4
風にあおられた小さな雪片が視界をかすかに白く染める中、
私は彼と再会をした。
「ハルさん」
もう何年も会っていなかったキミと。
用事があって普段行かないような場所に向かい、私は家に帰るところだった。ホールのような施設から何人もの振袖姿やスーツ姿の若者が出てきたので、この日が成人式と知った。ホールからは離れ、駅を抜けてバス乗り場に行こうとしていた。
キミに出会うまでは、ホール前で見た光景も忘れていた。
彼は、体に負った傷の痛みをこらえているかのような笑みを浮かべた。
記憶にあるままの顔のパーツなのに、背も伸びて大人びた顔になっていた。
スーツ姿が意外にも似合っていたから私は、ぎくりとした。
彼が今年成人式に出席出来る年齢になっていたなんて、私は知らなかった。彼の年齢を思い出そうともしなかった。それどころか、忘れようとした。
「あなたは、ひどい人ですね」
まだ会ったばかりの頃、喫茶店で彼にいろんな人に認定されたのを思い出した。
変なひと、面白いひと、楽しいひと、不思議なひと。
努力すれば、記憶の中の彼は、いつだってちょっと控えめな笑みを見せてくれた。
でも最後にキミが私に向けたのは――
「どうして……あなたが傷ついた顔をするんだ」
今と同じ、痛みをこらえる険しい顔。
時々、ふとした瞬間によみがえる、傷つけられた少年の顔。
「ごめ……」
傷つけたのは、私。
どくどくと心臓が焦燥に満ちた音をたてる。
息がつまりそうだ。
私は、あやまちを犯した。
取り返しのつかない事を、したのだ。
「ごめんなさい……」
そんな事は、ずっと前から分かっていた。
謝らなくちゃと、ずっと思っていた。ずっと、ずっとだ。
「やめてください」
拒絶の声は一層険しく、私は怯んだ。
「あなたを……許しそうになる」
思わず見た、彼の顔は泣き出しそうだった。
ああ、この人は私を許したくないのだ。許せないのだ。憎んで、嫌って、許せないでいる。
それなのに私が被害者面をするなんて、と私を責めている。
私は、この子に、なんて事を。
あんな風に終わらせるつもりはなかった。
でも、まだ幼い子供の意識を狭い範囲に縛りたくはなかった。
私は誰かの好意を受けとる資格なんてなかった。
私はとても弱かった。
だから。
でも。
私は、どうしたらよかったの?
ハルさん。
キミの声が聞こえた気がした。
あの頃――彼は高校生になったばっかりだった。
新しい生活がスタートしたのだ。夢と希望にあふれ、若い友人たちの間でみるみるうちに成長していく。
私は彼の邪魔になりたくなかった。
そして私は他人を信用出来なかった。
いつか彼が私の弱く醜い中身に気づいて、愛想をつかす前に、私の方から強く――とても強く、彼の気持ちを否定しなければならなかった。それまでにしてきた事の延長だった。彼は相変わらずしつこく食い下がってきた。私も負けなかった。
結果的には上手くいった。私たちの関係性は白紙に戻った。
私は念のため住所も変えた。元々その時住んでいた家から越したいと思ってもいたのだ。
新しい住まいで、私も新しい生活がはじまるはずだった。
新居では、夜にも喧嘩の声が響くような家は近所になかったし、洗濯物を拾ってくれるような隣人はいなかった。
とても――とても静かだった。
成人式の日、私はあれから何も言えなくなった。体調不良にでもなったかのような私の状態に気づき、彼は駅まで送ると言ってくれた。
家に帰った頃には雪もやんでいた。
彼とはそれっきり会っていない。
彼は、憎い相手にも気遣いのできる青年になっていた。いや、彼は前からそうだった。見も知らぬ相手の洗濯物を拾ってくれるような人物。私なんかがいなくても、つらい現実に立ち向かい、他者に優しく出来て、心が強くて一人で生きていける人間。
私はきっと、彼に憧れていたのだろう。自分と少し似た境遇を持ちながらも、私より真っ直ぐに育ったキミを、うらやんでいたのだ。
でも今では彼には嫌われてしまった。自業自得だ。
