序章 3
大通りの喧騒が嘘の様に静まり返り薄暗くじめっとした空気が停滞している路地でキーアはジッと息を潜めてただ時を待つ。
表通りは相も変わらず賑やかだが宵の口を過ぎた今、夕暮れ時に比べたらいくらかは落ち着いてきた様に思う。
今日もハズレか。
落胆を声に出す事はないが少し気が緩んで欠伸が出そうになるのを抱え込んだ足を抓ってなんとかやり過ごす。
まだ張り込みを始めて五日目だ。
ここまで来て何の成果もなく帰るなんてしたくない。
とは言え肉体はまだ九歳で、連日の昼夜逆転生活に限界が近づいて来ているのも確かだ。
入手した情報が間違いだったのか、もしくは検討違いの場所で張り込みをしているのか、根本から間違っているのか…。
取敢えずあと二日…いやあと三日は張り込みを続けて成果が無ければ一度屋敷に戻って出直そう。
時間が経てば経つほど大きくなって押し寄せて来る不安を極力頭の隅に追いやって無心で目の前の闇を凝視する。
ふと周囲の空気に違和感を覚えて路地の入口に顔を向ける。
何も、変化はない様に思う。
自分の気のせいか、もしくは表の通りで喧嘩でもあったのかもしれない。
ぼんやりと入口から視線を戻して膝を抱き直す。
その瞬間、黒い影が視界を横切った。
思わずというよりも反射的にその影に手を伸ばして何かを掴んだ。
あ、失敗した。そう頭が考え始めるのとほぼ同時に私の体は地面へ組み伏せられ、腕は捩じられてビクリともしないし、首元にはヒンヤリとした物が添えられていて顔を動かす事もできなくなっていた。
疲労と眠気で気が緩んでいたのは自分の落ち度だが、相手の力量の高さに心が僅かに上気する。
足音は当然なかったし目の前を通り過ぎるまで全く気配がしなかった。
私を組み伏せた時もほとんど無音に近い状態だったのには驚きを通り越して感動すら覚える。
「…スラムのガキか?」
冷ややかな声は怪訝が見え隠れしているだけで他の感情は拾えないが、年齢はおそらく父親とそう変わらないかやや上だろうと想像できる。
きっとこの人が待ち人だ。
確証はないが確信して慎重に言葉を選ぶ。
「『冥闇』のフィンス様とお見受けします」
「……」
恐らく彼の中で様々な疑念が渦巻いているのだろうが、無言は肯定と受け取って一切無視する。
「出来れば腕を解放して頂けると助かります。ご覧の通り、『冥闇』に害を為せる力量は持ち合わせていませんので」
掴まれた手首が痛いし、肩は完全に極められているので動かせないし手首よりも痛い。
抵抗を見せるだけ無駄だとわかりきっているので、できるだけ感情を乗せない声で話しかければ数秒の沈黙の後、解放される。
少し離れたフィンスを刺激しない様にゆっくりと、でも緩慢ではない動作で起き上がり薄汚れたフードを脱いで正面から彼と対峙する。
「無作法をお許しください。貴方と話をするにはこうする以外に手段がなかったもので。改めてご挨拶させて頂きます。私はキーア・シャッテンと申します」
貴族としての礼儀作法の教育なんて受けていない。
付け焼き刃の礼を取るよりもまだ馴染みがある前世の礼に乗っ取り、背筋を伸ばして腰を深く折り曲げるお辞儀をする。
顔を上げれば見定める様な鋭い視線とぶつかった。
「シャッテンと言えば確か男爵家だったはずだが、何故貴族の娘がこんな所にいる」
咎める様な、それでいて探る様な声音だが悪意や害意を持っている様子ではない。
貴族、それも年端もいかぬ娘がスラムの子供と同じ格好で夜更けに供も連れずにこんな場所にいる事自体が普通ではないのだが、その娘が自分を『冥闇』の通り名を持つ裏社会の人間だと知って声を掛けてきた。
接触の仕方は自分でも想定外で少し焦ったが、興味を持ってもらう事には成功したらしいとガッツポーズしそうになるのをグッと堪え、どうやって切り込むべきなのかと考える。
「…私を育てては頂けませんか」
考えた結果、単刀直入に切り出すことにした。
色々とシミュレーションはしてきたが、そもそも対人スキルも交渉スキルも貧しい自分では回りくどいことをすると逆効果になるだろう。
訝しそうな視線に促される様にキーアは言葉を続ける。
「先程の子供に対しては過剰とも言える反応。『冥闇』と呼ばれる腕利きの貴方が私の存在をそのマントを掴むまで気が付かなかったからではないですか?」
彼の矜持を刺激する事になるが、事実は事実。
指摘すると剣呑な空気をその身に纏うも、一瞬で霧散させ、感じた怒気は気のせいだったのかと錯覚しそうだ。
「鍛えて頂ける期間は三年で構いませんし、タダでとも言いません。三年後に私は学院へ入学します。私の在籍中には第一王子をはじめ三公や宰相、名を馳せた方々の子息令嬢が揃っています」
