序章 2
「今日は遅くなる」
素っ気ない硬質的な声でそう告げてから玄関に横付けされた馬車に乗り込んだ男はこの家の主でキーアの父親であるシャッテン男爵だ。
中肉中背のどこにでもいる中年の男性。
黒い髪に深いグリーンの瞳を持つ彼は平凡だ。可もなく不可もない。
政略結婚で平凡で残念だと悲しむべきか、普通だと喜ぶべきか迷ってしまう。と貴族の令嬢から評される様な容姿をしている。
キーアはどちらかというとその父親に色彩も顔立ちも似てはいるのだが、はやりと言うべきか貴族である彼の存在感はどっしりとしている。
「畏まりました。いってらっしゃいませ」
開け放たれた玄関をを背に恭しく礼を取り、馬車を見送ったのは白髪が目立つシャッテン家の執事だ。
後継者を探さなければならないと嘆いていた人物なのだが、動きがピシリとしていて実年齢よりも若く見える。
なんでも祖父の代からシャッテン家に仕えている家系の生まれなのだが、当の執事の子供は二人とも娘。
その娘たちの子供、つまり孫もまた全員娘という立派な女系になってしまった為に後継者を探して育てる必要があるのだが、人材探しが難航している様で最近は顔に疲れて出てしまっている。
ちなみに今いる従僕は難有りと判断され、執事への昇格は考えられていないようだ。
完全に馬車が見えなくなるまでその場に留まり、影が消えてから執事は屋敷へと入り自分の仕事へ取りかかるべく仕事場へ向かって早足で去って行った。
玄関ホールに取り残されたキーアは執事の姿を見送ってから厨房と隣接する使用人たちの休憩スペースへ足を向ける。
シャッテン家の使用人、特に侍女達は人数が少ないからか年齢が母娘程離れているのにも関わらず仲が良く、仕事の合間の休憩時間は結構な頻度でおしゃべりに花を咲かせている。
幼馴染の友人に恋人が出来きて羨ましい、眉目秀麗な王子を一度でいいから近くで拝見してみたいといった願望から、あそこの旦那が浮気している、近くの街道で賊が出たとといったものまで話の幅はかなり広く、キーアの見聞を広げるのに役に立っている。
「そうそう!近衛団長のご子息が婚約なさったって噂を聞いたんですけど、お相手は誰だと思います?」
「んー…家の格からしてどこかの子爵令嬢ですか?」
「確か今年で二十五になられるのでしたよね?でしたら伯爵家の未亡人という線もありえますね」
「それが、どうやら長年思い続けていた方がいらっしゃった様でようやくそのご令嬢と結ばれたそうなのです!しかも男爵家のご令嬢!」
「まぁまぁ!」
「あぁ…美形の近衛団長ご子息にそんなに想われて羨ましい限りです!」
「身分差を乗り越えて成就されたのですね」
一度でいいからそんな恋愛を経験してみたい。と若い侍女たちが夢を馳せているが本当に女の噂話は怖い。
人数が少ないこの家で侍女たちの仕事は食事の給仕と片付け、調理補助、掃除に洗濯、お使いに男爵夫人と妹の世話と多岐に渡り結構多いはずなのだが、一体いつそんな情報を入手しているのか。
しかもここは王都から距離的には近いがドがつく程の田舎なのだ。
噂の真否はどうであれ毎日毎日、話題が尽きないのは感心してしまう。
年長の侍女がさり気なく次の仕事の段取りを会話の中に紛れ込ませた所でキーアは隣の厨房へ向かう。
熱気の籠った厨房では父親と同じぐらいの年齢の中年男性がすでに昼食の準備に取り掛っており、煮込み料理の良い香りが鼻腔をくすぐる。
今日はオニオンスープと鶏肉とじゃがいもの煮込みと現在調理中の何かが昼食のメニューなのだろう。
今年は豊作だったのか去年よりも肉料理の率が高い気がする。
後で執務室で資料があるか探してみよう。そう決めて勝手口をそっと開けて外に出る。
これだけ堂々と観察をしても盗み聞きをしても前を通っても誰一人として気が付かない。
前世の記憶があると気が付いてから約三年、情報収集と銘打って色々と行動を起こしているのだが、予想通りの成果に喜ぶべきなのだろうが、どうしても溜息が出る。
「…まぁ、仕方ない…か」
ポツリと漏らした諦めは誰にも届かずに青い空へ吸い込まれていく。
何度も話しかける、声を荒げる、奇抜な格好をする、そんな無駄な努力はもうしたくない。しても意味がない。と自分で選らんで進むと決めた道だ。
それに天職に気付いてしまった以上、今更他の道を選ぶなんて事は出来ないし、その為の準備もしてきたのだ。
三年前のあの日からキーアはまず体作りを始めた。
