国立いのう保育園は今日も平和だ(三十と一夜の短篇第65回)
ふっくりとやわらかい五本の指がめいっぱいに開かれる。
「そはばんぶつのもとなり。そはいのちのもとなり」
たどたどしい詠唱に呼び起こされてちいさな手のひらに光が生まれる。色のない、純粋な光だ。
「そはひかりをうみてねつをはらみ、いきとしいけるものを」
さらなる詠唱が光に色を灯したとき。
「はーい、園庭では魔法は使いませんよー」
ことばと共にかけられた水が、赤色を帯びた光をじゅうっと消し去った。
「あー!」
こどもの非難の声を尻目に、佐藤は手にしたじょうろでこどもの手のひら周辺の空中に水をかけていく。
魔法の残渣は見当たらないが、一応だ。
じょうろの中身がすっかりなくなってから、佐藤はその場にしゃがんだ。
目の前には、ふくれっ面でそっぽを向く園児がひとり。
「イグニスくん、どうして魔法を使おうとしたんです? 訓練場以外では使わないおやくそくでしょう」
「だってえ!」
悪いことをしたとわかってはいるらしい。涙目でくちびるをかみしめて、イグニスがきっと顔をあげた。
「だって、カグツチくんがぼくの火なんかちっとも熱くないってバカにするから……」
「へーん、だってじょうろの水にだって負けてるじゃん」
そう言って小憎たらしい顔で笑ってみせるのは、イグニスと同じおひさまのワッペンを胸につけたカグツチだ。
(そりゃあカグツチくんは火の神さまの生まれ変わりですからねー。地獄の業火でもない限り、火傷なんてしないと思いますけど)
思っても佐藤はくちには出さないし、表情にも出さない。
なぜならば、園内に地獄の業火を操れる幼児がいるからだ。
その子の耳に聞こえたならば、高確率で園庭が地獄の炎に包まれるだろう。悪魔の性質を受け継いだ子は、総じて混乱を招くことを喜んでやると、園長に聞かされていた。
(そんなやばそうな火、じょうろじゃ消せないでしょうしねー)
などと思いながらも、佐藤は無表情のまま手を叩いた。
「はいはい。イグニスくん、魔法を使いたいなら結界の張ってあるお部屋に行ってくださいねー。ここはきみの前世とは違うルールがある国なんですから。それから、カグツチくんはすぐにひとをあおりません。火種を見れば大きくしたくなるのは神性なのでしょうけど、がまんできるようにならないと現代日本では困りますよ」
「「……はあい」」
ものすごく不服そうにしながらも、ふたりは返事をして園舎に向かう。
並んだ背丈はすこしだけイグニスのほうが大きく見える。いまに、そのことでまたけんかになるかもしれない。
「申し送りに書いておくかな」
つぶやいて、佐藤は園庭を見て回る。
砂場でせっせと砂のピラミッドを築いているのはおひさま組のセクメトだ。太陽神の神性を帯びているらしいが、怒らせなければおとなしい良い子である。
佐藤はセクメトの周囲の砂に棒で線を引いて「ここから外はみんなの砂場だからねー。今日のお外時間、セクメトちゃんは線のなかの領土内の平和を守ってねー」と伝えた。
こっくり頷く彼女を見届けて、佐藤は次の園児の元へ歩く。
「……うーん、誰かいるかと思ったけど、気のせいでしたねー」
園庭のすみにある大きなシイノキのそばに立った佐藤は、わざとらしくつぶやいてから踵をかえす。
棒読みだが、日ごろから淡々とした喋りをするため違和感はない。
「いったか」
「そのようで」
佐藤の背中に聞こえる幼いひそひそ声。
「ふっ、われらのぎたいもみやぶれぬとは、さとうせんせいもまだまだだな」
「しかたのないことです。なにせわれらはでんせつのしのび」
ふふ、ふははは、と続いた笑い声が聞こえてくるのは木のしたに集められた落ち葉のなかだ。
(コタロウくんとサイゾウくんは忍者ごっこが好きですねー。いっしょにあそべるお友だちがいてなにより)
