10.種明かしします (1)
意識が戻ったのは、慣れたベッドの上だった。既に見覚えがあるといえる程に過ごした部屋の天井。
一瞬、全てが夢だったのではないかという錯覚に陥るが、右手には、無残な傷痕が残っている。刃が貫通した部分だけ、やけに色素が薄い。肌も妙に薄いのか、触るとぞわぞわする。
手をぐーとぱーを交互に変える。
「………うーん」
違和感。動かす度に、ピリ、という痺れが手から腕に駆け上がってくる。直感的に、この傷痕はもう消えないのだと悟った。違和感は程なく慣れてなくなるだろうが、右手を見るたびに、雛㮈はあの時のことを思い出すだろう。
自分の肉を突き破っていく剣の感触。痛みまで想像がついて、ブルリと身体が震えた。痛みは既に思い出になっており、実際に蘇ることは無い。ある種の防衛本能が働いているのかもしれない。あんな痛みを味わうのは、金輪際、無くていい。
「…おはようございます、我が主」
「ひきゃっ!?」
背筋が一気に伸びた。ベッドから転げ落ちそうな勢いで振り返ると、身体を捻った瞬間に、腹部にズキリと痛みが奔った。
「ぃぐ…」
思わず前屈みになって、腹部に手を当てる。
「腹部の骨折は回復を掛けましたが、手の治療を優先させたため、全快ではありません。お気を付けください」
アドバイスするのが、少し遅い。いや、今のタイミング以外に、声を掛ける時間も無かっただろうが。
そういえば、と記憶から知識を取り出す。多少の回復魔法は問題ないが、怪我の程度が酷いと、対象者にはかなりの負担が掛かる。強制的に傷を回復させているのだから、当然だ。
雛㮈には、手の穴と腹部、二箇所に治療が必要だった。より治療を優先させるべきは、手を貫通した怪我だったのだろう。それでも傷痕が残る程だ。回復魔法は決して万能では無い。
「我が主?」
どうなさいました、と自分に訊ねてくる男を見上げた。
「…どうして貴方がここに…」
「私が我が主と共にいるのは、不自然なことでは無いと思いますが」
にこり、と穏やかに笑う顔は到底悪魔らしく無いのだが、どことなく薄ら寒いものを感じる。
「えっと、そ、そういうものですか。…でも、貴方が一人で私の部屋にいることを、カーダルさん達が許したとは」
「何故彼らの許しが必要なのです? 私の意思は私のもの。彼らの許しなどそもそも不要です」
「………」
悪魔らしくないと思ったが、思考回路は十分に悪魔だった。すごく扱い難い。
押し黙った雛㮈は、気を取り直して話題を変えた。
「私、どれくらい気を失ってましたか?」
「一日です」
そんなに、と雛㮈は目を丸くさせた。実感が湧かない。
「あの…えっと、貴方を元々召喚しようとしていた方は、どうなりましたか?」
かなりの衝撃で壁にぶつかっていた。下手をしたら死んでいる。
あの時はそんなことを気にする余裕は無かったし、カーダル達が命を落とすくらいならば、それも厭わない、とさえ思っていた。しかし自分がこうして無事で、おそらく仲間も無事である今、流石に死ぬまではいかなくても…、という平和的思考が復活していた。人間というのは、基本的に勝手な生き物だ。
不安に駆られた上での質問は、笑って一蹴された。
「私が知るはずがないでしょう。他人のことなんてどうでもいいです」
「………」
「そんなことより、“貴方”なんて他人行儀な呼び方ではなく、どうぞディーとお呼びください」
「………」
「つれない方ですね」
恍惚な表情を浮かべた悪魔に、雛㮈は顔を引き攣らせた。何故このタイミングで、彼が心底悦んだのか皆目見当もつかない。怖い。あの男とは違う意味で怖い。
ずり、と。ベッドの上で、無意識に後退りをした。
「そういえば、ご存知ですか?」
「…何、を、…ですか?」
聞きたくない。聞きたくないが、聞くしかない。
警戒心を前面に押し出している雛㮈に、ディーはクスリと妖しく笑った。
「悪魔契約には、代償が付き物です。―――当然、私を使役する貴女にも、支払う義務がありますね」
自分が呼んだ訳ではないのに、と釈然としない思いはある。しかし、それを込みで悪魔との契約の権利を奪ったのだ。よし、と覚悟を決める。
「何をお支払いすれば?」
「一般的には、魂、肉体、命…まあそういったものを頂きますが」
どれも渡したくない。嫌だ。上半身が反らし気味になる。
「…残念ながら、貴女が私に望んだことは、それらを対価として奪…頂戴できる程、大したことではないのですよ」
なるほど。雛㮈にとっては幸運だ。しかしディーは、隙あらば命を取ってやろうという野心を覗かせている。
「精々が魔力を多少頂くくらいです」
非常に不服そうな悪魔に、雛㮈は「質問しても…?」と恐る恐る手を挙げる。「どうぞ」と許可を得て、発言する。立場が逆なのは、この際無視する。
「契約を、その、破棄した場合は、どうなるんですか…?」
「順当な理由ではない契約破棄は、魂を頂戴いたしますが、破棄なさいますか?」
「あ、継続でお願いします」
殺される。
サァ…、と青褪めながらブンブンと首を横に振る。何が“順当”なのか、魂を貰うというのが具体的にはどういうことなのか、サッパリ分からないが、とにかく向こうが“順当ではない”と不服を申し立てれば、嫌な結果が待っている。ディーは、残念です、と笑顔で告げた。
「では、これからもよろしくお願いします」
早くボロを出せよ、と言われている気がした。
「あっ、いた! おーい兄さん、ムカつく悪魔、ここにいた!―――ってお姉さん起きてんじゃん!」
その数秒後、ニキが窓からヒョイと入ってくるまで(※ここは二階だ)、雛㮈は引き攣り笑いを浮かべていた。
「と、りあえず…もう少し離れて頂けないですか? ええと、2メートルくらい」
「そんなに近くていいんですか?」
「近いですか!?」
噛み合わない会話。そしてなんだかんだで悪魔のペースに流されている雛㮈さん。




