09.生きましょう
綺麗なところだな、と思った。
今もこれほどまでに、綺麗なのだろうか。だとしたら、一度でいいから歩いてみたいものだ、と思う。禁止令が出ているから、無理だけれど。
深緑を抜けると、小さい広間に出た。中央には、白いブランコ。そこに、リリーシュがいた。爽やかな風に髪を靡かせ、目を瞑り、オカリナで音楽を奏でながら、ブランコに揺られている。
穏やかで、幸せそうな光景。
「リリィ!」
カーダルが堪えきれないと言うように、一歩前に踏み出した。愛称で呼ばれた少女は、翡翠色の瞳をソッと開いた。
「ダルお兄様。それに、ヒナちゃんも。ごきげんよう」
「ごきげんよう、って、お前…」
あまりにも穏やか過ぎる眼差しに、カーダルは足を止めた。
「ヒナちゃん、来てくれたのね」
「来るよ。嫌だって言われたって、来るから。ねえ、あの時言った、さようなら、ってどういうこと?」
リリーシュは、困ったように笑った。天真爛漫な彼女が、これまでしたことのない表情だ。
「実のところ、私は忘れていたの。ダルお兄様のことも、お父様とお母様のことも、自分自身のことも。ただなんとなく、ここにいた」
「今は思い出したの?」
こくん、とリリーシュは頷いた。ヒナちゃんから話を聞いて“取り戻した”の、と彼女は言う。ブランコが、ぎーこ、と動いた。
「でも…ここから抜け出す手段が、分からないの。それは分からないのに、ここがもうすぐ壊れてしまうことは分かるのよ」
「壊れる? どういうことだ」
兄の焦りを含んだ問い掛けに、彼女はすう、と短い間、目を瞑った。それから、屋敷の外へ目を向ける。彼女の視線の先には、黒い靄があった。“世界の端から侵食していくように”、それはじわじわと近付いてきている。事情が飲み込めていない二人でも理解できた。“あれに飲み込まれては、終わりなのだ”、と。
ヒュッ、と息を飲む。逃げなきゃ、と思った。しかし、“どこに”? 逃げる先など、無いのだ。
「私はもうじき、本当に死んでしまう。その前に、ダルお兄様に会えて良かった。ヒナちゃん、ありがとう。…でもごめんなさい、私、二人をどうやったら帰してあげられるのか、分からないの」
リリーシュは、初めて途方に暮れた顔をした。彼女の兄が、ありったけの力で、彼女を抱き締める。「お兄様、痛いよ…」とリリーシュが困った顔をする。慌てて、カーダルは手を離し、けれどすぐに、先程よりも緩く、しかし決して離れない程の強さで、腕に囲った。
「お前が死ぬっていうなら、俺もアレに飲まれて死んでやる。一人で残してなんていけるか。…それに、一人で残るのなんて、もう御免だ」
待たされた者の辛さを、彼は一人で耐え忍んできたのだろう。それでも、妹がいたからやってこれた。その存在すらも奪われるというのなら、いっそのこと、―――けれど。
それは、あまりに寂しくて、哀しくて。嫌だな、と雛㮈は思った。
宮古雛㮈は、その未来を、否定する。
そして、願う。
“ハッピーエンド”を。
『ぼくたちが必要?』
唐突に、声がした。雛㮈はけれど、それを不思議とは思わなかった。当然のように、そちらを見て、当然のように、微笑み、願う。
「私には、分からないの。あの黒い靄を止める術が。でも、精霊さんには分かるの?」
『黒い靄?』
『そんなのないよー』
ふわふわと、増えていくその姿を目で追いながら、考える。黒い靄は無い、と彼らは言った。彼らは正直だ。彼らは、そういうものだ。ならば、黒い靄は無いのだ。
それなら、あれはなんだろう。
黒い靄が無いのだという。
ならば、“ここに存在するものは何だ”。
「おい、お前…」
リリーシュを腕に抱えたカーダルが、雛㮈に声を掛けることを、妹はソッと止めた。雛㮈は一切、気付いた様子は無い。彼女は、彼女の仕事で精一杯だったから。
彼女は天を仰ぐ。
「“在るのは、今の、この世界”」
黒い靄が在るのではない。あれが、この世界を端から侵食しているのではない。“元々、この世界は黒い”。その上に、“五年前の屋敷の記録”が存在しているのだ。この世界を作っているのは、リリーシュだ。ならば、元々ある黒い靄は、悪いものではない?―――否、あれは悪くはないが、死を象徴するものだ。
噛み合わない。目を閉じ、答えが出ないことを嘆いた。精霊が心配そうな声を上げる。
苦笑した。
ああ、忘れるところだった。自分が行うべきは、“雛㮈が回答を出すことではない”。
黒い靄は、とんでもないスピードで、侵食してきている。屋敷の外壁は、既に無い。
「精霊さん、この光景を作り出しているものは、何?」
『魔力だよー。人の魔力。そこの女の子の、ありったけの魔力』
「それがなくなると、どうなるの?」
『光になって、星になって、再び生まれるの!』
「………………」
つまり、一度死んでいる。
「ここは、本来どうあるべきなの?」
『魔力で満ち溢れているべきなの。魔力が満ちると、素敵になるの。素敵になると、心になるのー』
雛㮈は首を傾げた。魔力があるのが常で、普通のことならば、何故、ここには魔力が無いのだろう。訊ねると、精霊は、ううーん、と可愛く唸りながら、一回転した。
『心の主が作った魔力を、食べちゃう子がいるからー?』
「それは、誰?」
それを止めさえすれば、どうにかなるのだろうか。ごくり、と喉を震わせ、訊ねると、精霊は、へにゃっと笑って答えた。
『ぼくたちだよー!』
「………………えええええっ!?」
敵は身近なところにいた。どころではなかった。え、な、え、と無意味な言葉を出し続ける。
「な、な、んで!?」
『魔力、美味しいのー』
そういう問題ではない。
「え、寄生するの…? してるの? するものなの?」
『普通はいないのー。でも、気付いたらここにいたのー』
どうやら、彼らとしても本意ではないらしい。雛㮈は、敵対せずにいられることに、安堵した。敵愾心も無い。だから雛㮈は、真っ直ぐに訊いた。
「えっと、どうやったら貴方たちはここから出られるのかな」
『わかんないのー』
それもそのはず、分かっていれば、とっくの昔に、ここから離れているはずだ。…おそらくは。イマイチ彼らの善悪の区切りが分からないので、いかんとも言いようがないが。
「それなら、魔力を食べないっていうのは…」
『消えちゃうー』
「なら………貴方たちも、この世界も、どちらも消さないようにするには、どうしたらいい?」
初めから、こう訊けばよかったかもしれない。雛㮈は少し疲れを覚えながら、答えを待った。精霊はくるくる回りながら、それならー、と“ハッピーエンドのための材料”を告げた。
『ひなの魔力をちょーだい!』