11.何故貴方はそこにいるの? (2)
黒い靄は一気に広がると、雛㮈を取り囲んだ。雛㮈の名前を呼んでいるのか、しかしそれも声が重なり上手く聞き取れない。聞き取れたところで、反応を示すこともできなかっただろうが。
エヴィンの時よりも、更に濃厚な闇のにおい。一歩下がろうとして、逃げ場など無いことに気付く。
闇が近付く。ひな、ひな、と。徐々に聞こえ始めた甘く囁く声が、まるで雛㮈の身体を絡め取るように、迫ってくる。
「や……!」
──堕ちない、と。決めたのだ。
制止の声を振り絞るのと同時に、「退いてくれ」と強い声がシンと響き、黒い精霊を退けた。彼を避けるように、道が開く。黒いフードの男と対面する。真正面から見たファンクスの瞳は、やけに落ち着いていて、強く激しい決意を秘めており、それでいて優しげだ。
「……きみが、何故ここにいるんだ?」
静かに貫くような声だ。雛㮈は刹那たじろいだが、すぐに持ち直した。
「私にも、分かりません。それに……それは、私も訊きたいです。貴方は、何故ここにいるんですか。ここは……」
そこで言葉を切る。未だに、信じ難かったのだ。視線をうろりと彷徨わせてから、「──ここは、アイレイスさんの、心の中なのに」と小さく呟く。
「僕は、僕の目的のためにここにいる」
「目的……ですか」
それはなんだ、と目で訴える。数多くの人を危険に晒し、それでも叶える価値のあるものなのか。否、少なくとも、彼にとっては価値があるのだ。でなければ、あんなに澄んだ目で前を見ることはできない。
「きみが知らなくてもいいことだよ」
拒絶するように、ファンクスは顔を背けた。フードによって表情が隠れる。
「そういう訳にはいきません。だって、私は……アイレイスさんも、貴方を止めようとしているんです」
アイレイスの名を出した時に、フードが微かに揺れた気がした。やはり、彼にとってアイレイスの存在は大きいのだろうか。
「……僕は、目的を達成するために動く。そのためだけに。その道中に、きみたちの理解は不要だ」
「それでも!」
声を荒げると、黒い精霊の群れは、同調するように震えた。ざわり、と波ができる。
反射的に口を噤む。
「あまり感情を露わにしない方がいい。飲み込まれるよ」
抑揚のない声で、ファンクスは告げた。その忠告は、真摯なものだ。そうしてくれるな、という懇願。それから、もしそうした場合には……、という覚悟。
「きみがこの場所で飲まれることは、許さない」
「それは……心の主に影響するからですか」
「………………」
その無言は、肯定を示しているように思える。
「そうまで大事に想う相手を、どうして悲しませるようなことをするんですか」
「……“それが僕の目的のために必要だから”。それ以外の回答は返せないし、返すつもりもない」
繰り返される回答に、雛㮈は押し黙る。これ以上の問答は意味を持たないように思った。ファンクスは、黒い精霊を見た。不意に、気付く。先程も“そう”だった。まるで払い退けるように、声を発して……。
「貴方は、精霊が見えるんですか」
アイレイスの話では、彼の研究は、精霊を見ることができないが故に難航していた、ということであった。しかし、今の彼は明らかに精霊の姿を捉えている。
訝しむ雛㮈に、ファンクスは「君と同じだからね」と微笑んだ。
雛㮈と同じ?
雛㮈は首を捻る。その言葉には、どういう意図があるのか。彼と自分の共通点など、これっぽっちもないはずだ。
「貴方は、いったい何を知って──」
ザッ、と風が吹く。
そろそろか、と彼は呟く。
「きみが、どうしても僕を止めたいって言うのなら」
彼なりの譲歩か、それとも雛㮈を追い払うための詭弁か。
彼は言い放つ。
「ここで長居をする時間は無いんじゃないかな?」
その瞬間、雛㮈の身体が光に包まれた。それが自分の意思でのことだったのか、はたまた“誰か”がそうさせたのかは分からない。
平原と荒野が入り混じる、アンバランスなその場所が、遠ざかっていく。
「っ、……!」
目を開くと、見知らぬ部屋だった。
王宮……だと思う。おそらくは。
目の前のベッドには、アイレイスが眠っている。恐る恐る、その手を握った。“いつものように”吸い込まれることはない。それは、雛㮈が無意識下でそうしているからなのか、それとも……。
いずれにせよ。
状況を把握しなくてはならない。
雛㮈は部屋をぐるりと見渡した。ドアはひとつだ。アイレイスを残していくのは不安だが、そこは周りを信じる。まさか異常事態の渦中にあるアイレイスを、何の対処も無いまま放り込んでいるはずがない。
扉に近付く、──と。急に開いた扉が、雛㮈の額に当たった。
「────っ!!」
痛い。純粋に、すごく痛い。
額を両手で押さえながら痛みに悶えていると、「お、おねーさん?」と驚きに満ち溢れた声がした。ニキだ。
「に、……い、いたい……」
名前を呼ぼうとして失敗し、やはり額から手が離せない雛㮈を見て、彼女は言った。
「とりあえず、冷やすモン持ってくるから、座って待ってなよ。ついでに兄さんも呼んでくるからさ」
雛㮈よりもだいぶ年下の狐耳少女は、大人びた表情で苦笑した。
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あの部屋は、アイレイスのために用意された寝室だったらしい。ドアはスライド式で、横に避けると、見慣れた空間が広がった。ガサガサガサ、と本が落ちた音がしたが、大丈夫だろうか。ここは一度、本を整理するべきだと思う。いや、そもそも扉に本棚を取り付けてしまったことが、最大の間違いだろう。
「ヒナ」
名を呼ばれた。と思ったら、温かく力強い腕の中にいた。ぎゅうう、と抱き締められる。表情に、いつもの余裕は無い。良かった、と小さく呟く声がした。
──失う痛みを知っている彼は、それを思い出してしまったのか。
乗り越えたことと、また味わって平気かどうかは、別問題で。突然雛㮈が消えたことは、彼の傷を抉ったのだろう。……自惚れでなければ、大事に想ってもらっているのだから。
「すみません」
予想できたのかと問われれば、否と返す。あの場面で、手を出さないことができたかと問われても、やはり答えは、否、だ。同じ場面になれば、同じように手を伸ばすだろう。──今だって、きっとそうしてしまう。
それでも、あるいは、そうだからこそ、謝罪が口をついて出た。
抱擁が強くなり──「おっほん!」──ワザとらしい咳払いが、それを止めた。反射的に離れようとした雛㮈とは対象的に、カーダルは手を緩めただけで、雛㮈の腰を掴んだ手はそのままだ。
見直せてないので、誤字脱字矛盾あったらごめんなさーい!(ひーん!)