と言っても体が出来上がっていない時期に無理をするつもりはなかったので、せいぜい敷地の周りをひたすら走って体力をつけ、慣れてきたら裏の森で走り回り、時々木を登ったり崖を昇ってみたり川を泳いでみたりする程度に留め、貴族令嬢から野生児にランクアップした感じだ。
ある程度体力が付いたら体作りと並行して知識の蓄積、そしてネットや携帯がないこの世界で生きていく上で何よりも情報が大事なのだと悟ると人間観察にも時間を費やしている。
朝起きたら走りこみ、使用人たちの動きを観察して噂話を聞き、本を読んでから少し休憩を挟み、夜の森を駆ける。
そんな日々を送る事三年。すっかり肌は健康的になり、足や手の皮は丈夫になって身長もそこそこ伸びた。
まだ体は十分に完成されているとは言い難いけど、随分と成長したと思う。
学院に入学するまであと三年だ。
「もうそろそろ…次の段階に行ってもいいかな」
キーアの視線の先にはこの国、アーニアスの王都サーランがある。
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次の段階へ移ろうと決めた翌日、早朝の走り込みを終えて軽く汗を流したキーアはちゃんとした服に着替えて父の部屋を訪れる。
ドアをノックする事はせずにそのまま廊下の壁に背を預けて父を待つ。
普段通りのパターンならもうそろそろ食事の為に出てくるはずだ。
五分経過し、十分程待っただろうか。
ドアが開き身なりを整えた父がゆっくりと姿を現した。
食堂へ行く方向に佇んでいたキーアがその視界に入っているはずだが、無反応に通り過ぎようとする父の袖を少し強めに引っ張る。
「…?」
「おはようございます。お父様」
「…キーア、か」
ここで重要なのは軽く引っ張るのではなく強めに引っ張る事と違和感を覚えた仕草をしたらすぐに大きめの声で声をかける事だ。
強く引っ張り過ぎればかなりの確率で驚かれ、弱ければ気付かれない。
そして声を掛けないと違和感を覚えていても気づかれないままになってしまう。
絶妙な力加減と声をかけるタイミングを掴むまでかなり時間がかかってしまったが、最近はこの方法でならほぼ一発で認識してもらえるようになった。
「王都の学院に入学するまであと三年になりました。それに伴って新しい本が欲しいのですが何か見繕って頂けませんか?」
「わかった。考えておこう」
「ありがとうございます」
執事が近くで控えていない今、きっと忘れられるのだろうけど今回はお願いがしたかった訳ではないので気にせずに頭を下げて、数歩下がる。
キーアが視界から消えると父親は止めていた歩みを再開させる。
不思議な事にキーアを視界にいれて認識している間は問題なく会話ができるのだが、視界から消えて暫くすると直前までやりとりしていたはずなのに頭の中からキーアという人間が消えてしまうらしい。
ちなみに家族であれば認識してさえもらえたら前回のやり取りの記憶があるという事が分かっている。
存在が薄いっていうレベルじゃなく何かしらの呪いにでも掛っていると言われた方が納得できる状況だが、一度会話をすると自然に私の事を思い出すのに半年はかかるだろうから、これで暫く屋敷を空けても問題は起こらないはずだ。
急いで自分の部屋に戻って服を着替え、一応ベットにクッションで身代わりを作って保険として『寝ているので起こさないでください』と書いた看板を立て掛けておく。
あとは内側からカギを閉め、簡易バリケードを作って扉を固定して窓から出て雨風が入らない様にしっかりと閉めれば密室の出来上がりだ。
尤もここまでする必要はないのだけど、万が一数カ月間戻る事が出来なかった時に部屋に入られたら怪しまれる可能性があるので念には念を入れておいた。
足場にしていた窓枠から地面を目掛けて飛び降り、音もなく綺麗に着地する。
前世でも三年前でも考えられない程身体能力が向上してしている今、二階から飛び降りるのに抵抗は全くないどころか三階からでも壁を伝えば問題く降りれる自信がある。
足取り軽く屋敷を後にし、一先ずは近くの村まで向かう事にする。
シャッテン家は小さな村を束ねる領主ではあるが館は村から少し離れた所にあり、王都へは馬車で半日掛かる場所にある。
馬車で半日と言う事は子供の足で数日は掛る計算になるので行商人か乗り合いの馬車があれば乗せて貰うつもりだ。
もう少しで序章が終わるはず…