第七話 世界の中
新緑の香を乗せた風が心地よく部屋に吹く五月。 栗宮椿は和座椅子の上で正座をし、読んでいた本を腿に置いたまま、ぼうっと外の世界を眺めていた。
縦七十センチ、横九十センチの小さい窓から見える景色が、彼の知る「外の世界」の全てだ。
二階まで育った木に茂る葉の鮮緑。庭に生えるムギナデシコの薄い紅紫。遠方に見える屋根の雀色。青白磁の空を、ゆっくりと雲が流れていく。
額縁で彩られた絵画のような世界が、硝子を一枚隔てて広がっている。
不意に、外から若い男女の声が漏れ聞こえた。塀と木々に阻まれ姿は見えないが、暫く二人で話したり、会話をしている人数が変わったりし、数分。家のインターホンが鳴った。
どうやら二人はこの家に用があったらしい。
椿は玄関に向かおうと部屋を出て、階段から一階へと降りる。と、既にツルがインターホンに繋がる受話器を取り、対応に当たっていた。ツルは椿が側にいることに気がつかない様子で、
「わざわざ出向いていただいたのに申し訳ありませんが、椿は外出中です。ご挨拶でしたら次の定例会の際にしてください」
素っ気なく言うと、やや乱暴に受話器を置いた。
「オレに何か用でしたか?」
椿の声に、ツルは肩を揺らし動揺を見せた。そしてひとつ、息を吐き出すと、
「獅峯院の娘が挨拶に来ただけですよ」
「――え、じゃあ」
「次の定例会で十分でしょう。それよりも勉強は終わったのですか?午後は道場で剣術のお稽古です」
言葉を遮り、畳み掛けるように淡々と続ける。椿は勢いと圧力に押され、そっと言葉を飲み込んだ。同時にほんの少しだけ、視線を足下に落とす。
「勉強の方は、部屋に戻ったら再開します」
「そうですか。精進なさい」
そう言うと、ツルは自室へと引き返していった。廊下に取り残された椿は、小さく「分かってます」と溜息混じりに呟く。
――いつも、いつもこうだ。
家に存在するもの全てにおいて主導権を握り、個々の私情や無駄の一切を排斥する。ツルはいつだって完璧であり、自他関わらずそれを求めるのだ。
故に、彼女はまだ椿を栗宮家の当主として完全に認めていない。
十八歳などたかが知れている。大半は学校で習う知識が備わっている程度で、仮にそれ以上の知識があっても経験が足りない。何においても圧倒的に未完成だ。
幼少期より英才教育を受けてきた椿でさえ、例外ではない。算盤、ピアノ、茶道、格闘技などできる習い事は大抵経験した。学習塾にも通った。それでも知らないことは山ほどある。
例えば、放課後友人と遊ぶというのはどんなものだろうか。部活動は習い事とは違うのだろうか。修学旅行は、準備と当日、どっちの方が楽しいのだろうか。
きっとそんな疑問を投げかければ、多くの人は「そんなこと」といって笑うだろう。「そんなこと」なのに知らないのだ。世間の言う恵まれた環境に居たとしても。
「今日も婆ちゃんと目、合わなかったな」
祖母と最後に目が合ったのは、いつだろうか。次に目を合わせられるのは、いつだろうか。祖母はどんな目をしていただろうか。
――そんなことも知らない。
廊下の先、少し長くなった前髪の隙間から、固く閉じた玄関が見える。
何故だろう。その戸の外側は、自分の居場所じゃないような気がした。
踵を返し玄関に背を向けると、自室へと引き返す。
この何気ない行為でさえ、外の世界から離れてしまっているような――そんな錯覚をした。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「やってしまったぁ」
栗宮家で門前払いされたつぐみと圭は、近くの公園のブランコに腰を下ろしていた。移動してからというもの、つぐみは額に右手を当て、猫背のまま蹲りぶつぶつと一人反省会を行っている最中だ。
圭は暇を持て余し、ブランコを軽く漕いで時間を潰していた。情緒不安定な少女を慰めるにも、適切な言葉が見つからない。ただ点々と空に浮かぶ雲の数を数えるくらいしかすることがない。
「やっぱり、椿の名前を出したのがマズかったのかな?」
「そーだねー」
つぐみの問いに、気怠げに応答する。
実際、つぐみの言うとおりだった。ツルの前で椿の名を出しても、かなりの高確率で会わせてもらえない。ツルは「出かけている」と言ったが、本当は家に居たのだろう。
ここは挨拶ついでに、以前途中退室した定例会の結末でも引き下げてまず家に上がる、というのが最初のステップとして適切だろう。その上で椿と会えるまでごねれば勝ちだ――まあ、会えるまでツルの鬼のような形相と、雷撃のような怒号に耐え続けなければならないだろうが。
想像するだけで身の毛がよだつ。
「しかし、本当にどうしよう。ねえ、どうしたら良いと思う?」
「知らねえよ!なんでそんなに椿に会いてぇんだよ!?目的は!?」
何がしたいのかをさっぱり言わない彼女に、心の底からできるアドバイスなどない。精々そこら辺に転がっていそうなことしか言えない。
「も、目的はぁ!目的、はぁ……」
またか。
続く言葉を言いかけては飲み込み、代わりに小さい唸り声を出す。挙動や視線を頻りに動かしている様子から、焦燥や迷いが手に取るように伝わってくる。
どうしてこうも、人に相談する上で一番重要な部分を隠したがるのか。
「めぇんどくせぇー」
「そうッだあ!」
「――――!!?」
つぐみがいきなり大声で叫び、ブランコから立ち上がった。
圭は驚愕のあまり、鎖を掴んでいた手を離してしまった。そのまま傾いたブランコからずり落ち、背中から地面に叩きつけられる。鈍痛が走り、「っでぇ!」という汚い絶叫が響いた。
「圭、明日の放課後は光竺高に来て!できるだけダッシュで、だ!」
「はあ!?何勝手に――」
つぐみは背中をさする圭など眼中に収まっていないようで、「まあ聞いて驚きなさい」と言うが如く、得意げな目をしていた。つい数秒前まで喚いていた面影は、すでに何処か遠くへと吹き飛んでいったらしい。
「家がダメなら、学校で話せば良いんだ!」
そりゃあそうだろうよ。ドヤ顔で語るような革命的な案ではない。むしろ気付かなかった方が驚きだ。
まあ、どうして椿の高校を知っているのかという疑問はあるが、面倒臭いので突っ込まないでおくことにした。家に押しかけるよりも、余程合理的である。
圭は背に付いた土埃を払い落としながら、
「俺は別に要らなくね?なんで行かなきゃならんの?」
「必要だ!一人だと、また今日みたいに失敗するかもしれないだろう」
なるほど、とても納得のいく理由だ。だが、それも自信満々に言って良い台詞ではない。
昨日と同様に断ろうかという考えが過ぎったが、断っても今日のように押しかけてくるだろう。何より、断るための議論をするより、昼飯が食べられない方が面倒臭い。
「あぁ、もう。仕方ねぇな」
圭は渋々だが、つぐみの提案を聞き入れることにした。
明日もまた厄日になりそうだ。でもまぁ――、
「ありがとう」
笑っている少女を見ると、ほんの少しだけ面倒臭さも和らぐような――そんな錯覚をした。