あれでよかったのだ。あのままでいたら――年齢の事がなくたって彼には私は不釣り合いだし、いつか彼は私を嫌になるはずだった。
私が勝手に落ち込むのは筋違いというもの。
それにしても、やっぱり彼は立派になれた。私なんかがいなくても。私と関わらなかったからこそ。
キミはきっと、これからもっと、いい大人になる。だから私はこれからも、離れた場所でキミの将来が明るい事を願うだけでいい。それだけでいい。
私は、
私はもうキミとは会えない。
会えるはずも、ない。
夢を見た。どこかの広い洋館のようなところに、閉じこめられた。五階ほどの高さにあるキッチンで、私を含む五人の人間が集められた。そこで料理をたくさん作る事になるのだが、一人が何故か窓から何者かによって突き落とされる。
私はその人に手を伸ばすが届かず、真っ逆さまに落ちてゆく相手をぞっとしながら眺めるしかなかった。
恐ろしくて動揺していると、また一人別の人間がキッチンに入ってきた。このキッチンには必ず五人の人間がいなければならないらしい。また誰かがいなくなっても、人員は補充される。
夢だから訳の分からないところもあるのに、ただただ恐ろしかった。
理屈の通らなさが、こわかった。
目覚めた時に、夢の中で抱いた感情を大袈裟だったと感じる時がある。だが確かに夢の中では本物の恐怖を抱いていて、私にとっては悪夢だった。
何故か私は、彼の事を思い出した。
目覚めたあとは、普通の一日を過ごした。だらだらと食事の用意をして、だらだらと書きかけの小説の資料読みをする。お腹がすいたらまた食事をとる。
単調で決まりきった日常を繰り返すだけのはずだった。
夕方を過ぎ、夜を迎えた頃、私は家を出た。
あの日、初めてあの子に会ったあの場所へ、私は向かっていた。
私は一体なにがしたいんだろう。
わざわざ彼と出かけた事なんてないが、かつての住まいがあった場所では彼の幻がちらついた。
初めて会話をした時の家の前。食事をした喫茶店は健在で、この日は定休日だった。窓越しに彼に見つけられてしまったコンビニエンスストア。
最寄り駅に向かう道ですれ違った事もある。仕事帰りに声をかけられ、酔っ払いの私が訳の分からない事を言ったりした小道。
『こんばんは。今お帰りですか』
キミの声が聞こえる。
この町は、さほど知り合いのいない私には、特定の人物ばかりを思い出させる。
本当に、私は一体何をしているのだろう。
たとえ彼と今会ったとしても、私の気持ちは変わらないのに。
あの頃から五年ほどたったというのに、私は相変わらず弱いまま。自分の弱さも、他者に向き合わねばならないこわさも、受け入れられない。強がる事さえ出来なくて、ただ一人の優しい男の子を傷つけた。
急にこの町に居てはいけない気がして私は駅に向かった。万が一キミに出会ったら、私はまた彼を悲しませる。そんな事にはならないように、私は自分をコントロールしなければならない。
なにもかも、弱い私が悪いのだから、私は家で、一人縮こまっていなくては。
ココロは、不安定なもので、私は夜になると奇妙な不安に襲われて家を出るようになった。
本当は行ってはいけないあの場所に向かった。
夜になっても明かりのつかない家を眺め、私は我に返る。
五年前と変わらず彼の家族は家庭を大切に出来ないらしい。彼自身はもう大学生か専門学校生のはずだから、帰りが遅いのも無理はないだろうが。
それでも以前は、夜には人気のある家だったはずだ。
暗い部屋の奥を透視するかのごとく、私はキミの家の前にいた。
ふっと、意識が過去に舞い戻る。
あの、決別の日。
『私は――』
ルーズリーフの手紙のやり取りが終わったあと。私は何度か、あの子と会う事になった。
少し、それでもいいと思った。
本当は彼と過ごす時間が居心地のいいものだと知っていた。
それでも私は、少年のひたむきさが怖かった。
彼のきれいさが、私の醜い姿を映す鏡となった。
私は誰かを愛するよりも、自分を憎む事を選んだ。
