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この話を――私の事を知らないだろう、この話を読まないだろう、届かないだろう君に贈ります。
そんな事言っておきながら、私はキミにこの話を読んでほしかった。特定の誰かのために話を書いたのは、はじめてだった。本当は、いつかどこかで、キミに読んでほしい話だった。
名前も知らない人に宛てて、小説の冒頭に謝辞を書いたのははじめてだった。
キミはきっと私の事を気味悪く感じるかもしれない。あちらは私を知らない、けれど私はあなたを知っている。そんなものは“スのつく行為”と近しいから。だけど、私もキミの事をちょっとしか知らない。
でも、知ってる? キミの家が私の家から見える事。キミの家の声は結構外にもれる声。キミがひとり狭い庭にしゃがみこんでいるのが、ここから見える事。私は――キミを見つけてしまった。
私は自分自身とキミを重ね合わせて見ているのかもしれない。よく知らない相手で、キミと私とじゃ事情が違うだろうけど。
でもきっかけはキミだった。キミのためにこの話を書こうと思ったんだよ。
よかったら、ううん、きっといつか読んで。そんな風に思いながら。
『星屑の彼方に』
その本の売れ行きはよくなかった。元々私は、新刊を出すたびに売れるような超売れっ子人気小説家なんかではなかった。やはりぱっとしなかった前作が売れたように思えるほど、『星屑の彼方に』は売れていなかった。久しぶりに親類縁者に本買ってとさりげなくほのめかすべきかと迷ったほどに。
「何がいけなかったんでしょうかね?!」
私は半分酔っていた。ビールジョッキ片手に担当編集者にチンピラのような視線を投げていたような気がする。
「ぼくは好きですけどね、“星屑”。やはりファンタジーになり過ぎたんじゃないかと。紀野さんの小説はいつもミステリーテイストの青春ものばかりでしたしね」
「みんな物珍しがって買ってくれてもいいじゃない! ほらアルパカよ!」
「今はアルパカもうそんな珍しくもないですよね……」
「……だって言ったじゃないですか、私……“星屑”はほんとは読んでほしい人がいるって~」
「出版もビジネスですしね、次回作考えましょう」
「……はい」
居酒屋が途中から会議室へと変わった。
ある日の帰り道、キミが私の住む家の前にいたのには、驚いた。
「……こんにちは」
そこを通らないと私は家の中に入れないので、挨拶がてら通り過ぎた。私が勝手にキミと呼ぶ彼と私は、挨拶すらした事がなかった。
「あのこれ、向こうに落ちてるの見かけて。前に干してあるの見たからここのうちのかなって」
律儀に、キミは私にタオルを差し出した。それは確かに私のものだったが、その辺の柵にでもかけといてよかったのに。
「ありがとう……ございます」
思いもよらず、先に声をかけてくれたのは、キミでした。
「おはようございます」
以来、すれ違えば挨拶はする程度の知り合いになった。キミの目には私はもういい大人だろうに、あれくらいの頃の私なら、大人と関わりたいとは思ってなかったから、意外に感じた。
それから、挨拶はする程度の知り合いを続けた。
ある日、冬なのに外にずっと座っていたキミに、私はいろんな言い訳を作ってこう言った。
「……お茶でも飲みますか?」
喫茶店で、私は彼にあたたかいものを飲ませた。
「……変なひとですね」
キミは不思議そうで、好奇心の覗ける目をしていた。ついてきたくせにそんな事を言うとは。だけど昨今は防犯にうるさい時代だ。困った。
「じゃ、じゃあ、いつかのお礼がしたかったって事にしましょう。いえ、実際助かりました」
やや慌てた私にキミは楽しそうにした。
「面白いひとですね」
とりあえずキミはあたたかい紅茶を飲んでくれたから、よしとしよう。そして私は、より怪しまれるかもしれない事を口にする。
「その、私は小説家なんです。キミくらいの世代の子が主人公の話も書きます。最近では若い子と話す機会もなくて、こうして話をさせてもらえば何かいい話が思い浮かぶかと……そういうわけです」
するとあちらは改めて私をまじまじと見た。
