09.黒と対峙します (4)
「分かるよね」
痛みに悶える雛㮈の髪を引っ掴み、無理やり前を向かせる。その際にナイフが別のところを擦り、新たな痛みを生んだ。
「ぃ、あ…ぐ」
「ほら、しっかり見なよ。あんたの仲間の“勇姿”だ。はは、どこまで持つかな」
痛みによる生理的な涙を浮かべながら、雛㮈は焦点がブレる目で、無理に前を見た。少しずつ、体力を削られていく仲間の姿に、何故自分はこんなところにいるのだろうと、頭の中でポツリと浮かぶ想い。
何故、こんなところで。こんな風に。誰かを傷つけることしかできずに。足手まといにしかならずに。
『力が欲しイ?』
その言葉は、ぽおん、と優しく響いた。
『絶対的ナ力が要ル?』
『それナら』
『堕チテおいデよ』
『ぼくタチと一緒』
『ミンナなら怖クなイ』
『ひなガいなイノ、寂しいヨ』
『一緒にいヨウ』
『ネエ、そウシよう?』
「『友達ニナロウ』」
頭を犯していく、甘く優しく、それでいて病的な恐ろしさを含んだ言葉の渦。呑み込まれたらきっと楽だ。
「―――ヒナ!」
声。
沈んだ思考が引き戻される。そうして戻った先で、腹を切り裂かれる愛おしい人の姿を見た。
「いやあああああああっ!」
悲鳴と共に、黒い気配が拡散した。
その中心となっているのは、男でも悪魔でもなく、雛㮈本人だ。
これまで負ったこともない怪我と痛み。仲間が傷ついていく光景。引き金は、大事な者が斬られたことか。
「ヒナ! 気をしっかり持つのだ!」
ラルクが叫ぶ。
「闇に呑まれたらいかん!」
「そうよ! この堅物騎士がこんなことでくたばるはずがないでしょう! 何より最強の魔法使いたるあたくしがついておりますのよ!」
「…さっきから最強の座を奪われてるけどね?」
あの悪魔に。
ニキがこんな時だというのに茶々を入れると、「今に勝つわよ」と不機嫌そうに鼻を鳴らした。それでもカーダルの腹の怪我は軽く塞いでしまうのだから、“最強”と自称するのは決して伊達ではない。
「あ………あぁ………」
揺れる瞳孔は、それでも少し落ち着いたようだった。未だに正気とは思えないが、黒い気配はいったん引いている。
「もう少しで堕ちそうだってのに、邪魔しないでよ」
男が不機嫌そうに目を細める。
「しかしこれでも耐えるとなると、やっぱり一人二人、死んでもらうしかないかなあ」
誰がいいだろう。男は、雛㮈の仲間を舐めるような目で見つめる。
「やっぱり一番効くのは、そこの剣士なんだろうけど、いちいち回復されるのが鬱陶しいよね。死に損ないが他人を助けるっていうのも、滑稽だけど苛つくし」
その言葉に反応したのは、カーダルとアイレイス、それからラルクの三名だった。
「貴方、どこまで何を知っているの」
「あんた、それ、今気にする余裕あんの?」
悪魔が最上級の魔法を放つ。
「があっ!」
精霊獣が吠えると同時に、ブレスが魔法に対抗するべく放たれた。ぶつかり合う力が風を生み、両者が踏ん張って耐える。
「い…ッ」
雛㮈は一人、痛みに呻いた。耳元では、黒い精霊が甘言を囁く。力を得たら、そう、今より力を得たら、全てを支配し、この場も鎮められる。だから、だから。―――だけど。
躊躇っているのは、何故だ。
力を得る。それを躊躇う理由は何だ。
「いい加減諦めたらいいのにね、馬鹿みたいだ」
男が、回復が追いつかず既に満身創痍なカーダル達を見て、嗤う。
それを見て、ああ、と気付く。
大事にしたいのは、きっと、“そういうもの”なのだ。
