知悉の瞳と喚び召す者Ⅱ
「後三分で二〇時だね……」
約束通り、私たちは学校の運動場へと集まっていた。アンジェリカはまだ来ていないらしく、“マナの結界”も展開されていない。
「本当に来るのかなぁ……」
「あの子、嘘を吐くタイプじゃないでしょ? きっと来るわよ……」
確かに、真面目そうな彼女がこんな嘘を吐くとは思えない。まだ三分あるのだ。気長に待つとしよう。
「後二分……詩枝、攻撃の準備は出来てるかい?」
「勿論さ。あっ、そうだ」
詩枝は何を思ったのか、制服の袖からナイフを取り出した。
「これ、凪ちゃんにあげるよ。僕にはもう必要ない」
そう言って、詩枝は私にナイフを手渡した。
「それで音葉を守ってやってくれよ?」
「……分かった」
詩枝は頷き、にっこりと笑った。そして、二本の“月刀”を召喚する。
それに倣って、樹も剣を取り出した。相変わらず根本には折れた鉄製の刃が残っている。
残り一分。されどアンジェリカは姿を現さない。何かあったのだろうか……?
「残り十、九、八……」
樹が時計を見ながらカウントダウンを始めた。私は大きく深呼吸をし、心を落ち着かせる。
「三、二、一!」
零──樹がそう言った瞬間、“マナの結界”が展開され、前方に陽炎のようなものが発生した。やがてそれは、白い九つの尾を持つ狐の姿となった。
その姿に“知悉の瞳”が反応する。
「えーと、名前は──」
その時だった。突如、狐は眩い光を発し始めた。太陽を直接見た時のような、暗い場所から明るい場所に移動した時のような、目が押し潰されるような輝きだった。皆、各々驚愕の悲鳴をあげていたが、中でも“知悉の瞳”に神経を集中させていた私の被害は甚大だった。視界は一瞬で闇に飲まれ、両の目に、スプーンで抉られるような激痛が走る。
「あああああああ!!!」
私は手で目を押さえながら、地面を転げ回った。大声で叫ぶのは私の柄ではないのだが、そんなことを気にしている余裕は無い。異様なまでの叫びを聞いた音葉は、両手で片目の回復をし、私のもとへと駆け寄ってきた。
「凪、今助けてあげるからね……!」
音葉は、目を押さえる手を退けようと軽く私の手の甲に触れた。
「わた……しはいいから……樹、詩枝を早く……!」
私は必死に言葉を絞り出した。音葉もその言葉に了承したようで、地を駆ける音が私の耳に届いた。途切れそうになる意識を繋ぎ止めながら、私は激痛と戦う。
「ありがとう音葉!」
「助かったよ」
二人の声が聞こえてくる。どうやら回復させることが出来たようだ。私は内心安心し、すぐに来るであろう音葉を静かに待った。徐々に足音が近付いて来、やがて、私の左目を温かい光が覆った。ほんの少しだけ見えるようになってきた頃、不意に音葉の能力は止まった。
「音葉!?」
二人の驚愕の声を聞き、私は見えにくい目を凝らして音葉を見る。それと同時に、私の顔に生暖かい液体が流れてきているように感じられた。音葉の手が、私の顔に乱暴に触れる。そしてすぐに『触れる』という表現が適切でないことに気が付いた。私の視界に、両腕の無い音葉が映っていたからだ。
「うわああああ!!?」
音葉は突然の事態に思考が回らず、疑問を含んだ叫び声を上げた。
「音葉、落ち着いて! 早く回復しよう!」
錯乱する音葉を、私は必死に宥めた。だが、音葉は震える声でこう返してくる。
「出来……ないの……」
「えっ……?」
「回復……出来ない……腕が戻らないよぉ……!」
音葉は触れた相手を回復する能力を持っている。そしてそれの付属品として自己再生能力が備わっていると私は思っていた。だが、この考えは正しいものでは無かったのかもしれない。
……音葉の回復能力は、彼女の手にしか宿っていなかったのではないだろうか。そして、この憶測が正しければ、腕を落とされた彼女は──
音葉の呼吸がどんどん荒くなっていく。早く何とかしないと、彼女が危ない。だが、“知悉の瞳”すらまともに使えない今の私に何が出来るというのか。色々思考を巡らせてみたものの、やはり答えは見つからなかった。やがて、音葉は力なく意識を失った。
