負ける気がしねぇ
見知らぬ女性が隣に座った。肩が触れるほど近い。
女性が腰を下ろすのと同時に、甘く、優しい香りが俺の鼻をくすぐった。
電車の始点駅を出発してすぐのことであった。まだ、席には余裕がある。
なぜ、こんなことになった?
俺は、どこか優越感に浸りながら、周りを改めて見渡しながら、ここまでの状況を回想する。
なんてこともない、普通の土曜日。
午前7時54分発。
始点駅は、駅員2名体制で、田舎に位置する古い駅。売店もない。俺は、駅の前に設置されている自動販売機で温かいコーヒーを買い、その温もりを感じながら、到着している電車に乗った。
今日、会社は休み。これから、友達と遊ぶ約束をしており、普段であれば、車で目的地まで行くのだが、そのまま、友人と夕食の約束もしている。当然、お酒も飲むので、電車での移動を選んだ。
乗った電車は、席を選びたい放題。僕よりも先に座っている制服やジャージを着こんでいる学生や、出勤と思われるスーツ姿のおじさんなど、みんなバラバラに座っている。それでも、独占できそうな席は、まだまだあった。
特別、こだわりはない。ただ、普段乗らない電車に、年甲斐もなくちょっとテンションが上がっている。俺は、一番後方の車両で車両に沿って配置されている長椅子の一番端に座った。
当たり前のようにスマホを取り出す。だが、スマホに視線を落とす前に辺りを見渡した。
ほぼ全員が、携帯に目を向けている。もしくは、参考書らしきものを開いている。中年のサラリーマンですらスマホである。目線を前に向けると、どちらかというと高齢にさしかかっているおばさんが、おもむろに鞄から、ブックカバーを纏った本を取り出し、それを開いた。ちらりと中が見えた。はっきりとわかるほどの少女マンガであった。
おばさんはその本に目をやり、ニヤニヤし始めた。
気がつくと、俺が端を陣取る長椅子の反対側には、男子高校生。そして、その間に若い私服の女性が座っていた。俺、私服女性、男子高校生の間には、大人ひとりが座るには十分なスペースがあり、それを保ったまま、電車の扉は、金属音を立てながら閉まった。
「次は……崎山駅、次は、崎山ぁ駅ぃ。乗り口は右側でぇす」
気だるそうな車掌。しかも、若い女性。女性の車掌は初めて見た。
路線特有の気だるそうな車内放送が、この若い女性車掌にも継承されている。なんか、残念だ。
視線を前に戻し、座り直した。少女漫画を熟読しているおばさんのさらに奥。窓の外に流れる風景。知っている土地なのだが、普段見ることのない電車からの風景は新鮮だった。その流れる風景を眺めていると、その視界の脇。何かうごめく気配を感じた。
俺から見て進行方向側。俺が目をやったときには、1つ奥の長椅子を立ち上がる女性がいた。そして、躊躇なくこちらの方に歩いてきて、俺の隣に座った。
そして、女性が腰を下ろすのと同時に、甘く、優しい顔が俺の鼻をくすぐったのだった。
派手でもなく、でも、地味すぎるわけでもない清楚な女性。スカートの裾からすらりと伸びる足。肩まで伸びる髪は、朝日を浴びて、若干茶色く輝く。すぐ隣のため、顔を凝視するわけにはいかないが、雰囲気はすごく良い女性である。
俺は、その女性がもともと座っていた奥の席の様子に目をやった。
その女性が座っていた隣には、小太りの男が1人。年齢的には、30歳前後と言ったところか。どちらかと言うと、さえない男といったイメージで、清潔感もなく、友達にはなれないといった印象を受ける。
俺自身、自分のことを男前だとは思っていない。だが、女性と付き合った経験もあるし、ずいぶん昔の話だが、いわゆる、モテ期ってやつも経験しこともある。自慢できるほどの大きな波が来たわけではないけど。
だけど、女性は俺の隣に座った。
わざわざ、あの小太りの隣ではなく、俺の隣だ。
俺でいいのか?
俺の方がいいのか?
隣に座った女性は、まっすぐ顔を前に向けたまま、手で髪を整えた。今まで、はっきり見えなかったその顔。その時、はっきり見えた。俺の好みだった。
俺は、任侠物の映画やドラマの役者が見せる口元をゆがめた笑顔。そんな表情が思わず出てしまう。普段、そんな表情をすることはないが、勝利とともに、何ともいえない優越感を感じていた。
あの小太りに負ける気がしねぇ……
改めて、隣の女性方を見ようとした瞬間。
隣の女性が、俺とは反対側に座っている女性に声をかけた。
「おはよ、美紀」
「おはよ」
その挨拶をきっかけに二人の女性の会話が始まった。
俺は、その任侠製の笑顔を何事もなかったかのように、真顔に戻した。そして、そのまま、握りしめている携帯に視線を落とした。