「あんたも、いい加減堕ちなよ。ほら、早くしないと、誰も救えないよ? 無力なままだ。足手まといだ。なあ?」
「―――す」
「あ?」
「嫌、です。絶対に」
強烈な光を灯し、雛㮈は男を睨み付けた。男がこれまで以上に昏い瞳で、雛㮈を見下ろした。
「なんだよその目、ムカつく」
腹に、強い衝撃を受けた。意識が飛びそうになるのを、かろうじて免れる。がほっ、ごほっ、と咳き込んだ。
どうやら腹部を蹴り上げられたらしい。その衝撃で身体が浮き上がり、ナイフが地面から外れた。雛㮈の手がナイフの柄に突っ掛かり、蹴り飛ばされた衝撃で地面から抜けたのだ。より深く突き刺さったナイフによって、更なる痛みが雛㮈を襲う。
「弱いくせに。弱いくせに。弱かったら何もできやしないんだ。それなのに」
狂ったように何度も何度も繰り返す。興奮しすぎて、口から唾を飛ばしながら、男は何度も雛㮈を蹴り上げる。
彼女を巨大な魔法陣の端まで転がしたところで、男の追撃は止んだ。いや、奥から放たれた魔法によって妨害されたのだ。それが、えらく気に障ったらしい。
男は叫んだ。
「ディー! そいつらを全員殺せ!」
歪む世界で、雛㮈はその声を聞いた。
そして、微笑む。生憎とその微笑みを見た者は、誰一人としていなかったが。
雛㮈は、自分の望む結末を諦めない。仲間がソレを諦めないのなら。少なくとも、自分にはまだできることがあった。本当にただのお荷物のまま、何もせずに諦めるなんて、絶対に嫌だ。
悪魔。召喚。契約。対価。―――魔法陣の構成を読み取る。“ディー”。その名を見つけた。ならば。“エヴィン”。これが彼の名だ。
消しゴムは無いが、鉛筆はあった。血はまだ流れている。魔法陣は、まだ完成していない。なら、この契約は、まだ確定されていない。
ごほっ、と咳き込みながら動く雛㮈を、誰も気にしてはいない。せいぜい、痛みに打ち震えているだけだと見たのだろう。誰も、彼女に確固たる闘志があることには、気付かない。
左手で、自分の右手に触れる。
(この幸運に、感謝しなければ…)
視線の先にある文字の上に、指を滑らせる。魔力で固まった雛㮈の血を退かして。もう少しで、契約は完了する。
「くははっ、さあ! ここからがこの悪魔の本領発揮だ。早く絶望しろ!」
殺せ、殺せ、殺せ。繰り返される声が響く中で、魔法陣が強く光り始める。いよいよだ、と嗤う声に、雛㮈の声が被った。
「“ディー、私を、護って”!」
悪魔。召喚。契約。対価。悪魔の名はディー。契約者の名は…雛㮈だ。
雛㮈の声に、男は困惑した顔をしたが、「畏まりました。我が主」と応えた悪魔に、瞬時に状況を察知したようだ。書き換えられた魔法陣を見下ろし、射殺さんばかりに雛㮈を見た。
「この…っ!」
振り上げられた拳は、雛㮈に届くことは無かった。彼の身体は、その直後、魔法に吹き飛ばされて、壁に激突した。悪魔たる者は、手加減を知らないらしい。
上手くいったのか。
「ヒナ!」
「お姉さん!」
カーダルたちが駆け寄ってくる。
先程悪魔に命じるために声を上げたことで、限界を迎えたらしい。もはや、指先ひとつ動かせない気がした。
『どうしテ…?』
『ひな、ドウして?』
黒い精霊がうようよしている。
一矢報いることはできたかな、と少しの満足感を得てから、雛㮈は意識を手放した。もうそうしても大丈夫なのだと、彼女は知っていた。
御都合主義展開です、ごめんなさい。
ただ、三回目の連れ去り事件は、彼女自身が自力で成長するキッカケになったはずです。
譲りたくないものは何なのか。
自分の力で、何ができるのか―――。




