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目が覚めて一番最初に思ったのはお腹がすいた、だった。
まだ眠たいが、空腹で仕方ない。最後にご飯を食べたのはいつだったか……。
「おはよーございます」
天井を見上げていたら、聞いた事のある声がした。
「ハルさん」
覗きこむのは見なれない青年になったキミの顔。
寝起きで頭が上手く働かない。私は目をぱちぱちと閉じたり開けたりした。
「おはよう、ございます……」
そういえば、昨日はベッドに行くのが億劫でソファーで寝てしまったんだっけ。私の家はダイニングのある賃貸アパート。ソファーはダイニングにある。窓からの日がダイニングに降り注いで部屋は明るかった。
まだまだ冬の時分、日は眩しくてもあたたかみは少ない。私は羽毛布団の中で身をよじった。
まだ寝ていたいと、瞼を閉じかけて、「ん?」と疑問の声を上げる。
体を起こすと、やっぱり見間違いなんかじゃなかった、キミの姿がある。
「……なんで、キミがここに……」
振り向いた彼はきょとんとして見せる。
「あれ? ハルさん自分で入れてくれましたよ。そのあと二度寝してました」
寝起きや眠い時の記憶は曖昧だ。時々、寝起きに編集者から電話が来て仕事の話をしてまた二度寝してしまう事もある。そして次に起きたら編集者からの電話が夢だったか分からなくなるのだ。
「…………そうだっけ……?」
今回も、それだろうか。
「そうですよー?」
私に背を向けた彼は、しばらくするとソファー前の机に何かを置きはじめた。
「それよりご飯買ってきたんで食べましょうよ」
湯気をたてるマグカップには、ポタージュスープが入っている。お腹がすいていたのと、冬になるとあたたかい飲み物が大好物になるのとで、私は頷いた。
「んー、うん……」
彼が買ってきたらしい朝食は、白身魚フライと千切りキャベツにタルタルソースがかかった総菜が挟まったパンと、あんドーナツ、キュウリやニンジンやジャガイモが賽の目に切られたサラダだった。加えてあたたかいポタージュスープはインスタントらしいがベーコンとジャガイモ入りだ。
朝から食パン一枚しか食べない時がある私にしてみれば、なかなかに豪勢な食事だった。寝起きは食欲が出ない私でも、これなら胃の負担にならなそうで食欲をそそられる。
私たちは冷めないうちにと食べ始めた。彼はとなりの部屋に置いてあった椅子を持ってきて私の正面に座った。
パンはパン屋で買ったものだそうだが、彼がレンジであたため直したので、出来立てみたいないいにおいと味がした。白身魚のフライがおいしかった。
あんドーナツも、あんがほどよい甘みでしつこくなく、大きさも丁度よかった。サラダの味つけもなかなかいいドレッシングを使っている――。
「って、だからなんでキミがここに?」
すっかり朝の食事にまったりしていた私は、やっと我に返った。
彼は眉を持ち上げて、私を眺めた。
「今日は講義が午後からなので、授業サボったわけじゃないですよ。あとここからうちの大学はわりと近いので遅刻の心配も要らないですからね」
現在の時刻は十時過ぎ。大学の授業が高校までのように朝から夕方まで埋まっているのではない事くらい、知っている。
「えっと、えっと……そういうことじゃ、なくて」
私は握っていたマグカップを机に置いた。
「冷蔵庫見たけど自炊ぜんぜんしてないでしょう、ハルさん。コンビニ弁当ばっかり食べてるんじゃないですか?」
正解だった。私はコンビニ弁当あるいはスーパーの弁当か総菜を愛用している。
「……いやその」
「コンビニ弁当ばっかり、よくないですよ。今度キッチン借りますからね。体は資本ですから、小説家とはいえあなたも健康でいないと」
まるで一人暮らしの若い男性に説教するお母さんか恋人かのようだった。