「え、すごいですね」
よかった逆に怪しまれなくて。
「おれに取材ですか! なんでも聞いてください」
それは願ったり叶ったりだけど、建前だったりする。まあ、キミがいいならお話を聞こう。昨今の若い子は何を学校でしてるのか。
キミは学校行事や試験、部活動について話をしたけれど、自分自身の話はしなかった。それもそうだろう、私たちは知り合って間もないわけではないが、まともに話すのはこれがはじめてだ。
「いいなあ私も学生に戻りたい」
もっと言えば給食を食べたりしたい。てゆうか給食。私は自分の中学生活で給食が一番印象深かった。
「ハルさんって、あんまり大人に見えませんね。おれらに混ざってても普通になじんでそう」
キミは私の苗字を短縮形で呼ぶようにしたようだ。私が学生の頃は“ハル”と呼ばれていたと言ったからだろうが。
「きっと中身が子どもなんですよ、私」
「楽しいひとだと思います」
私は小腹がへったので、サンドイッチでもつまむ事にしてメニューを店員さんに持ってきてもらう事にした。
「キミも何か食べますか?」
「いいです、悪いですから」
「でも私だけ食べるのは申し訳ない。私のために何か頼んで」
「なんですかそれ」
結局キミは苦笑してカレーを頼んだ。
「ハルさんは誰にでも“きみ”って呼びかけるんですか」
大抵相手の名前で呼びかける事が多いだろう。ましてまだ若い子なら、相手をお前と呼ぶかもしれない。
「これは、名前を呼ぶのが照れくさいんです。それがいつの間にかくせになって」
「……不思議なひとですね」
今日はやけにいろんな人に認定される日だ。
食事を終えて、私たちは喫茶店を出た。外は寒く、白い息を吐きながらキミは私を見上げた。
「ありがとうございました。あの、お代は返しますんで」
私は目を丸くした。半ば無理に連れ込んだのは私なのに、そんな事を言われるとは。
「キミは、払う必要はないです。私は年上なので。キミは、自分より小さな小さな子どもにおやつをあげて、返してと言いますか?」
あちらは虚をつかれたような顔をしたあと、すぐにむっとなった。
「おれは、小さな子どもじゃありません。それに、お金くらい持ってます」
「じゃあ取材に応えてくれたお礼です」
建前をまた使う。
「……でも、悪いです。ほんとに」
「じゃあどうしたら納得してくれますか」
少年は考えたようだ。
「なら、条件があります。……小説家の職場見学がしたいです」
思いもよらぬ答えがきた。
本当はキミは、思っていたよりしっかりして、私の想像していたような弱々しい存在じゃなかった。
だからこそ、私は悩んだ。
「おはようございます。おれ、小説とかけっこう読むんですからね」
「こんばんは。今帰りなんですか、おうちでお茶でもいれてくださいよ」
「こんにちは。小説のための資料でいっぱいの本棚とか見たいです」
意外にも彼は引き下がらなかった。なぜだろう、私は迷いに迷った。というか、今更だけどおごってあげた見返りが私の部屋披露って、何かおかしくないか。でも、私が相手の言い分を聞く流れになったのは間違いないし。
「何故そんなに気になるのです」
「友達に話すネタになるから……です」
もういいや、と私はある日彼を家に入れた。
「おお、夏目漱石とかある。お、ロミオとジュリエット」
どちらも私の好みではないですけれどね。
「あ、この作者の本いっぱいある。これハルさんの書いた本ですか」
私はキミに自分の小説家としての名前を告げていなかった。だからだろうか、家にあがればそれを知れると思ったのかもしれない。
「違います」
「あ、これ……『星屑の彼方に』って聞いた事ある」
世間では売れなかったはずのタイトルを読まれた時には思わず目をむいた。
「それは違いますよ! 読まないでください」
キミは怪訝な顔をしていたけれど、逆に怪しかっただろう。私は彼の目の前でその本を取り上げる。
「すごーくいやらしい本ですからね。読んではだめです」
