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戦鬼  作者: 塩野さと
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プロローグ―終わる世界―

 血の海を見た。


 ほんの数時間前まで人の形を成していた何かが、今は肉塊となって目の前に打ち捨てられている。

 手や足といった部位が分かるものもあれば、原型の知れない物体も散乱している。




 断末魔を聞いた。


 今までに聞いたこともないような絶叫が響き渡る。何を言っているのか解らない、怒りと悲しみに満ちた声が木霊している。




 風にのった生臭い鉄の香りが、鼻腔を刺激した。


 直後、その悪臭に拒絶反応を示した体内から胃液が這い上がってくる感覚に襲われる。咄嗟に口元を覆い、込み上がってくるものを押さえ込んだ。




 叫びに混じって、四方から低い呻き声が聞こえる。

 まるで野良犬の威嚇に似た唸りは、地響きのように空気を揺らす。


 咆哮の発生源に目をやると、複数の影がのらりくらりと歩き回るのが見えた。

 影は枝のような二本の脚で体躯を支え、胴から伸びる細腕を振り回している。

 また別の影は三メートルはある巨躯をしており、顔が全く視認できない。

 逆に小さく、蠅のように俊敏に動く者もある。


 それら全てに共通して肌は赤銅色で、人の形をしながら人でないことは日を見るよりも明らかであった。口を開くとそこには真っ白な歯がずらりと並んでいる。内二本が肉食獣の牙とそっくりだ。


 その化け物の呼称は――鬼。


 古来より人々に恐れられた架空の存在。角を持ち非道な性格をしている化け物。人々に恐れられる地獄の住人。それが鬼だ。


 角を持っていない者も多くいるが、それらは間違いなく地獄から迷い込んだ鬼なのだ。


 鬼が手を振り回せば腸ごと人間の肉を抉り取る。

 一声叫べば鼓膜を破るだけでなく、脳を揺さぶり昏倒しそうになる。

 爪に触れれば腕が縦に真っ二つに引き裂ける。骨なんて関係ない。


 人智を度外視した化け物が一帯――否、町全体を闊歩している。

 玩具のように何度も人間を地面に叩きつけて遊ぶ者がいる。

 トウモロコシのように掲げ、貪り食らう者がいる。


 無残にも弄ばれ、魂が抜けた躯がまた一つ捨てられる。


 呆然としている視界の端に、鬼に向かって突き進む人影を捉えた。

 日本刀を一振り携え駆け抜けていく。

 目にも止まらぬ速さで細身の鬼の目前まで迫ると、アスファルトを陥没させる勢いで地面を踏み抜き、一直線に鬼目掛けて刃を振り下ろした。

 金属が空を斬る鋭い音と共に、鬼の鮮血が飛散する。鬼の頭を叩き割ったのだ。

 人影は鬼を足場に跳躍すると、続けざまに巨大鬼の腕を一本斬り落とした。


 吹き出した血液が、綺麗な黒髪を赤黒く染める。



「――、大丈夫か?」


 鬼を斬り捨てた人物に名前を呼ばれ、離れていた心がようやく現実に引き戻された。気が付くと目の前に差し伸べられた手がある。鬼を斬り捨ててから側まで移動してきていたらしい。


「あ、あぁ……うん」


 口から力の無い間抜けな声が出る。

 綻んだ緊張と羞恥心から、咄嗟に顔を下げた。目頭がじんわりと熱を帯びる。


 下げた目線の先にある自分の手には、無数の切り傷が付いていた。右手の小指は爪が剥がれかけている。

 だというのに、不思議と全く痛くない。

 きっとアドレナリンが脳から放出されているのだろう。


 いや、こんなことを考えている暇なんてない。

 今すぐにでも震えを止めて、立ち上がらなくては。せめて闘う勇気がないのなら、この身を盾にしてこの惨状を終わらせる隙を作らなければ。


 残っている全身の震えを止めるように両腿に爪を立て、唇を軽く噛みしめる。傷口と脚に走った鈍痛で、幾分か震えが止まった。


 ――よし、まだ頑張れる。


 自分を奮い立たせるように息を吸い込んだ――と殆ど同時に、前方から生暖かい数滴の液体がパタパタと降り注いできた。



「……?」



 元々あった傷口や返り血とは違う、真新しい紅い液体が手足に付着している。


 ――ああ、また一匹鬼を斬ったのかな?


 都合の良い解釈をしようとする脳味噌と裏腹に、心臓は早鐘を打つ。血の気が一気に引いて指先の感覚が消えていくのが解る。

 見ない方が良いと理解しながらもゆっくりと視線を上げる。


「あッ……あああああ!!」


 目に飛び込んできた光景の凄惨さに、絶叫した。

 右肩から吹き飛んだ腕が地面に転がっている。断面は無理矢理引き剥がしたように荒く、噴水のように血が飛散していく。

 そして平衡感覚をなくした身体が、力なく倒れはじめている。


 咄嗟に身を動かし受け止めると、左手に生々しい肉と骨、粘性のある液体の感触が伝った。



 地獄を引っ張り出してきたような惨状に、もう声の一つも出ない。


 ――どうして。


 どうしてこんなことになったのだろう。


 「世界」の終わりを黙って見ていることしかできない自分に、愕然とする。

 現実味のない「絶望」が目の前に存在している。


 ああ、なんて情けない。

 なんてみっともない。


 友人が散っていく光景に全身を震わせるだけ。

 ボロボロの武器を手に立ち向かっていく姿を見送るだけ。


 ぐったりと力の抜けた身体を抱きながら、ただ祈ることしかできなかった。




 ねえ神様。

 本当にいるのなら、お願いだからもう一度だけ――。

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