地上での隠遁ごっこならば危険はないだろう。ほしぐみのふたりは入園当初こそ「にんじゅつあらそいじゃー!」と衝突ばかりしていたけれど、へろへろの手裏剣の飛距離を競い、ぽてぽてと狐走りの競争をするうちにお互いのことをライバルだと認識したようで、いまでは互いに技を磨くようになった。良い傾向だ。
(近いうちに、ちゃんとした忍術を教えられる講師のかたをお呼びしないと)
あれこれと算段をつけながら佐藤はさらに園庭をまわっていく。
土魔法でえぐられた地面を埋め戻し、ウロコがあるから魚だろとからかわれて泣いていた竜人の子をなだめて上空に発生しかけていた雷雲が消え去るのを見届け、ちょっと子どもの顔が見たくなったからと地獄の門を開ける保護者(悪魔)に「お迎えの時間はまだですよ」と追い返す。
ひととおり見回るころには、昼食の時間が近づいていた。
「はーい、みんなー。そろそろお部屋に戻ってごはんの時間ですよー。お片付けして手を洗って、ごはんの準備をしてくださいねー。そこ、獣化して走りませーん」
異世界から転生していようと、神の魂のかけらを受け継いでいようと幼児は幼児だ。
佐藤の声でわっと駆け出した園児たちは、あっと言う間に園舎に向かっていく。落ち葉まみれのコタロウとサイゾウが園服ではなく忍び装束なのは、あとで保護者に要注意だ。ちびっこ忍者がかわいいのはわかるが、園児が自力で出せない場所にしまっておいてもらわなければ。
(あっちは園舎内にいる先生に任せて、と)
一気に静まり返った園庭を見回るのもまた、今日の佐藤の担当だ。
ふたたび大穴を開けられた地面を埋め戻し、片付け忘れられた聖剣も拾っておく。美しい三角錐を描く砂のピラミッドは残しておいても無害だろうと、そのままにしておいた。境界に引いた線だけ消しておく。
「佐藤せんせ、おつかれさまです」
仕事にはげむ佐藤の背に、おっとりとした声がなげかけられた。
振り向いた先に、ひとりの少女が立っている。
色が白く、ひどく繊細な美しさを持つ少女だ。見た目だけであれば十五、六。自身よりもずいぶんと若い彼女を相手に、佐藤は丁寧にお辞儀をした。
「園長先生。おつかれさまです」
園長、と呼ばれて少女はころころと笑う。そしてうっすらと開かれた瞳は、年齢以上の落ち着きを宿して佐藤をうつす。
「佐藤せんせが赴任してらしてから、そろそろ半年。園には慣れました?」
間違っても小娘、などとは思えない圧力を感じさせる瞳に射抜かれてなお、佐藤は顔色も変えない。
「はい。先輩の先生がたから魔法への対処や神性のある園児の扱いなど細かく教えていただいて、どうにかやっています」
「ふふ」
そつのない答えに園長が笑う。
「佐藤せんせが来てくれて、とっても助かっておりますよ。うちはちょっと特殊な子ばかりだから、採用してもすぐやめてしまわれる先生が多くて。佐藤せんせは何事にも動じないし、声を荒らげることも無いですもの。園児たちもいたずらに興奮することなく園生活を送れています」
園長のことばに佐藤はほんのりと頬に熱がのぼるのを感じた。
とはいえ、外見的な変化はないに等しい。
このとおり、表情筋が死んでいると言われて生きて来た佐藤が保育士を目指すと言ったとき、周囲は反対した。
いわく「そんな死んだ魚の眼で見られたら子どもが泣く」だの「その平板な声で正論を説かれたら大人でもビビる」だの。なかには「保育士免許の前に表情筋を手に入れて来るべきだ」という者もいた。
佐藤とて、それらに異を唱えられるほど自分を知らないわけではない。
ありったけのアルバムをめくって自身の写真を見たところで変わるのは年齢だけで、表情は赤ん坊のころから変化していない。鏡の前で笑う練習をしてみたこともあったが、笑ったつもりでのぞいた鏡のなかでは唇を真一文字にした自分の顔があっただけ。
そして笑顔ひとつ作れない佐藤は、保育士免許を獲得しながらもあらゆる園での採用試験に落ちた。