私は、キミにこの話を読んでほしかった。私の、想像の中のキミに。でもキミは違った。私の思うような、かつての――もしかしたら今も――私のようにただ悲観的な子どもじゃなかった。私より強い子どもに私なんかが価値観を押しつけるものではなかった。想像の中のキミのために書いた本、現実のキミには読んでほしくなかった。キミに失礼だ。
「分かりやすいひとですね、ハルさん。それじゃ逆効果ですよ」
少年が、大人びた瞳で笑った。まるで子どものささいなイタズラを見透かすみたいに。おかしいな、成人してる私の方がいくらかキミより大人なはずなのに。
「……いやいや、本当に、やらしい本なんです。キミにはまだ早い」
むっとなったキミは子ども扱いが気に障ったようだが、くるりと表情を変えた。
「ふうん、ハルさんみたいな方でも、そういう本を読むんですね?」
このすけべえ。まるでそう言われた気分だった。
「……そ、そうですそうです。取材のためです。小説のため」
「ふーん?」
にや、少年の顔が笑った。キミ……お姉さん、その顔好きじゃないな。
「でもだいたいハルさんのペンネーム、絞れました。同じ小説家の本がいくつもあるもの、把握したんで」
くるりとキミは背を向けた。
「……キミは、私の小説を読みたいんですか?」
「当たり前じゃないですか」
彼はそうして出ていった。
キミの読みたい私の小説が、『星屑の彼方に』以外ならなんでもいい、読ませてやるんだけれど。キミにあれを知られるわけにはいかない。キミにあてたものだなんて、現実のキミには相違点があり過ぎて、気がつかないだろう。そうでなくとも、想像上のキミをそっくりそのまま主人公にしたわけでもないし、ファンタジーな話だ。
でも、困る。現実のキミは家庭の事情なんかものともせず、強くて、重ねかけた私なんかと似てもにつかない。キミにあてた事も、主人公が自分でもある事も、知られたら困る。私がどんなに弱い人間か、知られたくない。
『星屑の彼方に』
架空の北国に、長い間星が見られない時代が続いた。主人公は、命からがら逃げてきた、南の一家の人間だった。ひどい戦争がはじまり、とある南の国の人間は皆、散り散りに逃げ去った。その一家が選んだ逃亡先は、先祖がかつて住んでいたという北国だった。主人公はその旅路で家族全員を失う。
寒さの厳しいその土地で、主人公は余所者扱いを受けた。何もかも違う環境の中で、さびしく思いながら過ごす日々に、空から星の妖精が落ちてきた事によって、冒険がはじまる。
『世の中のしくみがなんだ、お前のやりたい事をお前がやってやらねえで誰がやるんだよ!』
『後悔するかも、なんて今考えても仕方がないでしょ。後悔は、後でするもの。まずははじめなさい』
『おれが、お前を見捨てるもんか! 誰もいないなんて思うな! おれがいるだろうが!』
恥ずかしくなります。私は、キミの登下校の時間や出没時間に家の出入りをするのをやめた。
私は私が全部ほしかった言葉を連ねた。ただそれだけ。遠くから見たキミに勝手に同情して、キミあてと偽って自分あてにするのを隠した。これは前にもやった事がある。デビュー直後の売れなかった一作は、本当は自分のために書いた。過去の私に向けて。私は、私にあてた話を書くのはよくないと知った。
すべて逃げだった。私は自分を恥じては彼を避けた。キミは真っ当な人間なのに、勝手に勘違いしてごめんなさい。
家のチャイムがなる。ぴんこんぴんこん、近所迷惑。それがうちならなおさら。まさかとは思った。でもドアを開けたくはない。私は引きこもりになっていた。発見、小説家は半月は外出しなくて暮らせる。これまでも半分引きこもりみたいなものだったけど、なおもそれを極めた。
「開けてください。開けて」
どんどん、しまいにはドアが叩かれる。
「開けろー。開けないと『星屑の彼方に』を朗読しますよー」
私はドアに飛んで行った。開けると案の定キミの顔。
「よかった、ハルさん生きてた」
失礼な事を言う。私はドアを開けたが、しかし中に入れるのは不可能だと知った。なにしろ引きこもり真っ最中だった私の格好はひどいし、家の中はゴミ袋だらけだ(捨てに行ってない)。
「あのー、ちょっと、今は」
「なんで避けられてたのかわかりません」
「いや、仕事が忙しくてね」
「『星屑の彼方に』読みましたよ」