「つまり、お前を鍛える代わりに学院内で得た情報をこちらに渡すという事か」
「はい」
都合が良い事に次世代を担う主要人物の大半がキーアの在籍中に学院へ通う事になっている。
自国の王侯貴族が通い、稀に諸外国の貴人も通う事がある学院は王宮並みに警備が厳しい。
なにより本来、諜報員は兵士や傭兵崩れであったりする者がいつの間にかそういった扱いを受けて動いているので総じて年齢が高いのだ。
稀にスラムの子供が使われる事があるが、その場合は使い捨てにされる事が多く学生に紛れ込める様な能力は持っていないし、対象者の入学に合わせて諜報員を育てるといった事をする者はいない。
なぜなら貴族以外の学生には相応の学力か秀でた武芸、高い魔法適性のどれかが求められており、学院に入学を認められる高い素質を持った人間をわざわざ諜報員にするなど勿体ないことはしないからだ。
従って学生の中でも身分の低い者や金に困っている者を使って外の大人達は学院内の情報を得るのが常なのだが、その情報には信憑性に欠けているのが現状だ。
そこに三年間という時間制限はあるが、裏社会の中でも指折りの『冥闇』に師事し、堂々と学院内を動き回れるとなるとその価値は高い。
考えるそぶりを見せている姿にもう一押し、とキーアは畳み掛ける。
「末席とはいえ貴族である私が裏社会の人間になろうとしているのに疑問を抱くのは当然だと思います。ですが、私は貴方以上の諜報員になれると、私ほど適正を持った人間は他にいないと断言できます」
「ほう?中々言うな」
「貴方ほどの実力者が私の存在を見落としました。何の訓練も受けていない、素人の私をです。それが適正があると断じる何よりの証拠です。そしてその私に国内でも指折りの貴方の技術と知識を仕込めばどうなるか、想像するのは容易いことです」
素材として最高のキーアとその実力で裏社会に名を馳せているフィンス。
互いの腹の内を探る様に視線を交差させる二人。
先に視線を外したのはフィンスの方だった。
クツクツと笑いを押し殺して低く笑う男は黒い外套を翻してキーアを誘う。
「ついて来い」
さっさと歩きだしたフィンスを追いかけ、折角交渉が上手くいったのに忘れられたら堪らないとその外套の端を掴んだ。
この外套はキーアの思い描いている未来へ確実に繋がっているはずだ。
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暗い路地を幾つか抜けて二人が辿りついたのは普通の宿だった。
てっきり拠点にしている家を持っていたり、酒場と宿が一緒なっている安宿だったり、出会った場所から娼館に行くとばかり思っていたキーアは少しばかり肩透かしを食らっていた。
通された部屋は質素なベットが二つあるだけのシンプルな部屋だ。
「さて。幾つか聞いておきたい事がある」
「はい」
外套を脱ぎ捨ててベットに腰かけたフィンスの向かいにキーアも座り背筋を正す。
上品な動きとは言えないが洗練された一分の隙もない動き。人間でもこれほど無音で動く事ができるのかとフィンスの動きに魅入ってしまう。
「まず、どうやって知った?」
キーアは男爵家の娘であり、シャッテン家は田舎の下級貴族に過ぎない。
王族や公爵家など重要な位置にいる貴族の子息であれば多少裏社会の人間について知っていてもおかしくはない。
伝手も金もないただの貴族の娘が自分に接触してきた。
どこかの有力者の差し金ではないかと疑う方が自然な状況なのだ。
「自分の足と耳で調べました」
「調べた…?」
「はい。まずそう言った事に詳しそうな人たちが出入りする酒場を探してアタリを付けたら通い、会話を聞いて必要な時は尾行して、貴方が大きな仕事を終わらせて近い内に帰ってくるという話があったので、よく出入りしていると聞いた酒場への道中で張り込みをしていました」
「……」
何言ってるんだこいつ。言葉にはしていないがそんな風に思っているんだろうなと分かる顔をしているフィンス。
貴族の娘という事を抜きにしても、普通の子供のやる事ではないし、そもそもやろうと思ってできることはないのだ。
「貴方を含めた候補の情報を集めるのに約一ヶ月、あの路地で張り込みをして五日目でした」
「なっ…」
驚愕の表情を見せた後、頭を抱え込みながら深い息を吐いたフィンスにキーアは少し戸惑う。
情報収集が遅いのか、それとも張り込みに五日も掛けたのがもしかしたらダメだったのか、と。
だがそれは杞憂だった様で顔を上げたフィンスは楽しそうに口元を緩めているのを確認し、ほっと一息つく。