でもコンビニ弁当はともかく、スーパーの弁当や総菜はスーパー内部で作ったものを出しているはずだから、コンビニ弁当ほど添加物は入っていないと思うんだけど。
「ところで、最近どんな話書いてるんですか? この前出した世界が滅びたあとの話、昨日読み返したら好きになれそうでした」
彼は立ち上がって自分の食事の後始末を始めた。
私の家に来るのがこれでもう五十回目みたいな、手慣れた素振りで、キッチン前をうろつく。
「ちょ、ま、待って……!」
おかしい。
こんな風景はおかしい。
彼とまともに話せるようになったのは、ほんの数日前だったはずだ。それまで私は罪悪感でいっぱいで、彼の内心は知らないが、傷ついた子供の顔を全開にしていたはず。
何故、過去のすべてがなかったかのように、親しみをこめて昔のように接してくるのか。いや、昔より悪化している。誰が私の家に入っていいって言った。
「キミ、昔の事忘れたわけじゃないですよね? 私、あれからぜんっぜん変わってないんですよ? その、今でも、私はまだ、そういう、レンアイとかは、出来る人間じゃなくって……」
彼を責めたい訳じゃないんだけど、あまりにも話が飛んでいる。
「ふつう、ずっと会ってなかったんだし、なんていうかこう、もうちょっと距離があるでしょうに」
動きを止めた彼が、感情の窺えない顔でこちらにやってくる。
「……ちょっと、やりすぎたかなとは思ってます」
ソファーの脇で、彼は膝をついた。まるで小さな子供と視線を合わせようとする大人みたいな姿勢だった。
「だったら、」
「でもハルさんまともな食事してなさそうだし。そもそも生活習慣ひどそうで、すぐ風邪とかひいてそうだし。ちゃんと朝に起きて朝ご飯食べないといけないって思ったら、つい」
まったくもってその通りで、正論を言われてしまった。
てゆうか、キミはほんとに私の母親か。
「引きこもり気質でもあるし、こっちから行かないと出てこなさそうだし」
彼は、私のとなりに座った。
「……事前に、連絡するという考えはなかったのでしょうか」
こんなゲリラみたいなやり方は、ちょっと困る。寝起きのぼんやりした自分なんて人に見られたくはない。
私は今更になって自分の身なりの事が気になって俯いた。
頭、ぼさぼさだろうし、目やについてそう。パジャマだって使いふるしたスウェットだし、冬だから寒くて毛糸の靴下にズボンの裾インしてる。
っていうか、寝てたからノーブラなんですけど!!
死ぬ……
私が立ち上がろうとしたら、両手首を引っぱられる。
「でも」
冬だから厚着をしていたのがせめてもの救い、なんて思っていたのにキミは私に顔を寄せる。
「俺の事、拒めないんでしょ?」
やけに、いい笑顔。
「だったら」
距離が、とても近い。
「行くしかない。って思って」
私は両手を取り返して、自分の体の前に押しつけた。
「あ、の」
キスさえ出来そうな距離にいて、キミは――
「好きとか言わなくていいから」
自嘲じみた声を出す。
「そばに居させて」
悲しんでいるような、諦めているかのような、さびしい声。
「……お願いだから」
彼が私の肩に頭をのせる。
ふつうに恥ずかしいのと、ノーブラバレしたくないのとで、私は肩の重みにふるえそうになった。
「……と、とり、とりあえず離れようか」
裏返った声になった。
相手が自主的に動かないので、私はあちらの肩を軽く押しやった。
顔を上げた彼は、ちょっとさみしそうに笑った。
私はすぐに後ろめたくなって顔を背ける。
私に、このひとを拒めるのだろうか。
いや、拒めないと分かったばっかりなんだけど。過去の負い目がなくったって、彼には勝てそうにない気がする。
あんなさみしそうな笑顔を見せられたら、私は――
心臓がぎゅっと縮まった。
とりあえず、自宅にいても身なりには気をつけようと思いました。