第一話 彼岸原
彼岸原町は八方を八つの山々で囲まれた閉鎖的な盆地だ。
一つの町に八つの駅を持つ環状線が通り、八つに分かれた地域を繋いでいる。電車は一時間に一本あるかどうか。学校は二クラス編成の小中高校が二校ずつ。大学は一校。高校卒業までに殆どの人間が家業の農家を継いだり、地元の商社に勤めたりする。
町の外に出て行く者は珍しく、五年に一人いるかどうかといった具合だ。
田畑の広がる地域もあれば最大六階建てのビル群が連なる地域もある。
嗣原圭は、この土地に生まれ間もなく十七年になる。
彼が育ったのは、八つの地区の中でも最もど田舎で、人よりも野良猫の方が多く、田畑ばかりが広がる辺鄙な場所――境坂と呼ばれる地区だ。
自宅から最寄りの駅まで自転車で十分。電車で揺られ高校まで一時間。
もちろんコンビニなんて一軒もない。
ついでに同い年の子どももいない。
不満なら際限なく口から飛び出る。
「つまんねぇな」
それが圭の口癖だ。
この町は時間が停滞しているようにさえ錯覚する。
――特に興味のない授業中なら尚更だ。
授業が始まってから体感にして一時間は経っている気がするが、実際は十分も経っていない。午後一番の授業ということもあって酷い眠気と戦うので精一杯だ。
「『逢ふことの絶えてしなくはなかなかに人をも身をも恨みざらまし』。この句は小倉百人一首のなかの一首なので、聞き覚えのある人もいるかもしれません」
教科書を読み上げる教師の男声だけが、心地よく室内に響く。
圭は国語――特に古典が大の苦手だ。「作者の考えなんて解るわけがない」などと屁理屈を言うつもりはないが、どうにも自分にない考えを想像することが難しい。そもそも本当に興味が湧かない。
強いて言うなら数学が好きだ。数値が全てで、そこには個人差が介入しにくい。
「意味は――」
『♪♪……!』
解説を続けようとした声を遮り、静まった教室に着信音が鳴り渡った。
「誰だ?電源を切っていないのは。没収だぞ」
授業を止められた教師は、不満そうな表情で、教室をぐるりと見渡した。校内では電源を切って鞄に仕舞う校則となっており、使用しているところを教師に見つかろうものならば三日間没収されてしまう。生徒は少々ざわつき、自分のスマートフォンを各々確認し始めた。
圭も鞄に入っているスマートフォンを確認する。ファスナーを開け覗き込むと、すぐに光を発する端末が目に付いた。
――ああ、またか。
圭は深い溜息を一つ吐き、一度着信を切ると、
「すみません。俺です」
おずおずと肩の高さで挙手をした。
瞬間、生徒たちのざわつきが止まり、教室中の視線が自分に注がれるのが見なくても解る。居心地の悪さを感じ、圭は背中を丸めた。
「つ、嗣原か」
教師は動揺し、くぐもった声を出した。
「すみません。多分この後早退します」
「あ、ああ。いつも大変だな。気をつけて帰るんだぞ」
先程までの不快な様子は息を潜め、すっかり腰の退けた物言いになっている。眉は下がり、ぎこちない笑顔を作りながら優しさを装う。その光景にいたたまれなくなり、「すみません」と小さく返すと、素早く身支度をし席を立った。
その様子に表彰が和らぐ教師に対し、依然クラスメートの冷たい注目は、一人違う動きをする圭に集まっている。
「嗣原だけ、いっつもズルいなあ……」
誰かがこっそりと呟く声が、圭の耳に届いた。
まだ五月だというのに欠席や早退は六度目ともなれば嫌でも目立つ。昨年は一月休んだこともあった。それなのに普通に進級できているのだから、嫌味の一つや二つ言われるだろう。
もう慣れたことだ。
圭は視線を振り払うように、そそくさと教室を後にした。
早歩きで昇降口を目指しながら着信履歴から電話をかけ直す。
三度目のコールで、
『はーい、もしもし。圭?』
と間の抜けた声が電話口から聞こえた。
「はい、嗣原です。さっきは電話切っちゃってすみません。幸那さん、どうしました?」
『いやいや、こっちこそ学校中にごめんね。一番近いの圭でさ』
「全然大丈夫っす。どこら辺ですか?」
電話をしながら靴を履き替え昇降口を出る。
『六丁目の方。もう門は閉じてて、出てきたのは一匹だけだって』
「了解。ありがとうございます」
『圭くんもありがとね。じゃあまた後で』
短く挨拶を交わすと、通話を切りスマートフォンを鞄に放り込み、急いで校門を出る。
高校から六丁目までは道なりに約三分かかる。
――よし、ショートカットしよう。
圭は慣れた様子で校門の対岸にある家屋の塀に飛び乗った。その距離十五メートル。そのまま屋根に飛び移った。そして、圭は人間離れした動きで家々や電柱を足場に移動した。
嗣原圭は並の人間ではない――否、彼は人間そのものではない。容姿は寸分違わないが、身体能力は非常に高く、常人の十倍の運動量でも息切れを殆どしない。視力や回復能力など、あらゆる身体機能が異常なほど発達している。
故に、彼にはある「役目」が背負わされている。
欠席や早退への対応が甘いのも、「役目」があるからだ。
家々家の屋を渡り移動すること一分。目的地に近づいた圭は、一帯で最も高い建物の上で立ち止まった。恐らく三階建ての会社のビルだろう。
屋根の上から探るように辺りを見渡す。
そして間もなく、彼の眼はすぐ下方に一つの影を捉えた。大きさは百四十センチ程度で、人のような外形をしている。しかし肌は赤銅色で、猛禽類のような爪を持っている。目尻はこめかみに向けて吊り上がり、猫を彷彿とさせる縦長の瞳孔を持った金色の瞳が輝いている。頭髪はなく、口には肉食獣のように鋭い牙が上顎に二本生えている。手に一メートル程の棍棒を携え、ボロボロの布切れを身にまとっているのが確認できる。
見るからに人間ではない。
その生物の呼称は――鬼。
古来より人々に恐れられてきた怪異。時に人を喰らい、時に災いを運ぶとされてきた化け物だ。
伝承に登場する鬼と異なり角はないが、この土地では「鬼」と呼ばれている。
彼らは基本的に地獄にいるが、時々地獄の門が現世に現れ、鬼が出てきてしまう。そして人を喰らう。正真正銘の鬼。普通の人間では相手にならず殺されてしまう。
圭の役目は迷い込んできた鬼を地獄に還し、人間を守ることだ。
鞄を足元に置き、学ランを脱ぐ。動きやすいように、ワイシャツの袖口をまくった。
そして徐に前方に手を伸ばすと、掌から一振りの太刀が出現した。鈍色に光る刀身には、美しい波紋が刻まれている。柄は黒色と茜色を基調としている。
目には目を歯には歯を――鬼には鬼を。
圭は鬼に悟られないよう、静かに建物から飛び降りた。
そして、下方の鬼目掛け一直線に刃を振り下ろした。