「私にとっては酒場に入るのも尾行をする程度は大した問題ではないのです。なぜなら、キーア・シャッテンという人間は影が薄い…いえ、存在自体が希薄なのです」
「…どういう意味だ」
「私が視界に入っても気づかれないのです。接触を持つか何度か声を掛けてようやく私という存在がそこにいる事に初めて気が付く、そして離れると意識から消えて忘れてしまう。という事です。血のつながった家族も長年同じ屋敷で生活している使用人達ですら私の事を忘れる程です。赤の他人ならば尚の事、認識しにくいようです。現に領民ですら妹が第二子であると認識しているのに第一子、つまり私の存在がすっぽり抜け落ちたかの様に忘れています」
「そんなことが……いや。しかし、そうだったな」
にわかに信じられない。だけど身を以ってその影の薄さを体感しているフィンスは唸る。
「ここへ来る途中、ずっと裾を掴んでいたのはその為か?」
「はい。あそこで接触を断ち時間を置いてしまうと忘れられる可能性があったので」
「忘れる…つまり会話をした事も忘れると言う事か?」
「ある意味ではそうですね。誰かと何かを話していた気がする。だけどそれが誰だったのか何の話をしていたのかを忘れてしまう様です。貴方も明日朝起きた時、私の存在を忘れてると思います」
「…その場合どうしたらいい」
「書置きをする、あるいは私と会話すれば前回話した内容は大体の事は思い出すと思います」
「わかった」
複雑そうな顔をしながら持っていたポーチから小さな紙と持ち運び用と思われる小さなインク壷とペン変わりの棒を取り出し、走り書きをして放り出したままの外套の上に放り投げたフィンス。
やはり諜報とかしていると緊急時の連絡用に必要なのだろうか。
小さなポーチの中身までは見えなかったが物がぎっちり詰まっていて興味をそそられる。
「キーアと言ったか」
「はい」
「まあ、この道に進もうって理由は大体予想着いたが、本当にいいのか」
今ならまだ引き返せる。暗にそう告げているフィンスの瞳をじっと見つめ返す。
「私は貴族としては生きていけません。かと言って平民としても生きてはいけません。その考えに至った時に他の道を模索しました。一度は冒険者になる事も考えましたが、私では誰かと組んで行動する事は難しいですし、かといって一人では死にに行くようなものです。そこで自分の特技…特性と言った方が正しいかもしれませんが、それを活かせる職を考えた結果、私は天職を見つけました。誰にも気づかれずにありとあらゆる所に出入りでき、会話をしても記憶に残らない。私ほど諜報員になる為だけに生まれてきた存在は他にいないと思います」
「……恨みはないのか」
「ありません」
誰にとは言わないが不当な扱いをしてきた親や屋敷の使用人達へのだろうと検討をつけて迷いなく断言する。
目の前にいる彼はこれから師になる人だ。
そんな人に嘘は言いたくないし、ついた所でバレそうな気がする。
「“私”という自我が出来てからそれが普通であると認識していました。生んでくれた事に多少の感謝はありますが、ただそれだけです。私が進んだ先で障害になるというのであれば躊躇しないでしょう。お互いに愛どころか情も何もないのですから」
私だって好き好んでこの様に生まれてきたわけでもないし、彼らもきっと自分たちの娘がこんな風だとは思わなかっただろう。
前世の記憶がなければ憤り、嘆き、苦しんで憎んで恨んだかもしれない。だけど今の私に特に恨みはない。
他人にどんな感情を抱いたところで何も変わらない、変えられない事は嫌なほど理解しているのだ。
屋敷の人間に恨みはないし好意的な感情も持ち合わせていない。
なので仕事で彼らの暗殺依頼がきても拒否する事はないだろう。せめて苦しまずに一瞬で楽にしてあげよう。そう思う程度だ。
…まぁ、まず私に人が殺せるのかどうかが問題になるのだけど。
「随分と大人びてるとは思ったが…わかった。今日は取敢えず寝ろ」
「はい。明日から宜しくお願いします」
「ああ」
どう声を掛けるべきなのか迷った素振りを見せるも、随分と夜が更けている事に気が付いたフィンスが寝る様に促せば素直にベットに潜りこむキーア。
緊張が解かれた上に疲労が溜まっていたのか数分としない内に寝息を立てはじめる。
布団をかぶり丸まったキーアが完全に寝入ったのを確認したフィンスは一人天井を仰ぎ見る。
「とんでもないものを拾ったのかもしれんな」
明日の朝、本当に今日のやり取りを忘れてしまっているのか、少し楽しみにしてフィンスもベットへと身を預けた。