こんな自分、見たくない。見られたくない。だからどうか、放っておいて、ここを出ていって。
『私はキミの事なんてどうだっていいの。今は迷惑している』
自分自身も、あの少年も、私はこわかった。ぜんぶ私を傷つける存在となった。
『本当に聞き分けのないコドモで、うんざり』
とん、と押せばキミを傷つけるのなんて簡単だった。
だがそれは、自分自身の身にも刃を埋めた。
心が狭くて誰も受け入れられない。子供の感情なんて信じられない。何より自分が変わってしまうのが怖かった。何も変わらないかもしれない事も、おそろしかった。
あのあと、キミがなんて言ったか。
なにかを言った気がしたが、なにも言わなかったかもしれない。
“ひどい”
“なんでそんな事を”
“あんたは最低だ”
そう言われて当然だった。
こんな事なら、出会わなければよかった。
自分が嫌いだ。
こんな私を好きなどという人間が嫌いだ。
そんな考え方をする脳みそが嫌いだ。
みんなみんなみんなみんな
嫌いだ
当然、感じやすい思春期の心を持った少年は、私の家に来る事も私に声をかける事もしなくなった。当たり前だ。私はそれを狙ったのだから、そうなってもらわなければ困る。
私はしばらく、小説を書かなくなった。
それでもなんとか書いた、文芸雑誌掲載の短編小説は、ひどく暗いものになった。過去とも現代とも未来ともつかない世界で、場末の娼婦がつらくても心を強く持って生きようとするが裏切りにあって絶望する話だった。
これまでの作風とうって変わって救いのない話なので、担当編集者には驚かれた。やる気はなかったが、適当にかすかな希望をほのめかすエンドにしたのは、編集者に言われたからだ。
それから。
担当編集者が変わった。長い時間がたった。私は徐々にかつての自分を取り戻しはじめた。
“キミ”のいなかった世界へ、もどる。
自分と、自分しかいない空間へ。
静かに、ゆっくりと、過去に蓋をして見えないフリをした。
閉ざしたその先が、いつまでも痛みを訴えていても、気にならなくなった。
私は小説を書く事が生業だ。
私は小説を書いた。
小説の世界へ、我が身を沈めて――みんな、なかった事にした。
この日で終わりにしようと思った。
もうこれで、四度目だ。彼の住む町に来てしまうのは。彼に会いたいはずがないのに。彼が私の顔を見たいはずがないのに。
ただ、じっとしているのが、嫌だった。昔住んでいた場所に来てもなんの意味もないのに。
今日で終わりにしないといけない。
私は、本当に矛盾している。また彼を傷つけるだけなのに。
駅に向かって、やや小走りになりながら歩く。小さな駅なので改札の外からもホームが見え、電車が来ているのが分かった。
明かりのついた駅に、私は火に惹かれる虫のようにふらふらと寄り付いた。
最初、気づかなかった。
何人もの乗客が改札から押し寄せるので、私はそれを避けながら歩いた。
きっと、すれ違ったんだと思う。
「……なん、で」
背後からの声を、最初は雑音と同じものととらえていた。耳を通り過ぎた声が、言葉を重ねる。
「なんでここに」
聞き覚えのある声だった。なつかしい声とは少しだけ違うけれど、間違えるはずがない。
「ハルさん」
彼の気配が近づいてきた。
私はどうしたらいいか分からなかった。
早くここから逃げなければいけないのに。
肩に、何かの圧力がかかる。
キミの手だ。
それに突き動かされたように私は、走り出した。
「……っ、待って!」
何故か改札を抜けるという選択肢が思いつかなかった。
駅を離れ線路沿いの道を、走る。
こうならないために決意したはずなのに。
後悔したから、決めたのに。
本当は、本当は――
焦燥が全身に押し寄せる。
こわい。
彼の顔が見れない。
責めるような眼差しにたえられない。
「待てよっ」
声が思いの外近くて、私は左折した。以前あまり使わなかった道だ。街灯が少なくて薄暗い。でも、そんな事はどうだってよかった。
「ハルさ……春川アオイっ、」