「よくも音葉をぉ!!!」
樹が狐に斬りかかると、狐は尻尾の一つを伸ばし、彼の攻撃を受け止めた。両サイドからくる詩枝の“月刀”も、尻尾を身体に巻き付けることによって防がれてしまう。再び斬りかかる彼らに、また謎の切断攻撃が襲いかかる。どうやら発動前に気配のようなものがあるらしく、二人は後方から迫る切断攻撃を見事に回避した。
その後も、彼らの攻防戦はしばらく続いた。そのおかげで、時間稼ぎが出来た私は、とりあえず切断された音葉の腕を、詩枝のナイフで切った制服の袖で結びつけた。再生出来るかは分からないが、止血も兼ねての行動なので無駄にはならないだろう。
そして私は右目を瞑りながら、見えるようになった左目だけで“知悉の瞳”を発動した。
「“九つの呪いを司りし者”……まだちゃんとした名前は無いのかな……?」
この狐はその名の通り、九つの呪いを駆使して戦う能力を持っているらしい。嫌らしい攻撃が主らしく、幸いにも攻撃性能は高くない。詳細を樹たちに伝えて、早く終わらせてもらおう。
「あいつの能力は九つで、全て使い捨てだよ! 切断の呪い、刃砕きの呪い、視界遮断の呪い、マナ強奪の呪い──」
ここまで言った時、急に腹部に熱を感じた。視線を下に向けると、私の腹部は抉られており、そこからは見慣れていないものが飛び出していた。思考が追い付き、現状を把握した私は、文字通り呼吸を忘れて前に倒れた。やがて思考は止まり、私は、死んだようにその場に固まった。
「凪ちゃあん!!!」
樹が大声で叫ぶ。そして、怒りを力に変えながら彼はまた狐に立ち向かっていった。詩枝もまた同様に“月刀”を振り回し始めた。しかし、狐の防御の尾がダメージを無にする。普通の攻撃が効かないのならば、方法は一つしかない。
「“月鎌”ァ!!!」
樹はまるで遠吠えでもしているかのような大きな声でそう叫んだ。詩枝はいつものようにその叫びに応える。
「いっけえええええ!!!!」
樹は、力一杯“月鎌”を投擲した。風をも切り裂く黄金の槍は、“九つの呪いを司りし者”の胸部を貫いた──と思ったその時だった。
「がはっ……」
詩枝は“月鎌”から人の姿へと戻り、胸部を右手で押さえた。鮮血が、彼女の制服を赤く染める。それと同時に、狐の尾が一つ消えた。
呪い返し──九つ目の呪いだ。受けたダメージをそのまま相手に返すという能力は、“月鎌”のような一撃必殺の攻撃にとって、恐るべきものだ。
私は、一つ目の呪いから順番に言っていったことが、こんなところで影響するとは思いもしなかった。
「詩枝!!?」
これで三人目──残されたのは樹だけとなった。倒れる私たちを一度見た後、樹は歯を食いしばりながら狐に斬りかかった。樹は防ぐ為に尾が前に出されたことを確認し、横へと回り込む。
「ここだぁ!」
樹が、狐の胴体目掛けて剣を振り下ろした。それまで微動だにしなかった狐も、流石に危険だと悟ったのか、横へと飛び退いた。だが、少しばかり行動が遅かった。胴体に切り傷を残された狐は、防御の為の尾で樹を吹き飛ばした。
「くっ……!」
吹き飛ばされている間も、樹は狐から目を離さない。地面に足が付いたと同時に、樹は吹き飛ばされた力を利用し、高速で前方へと飛び出した。狐の防御の為の尾がまた立ち塞がるが、樹は身を屈めてその下を潜り抜ける。そして、鋭い一突きを繰り出した。全身を使った一撃は狐の胸部を貫き、致命傷と言える大きなダメージを与えた。狐の方も、ただでやられる訳にはいかないようで、最期の一撃と言わんばかりの切断攻撃をしてみせた。
狐の攻撃は、樹の背中を抉り、その勢いで樹を転倒させたが、彼はすぐに顔を上げ、狐の様子を確認した。
「倒した……のか?」
“九つの呪いを司りし者”と呼ばれた狐は、溶けるようにその場から姿を消した。
私の意識も、ちょうど同じタイミングで途切れてしまった。