竜の芯の部分だけ。黒や茶色のひび割れた、スカスカの巨体は恐ろしさを失って、ぼくたちの先生のような顔をして嘘の岩場の上に静かに座っていた。
あれはぼくの中にもある。ぼくはジャングルジムに登って、落ちて、もう一回落ちて、右腕の骨を折ったことがある。
痛いけど、本当に痛いところは見えないのだ。
それを映し出すレントゲンは、しくみが分からず怖くて、父にしがみつきながら腕を技士に差し出したのだった。ぼくの骨は白い影となり、ひびは黒い線で示された。
ぼくは恐竜の骨の美しい写真を見た。
ただ、風景として映された写真だ。カフェの一角の壁に印刷されて、その店の空気と一体化していた。それはきっと、ウェブで売られている写真だ。
これも、実物がこの世界のどこかにあるのだ。
やたらと綺麗な建物の内装が背景に写っている。むかし行った南の貧しい国の建物に似ていた。
きっとこの骨が展示してある建物の外には椰子の木や赤やピンクの花が生えていて、すぐ近くに海があるのだろう。そう思った。
骨……からだの中心にあって、普段は隠されているもの。
博物館の恐竜みたいなのは、自分の中心にあるものを曝け出した状態である。
だけど骨なんて普段は外に出ていないからそれが本当の中身だなんて言えるんだろうか。
それが本当の自分らしさと言えるのだろうか。
本当に自分らしさだと思っているものを外に出したとき、それは変わらず自分らしさでありつづけるのであろうか
鳥葬……生のまま食べられた骨は、白じゃなくて赤い。