焦りか、暗いせいか、私はつまずきそうになった。慌ててたたらを踏み、よろめきながらも姿勢を直す。
その隙に、追いつかれてしまった。
私が動くより早く、彼は私の右手を捕まえる。
顔は見られない。ただ相手が息を整えようとしているのが分かった。
「なんだよ……何がしたいんだよ……」
狼狽した声。
「なんでこんなとこにいるんだよ」
その質問には答えられそうにない。私にも、分からないのだから。
「なんとか、言ってよ」
手首にかかる力が強くなる。
青年は、しばらく小さな呼吸を繰り返し、一気に大きく息を吸い込んだ。
「わかってるよ、あんたが考えてる事ぐらい。罪悪感だろ。あの日の事引きずってんだろ」
図星を言い当てられ、私は彼の手から抜け出そうとした。もがいても彼の力はゆるまない。
「俺もだよ」
声が少し低くなる。
「わかってるけど……」
彼もまた、あの決別の日の事を引きずっていたのだ。思春期に、あんな風に大人に拒絶されたら、そうなるだろう。
遠くで、車のクラクションが鳴り響いた。
この辺りはほとんど住宅街なので、夜の道は音も少なかった。
「何か言ってくれないと……期待、するだろ」
この場に不似合いな単語に、私は思わず彼を振り返りそうになった。すぐに顔を元に戻す。
「……会いたかった」
彼の言葉に、私は眉を寄せた。
聞き間違いだろうか。
成人式のあの日、彼は私を許せないと言ったも同然だったのに。許しがたい相手との再会を、願うなんて事はあるのだろうか。
「あの時……あのあともずっと、ほんとはすげえムカついた。大人面して言い訳ばっかして。俺個人に問題があるんじゃなくてあなたの問題って気はした。でも、俺は、」
まるで、感情に言葉が追いつかないみたいに彼は口をつぐんだ。
代わりのように、彼は私の腕を引き寄せる。
反射的に彼を向くしかなく、私はその姿を目にした。
「おれの言葉を信じてほしかったよ!」
あの日と同じ傷ついた目をして、少年は叫んだ。
「自分の気持ちを信じてもらえないなんていい気がしないに決まってるだろ。高校入って、大学にも行って、いっぱいいろんな事したり時間が過ぎたりして、気にならなくなれそうだった。忘れられそうだった。あれは昔の事って思えるたびに――会ったばかりの頃が、よみがえって」
くしゃりと彼は顔を歪めた。
「あなた自分が何したか分かってないんだろ。あの頃の俺が、どれだけあなたに救われたか。家庭の事情知らないやつは好き勝手言うし、知ってるやつは腫れ物扱いで、はっきり言って誰も俺の事なんて素知らぬフリだった」
まだ年若い子供の世界は狭く、家族がそれを左右する。学校でだって、上手くいかなかった――。
「でもあんたは見つけてくれたじゃないか。誰も俺の事なんてどうでもいいって顔してたのに、あんただけはおれを必要としてくれただろ。あんたにとっては大した事ない仕事の取材かなんかが理由でもおれは」
手首を握り直される。
「うれしかったんだよ。優しくされて、ただそれだけで、泣きそうなくらいにうれしかったんだよ。それが、どうして、恋愛感情に変わっただけで嘘だって見なしたんだよ……!」
私より背の高い若者は、迷子になった幼い子供みたいに、不安に満ちた顔で、
「おれは……っ」
また言葉をつまらせた。
私、私は。
なにも知らなかった。知ろうとしなかった。自分の事ばかり考えて、彼の事を疑って。その事自体が、この子を傷つけた。
どうして彼を信じてやれなかったの。
信じるだけでも、力になれたかもしれないのに。
「……ご、めんなさ……」
どれだけ謝っても許される事ではないだろう。
私がふるえた声を出すのはお門違いだった。
足元が揺れる。
「わた……、を……ゆるして……」
まともに立ってる自覚がなかった。
ああ私は、なんて事をしてしまったんだろう。
どれだけのつぐないをしたらいいのだろう。
本当はとても許されないはずなのに。
「キミを」
私は。
「拒めない私を、ゆるして」
あまりに自分勝手な私は、私を抱きしめる相手にすがりついた。