大学を出た後は部品工場で金属部品相手に日々をすごし、採用試験があると聞いては西へ行って落とされ。臨時採用があると情報をつかんでは東に向かいお断りのメールに肩を落とし。
いっそ工場勤務で金を貯めて自分で園を作るしかないのでは、と悟りを開くような心地になったころ、この少女にしか見えない園長に肩を叩かれたのだ。
「この無表情が役に立つ場所があって、良かったです」
まるで喜んでいるようには見えない表情で言う佐藤に、園長はにこにこと笑う。
「完全な一般人の佐藤せんせがいることで、子どもたちも社会に馴染みやすくなるはずですから。園にとっても佐藤せんせはありがたい存在なんですよ。相思相愛ですね」
「そう言っていただけてなによりです」
美少女のとびっきりの笑顔にも、佐藤はまばたきをひとつ返すだけ。これまでの人生では眉をひそめられたその顔を見て、園長はうんうん、とうれしげだ。
「この園の先生はみんな、ここの卒業生だからちょっぴり常識が、ねえ?」
そうですね、とは言わずに佐藤は沈黙を貫いた。
たしかに先日も、異世界からの転生者で元四天王という肩書の保育士が、来年入園予定の見学者としてやってきた幼児に「魔王さま!」とひざまずいて騒動になっていた。
幼児のきりりとした顔から発される「ひさしいな」はたいへんにかわいかった。舌足らずで「ひしゃしいにゃ」と聞こえたことは誰も指摘しなかった。
「勤続一年以降、ご希望なら寿命を延ばすアイテムの支給もありますから。これからも末永くよろしくお願いしますね!」
「……はい、お願いします。八百園長」
うふふ、と可憐に笑って立ち去る園長が何歳なのか、佐藤は知らない。聞く気もない。園児の保護者が彼女のことを「ヤオビクニ」と呼ぶのも聞いていないし、そんな名前の女性が出てくる伝説も知らないことにしている。
寿命を延ばすアイテムはもしや人魚の肉だったり……? と疑っていることも、今はまだ誰にも話していない。
「あー! ぼくのせいけんがない! まおうのてしため、ぬすんだな!」
ふと、園舎のなかから大きな声が聞こえてきた。あの声は元異世界召喚された勇者の転生者、ワタルだろう。
「ぬすむだと? われがそのようなちんけなまねをするものか!」
応える不遜な声は魔王の腹心だったという過去を持つ園児のもの。ちなみに保育士がひざまずいた元魔王とはまた違う魔王だ。異世界は魔王がたくさんいて大変である。
「聖剣、持っていかないと」
今にかんしゃくを起こした元勇者ワタルと魔王の元腹心のけんかが起こるだろう。園舎内には防御壁を張れる先生もいるとはいえ、無駄に園舎を破壊されるわけにはいかない。
「ワタルくーん、聖剣なら園庭に忘れてましたよー」
無表情のまま、大声をあげて佐藤は園舎を駆け込んだ。
(聖剣を忘れないよう注意したら、食事の介助に回らなければ)
そう考えている間にも、子どもたちが集まる部屋ではこぶりな爆発音が響いている。
幼い声が張り切って「たいへんですわ、けがにんですわ! あんしんなさって、このせいじょリリアンヌがなおしてさしあげますわー!」とうれしそうに言うのを聞いて佐藤は聖剣の柄と鞘をにぎり、力を込めた。
『資格無き者に我は抜けぬ』
不思議な声が佐藤の頭に響いて、その手のなかから聖剣が飛ぶ。向かう先は幼児の騒ぎ声が聞こえる部屋のほう。
あの聖剣は、持ち主以外が抜こうとすると持ち主の元へ飛ぶようになっているのだ。
「自動追尾装置が付いてるなら、持ち主から離れないようにしてくれてもいいと思いますけど」
やれやれ、と佐藤は業務に戻る。園児はみんなパワフルで、どこの部屋もいつでも人手は足りていない。
まだまだ経験の浅い自分でもやれる仕事はいくらでもある。
八百年先まで生きるかどうかなど、先の長い話を考えている暇はない。
国立異能保育園は、今日も平和だ。