少年の言葉に私はすべての言葉をのみこんだ。
「なんで隠したがったのかもわかりません。おれ、この話好きですよ」
『星屑の彼方に』――主人公は、ためらいながら冒険を続ける。仲間も少し出来て、たくさんたくさん、勇気をもらう。でも最後に、冒険のはじまる前からずっと一緒にいた星の妖精と別れる事になる。それが不満との感想をいただいた事もある。
でも、主人公が一人で生きていかなきゃならなかったのは、そう出来るからで、それが彼自身のためだったからだ。彼は、主人公は、一人だけで生きてるのではないと知ったけど、だからこそ自身だけの足で歩いていかなきゃならない。
これが私の出した答え。私に課した答え。
「ハルさん?」
「キミは、一人暮らしの若い女性の家に突然訪れた場合の問題点について考えなさい」
ドアを閉めた。泣きそうだったから。読んでもらえてうれしいとか、キミのために書いたとか、そういうのじゃなくて。
この話好きです、って言葉が、どれだけ作家をよろこばせるか。
私が私のエゴのために書いただけの話を、受け入れてもらえるなんて。
キミは、思ってた以上に、困った子だ。
「"静寂の空に、かつての偉容を誇る光はない。石炭、インクの墨、黒曜石、世界のどの黒を集めても足りない空の暗黒は、冷えた空気の上に重くのしかかっていた”」
聞いた事のある文章に私は勢いよくドアを開けた。
「なにしてるの?!」
キミの手にするその本は、売れなかったから本屋でも陳列されている数は希少なはずなのに!
「開けないと音読するって言ったよね」
にや、キミは笑う。
「勘弁してください」
「この話書いたのって、ハルさんの知ってる人?」
分かって、言っているのだろうか。
「知りません」
「おれの知ってる人?」
「知りません」
「ささげた相手って誰?」
「知りません」
「紀野叶さん?」
「……し、りません」
分かっていてやっているのだ。
「分かりやすいひとだよね」
「なんにも知りません」
キミは、にやっとまた笑った。
「おれはこの話、好きだよ。紀野叶さんも」
「……知りません……え?」
「じゃ、次、デビュー作から順に読んでくから」
言ってキミは消えました。ぼんやり、私は彼の短い帰路につくを見てました。
私は、まったく見当違いな事をしたのに。こんな私でもいいと言ってくれるのだろうか? 私の作品を?
もちろんおばさん相手に告白なんてしないだろうから、私はそれをそのまま年の差がある友情につなげたけど。こんな私でもいいって言われたのは、すごく嬉しかった。
胸がせつなくなるくらい、うれしかったよ。
本当は読んでほしいけど、読んでほしくないあの人にこの話をおくります。
『星屑の彼方に』の次回作は担当編集者とよく相談して、胸をはれるほどではないかもしれないけれど、私なりにがんばった話を出した。“星屑”よりも売れてへこみそうになりました。
「なんでですかね?!」
私はまた担当編集者に愚痴気味の酔っ払い相手をさせてしまった。
帰り道は、軽くふわふわした足取りだった。
「こんばんは。今お帰りですか」
キミは相変わらずこんな時間にまで外にいた。だめじゃないか、と思う。まだ冬だし、寒いんだから。
「寒いからおうちに入りなさい」
「ご機嫌ですね」
「うん、オッケー!」
なにが? って感じです。
「新作やっと読みましたよ」
「やめてください! 私をいじめないで!」
むやみやたらに酔ってる私は無駄に両手で顔を隠した。
「……ハルさんは、かわいいひとですね」
「キミはどこのイタリア人ですか?」
少年は笑った。彼こそ上機嫌でないの?
「おれ、ハルさんの事好きですよ」
私の想像の中のキミは、そんな事を言うような存在じゃなく。
「明日、二日酔いにならないといいですね。じゃあ、おやすみなさい」
そんな平然として去るような存在でもなく。
八歳ほど年上の相手に大人ぶってみるようなひとでもなく。
私は、本当に、キミを分かっていなかったんだなあと、この後でも思い知るはめになるのだった。
『“星屑”の謝辞って、あれ、おれですか?』
そのうち、私はキミが子どもに見えなくなってしまい、困る事になる。
『この話をキミに』