06.食事に誘われました
その日から、雛㮈を取り巻く環境は変わった。傍目から見たら些細なことかもしれないが、雛㮈にとっては、とても大きな変化だった。
あの中年女性は、セパルという。この屋敷の中で昔から仕えている人物であるらしく、カーダルの乳母である女性だ。
彼女は、あの日以来、朝食を共にとってくれるようになった。誰とも話さない日々が、なくなった。それに、本当に極稀にだが、カーダルが顔を出すこともあった。本当に顔を出すだけで、会話はひとつも無かったが。
それから、昼間の話し相手もできた。あの、幽霊の少女だ。彼女はこの世界のことを教えてくれた。また、雛㮈の元いた世界のことも信じて、話をねだられることもよくあった。ただ彼女は、自分のことを語るのだけは、拒み続けた。思い出したくないのだろう、と雛㮈も然程追及はしなかったのだが。少女には、精霊は見えないようだった。あの日も“求められていると感じ、何かの力に導かれるように”、雛㮈の部屋に来たらしい。
『でも、そのお陰で、私は今、寂しくないよ!』
「わ、私もだよ!」
しかし。
雛㮈の見間違いでなければ、彼女はどこか、哀しげな顔をしていたのだ。
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「おい、お前」
カーダルに呼び止められた。
ひっ、と息を詰める。やっぱり、まだ怖い。そんな雛㮈を、カーダルは不機嫌そうに見る。
「その、なんだ…げ、元気か?」
「は、はい?」
キョトンとした顔を返すと、ギロッと睨まれた。
「っ、さっさと答えろ!」
「あ、や、げ、元気です! おかげさまで! とっても!」
背筋をピンと伸ばした。高圧的な態度に関しては、以前ほど怖くはなくなっている。おそらく、彼が肩に手を置いてくれた日から。
「…なら、いい」
静かな、静かな声。感情は、読み取れない。こてん、と小首を傾げる。
後ろで、「お坊ちゃん…?」と多少凄みのあるセパルの声がした。うぐ、と何かを喉に詰まらせた声がした後に、「あー、その、なんだ…」と妙にそわそわし始める。
「ひ、暇だったら…その、夕飯、一緒に食べるか」
「え、私…ですか?」
何故、自分なのか。
やっぱり分からなくて、自分を指差した、うーん、と悩む。
「〜〜〜っ、嫌ならいい!」
「え! い、嫌じゃないです! 全然、嫌じゃないですよ! 嬉しいです!」
勢いでその腕に縋り付いた。ビクリと身体を震わせるカーダル。自分のやったことに気付き、同じく固まる雛㮈。二人して、動かない。もとい、動けない。
「な、なら…夕食で、また」
「あ、はい。そうですね、また」
ぎこちなく離れて、距離を取る。
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びっくりした。
ベッドにダイブして、息を吐く。
あんな風に、誘われるとは、思ってもみなかった。
「ふへへ…」
『何かいいことあったのー?』
ひょこん、と少女が顔を出す。
「うひゃあ!?」
突然の出現に、「ちが、これ…ちがっ!」と慌てて首と手と全身を振る。『 ヒナちゃん動揺しすぎだよー』と笑われる結果となった。
『何があったのー?』
「えあ、ええっと…か、カーダルさん…あ、この家の偉い人なんだけど、その人がね、夕飯に誘ってくれて。最初、もっとギクシャクしてたから…―――どうしたの?」
雛㮈は、目を見開きながら固まる少女を見た。常に嬉しそうな笑いを浮かべていた少女が、これまで浮かべたことがない顔をしている。信じられないものを見たような、そんな顔。
『かー、だる…か、だる…』
「ねえ、どうしたの…?」
雛㮈は名を呼ぼうとして、少女の名すら知らないことに思い当たった。ただ、それでも彼女は、自分の友人だと思っている。だから。
このままだと失ってしまう、と思った。永遠に。
『かーだる、…だる、おに…ま…』
白い顔。まるで、幽霊のような。本当の、幽霊のような。
触れないことなんて、知っているのに。
気付けば、雛㮈は少女に手を伸ばしていた。その手は当然のように、彼女の身体をすり抜ける。
『あぁ…そう、そうだわ…わたし…わたしは…』
「ねえ、お願い。お願いだから、私を見て!」
呼び掛けは、届いていないようだった。彼女は、最後に花の咲くような笑みを浮かべた。
さようなら、と。
唇が、そう動いたように思った。
「消えないで!」
願ったことも虚しく、その身は、すう、と消えて行く。まるで初めから無かったように。消えて、なくなっていく。
本当に独りきりになった空間で、雛㮈は途方に暮れた。